第19話 出待ち
休日にひとり隣の県までマルーン色の電車に乗り出かける。その人の声を小噺ひとつを聞くために足繁く通う劇場がある。
【ニシナナのしゃべくりお笑いLIVE大阪公演〝ぜんまいじかけのかいぶつ〟】
そう題された異彩を放つピン芸人主催のライブ後で、出待ちをする瞬間は極度に緊張する。
お笑い好きの女子高生、阿部加奈は楽屋前の廊下で突っ立ちその人が出てくるのを待っていた。
サインを貰うためだ。昨今、劇場により芸人たちへの出待ち行為なるものは禁止をされている所も多い。だが、お笑いライブのプレミアムチケットを取れたものだけが、特別にその芸人の出待ちをする権利を貰えるという珍しい仕組みがあるのだ。その整理された豪華な出待ちの権利を争い巡りファンへの売り物になるほどに、男ピン芸人〝ニシナナ〟は今や、若い世代を中心に熱烈な人気を誇っているという。この出待ち権利もそんな人気沸騰中の多忙な彼が考案したアイデアなのだ。
すると、壇上でしていたスーツ姿から派手なピンクのTシャツに着替え楽屋から出てきた20代後半の若い男芸人。廊下の壁沿いで待っていたハンチング帽を被った私服姿の女子高生は、さっそく通りかかった男芸人にチケットを見せて、次に用意していた新品のサインペンと真っ白な色紙を渡し、そこにサインをお願いした。男芸人も快く承り、小慣れたようにファンサービスを開始した。
「おぉ、もしかしてじぶんハンチンググリーンの? たまに来てくれてんな、ははは」
大好きな芸人が目の前にいる、それも、近くでふたりきり。こんな機会、こんな距離感で会えることは滅多にない。
年齢や出身校、名前を聞きだす芸人のかるい話に女子高生は失礼のない受け答えしながらも、色紙の端っこに〝アベカナ〟と自分の名前が書き切られる前に、思い切ってとある話を切り出した。
「あの、わたし、ニシナナさんみたいな芸人になりたくて。それで養成所に入るかどうか、今ちょうど迷ってて」
「俺みたいな? ならんならん! ならん方がええて! こんなかわいいこが芸人! ならんならんわー! 目指すにしても俺ぇ?? なんで、なんでなんそれ??」
緊張の最中、堰を切ったよう打ち明けた女子高生の決意も、男芸人はオーバーリアクションで驚いたように目をひん剥き、否定した。
だが笑いながら否定するニシナナは同時に、その芸人のように彼女がなりたい理由に興味を示した。
ニシナナはサインを書く手を止め、前のめりに目の前に立つ女子高生ファンの顔を覗き込んだ。
「え? あはは、それは、ニシナナさんが一番好きな芸人なので」
「え、どこがどこが?? 自分、ちょっと──いうてみ?」
こっそりと片耳を貸すジェスチャーをしたニシナナに、女子高生はニシナナという芸人が好きな理由、また好きになった理由の考えうる限りを、貸された男の耳へ口元を近づけ告げていった。
「ながいながい! お笑い博士かいな! いやーーはずいはずい、そんな分析されることってあるぅ?? バレるバレる、バレてまぅーーーー、〝ますますニシナナがおもしろいのが!〟 いやー、いい、いいねいいね。君いいね」
ニシナナは耳元で囁くを通り越した、阿部加奈の長ったらしい〝ニシナナという芸人への分析結果〟に、ツッコミを入れながら笑った。
熱意が届いたのか、阿部加奈もニシナナのツッコミ様に笑っていた。
「で、自分。ネタは?」
「へ?」
不意にそんなことを問いだした男芸人。問われた突然のことに、阿部加奈は固まってしまった。
笑みを浮かべていた先ほどのツッコミとは違うそんな真顔の表情で、男芸人は彼女の固まった顔から目を逸らさない。
「見せてみ言うてんねん。良かったらパクってやるで」
「え、あの……」
「冗談や冗談! サービスサービス診てあげるってわからんか? それとも自分からっぽ族か? 裸芸人でも目指してんのか? 意外性あってもその賢そうな顔でさっむいギャグとかやりたがらんやろ。それともまさかろくな装備もなしに、かいぶつたちの闊歩するこの界隈にえいえいおーいうて突っ込む気なんか? 自分、それと一緒やで? 芸人なるんなら今の時期、武器や防具になるなんかないと、もうきついよ? 俺は自分ときぐらいの高校入り立てで、あっかいタコイカ学習帳にネタずらーーっびっしり、それはもうこれで義務教育終えてまうんかってほどの勢いで書いてたで。んなわけあるかってな! でもあるやろ一個ぐらい? 他人様に見せれるようなもん────」
ぎろりと笑い睨む。その男芸人の眼光は鋭く、嫌らしい。しかし、まくしたてるその男芸人の弁は、ひどく正論味を帯びてるようにもファンである彼女の耳には聞こえた。
ニシナナは目を離し、己の右腕につけていた金の腕時計をちらりとわざとらしく覗いた。
「あっ……あります……!」
憧れの芸人が自分のネタを見てくれるのいうのならば────込み上げてきた恥じらいや躊躇は、要らなかった。
阿部加奈は持ち歩いていたネタ帳を一冊、ポーチから取り出して、彼へと手渡した。
芸人は受け取ったそれをめくり、しだい表情を笑わせながら読み込む。
阿部加奈はずっと彼の表情に注目し、彼が浮かべる頬や顎、眉間に寄せた皺の一つ一つまでもを、緊張の面持ちで見つめていた。
するとニシナナはもう読み終えてしまったのか。半分にも満たない途中のページから最後のページまでを、ざっと流し扇ぐように、ネタ帳を閉じた。
「これだけ?」
「え?」
笑いながらも冷たく睨むそんな視線を女子高生にその男芸人は向けていた。しおり代わりの紺色の紐を指に摘みぶらさげて、彼女のネタ帳が宙ぶらりんに開きそこに浮かんでいる。
これだけと言われても、それが阿部加奈の書き溜めた一番質のいいネタ帳だった。その笑い催促する男芸人の手のひらの上に差し出すものなど──。
阿部加奈はニシナナに手持ちのスマホをそっと、差し出していた。
それはいつかの〝こっくりさん〟をしたときの映像など。教室でいつもの六人の学生たちが昼時に楽しそうに騒いでいる光景だった。
「これええやん、さっきの小難いお経よりなんぼか味するわー」
「あはは、はい!」
ネタ帳を見せた時よりも好感触のようでニシナナは笑った。阿部加奈も彼の反応に合わせるように笑った。
彼女が習慣のようにスマホに撮り貯めていたあの1-D教室の友達どうしのやり取りが、プロの芸人を微笑ませるほどに役に立ったのだ。
「──この男の子のツッコミ」
「え」
聞き間違えたわけではない。ただただ男芸人の発した思いもよらぬ一言に、彼女は唖然とした。
「気だるい感じがセンスよぉあるわ。ちょとまて、これ俺の真似してへん? ははは、そないやかましないわなって。なんつぅか、今時珍しい漬物みたいな子やね」
「つ、つけもの?」
「わかるやろ。とりあえずツッコんでるけどガツガツ感ないこの感じ、この彼の謙遜の賜物を。この界隈おると腹から声出して笑わそう笑わそうって濃い味付けのヤカラの対応ばっかで胸焼けするから、はー、なるほどホームビデオ感覚──日常の延長のトーンっていうの、こういうの新鮮でええよな?」
憧れの存在に褒められていたのは、自分ではなかった。彼女の視点から撮った映像にしばしば映る、茶髪の彼だった。
「あ、せや、なら。チケットあげるから今度の休日のライブ、その子も呼んでき」
「え? は、はい?」
男芸人が自身の財布から取り出した突然の提案に、彼女はそのチケットを受け取ったまま何も気の利いた言葉を返せなかった。
そんなファンの女の今した表情を見抜いたのか、プロ芸人のニシナナは、彼女の細い肩に手を置き、言葉をつづけた。
「まぁそんなカカオ90パーセントみたいなカオせんで聞きや。本気でそれ一本でおまんま食える芸人なりたいなら、手っ取り早い方法は①有能な相方探す。てか①やなくて、①から⑩! これに尽きる。お笑いは相方探しのコミュニケーションからや、だがぁ! 相方探し……これってなんもゼロからなんも知らん同士がお見合いする必要なんてないねん? だから、兄弟とか地元の同級生先輩後輩とコンビ組むなんて芸人には多いねんで、知ってるやろ誰もが知るあの大御所もそうやな? だがぁ! 言ったらそいつら……全員とんでもないズルしてんねん」
「とんでもない……ズル?」
「だって考えてみぃや。隣の席同士や一つ屋根の下のだらぁーー鼻垂らしてた兄弟が、どっちもおもろいなんて確率的に滅多にありえんやろ? てことは! どっちかは、へぼの鼻毛の紙屑でも、片方がごっつ有能なら、これってなんと! ……芸人として食えてけんねん!?」
「な、なるほど……」
「まぁ、そない運のいい近道あったらぁ! ……俺やったら即、利用する。だってそいつの人生とか知らへんやろ。今そいつの持ってる抱いてる夢とか関係あらへん、本気で芸人目指してたらかけらほども興味あるわけないねん。せや、じぶんかわいいからさ、色仕掛けでもスキンシップでもなんでも駆使してやって、まずは有能そうな匂いのする相方ガチャまわしまくる。コンビ組んでダメやったらダメやったでええやろ。失せて蹴飛ばして次いけ次! 嫌われ嫌われ蹴飛ばし蹴飛ばされて! ──結果、どこぞの誰かはこうして寂しく一匹、ピン芸人やってますけれど!」
「たしか、【アシュラマシンガンズ】と【タペストリー】と【しながわにしな】──」
「おいッ、ぜんぶ言わんでええねん! はずいはずい! そんな昔のコンビ名よぉ知ってたなじぶん! 異例のスピード離婚言われてんやで、んなもん、恥ずかしい」
「ファン、なんで。あはは……」
「ははは。そんな濃いファンもてるまで芸人ちゅう枠でながらえさせてもらえて幸せなもんやな。とまぁそんな感じに、ところで自分、芸人様にタダでしゃべらせ過ぎちゃうか? チガウチガウ勝手にこの口がッ──しゃべったんやってな。ははは、じゃあね旧ハンチンググリーンの、えー……アベカナちゃん。今日はくだらんおべっかやなく、久々に青春のおすそわけってやつ貰えて気ぃええわ、またきてなー。今度はその茶髪の漬物くんつれてな」
喋りつづけ、言いたい事をまくしたてた芸人は、サインした色紙をファンの彼女に預けて楽屋前の廊下を手を振り去った。
彼女の左肩に置かれていた男芸人の右手。その重さとそのぬくもりが消えずにまだ残っている。
かけていた眼鏡のレンズ越しに見つめるサイン色紙の端っこには、カタカナでちいさく【アベカナ】と書かれている。そんな誰も知らない自分の名前の大きさと、尊敬する誰もが知る男芸人のサイン字の堂々とした大きさがどこか、今の自分のちっぽけさと立ち位置を表しているように、彼女は思えてしまった。
印象的な黒い癖毛が揺れている、個性的なピンクの色が遠ざかる、人気芸人、ニシナナのその背は振り返らない。
阿部加奈は、もどかしく思いながらも独り、今想像する何かに立ち止まり、頷いていた。
貰って嬉しいとは思えなかった、そんな色紙を背負うバックへと仕舞う。
黄金に輝いてもみえたその薄いチケットを軽く握りしめて────ファンの女子高生は、楽屋前の廊下を後にした。
休日の駅前の噴水広場はとても賑やかだ。
陽気な昼の日差しに焼かれ、下からアトランダムに噴射する水飛沫を追いかけ衣服を濡らしはしゃぐ子どもたち。帰りの服はあるのだろうか。
新聞紙をブラインド代わりに顔に被り、ベンチで眠るサラリーマン。その夢に、良いニュースを流してあげたい。
おおきな噴水前で突っ立つ私服姿の茶髪の男は、辺りに忙しく目を配りかんたんな感想をつけながらも、本日のメインとなるものの姿はそこにはなく──。
「ちょっと遅いな」
「ちょっと遅い」
「────ん?」
スマホに表示された時刻をおもむろに見て、吐露した言葉がこだました。木々のように並ぶ向こうのビル群に反響したのだろうか。いや、今、声の聞こえたお隣に茶髪の男はゆっくりと顔を向けた。
水色ストライプのワンピース。その幾本もある白い溝を下にたどり、緑のスニーカーのつま先に到達し、またその澄んだ川の流れのような色合いの上を目でたどる。
そこには彼の思ったレンズ越しの瞳はなく、代わりにビー玉のような目をした女がいる。
そこには手入れされた馬の尾のように後ろにきっちり縛った髪はなく、波打っている──豊かな黒の広がりがある。
今、顔を見合わせたそれはどこか金閣寺歩、彼の知るクラスメイト、阿部加奈なのかもしれないが、確証は持てない。裸眼姿の彼女など、彼は知らない。いつも彼と彼女はレンズを一枚隔てた距離にあった。
理知的というよりは解放的、黒縁の眼鏡と臙脂色の衣、そんな重しが取っ払われたような水色ストライプの女がそこにいた。
「ごめん、待った?」
「いや……ぜんぜん」
お互いの面を長々と見合わせ────やっと口を開き奏でられたそのメロドラマのようなセリフにも、ツッコめはしない。
スマホでやり取りしながら待ちわびていた人とは、どこか瞭然に違った。
顔肌もいつもより明るく見えてしまう。噴水の音が一瞬止まって聞こえてしまうほどの──
そこにいたのは、彼の見違えた水色ストライプを纏う裸眼の彼女だった。
学校で見るあの優等生の阿部加奈とは違うのかもしれない。まだ阿部加奈じゃないのかもしれない。阿部加奈の姉か、阿部加奈の妹か、マナカナか、それとも──。
何を聞くか。彼女もどこか期待し待っているような表情と仕草だ。
「髪切った?」ではないが、金閣寺は今思ったまま見たままのことを聞くように口を開いた。
「コンタクトしたんだな」
「あ、これは、ためしに。そんなに──へん?」
「いや、──ぜんぜん」
「ふふっ」
茶髪の彼が壊れたラジオのように呟くさっき聞いたことのあるような台詞に、彼女はおもわず微笑んだ。
待ち合わせの時刻を15分すぎ出会った、お笑い好きの彼女とのおしゃべりは、そんな他愛もない会話から始まった。
「って、なんでお前も探してんだよ! わかれ! 俺ぐらい! なんの15分だ!」
「とてもおしゃれだったから、その15分」
「イヤミか。逆だ逆、ウォーリーより探せるヤツ!」
「ウォーリーよりとけこんでた」
「もういっそ地味って言え……」
「ふふっ。ツッコミが5分遅いんじゃない」
「はは、それはたしかに、すまん」
阿部加奈もわざと金閣寺の隣で誰かを待つ女Aとなって探したふりをしていたらしい。変装じみたおしゃれな格好をしていたのも、そのコントじみたことをしたかったからかもしれないと、金閣寺は少し納得した。
ツッコミが遅いとツッコまれてしまったが、金閣寺自身は本当に探しても彼女を見つけられなかったのだ。あの吐露した一言も本音に近いものであった。それほどに今の彼女は──
「アレ?」
「どしたの? 早く行かないと前説はじまっちゃうよ。あ、電車の切符は二人分買ってあるから、大丈夫」
「お、おう? さんきゅー」
緑のハンチング帽を被り、黒縁のレンズが先を歩き振り返った。つま先の緑のスニーカーとその帽子はペアであるが、水色ストライプのワンピースはどこかチグハグに浮いてしまったように見えた。
本当にあのショートコントじみたもののためだけに、彼女はそんなにおしゃれに着飾っていたのだろうか。
はたして、どちらが変装であったのか──
金閣寺歩には、分からない。
小走りで阿部加奈に追いついた彼は、彼女から東行きの切符を一枚受け取った。
子どもたちのはしゃぎまわる楽しげな噴水の音が、二人の耳に遠のいていった。




