第27話 転々
「大丈夫だから……」煙草の匂いが少し残るタクシーの中で、彼女が弱々しく放ったそのたった一言が、多くの意味や意図を含んでいた。
一時凌ぎの療養場所に選んだのは、風羽市から離れた場所にあるビジネスホテル。タクシーの運転手に頼み空いているホテルへと向かった。
「楽になったか」
おさえたホテルの飾り気のない一室で、ベッドに眠っていた阿部が目覚めた。
「うん……ごめんね、きんきん……」
ありがとう、ではなく、ごめんねと彼女は呟く。やがて上体をゆっくりと上げ、ベッドに沈んでいた身を起こした。
ベッドの傍に突っ立つ金閣寺は、冷えたペットボトルの水を注いだコップを、そっと彼女に手渡した。
室内の机にあった椅子に掛けた金閣寺は、寝たままでいいと言い阿部の身を案じた。構えず寝た姿勢のままで、次にする話を彼女に聞き流してほしかったからだ。
「あの遊園地のことだけどさ……?」
金閣寺はその話題に触れないこともできたが、わざわざ彼女に聞いていた。あの時、あの白だるまを持った時に疼いた左指の絆創膏の裏にある、その答え合わせをするように。
「うん、覚えてる……」
阿部は彼の言い切らない漠然としたその問いに、今ゆっくりと頷いた。
あの遊園地のこと、訪れたワンダフルパークを抜け出す時までのこと。阿部加奈はあの恐怖する怪奇体験のことを覚えていたようだ。先程彼にごめんねと言った一言も、そのためか。
しかし金閣寺は問わない。何も問わず、そこでためらった。負い目を利用したかのようなずるいやり方にも思えたが、彼女自身から話を切り出すまで待った。
狭い部屋内に二人の沈黙がつづく中──。阿部がふたたび、寝そべっていたベッドから身を起こして────
ある日、スクールマンザイロックの出場を目指したネタ作りのために訪れた知らない市、百中神社で開かれていた夜祭りにて、彼女は射的の景品列に並んでいた真っ白なだるまを一つ持ち帰った。
そして、白だるまを所持したその日から徐々に、自身を取り巻く先行き不透明にも思えた現実や様々な事態が、面白いように好転していったのだという。
帰りのフラワールートに忽然と現れたあの奇妙な白だるまは、阿部加奈が東京の仮住まいに捨て置いてきたその幸運のだるまの置物なのだと、彼女はホテルの一室で語り明かしてくれた。
がしゃらばのマスターのように、金閣寺は彼女の神妙に語る話を静かに聞いた。
金閣寺はこっくりさんを遊んだ、そして藤乃に絆創膏を指に巻かれたあの日から、たまに夜のバーに訪れてはマスターの巻にドリンク料金分の怪談話の相談をしていた。
だが今は──彼女から自分が聞きだすことにした。彼自身そうしたかった。
阿部加奈の捨てた白だるま、それだけではなく、数多に群がるだるまたちの恐ろしい執念を確かに金閣寺はその目で何度も振り返り見た。
彼女をこのままひとりにするわけにもいかないのだろう。
金閣寺が焦り行き先に選ぼうとした病院を拒んだのも、一瞬でもアベカナにもどること、誰かに嗅ぎつけられることを彼女が恐れたからだろう。お笑い芸人アベカナの成功はあの白いだるまに紐づいたものだ。彼女はそう考え思っている、そして同時に今の彼女は、〝とても恐れている〟。
とはいっても金閣寺には術がない。これで終わりかどうかもわからない。怪物の足音のするトンネルを命からがらに抜けて、あの怪異たちのことを巻いたことは分かるが、完全に失せたかどうかは定かでなく、確かめようもなく、確信が持てない。
ベッドの傍に持ってきた椅子に彼は腰掛ける。ベッド上に黙る彼女から伸ばされた──その手を彼は離すことはできない。
彼は金閣寺歩、ただの男子高校生。ただの女子高生である阿部加奈の友人だ。
ホテルを出て、最寄りのホームセンターへとコーヒーなどの飲み物の買い出しに向かう。金閣寺は部屋を出る際に友人の阿部にそのままベッドで楽にするよう伝えた。見慣れない街並みの外を出歩いた道の途中、悩み込んだ金閣寺は、スマホの通話機能である人に連絡を取った。
『────なるほど、得体の知れないだるまに憑かれたか。それならば一旦その子を連れて山の方に行ってみるといい』
「山?」
『片目だけ書かれているだるまは聞かれなくても有名だな。元々は昔流行った目の病に、お守りとして片目のだるまを売り出したのが日本でのだるま信仰の始まりだ。つまりあいつらはすこぶる目が良い、どこにいてもターゲットを見つけるチカラを持つということだ』
確かに振り返ればだるまは追ってきていた。忽然と茂みの中に現れ、突然に空から降ってきたりもした。ワンダフルパークで遭ってしまった怪奇体験の中で、金閣寺にはそれらしい心当たりがあった。
「はい……それでなんで山に?」
『そっちはキミもおよそ想像がついているだろう、簡単だ。だるまとは、とある高僧の座禅した姿を模したもの。その姿勢では坂を登ることはしんどい。チカラを持たない有象無象のだるまは、すぐにその勾配に転げ落ちていき、高い場所にはなかなか辿り着くことはできないという寸法だ』
たしかに、山なりになった遊具の坂を登ろうとしていただるまたちが、その傾斜を登りきれずにいたのを金閣寺は園の中で微かに目撃した記憶がある。そして、あの、思い出したくもない滑り台のことも──
『だるまは転んでは起き上がるのが宿命。そいつが無理に坂を登ろうとするならば、そうそう追っては来れない。そうして転げ落ちている間に霊的パスが薄れて、その子との繋がりを断てればきっと安泰だろう』
「あの、それってどれぐらい?」
『あぁー、さぁな? しかし纏わりついた妖気を払うほどの霊験を高めるのならば、最低でも三日ぐらいはそうだな? ──ちょっと待て、ちょうどそこに良さげな〝ばしょ〟があるぞ』
「三日……え? ばしょ? なにが?」
『PINEの方に旅館までの地図を送った。辿り着けたら連絡をしろ。足りない分は未来のバイト代から差し引いておこう。ではでは、風の吹くばしょ風山で、いい怪談話を期待する! 今をときめくカノジョとともに、はははは』
渋い笑い声をさいごに、BARがしゃらばのマスターとの通話は切れた。PINEには、マスターが手早く調べてくれた山の上の方にある旅館へとつづく地図が送られていた。
「風山温泉旅館……」
未来のバイト代など、ただ働きでくれてやってもいい。
訪れる月曜、休日明けの学校のことなど、あとで苦笑いすればいい。
この不意をついてきた凶日が、吉日までとは言わない、元のありふれた日常へと変えられるというのならば──
赤く乾いたスニーカーの足元を見つめ、買ってきた新しい緑の靴に履き替える。路地裏のゴミ箱へと投げ捨てた二足の古い靴に、しっかりと蓋をした。
こんなことで霊験や何かが効果的に高まった気はしない。意味のない願掛けだと思いつつも、頭や視界によぎる嫌な可能性は何もかも捨て去っておきたかった。
彼は親指から小指まで窮屈に感じた履き慣れない靴を、つま先を地に打ち整えた。路地裏の影を抜けて、オレンジに染まった歩道を踏んづける。
午後5時59分──金閣寺歩は、雑多なビルの間に佇むホテルへと向かい走った──────。
今日一日に負った疲れは、己の身にも計り知れない。熱い温泉に浸かっても全てを癒し、ゼロへとリセットすることはきっとできない。ゆらり熱風呂から上がり、普段は絶対に入らないサウナ室の戸を開けてみる、茶髪の男は気付けば長い木椅子の真ん中に腰を掛けていた。
「結局、来ちまった……。こんなことになるなんて、本当に俺は──」
一時凌ぎで休憩していたビジネスホテルからタクシーで向かった山の上にある風山温泉旅館に、午後7時頃、辿り着いた金閣寺と阿部の二人はチェックインした。
今は旅館内にある温泉施設内のサウナ室で、金閣寺はうなだれながらそう独り呟いていた。
やがて、下を向いたままおもむろに見つめたのは、絆創膏の巻かれた左指。今でも鮮明に思い出せる、藤乃にこの絆創膏を巻きつけられたあの日あの学校の水道場から、彼の日常を取り巻く環境は様変わりした。
「これが時限式の爆弾なら、いっそ分かりやすいんだが」
怪異が顕れるその原因が自分に、この絆創膏の内側に、仮にタイマーセットされてあるのならば話は楽だ。だが先刻、阿部加奈から聞きだした内容が真実であるならば、「彼女の元から離れる──」そのような単純な思考で、このいつまた訪れる、あるいは訪れずとも知らない不安要素を解決できるとは思わなかった。
再びだるまが顕れる可能性を少しでも除くために、がしゃらばのマスター巻の入れ知恵で来た山の上の旅館。その根拠は電話ごしに得意気に述べられたものの、その真偽のほどは実際に試してみなければ欠片ほども分からない。
だが、いくらオカルトごとに傾倒しようが、このまま術なく何もしないでいるより。金閣寺歩にとって、選んだその判断が最善までとは言わずも幾分かマシであるようにも思えた。根拠はないが、そう、感じられたのであった。
とにかく来てしまったからには、最低でも三日、山の上のここで過ごす覚悟を決めるしかない。未来の自分が、後で夜のバーで熱心に手慣れず働くことになろうが、そんなことは気にしていない。
金閣寺は自分の取った行動力に驚きはしなかった。どうすれば彼女に纏わりつく厄介を祓うことができるのか、今はそれだけをただひたすらに汗水垂らしながら、考えていく。
茶髪の上に白いタオルを一枚被りながら、答えの出ない答えを、熱中する頭の中で追い続けていると──
すぐ隣、何者かが腰掛ける木の軋む音がした。
『おぉ、ちょうどいい』
「……!」
何がちょうどいいというのか。視界を阻む白い仕切りを手で上げて、金閣寺は左方近くにした気配をちらりと覗いた。
「あ、先客がいたかい? ははは、こりゃお近くなのに気付かなくて失礼。──ところで今日は、どちらから?」
近くに腰掛け気付かない──白々しい演技のようにも一瞬思えた。見知らぬ男の声に突然問われて、数秒思考を停止し固まってしまった。そんな金閣寺の目にふと入った遠くの壁の表示には、「サウナ室内の私語は厳禁」と書かれている。
一人で考え事をしたかったものだが、もう、そうはできないようだ。
隣に腰掛けた中年の男は、四角い簡易マットを片手に差し出し、親し気に茶髪の先客に笑いかけた。
金閣寺は座っていた木椅子の上に、忘れ物の簡易マットを隣の男から受け取り敷いた。
サウナ室内は私語厳禁らしいが、その男は人と話をするのが上手かった。金閣寺も挨拶と自己紹介ぐらいはと、物腰柔らかな男の問いかける声に相槌を打つように答えていった。
「へぇー穏林。そりゃ住みやすそうでいい所だ」
「え? あぁー、どうも」
中年の男の名はミヤギ。しがない旅人のブロガーなのだという。
「こうやって旅をしながら、行ったことのないいろんな場所や町をめぐっていくのが好きでね。とりわけここは、素晴らしい温泉に旅館施設だ。まるで時間を忘れてしまいそうな、自然の中に佇む癒しのパワースポットのようだよ」
「そうっすね……」
「こうして旅先で贅沢をしていると苦労して建てる一戸建ての家なんていらない、嫁さんには悪いがつい、そんな風に思い至ってしまうこともある。君は旅をするなら、おおきな家はあったほうがいいかい?」
「え? 旅っすか…………俺は……そんなに大きくなくても、帰る場所はひとつぐらいあったほうがいいんじゃないかって? 家族とか……も、その方がなかなか会えずいて離れていても、そのぉー……あ、安心できるものだと思うんでっ、口には出すことはないでしょうけど。──って! 俺の言ったことなんて、あのその、まじ気にしないでくださいね」
つい自分のことように立場を置きかえて語ってしまった。口を滑らせすぎた金閣寺は、御大層な意見をするつもりはなかったと、ミヤギに向け手を振り取り繕った。
「ははは、なるほど……安心。たしかにそれは父親として考えさせられる良い意見だ。でも────帰る場所がひとつだと、できるだけ仲良くしないと取り合いになるな」
「とりあい?」
「すまない、今のはちょっとした戯言だ聞き忘れてくれ。そうだそうだ穏林といえば、たしか焼き物で有名だと遠い噂に聞いたが」
「──? え? あぁ、そうですね。林焼のことならたしかに、学校の課外……あっ、よくご存知で」
またうっかり口を滑らせてしまった。実年齢など偽る必要もないことだが、金閣寺は下手くそなポーカーフェイスを見せ誤魔化そうと試みていた。
もちろんミヤギには、彼のその容貌と見せる反応からだいたいの年齢情報など筒抜けであった。
「ははは、そう警戒なぞしなさんな。老いも若いも旅は自由。羨ましいかぎりさ。どうぞゆったり楽しんでいきなさい。いや、僕もまだここにしばらく滞在するつもりだから、聞き上手の君には『よろしく』と言った方がいいか? はははは」
笑いながら伸ばされた手と、よろしくの握手をする。ミヤギという男はよく笑いとても楽観的な性格をしていた。その大人の持つ独特の懐の広いポジティブさが、今の金閣寺にも話していて悪い気はしなかった。
「ところで、君、すごい汗だけど」
「え?」
ミヤギと喋りながらサウナ室内で、男同士の我慢比べをしていたわけではない。
ミヤギの笑い指差す自分の体を、金閣寺は両手を広げつつおもむろに眺めてみる。気付けば、かいたことのない量の汗を体中から垂れ流していた。
しかし、今もなお外へと滴る汗の量と、体の感覚や体温はどうも少しズレているように合わない。
金閣寺は斜めにゆっくりと首を傾げる。長居し過ぎたはじめてのサウナ経験に、濡れた茶髪に手を置き、笑うしかなかった。
サウナから上がった金閣寺は、話し相手になってくれたからとミヤギに風呂上がりのコーヒー牛乳を一つおごってもらえた。他愛のない話だったが、金閣寺は颯爽と去ってゆくその男の背中に、なにか元気をもらえた気がした。
湯上がりの金閣寺は自分の部屋に戻る前に、阿部加奈の宿泊する部屋に顔を出した。
「きんきん本当にいいの? 私がださな──」
「あぁ、いいって。野球選手にでもなった未来の俺が稼いでくれるからいいんだよ」
「ふふっ。きんきんってぜんぜんボケの才能ない?」
「ははっ、言い返せねぇな、ぜんぜん」
未来の自分が野球選手などになっているわけがない。阿部に宿泊代金の一部を出してもらった方がとても楽なことは分かっていたが、非効率な彼はそれを「いい」と言い笑いながら拒んだ。
何かおかしなことがあればすぐに連絡をするように阿部には伝えた。金閣寺は阿部の宿泊する三階の【峰の間】から出て、自分の泊まる二階の部屋へと階段を下り戻った。
まさか学生の九州旅行で、山の上の旅館に泊まることになるとは思いもよらなかった。
しかしそんな思いつきの金閣寺の提案を彼女も飲んだ。優等生の阿部加奈は、がしゃらばのマスター仕込みのオカルトめいたロジックにも、金閣寺が必死にそれらを説明すると納得してくれたようだ。
まだ仮宿のビジネスホテルに滞在していた時に、金閣寺は、がしゃらばのマスターから聞いただるまに関する話を拝借し、彼女にも詳しく説明したのだった。オカルトでも、ある種の筋の通ったマスターの説明は、阿部加奈のなかで何らかの安心材料になるとも思ったのだ。
【丘の間】──そう名付けられた自分の部屋に戻り、金閣寺は敷布団の上に倒れ込んだ。しばらくそうして死んだように寝転んでいると──
「おいおきゃく、清掃のじかん、おしえろ」
とても丁寧とは言えない口調の仲居がノックもせずに部屋の中へとやって来た。まっすぐに見つめているその目はしかし真面目なようだ。おそらく明日布団などを取り替える清掃時間のことを彼女は問うているのだろう。
唐突な訪問であったが金閣寺は寝転んだ姿勢を正し、すでに畳の上に侵入した仲居に向かい答えた。
「あ、じゃあその時間はちょっと外で飯食ったりスーパーとかにも出歩く予定もあるから。えっと、11時ごろに──」
「わかった。そのじかんは無理だ、かえろ」
「え?」
金閣寺は思わず驚いた。旅館の従業員の口から「無理」などという言葉が出てくるとは思わなかった。挙げ句の果てに予定を「かえろ」とまで言うのか。
(なんだこのひと……今はあんまり変なことは)
容姿は若々しく、髪はきっと染めていない黒。よく見れば他の仲居たちのように髪をきちんとまとめていない。彼と同世代かは分からないが、こんな山の奥で働いているならきっと年上の女性だろう。
相変わらず彼女の目・視線は真っ直ぐ金閣寺の目を見て離さない。藤乃とは違う、妖しげというよりはどこか野生味のある鋭さを感じた。睨んでいる、そう言った方が正しい。
しかし、その表情や仕草と対照的に彼女はとても澄んだ黒目をしているようにも思えた。
「ハメンのじかん。かぶる」
「ハ、ハメン?」
ハメンのじかんなどという言葉はまったく知らない。金閣寺は分からない。この仲居が一体なにをしたいのか、湯上がりの冴えない頭では検討もつかない。
困り果てた金閣寺が、ハメンの謎を考えることを諦めかけたその時──
「ん? 見せろ」
「は、ちょっ!?」
顎に手を添え考える仕草をしていた茶髪のお客様に、いきなり黒髪の仲居が飛びかかった。
急接近に勢いあまり、布団の上に転んだ茶髪のお客の上に、黒髪が乱れ覆い被さる。
「風が、ほころんでいる────」
ほころんでいる、その言葉の意味はきっと彼女の視界に収まるそこに巻かれてある。
黒髪の仲居は暴れるそれを一度掴んではもう離さない。彼の左指を強く手に取り、ただじっと見入りながら、奇怪な風の宿るニオイを嗅いでいた────。
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