第17話 fall down
黒い風船に手を伸ばした──それは彼の見せたやさしさか甘さか、選んだ勇気か無謀か、左の指先がズキズキと警鐘を鳴らす死と隣り合わせにある好奇心か。それとも、彼が人とはちがう恐怖を知り、人とはちがう恐怖を知らぬがゆえの過ちか。
円形の木床、その見張り台から彼の両足が浮き上がる。苦しむ人影が浮かんでいる。その影が湊天の苦しみを肩代わりできた結末というのなら、それは大きな間違いだった。
「ぅがッ──!?」
彼が手が伸ばすように、風船は千切れていた紐を伸ばした。その細い透明の紐が、彼の首元に素速く蛇のように巻き付いた。
風船を掴もうと伸ばしていた彼の手は、今両手とも突然彼の首を絞めあげた紐を必死で剥がそうとしている。
どれだけ彼が必死に下へ下へと体重をかけても、それ以上の力で吊り上げられていく。何度も地に着いたり、離れたり、を繰り返していたスニーカーの爪先が、ついに、完全に離れた。
二足の足をあちこちに打ち付け騒いでいた見張り台の木床は、弱々しく、微かに軋む音を立てた──。
最後に立てたその微かな足音を置き去りに、浮かび上がっていく──。
まるで気球のように大きく膨らんだ黒い風船が、人の形をした重しを、上へ上へと、悠然とはこび浮かび上がっていく。
彼の首に絡みついた紐は、とけない。何周何重にも巻き付いて、喉仏が壊れるほどにきつく押さえつけ縛る。彼のする息さえ封じ、詰まる苦しみの音色を呻めかせ夕空に奏でさせる。
巨大風船にくくられた人の身は、どんどんと上昇していく。ありえない力でもってかれる。海賊船遊具の帆の網に彼は掴まるも、その網に絡ませた指先は引き剥がされ、スニーカーの底では浮かぶ己の身をそこに繋ぎ止められず。また、上へ上へと際限のない風船のチカラで引っ張られてしまう。
眼下、砂地にたたずむ木造の海賊船が彼の視界にみるみると小さくなっていく。紐に絡められた首がなおも絞まる。頭がぼやける視界が霞む。肝を冷やす恐怖、浮遊感が彼を吊り下げ、同時に首元は圧迫感を増しきつい苦しみを増幅させる。
まるで怨念めいている。ただの風船ではない意思を持つナニかに首を絞められている。
金閣寺歩が必死に登り着いた海賊船の見張り台から、目一杯、手を伸ばした先に待ち受けていた結末は──。
今、両手で振り解こうとするも複雑に絡まり解けない。そんな彼の息を酷く詰まらせるモノ。ミエナイ透明の紐の首輪に繋がれた、奇怪な死へと誘うムゲンの浮遊感だった。
黒い風船に弄ばれ、希望ではなく虚空を掴んだ彼の手は、死へと至らしめる首元の輪を、剥がそうとなおも必死にもがいている。着く地のない足をバタつかせる滑稽なダンスを披露する人間に対して、悠々とまるで笑いを堪えるように膨らみ浮かぶ黒い風船がある。
たった一つの意地悪な黒い風船は、紐にくくりつけ吊り下げた、その優しくも哀れな男の呻めき声を聞きながら、怨念を増し膨らんだ。
怨念を増し引っ張った。
怨念を増し膨らみ微笑んだ。
怨念を増し吊り下げて、涎を垂らし微笑ませた。
夕空にたなびく雲はもうそう遠くないゴールテープにみえる。
脱ぎかけたスニーカーの足音が、ぽつりぽつりと、一足、二足、さようならのリズムをオチて打つ。
意地悪な黒い風船は紅く頬を染めてゆく。天獄を目指して、ぷかぷかと上昇し漂いつづけていく────。
息もできない。汚くてみっともない涎が口端からしたたり、滑稽に上向く顎の先まで伝う。
苦しい、苦しい。ただ苦しい。
どうしてこんな目にあわなければならないのか。
心の奥に次々と芽生えように、悪しき怨念は募る。絞めれば絞め上げるほど、絞まれば絞まるほど、心にへばりついていた澱んだ感情が呻めき声とともに絞り上げられていく。
まるで吊り下げられた善人の化けの皮が剥がされてゆくようだ。ほら、自由を失い首にミエナイ輪をつけられた彼の見せずにいた本性がいま、醜く形相を変え笑っているだろう。
黒い風船が際限なく膨らんでいるのがその証拠だ。所詮彼の選び取った行動とは、本心から願うものではなく、その程度の軽はずみなもの。だが、それが至って普通の人間なのだ。一時の衝動に支配された感情とはこうも脆くある。
釣り下げられた善に飛びついては、後先を考えない。そんな偽善を好み生業とする人間が、ふと、己の身を逆に吊り下げられてしまった時、おもしろい反応を見ることができる。
彼が助けたいと願い、手を差し伸べていたはずの弱き他者へと、簡単にそれとは違う正反対の感情を抱いてしまうのだ。
何かの拍子に自分が弱者の立場になった時、それも自分の番になり誰も助けてくれなかった時、弱者へとかけた一匙の彼のやさしさが、強力な恨みへと転じてしまう。
黒い風船はそんな予定調和の人間の習性に、満足気な笑みを浮かべ、膨らんでいる。
ぷかぷかと浮かぶ風船に吊り上げられた人間も、やっと本当の自分を見つけることができたことだろう。
吊り上げられたやさしさは恨みへと変わる。吊り上げられたその面は醜く変貌する。
必死に必死にもがき、やがて何もかも諦めて、怨みを募らせる。
息詰まる苦しみすらも通り越して、ムゲンの浮遊感に表情が気持ちよく緩む。目尻がとろんとさがってゆく。
ほら、彼も天へ早くのぼりつきたいようだ。首に巻き付いた透明の紐をもう外そうとはしない。紐を手繰り寄せて、その掴んだ手が上へ上へと、ゆっくりと向かっている。
だが、そんなに慌てることはない。吊り下げられたその醜い肉体を放棄し、彼の中に眠るもう一つの偉大な魂が、黒い風船に吊り下げられて深き眠りから目を覚ますのだ。
それでも、彼、金閣寺歩はもう待つことができない。虚ろな目で黒い塊を見据えながら、天から滴る透明の紐を手繰り寄せていく。
ただただ彼は、上を目指した。もうその身を地を振り返らない、足枷のような靴なんか要らない脱ぎ捨てた。たとえ濡れた靴下の足底が地に着かなくて不安でも、空の階段を一歩一歩、一手一手、伝いのぼっていくことを選んだ。
そう、一刻も早く、
〝悠然と浮かぶヤツの臍の穴に、この指先を突き刺さなければ気が済まない〟
黒い風船の目的が無知で無謀な人の怨恨、怨念を膨らませていくことでも。
彼の奥底に根付き眠るものは、そんなぽっと出の負の感情だけでは塗り替えることはできない。
善や偽善を自覚はしない、それは彼が覚悟するものだ。
遠のく地を振り返らない。空へ手を伸ばしつづける。上へ上へと、どれだけ息が苦しくても、まだ弱々しくも生々しいその呼吸は死んではいない。
金閣寺は絆創膏を剥がしたその左指を、目一杯伸ばし、目の前視界に映る黒い壁の中心、そのシワついた巨大風船の臍のナカへと、突き刺した。
彼が怨みのベクトルを向けるとするならば、友人の湊天でも間抜けな己でもない、自分と彼女を苦しめるぶくぶくと黒く肥えたその怪異、その怨念、ただ一つ。
黒い風船は膨らんだ
出臍をちょんとつつかれて
荒ぶる風を注がれて
燕のように宙返り、踊り狂って、喜んだ
腹が捻れる、それほどに、今日一番のこそばゆい風に流されて
ぷくぷくぷくぷく膨らんだ、
ぶくぶくぶくぶく膨らんだ、
とても愉快でとても怨嗟で、くすくすくす息を吹き出しながら、ソラ高く────
踊り狂っていた風船は、黒い表面にはしった亀裂から忙しく息をする。
肥えきっていたその身を萎ませながら、やがて急降下し、無力に宙に浮かぶ人間の目の前で、必死におどけ〝破裂〟した。
狂気の舞とスピードで降下し、近くで破裂した風船の音が耳をつんざく。
心臓をまるでシンバルに挟み打たれたように、金閣寺は全身で驚いた。
透明の紐輪は既に千切れていた。彼を宙に繋ぎ止めるモノは消え、彼は自由を得た。
だがそれは、とても苦しい自由だ。身の一つ、指の一本も動かせないほどの。
再び浮き上がる術は彼にはなく、流れる風の音もイカれた両耳には何も聞こえない。臍を小突いたあの左の指先に至っては、完全にいけない方向に捻れている気がする。
これが、迂闊にも怪異に手を伸ばした末の結末だと言うのならば、あながち彼にとって悪くはない。あの黒い風船との化かし合いに勝ったというのならば、彼がやってきたことが、道化でも偽善でも必死でもなんでも、一つ報われたものだ。
ただ一つ気がかりなのが、彼女の胸の膿んだあの苦しみを取り払えたかどうか。しかし、それは望みすぎだ。そのエピローグを見ること知ることは許されない、そんな気がした。
(0.3048……これって……高度……ナンふぃーと……)
そんな冗談じみた算段をさいごのさいごまで呟きながら、地を背に、穴あきの雲を表に、赤い空を降りてゆく。
背に当たる風がずっと冷たい。背中を押してくれているのは気のせいか。
(もう……どうにでも……)
後ろに目をやる気力も体力ももうない。
彼はくたびれきったその壊れかけの身を天と地に捧げるように、ただただ風に身を任せ、ソラをオチてゆく。
心地よく激しい風に打たれて、赤い光が眠気を誘う重い瞼のおりゆくままに、目を静かに閉じようとした、その時────
「──うがっ!?」
ナニかに腰を打った。痛い。
「──ゥっ……ッ……」
ナニかに足が絡まった。動けない。
気づけばそこは、海賊船の上。砂地に沈むように佇むマストの折れた壊れかけの海賊船の上。
きっと思ったよりも浅いところで死のうと勘違いしていた。海賊船のマスト下に敷かれた安全ネットに、間抜けに足から絡まり捕まった男の姿がある。
死にそうな速い呼吸の音と、船の軋む音だけが、男の耳に正常に伝った。
リアルともファンタジーとも、名付けれはしない、そんなあやふやな場所で金閣寺歩は、身一つ動かさずにいた。
仰向けに寝転がる彼に紙吹雪が舞う。赤空に鳥が飛んでいると、勘違いしていたようだ。いつかの降るコインのときのような祝福か、悪戯か。ひょっとするとバルーンに仕込まれていたモノかもしれない。
どちらにせよ、もうどうにも動けない。金閣寺歩はただただ、浅く沈むネットの上で、大の字になったその身に紙吹雪を浴びつづけた。
何が起ころうと好きにすればいい。幸運か不幸か助かったこの身も、もうほとんど動けやしないのだから。
上空からパラパラとおちてきた謎の紙吹雪が鼻先や頬にひっついた、鬱陶しい。
少し手を動かす、それぐらいはできる。金閣寺は顔についたこそばゆい感覚を、拭っていく。
顔にとまっていた痒みはとれた。しかし、なにか、どこか、まだ痒い。彼はおもむろに、己の右手を覗いた。手汗にぴたりと張り付いたその小さな紙切れには、
気⬛︎り⬛︎女
殺⬛︎
ク⬛︎ルぶ⬛︎て
⬛︎軽
ビ⬛︎⬛︎⬛︎不⬛︎⬛︎⬛︎ゃ⬛︎
嘘⬛︎⬛︎
ビッ⬛︎
⬛︎わってる
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎に⬛︎んな
下⬛︎よぶな⬛︎ケ
死⬛︎
天⬛︎へ逝っ⬛︎ゃ⬛︎
それを見た瞬間なにがなんだか理解できなかった。途切れ途切れちりぢりに、言葉に満たないひん曲がった文字を並べ、その手に集う感覚が虫に集られるようでとても不快だった。
震える手のひらの乗せた小さな白い断片が、やがて綿雪のように溶けて朽ちてゆく。
整いかけていた呼吸が荒くなる、思考が纏まらない。落ちてきた紙吹雪は喝采などではなかった。最後に浴びたとても不快でとても解けない感覚に、頭の中が酔うように纏まらない。
これ以上何かを考える気力も保たない。
縮こまり硬くなっていた両肩を真横に開き、手のひらを開く。
今日という厄日はもう、一度セーブして、何もかもを忘れたい。仰向けにチカラなく寝転ぶ場所を、寝床のハンモックがわりにしながら、
金閣寺歩は、もう、その両目を閉じ、力尽きた────。




