第22話 天啓
自分の部屋の学習机に向かう。だがその行為には勤勉と怠惰が同時に混在し、彼女の心の中と机の上で背反している。
「加奈。ぶつぶつ何を言っているの」
閉め切っていた部屋のドアがノックされた。後ろに響いたそんな音に遅れて気付いた阿部加奈は、キャスター付きの椅子から体を捻り、母の呼びかける声に振り返った。
どうやら加奈が一人ぶつぶつ呟いていたその声が、ドアの向こうにも漏れて聞こえていたようだ。
どこか取り繕うような慌てた反応を見せた娘に、母は少し首を傾げ怪しんだ。
「ちゃんと勉強やっているの?」
「うん。大丈夫」
「ならいいけど。変な動画ばかりみていちゃダメよ」
机の端に雑に置かれていた起動中の平らなスマホを睨みながら、母はまだ怪しみ言う。
「う、うん。ただの豆知識のショート動画だから」
加奈はスマホを手に取り、そのショート動画がかわるがわる流れつづける画面を部屋にやって来た母にも見せた。これも息抜きかつ勉強の延長線上のものだと、言いたげだ。
「そう、よく分からないけど? あの人のように帰ってもだらだら生きてると、ダメだからね。テレビもスマホも、ようは一緒なんだから」
「うん、だ大丈夫。それに、お父さんのこと全然もうおぼえてないから、大丈夫だよ」
おぼえてない、本当にそうだろうか。部屋のいたるところに貼られたものは、あの人も好きだったようなくだらないお笑い芸人たちの映るポスターだ。テレビにかじりつき、よく娘とゲラゲラ笑っていたのを阿部加奈の母はおぼろげに思い出してゆく。
しかし大丈夫だと口癖のように言う娘の言葉の方を母はより信じている。優等生の娘の言葉には、積んできたそれなりの実績があるからだ。
「それは?」
「え? これ? あぁ、なんかかわいいと思って」
部屋を出ようとした母だが、ふと目についた、その机上に置かれた真っ白なだるまのことが気になった。
娘の加奈は「かわいい」と言い、手に取ったそれをさっきのスマホ画面と同じように見せてくれた。
「かわいい? そうかしら? このだるまが? なにこれ色が何もついてないじゃない。ご利益がなさそうね。まぁいいわ。今度の期末テストで3番以内、ちゃんと入りなさいね。穏林は市内では上位でも、全国的にみれば普通の学校なんだから。難しいことは言っていないでしょ?」
自分の娘であれ女子高生のかわいいと思う感性は、あまり分からないものだ。
母は少し前のめりに覗いてみたそんな白だるまよりも、学生が励むべき勉学に関して念押しした。同時に今、娘に課したハードルも、娘の能力を鑑みればそんなに難しいものでもない。いつも娘が勤勉にこなしてきたそんな悠々飛び越えることのできるハードルだと、母は疑わない。
「うん。ちゃんと勉強してるから、大丈夫」
大丈夫──娘の唱えるその言葉に嘘偽りはないものだと、母は信じる。
やがて、近づいてきた母の足音に、娘もおもむろに椅子を立ち上がり応じる。
二人が交わしたそのわずか数秒の抱擁。
「じゃあ、晩御飯いつでも食べていいから」
「うんわかった、ありがとうお母さん」
かるく寄せ合った体同士が離れる。母はそう娘に言い残し去り、開きっぱなしだった部屋の戸が閉まった。
この胸に僅かながら残るそのぬくもりの意味はなんだろう。部屋に一人残された加奈は立ち止まったまま考えた。
束縛にも思えた。愛であり悪意のないこの強力な呪縛を打ち破ることは、きっと今の自分、ただの自分ではできない。
「学年で3番以内……そんなのきっと勉強すれば簡単、でも──」
加奈は手に抱えていた白いだるまを、同じ目線の高さまで運び、黙って見つめる。
きっと大丈夫。阿部加奈は、ちゃんとできている。例えここで少し道を逸れてみてもまだ、ちょっと人よりお笑いが好きなだけの優秀な生徒だ。
彼女の算段は間違っていない。学校の勉強のこと、スクールマンザイロックのこと、これからのこと──確かめる時間がゼロであるとは誰も言っていない。
見つめる白いだるまは頷かない。喋らない。瞬きをしない。だが、今、僅かに微笑んだような気がした。
真っ白なキャンパスのようなその面が、シワついたような気がした。
白いだるまに語りかけた彼女は、どこか感じた肯定感に引っ張られ、学習机の引き出しを開けた。
そして、引き出しにしまい込んでいたその秘密のネタ帳を取り出した。
解きかけの数学のノートの上に、お笑いのノートを開く。
ノートを置き重ねて進めてゆく、解のないお笑いの世界の完成を目指して。つまらない答案を何度も何度も消しゴムで消してゆく。
阿部加奈は何かに取り憑かれたように、机に向かい次のページへと筆を走らせた。
学校から帰って来てからも部屋にこもり机に向かう時間は以前より増えた。夏休み前の学校の期末テスト、そして近々あるスクールマンザイロック、どちらも今の高校一年生の彼女にとって大事なイベントだった。
だが、どちらに比重を置きたいかというと──彼女の中にある天秤は、その一方にひどく傾きつつあった。
机の片隅で机にかじりつく彼女のことを、黙り見守っている白いだるまがある。
お笑いのことを真剣に考え始めたのはこれが初めてかもしれない。だが、真剣に考えはじめていくうちに、なぜだか彼女はますます不安になった。
脳内に居座る著名な観客たちがいくら彼女の考えたネタに手を叩き笑っていても、それは本当なのだろうか。きっと確かめることも打ち明けることもできない、誰に披露することもできない。お笑い好きのアベカナの世界はあやふやなまま、独りの中で閉じていた。
下れば楽なそんな終わりがない坂を、登っているような気がした。光が閉じてゆく、そんな感覚にとらわれた。
尊敬する男芸人、ニシナナと同じレールの上を進んでいっても、きっと自分はニシナナのようにはなれない。
ニシナナのネタと自分の作ったネタ、ノートへ活字に書き起こしてみてどちらが笑えるか、見比べれば一目瞭然だった。
ニシナナのような強いツッコミや、こまごまとした分析力。リアルタイムのsnsなどの反応にフィーチャーした新しい漫才。
そんなものを目指したが、自分のネタはどこか軽々しく大味にも思えた。既製品をなぞらえただけの模造品のようにも思えた。ニシナナのような強いキレがない。どこか普通、どこか普通で、選んだ言葉の端々に優等生たるストッパーがかかっているような気がした。
かといって、自分が強い言葉をつかって観客は笑ってくれるだろうか。
キャラクター性も確立されていない。悪どさも善良さも何も方向性は確定していない。観客は彼女を知らない、アベカナを知ることはない。なぜならば彼女は、その舞台に立ったことなどないからだ。
不安はますます募っていく。ペンが止まる。鉛筆の先が挫けた音を立てる。
白紙をじっと眺めていても、やはり解は見えない。
(みんなを笑わせられる、そんな──)
そんな世界には、まだ遠くたどり着けない。
芯が折れた鉛筆を握ったまま、それでも彼女はミエナイ何かを求めた。
変わり映えのしない朝は、お笑いの道を夢見る阿部加奈にとって恐れるべきもの。しかし、机の上で寝てしまうなんて、優等生の阿部加奈にとって最悪な朝だ。
どうやら学習机の上で彼女は寝落ちしていたらしい。こんなにも目覚めが悪いということは、この硬い木製のベッドがひどく寝心地が悪かったということだろう。
傍に置かれていたスマホ画面に表示された時刻は午前4時32分、中途半端な目覚めだ。
頭の片側が生暖かいのは、机に備え付けの蛍光灯にずっと照らされていたからだろう。まだ頭が痛いのは、枕がいつもより硬くて睡眠不足だからだ。
とても情けない朝だ。とても人に見せられるような優等生の阿部加奈の姿ではない。
スマホを手放し置く。寝ながらに前方に固まっていた己の体を、青い椅子の背もたれに仰け反りもたれほぐしていく。
天を仰ぎながら目を閉じる。目覚めても残るイヤな眠気とイヤな頭痛が落ち着くのを、しばらくそうしながら待っていた。
しかしやはり、その行為だけでこのイヤな感じの全てを癒すことはできなかった。
ベッドへと戻り2時間ほど寝直そうと、阿部加奈は寝ぼけたその頭で冷静に考えた。
アラームを設定し直すため、机上に置いたはずのスマホへと手を伸ばそうとしたその時──
阿部加奈は、ふと、同じ机上に開かれたまま置かれたネタ帳に目がついた。
どうやらノートに何かを書きながら、彼女は眠ってしまっていたようだ。
くしゃついたノートを伸ばし広げてみると──何かを捻り出そうと頑張っていた形跡が見えた。昨日の阿部加奈が寝落ちするまで頑張っていたようだ。
だがそれらは支離滅裂な文章だ。ネタにもならない、ギャグにもならない。そんな脈絡のない未完成な呪文が、クオリティの低い筆跡で書き連ねられていた。
優等生気質の彼女は、逆に、ネタ帳に映るその昨日の自分の残した未完成さが気になった。
寝ぼけ眼をこすることもない。離れた椅子のキャスターをゆっくり走らせ、学習机に近寄り向かった。そして、なんの気なしに鉛筆を手に取り書き進めてゆく。ネタ帳に残された、そのあやふやなつづきを。
繋がりを持たない一文、一文を目視しながら筆が力無く書き進む。
しばらくそうして、あくびを垂れながら作業効率悪く机に向かい取り掛かっていると──やがて、彼女は何かを閃いたのか、書き進めていくその筆の速度が徐々に増していった。
書き進めると同時に口ずさみながら、試行錯誤する。椅子に浮いた足は床にリズムを打ちながら、頷き、頷き、うなずいた。
口ずさむそのリズムはノート上に文字に起こされ、あやふやだった書き残されていた一文一文はやがて活き活きとしだし規則を持ち、システム化されてゆく。
「とーげとーげ……こ、これだ!!」
ベッドに倒れ込みながら阿部加奈は両手に掴むネタ帳を、天へと掲げ開いた。午前6時42分、自分のお笑いが完成した気がした。ベッドからはみ出した足を宙にばたつかせながら彼女ははしゃいだ。
一見意味のないようにみえたそのネタ帳に預けられていた汚い筆跡のフレーズが、今の彼女には口ずさむ度に、かがやきを放つ魔法の言葉に見える。聞こえる──。
机上に置かれたまま黙る白いだるまは、蛍光灯に照らされて影を作っている。その空白の形相の片側に黒い眼をうっすらと灯し、何遍も唄うようにはしゃぐ少女のことを、羨ましそうな表情で微笑い見つめていた────。
⬜︎PINEメッセージ
ネタ帳にない自分のお笑いを見つけました。
SMRの前に、ニシナナさんに完成したネタを直に見てもらうことはできますか?
メッセージ連絡、いつでも待ってます。
【阿部加奈】
⬜︎
素人女子高生から届いた一通の電子メッセージ。それは、男芸人にとって見過ごせないものであった。
プロの芸人にとってある意味挑発的とも取れるその簡潔なメッセージの内容が、真面目なのか冗談なのかを確かめるためか、ニシナナは彼女に返事のメッセージを興味本位でかえした。
彼が芸能活動の主軸の一つに据えているニシナナ公式チャンネル。そのネット配信チャンネルの撮影がちょうど近く大阪であるので、撮影が終わったら配信部屋の中で彼女のネタを見てあげる、との旨の返事だ。
三日前にそのオーケーの意味と取れる返事を受け取った阿部加奈は、今現在見知らぬエレベーターに一人乗り込み、六階を目指し上昇している。
ニシナナが大阪で買ったその一棟のマンションの一室が、彼の配信・撮影専用部屋になっているとのことだ。買ったとはマンション一棟まるごとのことで、大阪ではそこを拠点としている。まさに売れっ子お笑い芸人だからこそできる惜しみない金の使い方だ。
そんな自前のマンションに素人の彼女を呼び寄せたのは、ニシナナがよく蔑んで呼ぶ〝肩書きさん〟それら有象無象の芸人たちとのスケールの違いを自慢する意図もあったのだろうか。
エレベーターが上がり着いた六階の配信部屋で待っていた仕事終わりのニシナナは、穏林市からやってきた阿部加奈のことを機嫌良く招き入れた。
シックな黒いドアの先、招待されたそこは、阿部加奈がニシナナ公式チャンネルでいつもスマホ画面ごしに視聴していたそんな見慣れた配信部屋の風景であった。
「ほなら、そこ、その辺でやってみ?」
配信用のその赤いソファーには客人の女子高生を掛けさせない。
もちろん阿部もそのつもりだった。今ニシナナに大雑把に顎をつかい指定されたあたりに、戸惑いながらもさっそく移動をはじめてネタの準備を進めた。
配信部屋の中へと入るなり息つく間もなく、ネタを披露する場を指示された。だが、この程度のことはいやがらせとは言えない。本当に彼は多忙の身であり、それでも仕事と仕事の合間を縫って良心から素人の自分のネタを見てくれているのには変わりないだろうと、この時の阿部加奈は思っていた。
赤いソファーに悠々と掛けて、タバコを一本取り出し始めたニシナナ。スクールマンザイロックで披露する予定の彼女の新しいネタを、その特等席に深く掛け見届ける姿勢だ。
(自分のお笑いを見つけた? それができた? やて? まぁ、ニシナナっぽい何かを薄めて薄めてお出しするのがアベカナちゃんの能力からいうせいぜいやろが? ──どんなみそっかすも早々に諦めるヤツより諦めの悪いヤツはしゃぶりがいがあって嫌いやない。ちょっとがつーーーーん、イジメたるか。はは。もちろん、お笑いってのは誰であっても判定は紳士公正に、貫禄や身の程やバイアスやコンビ仲で評価を確定したらあかん。せやから、まがいもんを見つけたその瞬間は、がっっつり、な? それは文句いわさへん、だってそれ、あんたのお笑い防御力が低いだけなんやから)
ニシナナは薄ら笑いを浮かべ、ソファーに座りパソコンのマウスをいじっている。彼の口癖のように提唱する「お笑い防御力」それが低かった場合には、彼女のしているネタを途中で遮ってでも彼はすぐにかみつくだろう。むしろそれが怪物ばかりのお笑いの世界を勝ち抜いて来たピン芸人ニシナナ、彼だけに許された一種の優越で愉悦なのだ。
彼がライターの火をつけたときが開始の合図だ。制限時間は彼が口に咥えたその一服一本が終わるまで、ゲストの彼女のネタを一本だけ見てくれるというシステムだ。
人気芸人の彼は次の配信のネタをパソコンに打ち込み考えながら、芸人未満の素人女子高生のネタをながら聞く。ニシナナの視線は作業するパソコンモニターから離れない、まるで今日開催されるスポーツの試合の結果を全て知っているかのように、興味を向ける素振りをせず。
しばらくして、作業していたパソコンのマウスからニシナナの手が離れる。そして、横車が回され火花が散った。ガスに着火し、今ニシナナが手に持ち替えた使い捨てライターの火がオレンジに色づき灯る。
すると同時に、ソファー向かいのフローリングに突っ立つ彼女のスマホから再生されたのは、「リズム」。
何がはじまるのか、既製品にない聞き慣れないリズムが静かだった配信部屋に鼓動する。
想像を外れたスタートを切り、想像のつかない世界が男芸人の耳にリズム良く、そして強制的に吹き込まれてゆく。
もくもくと煙りだした男芸人の視界の先に、カタチ作られていく踊るその影は幻想か、それとも眼鏡と緑のハンチング帽を被った、お笑い好きの素人の皮を被ったまったくの別人の仕草か。
タバコを咥えたまま閉じていた──男芸人の口元が、じわりと緩みはじめた────。
「自分漫才師やなくてギャガーやったんか! いや、いい、いいね! なんやそのシステム、ええやん! おもろいやん! たのしいやん! はははははお経やなくてラップが得意やったんか? もしかして? ははははは」
およそ3分間、アベカナのネタを披露し終えた。家のパソコンで急増で作ってきた摩訶不思議なサンプル音源を、スマホの停止ボタンをタップして止めた。
阿部加奈も興奮気味だった。そんなに褒めてくれるとは思わなかった。赤いソファーから立ち上がったニシナナは、まだ彼女の披露したその新鮮なネタの余韻に浸っている。手を叩きながら笑う男芸人の反応は過剰ながらも嘘めいていない。それほどに、手応えというものがあったというのだ。
それまであった期待や不安など置き去りにするような、高揚感。脳内で笑い描いていた理想と現実の色の絵の具が混ざり合ったような、そんなリアリスティックな達成感。
阿部加奈は呼吸を忘れるほどに交錯する多幸的な感情にあふれ浸り続ける。
疑いようのない好感触。尊敬する男芸人が賛辞の手を叩きながら、立ち尽くす彼女に歩み寄る足音を立てる。
讃える笑い声はやまない。叩く手の音と笑い声はやまない。
「はははは、はっは!! はははアレ? はははア? アははははは──」
そう、やまずに────
笑いつづけた男は、笑うことをやめない。やがて笑うこともままならず、吸い込む引き笑いと吐き出す生々しい息遣いを交互に繰り返し、そのリズムが荒く速くなっていく。
拍手していた手は脇腹を抑えながら、彼は息がもたずその場に倒れた。
何が起こったのか彼女には分からない。何もない赤い絨毯の上に倒れたその男芸人が、冗談を演じているのかと思った。
しばらく黙り見下ろしていても、その男芸人は立ち上がらない。這いつくばった姿勢で、床からひっついて離れない。
のたうちまわりゲラゲラとは笑わない、ひーはーひーはーと苦しそうに笑いつづける彼の姿を見て、阿部加奈は訳がわからず恐ろしくなった。
だが同時に──その人が跪いたように見えた、自分のお笑いに。
床に置いていたスマホを拾い、片側の髪のかきあげた。
アベカナは笑いすぎて倒れたニシナナを見下ろしながら、通話アプリを開いたスマホを耳に当てた。
「あの、救急車をお願いします。場所は、────。友人が、急に……ふふ、笑いが止まらなくなって、呼吸がとても苦しそうなんです」
冷静な声で救急車を要請する。その時、微笑がこぼれてしまった意味は彼女にも分からない。
誰もいない赤いソファーの上には、両目のつけた白いだるまが一つ。まんまるな漆黒の眼差しで、羨ましそうにカノジョを見ていた────。




