第2話 あ、ら、
形を成し再び、襲い来る。
金属音をじゃらじゃらと引きずり鳴らし、屋上の地に無数の傷をつくり引っ掻き滑るように走るコインの集合体。
コインを草葉のように覆い纏い猛進する赤い二つ目の化物を、前方に盾のように開き咲いた黒い番傘がまた遮り防いだ。
傘にぶつかり散ってゆくコインのうるさい音が彼の鼓膜を打ち、現実感を演出する。
しかし、なぜコインの塊が降ってきたのか、なぜコインが生物のように動いて突進してきているのか。金閣寺には分からない。だが、彼は額に冷汗をかきながらも理解をするためか、こう呟かざるを得なかった。
「はぁっはぁっ……こいつがこっくりさん……だったり……しねぇよな」
「おおよそそうね」
藤乃は振り返り答えた。その彼女の表情に恐怖心や戸惑いは窺えない。まるで、あたかもこれが日常の延長であるかのように彼女は至って平然としている。
「冗談……だろっ」
自分でまさかと連想し、自分でそうかと聞いておいて、まったく納得ができない。あのうるさいコインの集合体が〝こっくりさん〟だというのならば、そんな奇怪な化物の噂話を金閣寺は聞いたことはないのだ。
「立てる?」
「……立ってる!」
「そう」
腰を抜かしたように倒れていた彼はもう既にその己の足で立ち上がっていた。息を荒げながらも、心臓の鼓動を痛いほどに速めながらも、ただ彼が目の当たりにした理解できない恐怖の塊に囚われ続けているわけではなかった。
襲い来たアレがこっくりさんかどうか第一声で藤乃に直接聞いたことも、意味不明なコインの化物のその正体の一端を知ることで、彼が今身に降りかかってきた恐怖を少しでも和らげようとしていたのかもしれない。
頷きあった藤乃と金閣寺の二人は、コインの化物が形を散り散りに床にぶちまけ失った今の内に、屋上の入り口を目指し走った。
赤い階段を駆け下りてゆく、慌ただしい男の足音と、軽やかな女の足音が5階の廊下へと共に繰り出した。
「はぁはぁっ、た、たおしたのか!」
「たおせてないわ。うしろ、階段の方」
まさかと思い、金閣寺は振り返る。規則性のない不吉な金属音が後方から廊下を吹き抜け、ここまで、彼の鼓膜を震わせ聞こえてくる。
じゃらじゃらと音を立てる昇降口。さっき二人が降りてきた階段の上の方から、コインが一つ、二つ、跳ね落ちてきているのが分かる。
「──!? なんだ、なんなんだ!!」
「こっくりさん、そうとしかいえない」
「あんな気持ち悪いジャラジャラがこっくり!? ありえねぇ……! って俺が聞いたんだった! くっそ、まったく意味が!!」
「──ん?」
「とりあえずこっちだ藤乃さん、アイツが来る前に隠れるぞ。あれ!? 開かねぇ!? クソッッ、開けろよ!! ──オっ!?」
金属音を漏らし落とし、今も確かに迫りくる恐怖に焦燥の色を隠せずにいた金閣寺は、またあのコインの化物が階段を降りきり姿を見せる前に、5階にある技術室に入ろうと藤乃に提案した。しかし、その技術室の戸は施錠されていたのか当たり前に開かなかった。
だが、彼はそれでもあきらめきれず。ドアの窪みに手を当てる。幾度か押し引きを繰り返しガチャガチャと焦る音を揺らし立てていると──その戸は唐突に開いた。
祈りでも通じたのか、それともドアの立てつけが悪かったのか、ここで足踏みした冷静でない判断と行動が功を奏したのか。どちらにせよ金閣寺は開いた技術室の中へと、隣で突っ立ち待っていた藤乃を手招いて急がせる。
金閣寺は藤乃を室内に連れ込み、さっそく急ぎ隠れることのできる場所を探した。
あいにく穏林高校の技術室は汚いことで有名だ。技術科の糸井先生が「少しは物を整理し片付けてください。──生徒との思い出? はぁ……」と教頭先生に叱られているシーンを金閣寺も見た事がある。
木材アートの小物や実用性のあるコップ等が飾られた棚、大きめの作業台、並ぶボール盤の機器等々がこの部屋には雑多に置かれている。中にあるものを利用すれば上手いこと身を潜めることができるかもしれない。
部屋の明かりは入ったときから消えている。この薄暗い部屋で必死に目を光らせた金閣寺は、それよりももっと良い場所を見つけた。
黒板の左横にある資材置き場のドアを開く。埃に汚れていたブルーシートを被り、生徒たちが作った椅子だらけの山の後ろに、息を潜める。
「はぁっ……はぁっ……」
彼の荒い息遣いが青い幕内に、こもり、聞こえる。
対して隣に共に潜んだ彼女の息遣いは静かだ。
「金閣寺くん、それは?」
「あぁっ……宗がこれでよく…素振り……はぁ……してっ……思い出して…はぁっ」
金閣寺は隠れ場所を探す際に目についた壁際の工具パネルから、野球のバットより少し短い長さの木槌を一つかっぱらっていた。
熱帯びた息が、狭苦しいブルーシートの内側を温める。
青みがかった彼の横顔はじっとりと汗をかき、両手に握りしめた木槌をしっかりと離さない。
彼と彼女は目が合った。ひどく至近で、ひどく真っ直ぐに突き刺さった藤乃春の紫瞳のその視線。
金閣寺は黙ったまま、一緒になったブルーシートの内側で藤乃の目を見つめ返す。こんなときなのに、彼女は一切取り乱しもせず落ち着いた様子だ。
彼にとっては青ざめるほどの恐怖の只中、彼女にとっては違うのだろうか。
自分と対照的な静かな様で居続ける藤乃春は、やはりまるで日常の延長を生きているようだ。こんな怪奇・化物に襲われた状況であれ、平然な顔でいる彼女に、金閣寺歩はそう感じざるを得ない。
金閣寺は恥ずかしくもまだ荒げたその息をゼロまで抑えることはできない。彼女の白い鼻先に彼の吐いたぬるい息がぶつかる程に、今は近く、だが今は決してそこを動けない。
金閣寺がブルーシートの内側で、なんとか息を落ち着かせようと苦心していた、そんな時──
ちゃりん、ちゃりん、
じゃら、じゃら、
耳を伝った彼が聞きたくもないあの金属音が、だんだんと大きく、廊下を渡り近づいてきているのが嫌でも分かる。
(来るな、くるな、くるんじゃねぇぞ……)
そんな彼の声なき祈りはむなしくも────コインが床を引っ掻く音は立ち止まり、技術室のドアは、引きあけられていく。
一枚、一枚、涎のようにコインの滴り落ちる音が、彼の鼓膜を震わせ打つ。
ぞっと肝が冷える。全身の毛が逆立つ。見開きすぎた彼の黒目が瞬きの仕方を忘れるほどに。
ズキリ、ズキリと痛むのは極度の緊張と押し寄せる恐怖で速まったおかしな心臓の鼓動だけじゃない。
果たしてそれが警鐘を鳴らしているのか、人が鳥肌を立たせるようにただただその恐怖心を煽っているのか、金閣寺歩には分からない。
絆創膏の巻かれた左の人差し指が、また「ズキズキ」と、その痛みを走らせた────────。
コインの音が、一枚、一枚、剥がれ落ちては床を打つ。技術室をすすむ足音が、無防備な人の耳穴を伝い、彼の不安をまた掻き立てる。
金閣寺は息を殺す。呼吸をしている場合ではない。黒板横のドアを一枚隔てたそこにもう奴は来ている。
息が少しでも漏れ出ないように、彼は口を手で抑える。そうすると速まる心臓の鼓動の音が、余計に鮮明に胸を打ち続ける。人は無であることはできない、妖しい金属音が自分の立ち位置に近付くだけで、恐怖という感情が胃の底から込み上げてくる。
暗がりの技術室を徘徊するコインの化物のしつこい足音が────彼の耳にやっと遠のいていく。
その瞬間に、金閣寺歩は少し安堵する。張り裂けそうであった胸の鼓動も落ち着きを取り戻していく。
このままやり過ごすことができるかもしれない。一縷の希望が闊歩する化物に見つからず、彼の中に失われずに残る。コインの滴り落ちるあの音が遠のく度に、どんどんと確かな希望へと膨らんでいく。
だが、その時、息を潜めていた彼のとても近くに何かが唐突に落ちた。
見下ろす足元に確かに散らばり落ちている。驚き見開き震える黒瞳が、震えてはやがて床に静止する銅と銀の数枚のコインの有様を、ただただ見届けてゆく。
金閣寺のブレザーのポケットから、コインが落ちた────。
売店のクリームパンを買ったその時の小銭が、勝手にそこから飛び出て落ちたのだ。そうに違いない。ポッケに穴が空いていた訳でも、赤い布地が裏返った訳でもない。
理解不能な現象とエラーが起こり、足元に鳴り響いた337円分、鈍く奏でられたその絶望の音が資材置き場に反響する。
金閣寺歩はゾッと肝を冷やした。耳の内にまで滲み出る汗が、彼にまた得体の知れない恐怖を染み込ませる。
一度は遠のいたはずの、あの化物がまた近付く金属音がする。引き返す足音が。ゆっくり、ゆっくりと、一枚隔てた青いドアの近くにもう──
金閣寺歩は極度の緊張に縛られる。身が強張る。強く握りしめた木槌の柄に、尋常じゃないほどに流れ出る手汗が染み、小刻みに震えながら馴染んでいく。
カタカタ、ガタガタ、
青いドアの下の隙間からコインがねじ込まれ、侵入する音が聞こえる。一枚、一枚、やがて積み上がり、大きく大きく妖しげなシルエットがまた形作られてゆく。
床を引っ掻く金属音が、薄い上履きの底から込み上げるように伝う。ぞわり、ぞわり、常人を逃れようのない恐怖が縛る。
足が竦む。心臓がもう保たないほどに鼓動を乱す。
隠れ蓑の役割はもう果たしていない頼りないブルーシートの上を、さらに大きな影が覆う。
同じ小部屋を進みゆくソレは、もう────
「ウワあああああああ!!!」
積み置かれていた大量の椅子の山が、押し倒され崩れた。
前方の椅子の山を勢いよく崩した金閣寺は、そのままどさくさに紛れ、横に薙いだ木槌でコインの化物を叩いた。
悲惨な音が鳴る。連なっていたコインの体が木槌に打たれた部分から崩れ、金属音が部屋中に散らばり跳ねた。
化物から伸ばされたまだら模様の鉄臭い手が、金閣寺の鼻先を掠める。
なんとか身を捩り化物の手をかわした金閣寺は最後に、手のひらに張り付くほどに握りしめていた木槌を、脇腹に穴の空いた化物に投げつけた。
金閣寺は、同じく上手く逃れた藤乃を連れて、青いドアを蹴破るように開き資材置き場を抜け出していく。
強張る体を無理やり動かした彼の選んだ行動は、忍び寄る化物を逆に驚かし、側面から一撃を浴びせることに成功した。
不気味に蠢くコインがまた一つの形を取り戻す前に、急ぎ、用のありはしない技術室を彼女と共に出る。
極度の緊張に縛られる中、それでも彼が覚悟し、化物に振るった木槌は確かに手応えがあった。結果、コインの化物を巻き、薄暗い技術室を無事に抜け出した。
金閣寺は熱く興奮した。その至近、鼻先にまで押し寄せた恐怖の塊を越えた、砕いた。
さっきまで潜め殺していた息を、今、過剰なまでに音立ててする。
なおも制御できない高鳴る鼓動を抱えたまま、冷たいドアを開き躍り出た光差す道をゆく。
二人以外誰も見当たらない穏林高校5階の廊下を、ただただひたすらに走りだした──────。
技術室を廊下の側壁にぶつかる勢いで飛び出た金閣寺は興奮したまま、前のめりに廊下を走る。ただ、遠く、遠くへとひた走る。木槌で叩いたあの不死身の化物がまた後を嗅ぎつけ追って来ない内に。
恐怖の最中にも冷や汗を垂らしながら練り上げた彼の策が、鼻先まで迫った恐怖に打ち勝った。
咄嗟でも無謀でも悪運でもなんでもいい。奴から逃れられれば、なんでも。
希望の廊下をひた走る。窓外から光差すその道が、彼を浸り味わった冷たいホラーからあたたかな明るみの現実へと引き戻す。
金閣寺歩にとって今日という不気味・奇怪が色濃く滲み出た凶日にも、光はある。
上履きの音が床にシンバルを打つように、うるさくも、一歩、一歩、強く鳴らしては前をゆく。
休むことはない。息が乱れても決して足を止めることはない。煌めく汗粒を虚空に散らしながら恐怖を置き去りにする。
だが、凶日というものは誠にしつこくも、彼のその足を挫かせた。
彼が見ていたのは前ばかり、足元は不注意。大きな一歩で駆けていたその足は、力強い音を鳴らさない。廊下に散らばっていたコインに気付かず、金閣寺歩は足を盛大に滑らせてしまった。
スリップしたその彼の身は膝を床に強く打ち、痛めた。
恐ろしく不幸だ凶日だ。ここに来て何故そうなるのか。何が起こったのか一瞬分からなかった金閣寺は、膝から痺れ伝う鈍い痛みにリアクションするが、その一刻すらも惜しいと悟る。
足元の不注意を悔やんでいる暇もいらない。彼が急ぎ立ち上がろうとした、そのとき──
不吉な金属音が、左奥の遠くでさざめく。
やがて、技術室の戸が弾け飛んだ。濁流のように流れてきたのは、廊下を這い走る化物。技術室を勢いよく飛び出した化物。コインが弾け、廊下横の窓ガラスを割るほどの勢いで姿を現した。
側壁にぶつかり無数の引っ掻き傷を描く。引き摺る不快な金属音を立てながらも廊下を爆進する幾多のコインに覆われた赤目の化物。怒りか、なんなのか分からない。得体の知れない執念じみたコインの濁流が、転んだまま竦む金閣寺歩を襲い来る。
金閣寺は目を見開いた。こけた膝の痛みすら無になるほどの恐怖に、感じていた希望と恐怖に脅かされずにいた現実感が一瞬でまた呑まれてしまう。
そんな間際に突如、黒傘は開き咲いた。彼の後ろについていた藤乃は振り返り、黒傘を頭上に差す。
覆われた影、翻す紺のプリーツスカート。靡く黒髪が逆立った。
倒れた金閣寺を連れて、藤乃は黒傘と共に廊下を溶けるように沈んだ。二人の身は下の階へとすり抜けて、荒ぶり流れてきたコインの濁流を回避した。
頭上、天井に鳴り響く轟音は豪雨ではない。押し寄せたコインの化物に喰われる前に、金閣寺と藤乃が着地していたのは1階下の4階の廊下だった。
目まぐるしく状況は変わった。金閣寺は何が起こったのかまだ理解できない。廊下を落っこちてまた廊下に自分の身が情けなくへたり込んでいる。
だが、間一髪助かった。藤乃春が自分のことを助けてくれたことは分かる。
下の階に移動した際に、藤乃の黒傘が僅かに軋んだ。それを彼女は気にした。折り畳んだ黒傘を垂直に真っ直ぐに立て、その歪みをじっと見つめている。
金閣寺は息をする。詰まるような息を苦しそうに吐く。振り返らない彼女の背を眺めながら、何を言うこともできない。無知で余計な一言を吐くよりも、その身に息を継ぐことを優先した。
やがて落ち着きを取り戻した金閣寺は、ゆっくりと、冷たい廊下の床から張り付いていた尻を剥がし、立ち上がろうとした。その時──
頭上に何かが落ちた。頭頂を打った謎の刺激、背に何か聞き覚えのある金属音が響き聞こえた。
頭上を見上げる──ぽつり、ぽつり、天井から降って来るのは────
「──!? な、ナぁああ!?」
金閣寺歩は慌てて其処を離れる。転けそうになりながらも、コインが天井から侵食し床に落ちて来るその場を離れた。
藤乃と金閣寺、二人は廊下をまた急ぎ走る。だが、痛む脚では金閣寺は上手く速くは走れない。
それでもなんとか必死懸命に、あの落ち葉のように堆積してゆくコインが、また、恐ろしげな形を成す前に──逃げる。
すると、突然、『ザー…』と乾いた電子音が鳴った。
突如耳を不安気にくすぐったその電子音に、びくりと身を震わせ金閣寺は立ち止まった。
今どこからそれが聞こえた。不安を掻き立てる正体不明の音は──天井に備え付けられた学校のスピーカーから発せられていた。
いつもより歪に掠れざらついたチャイムの音が、スピーカーから皆に報せるように鳴り響く。
『モウイイカイ……モウイイカイ……お隠れになられたのは? あ、ら、⬛︎、』
あ、
ら、
いつの間にか姿を成していたコインの化物が、そうつぶやく。校内放送のどもった不吉な音声に従い、繰り返し赤目の怪物が狂いつぶやいている。
あ、
ら、
あ、
ら、
大人しくなったかと思えばコインの化物は右往左往し始める。何かを探しているようだ。じゃらじゃらと音を鳴らし、アレだけ執拗に追っていた茶髪の男には目もくれず、廊下横の教室に勝手に入っていった。
金閣寺は分からない。だがひとまず助かったのか。恐怖に駆られていた彼の身は、どっと安堵の息を吐いた。
何もかもが分からない、理解できない。不気味な校内放送も、ぶつくさと呪詛を唱えたコインの化物のことも。
金閣寺は、やがて、隣を振り返る。
「一体なんな……!?」
しかし、彼の振り向いた左には藤乃春の姿は見えなかった。
右往左往、前後ろ、廊下の奥まで探しても藤乃の姿が見当たらない──どこにも。
『びン…ポポ…ババ…ぼぼ……ザー……モウイイカイ、モウイイカイ、お隠れになられたのは? あ、ら、⬛︎────』
知らない声、聞き取りづらい不快な声、不気味な校内放送は、謎のことばを繰り返す。
独り置き去りにされた金閣寺歩を、底知れない恐怖と不安が、またじわりじわりと包み込んでいった────。