第15話 気にしない 気になって
この家の家主、金閣寺歩という人間について。
湊天はこの家に初めてお邪魔して以来、ずっと気になっていたことを今遠慮なく、彼の面に向かい問うていた。
「カクジってもしかして、ひとりっこ革命?」
「どんな革命だよ。あぁ、そうだが」
彼に兄弟はいない。ほぼ、一人暮らしの状態でこの家で生活をしている。
「カクジってもしかして、狼っこ?」
「育てられた覚えはねぇよ。あぁ、母親は仕事熱心な人間で、父親は狼かもしんねぇ」
彼は分かりそうで分からないことを、たぶんユーモアをまじえて言っている。
「……ポエム?」
「ちげぇ! 察しろ、なんとなく! ──てか服着て来い! アッチでな!」
金閣寺は目の前で、それもあられもない格好で質問責めする湊天を、今強く指差した洗面所の方へと即刻向かわせた。
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風呂場前の洗面所を仕切る戸がスライドし開いた。
「っておまえそれ何着てんだ?」
堂々と現れた彼女は、制服姿ではなく何故か深い緑色のトレーナーをその身に着ていたが、少しサイズが合っていないようだ。華奢な彼女の体に纏う、どこか着こなせていないだぼついた緑のトレーナーが、学校では見ることのないその女子のギャップ感を演じていた。
しかし金閣寺はその深緑のトレーナーにどこか見覚えがあるようで。
「ん? わかんない」
「わかんないじゃねぇよ。それ、おいまさか……」
「あ、なんかね、ふしぎな穴のおくのほうにあった」
「洗濯機なんだよそれ! もう当たり前でドラム式の! ふしぎな穴のおくのほうじゃねぇ! どんなポエムだ原始人!」
「あぁ、はは、そこそこ! そこにあったヤツ」
「そこそこじゃねぇよ。それ洗うつもりのヤツで、おま……(三日は前の……)」
「──え? 着心地は? うーん、そこそこ」
「だまれ!」
優雅に一回転して、手の半分隠れたその緑の長袖で口元を隠し彼女は笑う。他人の家の私物を勝手に借りたい放題、そしてやりたい放題のこの女に、金閣寺は小気味よく一喝した。
「ふぅーん、カクジのこと全然知らないことだらけなんだね」
それはこっちの台詞だと返そうとしたがやめた。そして今も彼女が平然と着用する緑のトレーナーを返してもらうことも、家主である彼は一時、諦めることにした。
「そりゃ高校からの付き合いだから、そんなもんだろ。知ってたら逆に怖いぞ引くぞ」
「あ、じゃあさ、ナカガワのことは逆にばっちり?」
「あぁ? あぁー、いや、そんなでもねぇ。ただ小中と同じ学校の腐れ縁ってだけで。そのままズルズル友達やってるってかんじだな?」
いきなり中川透のことを湊に問われたが、金閣寺はありのままに答えた。金閣寺が、穏林高校のいつもの七人グループで一番長い付き合いであるのは中川透。だが何も中川透について、特段詳しく知っているわけでもないのだ。
「ふぅん。じゃあ、あんがい親友ってわけじゃないんだ」
「? だな。そう名乗りあったことはない。ただ付き合いが長いだけの友達ってだけだ」
「あ、悪友コンビ?」
「まぁ、どっちかっていうと? そっちだな、はは」
親友というよりは悪ノリのできる悪友。中川透のことを親しみを込めてそう言うのが適しているかもしれないと、金閣寺は湊の思いつき言った言葉に微笑った。
「じゃあさ、もっと知りたいとか思わないの?」
「は? べつに。これでつづいてるんだから、これでいいだろ。それにそういうの男同士じゃなんか気持ち悪いだろ、お互い、ははは」
湊は中川と金閣寺の関係性に興味を示したようだ。金閣寺も淡々と自分の考える中川透という男について、冗談めかしながら答えていった。
「ふうん。あ、じゃあさ、カクジってショートケーキの苺はどうする?」
話題がコロコロと変わるのには慣れている。湊天、彼女の気や興味は移ろいやすく、雑に雑言を投げかけてくることもしばしば。そういうのを〝無茶振り〟と呼ぶことを金閣寺歩は知っている。
「は? どうするってなんだよいきなり。苺じゃなくてお前がどうしたんだよ? いきなり?」
「あはは。おもしろ」
「別におもしろくねぇよ……。そりゃ、まぁ、なんつぅか? 苺は安いとすっぱいのあるだろ」
「うんうん」
「アレ、いや」
「あはは、シンプル! でも、わかるかも」
「ははは。だろ? だからさ、なんならなくてもいいな、上の苺は。俺は上の苺じゃなくてショートケーキを食べたいからな」
「ふぅん……そうなんだ。いいね、カクジって苺よりどっちかと言うと……あ、スポンジみたい!」
「まぁな! って誰がショートケーキのスポンジ生地だ!」
「底の方、底の方、あはは!」
「だまれ、ははは!」
彼はショートケーキの上に飾る苺を好まない、無くても気にしない。そういうタイプらしい。
脱線した、とりとめもない話で二人は笑い合った。
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笑ってばかりはいられない。金閣寺はなかなか帰らない湊天がこれ以上リビングのソファーの上でくつろぎ始める前に、とりあえず彼女を帰らせることにした。
時刻は午後7時を過ぎた。テレビを強制的に消し、いつもはサボりがちの掃除機をかけながら、珍客を玄関の外まで追いやった。
玄関の前で顰めっ面で手を振りながら、金閣寺は湊天が閉じゆくドア枠の視界から消え去るまで見送った。
最後まで友人と騒がしいやり取りをしながら、玄関のドアが今やっと閉じられた────。
金閣寺は意味もなく握っていた掃除機のホースを手放した。そしてすぐさま家の中を巡り、何かを探し始めた。
しかし部屋の隅から隅まで、上の角から角まで、目を配ったものの──
あの風船がない。
探せど、どこにも見当たらないのだ。
ドラム式の洗濯機の中に潜んでいるはずもない。屈みながら無機質な穴の中を覗いていた首を、元の高さに戻した。
自分だけが寝ぼけ見えていた幻影なのか、カラオケ屋で歌い疲れた後遺症なのか。
洗面所の鏡に映る自分の顔と睨めっこしても、飾った覚えのないあの黒い風船の謎は深まるばかり。
顎に手を当てても、彼には考える術がない。あのいきなり部屋に現れた奇妙な風船のことを彼は何も知らないから当然だ。
今日一日のことを振り返る。どこかに違和感というものを感じたとすれば────
金閣寺は、まさかと思い、リビングの方へと戻った。
そして仕切っていたカーテンを勢いよく開いた。当然そこには何もない。ただのマンション六階のベランダだ。
しかし彼が気にしたのは近くのそこではなかった。窓を開き、網戸を開き、素足のままベランダへと足を踏み入れる。
冷たい鉄色の手すりに手をかける。身を乗り出しながら、彼は彼女が帰る方角を探した。
赤い光と灰色の雲。午後7時のまだ明るげな夕闇に、一点の黒がぷかぷかと浮かんでいる。
漂うそれは、まばらな街灯に照らされた、スキップをする人影の元へと────────
穏林市の隣町、赤幕市にあるBAR【がしゃらば】に再び訪れたのは、いつもの野球帽をかぶっただけの変装をした金閣寺歩であった。
緑と紫のメインライトに和風な提灯が飾りぶら下がる店内の席につく。慣れたようにドリンクを注文し、もう顔見知りと言っていい白髪のマスター巻に怪談のサービスをしてもらうようお願いした。
「風船にまつわる怪談? それはまた自転車よりも一風変わった注文だな」
客の金閣寺が振ったテーマはいわゆる無茶振りとも言えるが、巻というこの男の怪奇生物や怪奇現象に対する知見は深く、おいそれと〝ノー〟とは言わない不思議な信頼感があった。
「たとえばそうだな? よくあるのは風船にメッセージをくくりつけて飛ばす行為だ。ある意味ではそれは、現代版の式神になるともいえるな」
「式神ってたしか、陰陽師とかの?」
「あぁ、よく知っていたな。その認識でいい。身近にある紙切れや木に鬼神を宿す、それが陰陽道のいわゆる式神だ。まぁ鬼神と言うと聞こえは恐ろしいが、人間を助ける小間使いのようなものでな。物に宿るという性質自体は前に話した狐火にも似ているな。だが、修行を重ねた狐どもやスペシャリストの陰陽師の連中でもなく、ただの人間が見えない神を物におろして宿すという傲慢な行為、それは、時に制御の効かない思いもよらぬ結果をもたらすかもしれないな」
「それって……悪い感じの?」
「ふっ。たとえばこの街のお昼時にたくさんの風船を飛ばすパレードを催すとする。一つや二つまでならまだしも、このたくさんの風船一つ一つの制御は簡単にできると思うか」
「それは、その日の風しだい?」
「そうだ。風しだい。その風船が流れ落ちた先の環境を汚すかもしれない。落ちたものを鳥が餌と勘違いして啄んでしまったり。時に浮かぶ風船たちが空のヘリや飛行機の視界をさえぎったり」
「ということは……?」
「時と場所はよく考えて風船は飛ばしましょう。と、いうことになるな」
「……」
風船の話題からスタートし式神やパレードや環境問題にまで連想し発展する。金閣寺はマスターのいつもの遊び癖に付き合いながら、苦笑いを浮かべた。
「そうだな、他にも街を襲う風船という話もあるぞ」
「街を襲う? 風船が? どうやって?」
「くくりつけるのさ」
「なにを?」
「爆弾だ」
「爆弾??」
「まぁそれは、また怪談とは別の実際にあったと囁かれている物騒な話になるな。あ、俺の怪談はすべてが嘘ではないがな? ははは」
「はぁ……」
「深掘りするか?」
「いや……別腹なら遠慮しときます」
巻の話はただの怪談話だけにとどまらないようだ。しかし、その物騒な別話はまた今度にしてもらうよう金閣寺は断った。
「風船というものは風の気分次第でどこまでも飛ぶ。風船は人が作り出した科学の歴史的にも重要で役立つアイテムだが、人の手で作り出したこういったブツは風の気分だけではなく人の気分、そう〝怨念〟を乗せやすいものとも言えるだろう。そうそう、浮かぶ仕草もどこか幽霊に似ているな、見間違われる報告も──ほら、多いみたいだぞ」
巻はスマホで片手間にSNSを調べ、幽霊にみえる、あるいは、幽霊のように追いかけてくる風船の発見報告を金閣寺にも見せてあげた。
しかし金閣寺が引っかかったのは、そんなSNS上の冗談じみた書き込みの数々や、嘘めいた画像ではなかった。
「怨念……?」
巻の言ったその強い意味をもつ一言であった。
「ん、なにか引っかかるかい」
「いや、なんつぅか……。ソイツはそんな恨まれるヤツじゃないというか。確かにいらないことはよくするんだけど。たぶん嫌味はないというか、本当はからかって楽しんでるだけというか……」
金閣寺は突然打ち明けるように呟いた。怨念という言葉がとある友人の彼女には、どこか似合わないように思えたからだ。
「はは。詳しくは分からないが、人には表と裏がある。表の印象がたとえそうだとしても、その友人の裏を知ることはなかなかできないよ。君と俺のようにね」
巻は客である野球帽の彼が遠回しに話したいことを、察したようにそう返した。
「……。裏、あるんですか?」
誰に向けてそう言ったのか。金閣寺は影をつくっていた帽のツバを少し上げ、マスターの目を覗きながら答えた。
「気になるなら────覗いてみるかい?」
白髪頭がふいに、屈みカウンターの下に消えた。と、思えば白髪頭がひょっこりとまた顔を出し現れた。
「……いや、今は、なんか……気にしないんでいいです」
「はは、それが一番いい。人間と人間、気にしすぎない。お互いにな。──で、こっちの話なんだが、すこし気にしてもいいぞ?」
人の裏の顔など考えたことは金閣寺歩にはない。むしろ、裏があるとすれば彼自身、こうして夜分にこそこそ分からないことを嗅ぎ回っている自分の方なのである。
とても友人の裏など、探り求めれる立場などではない。
【しゃべれるバーテンダーのアルバイトさん募集中】と書かれた紙切れを片手につまみ、見せつけるマスターがいる。
怪しげな笑みを浮かべるその男の誘いに乗るかどうか──
すこし悩んだ金閣寺歩は、マスターの助言にしたがい、カウンターの席を立った。
彼女は恨まれるようなことはしていない。友達としての付き合いが長いわけではないが、誰かの恨みなど買わないタイプだろう。だが、彼女にふらふらと付きまとうあの風船が何なのかわからない。手を伸ばすと膨らみだし破裂しそうになったあの黒い風船は何を意味しているのか。もしかすると、それが割れるととんでもないことが起こるかもしれない。触らぬ神に祟りなしという言葉を聞いたことがある。アレが見知らぬ神や彼女の式神であってもなんでも、触らなければ何も起きない、そんな無害なオブジェクトなのかもしれない。
マスターの言うことを鵜呑みにし、あてにするわけではない。ただ、結論としては解けないこの問題は解かずにいるのがいいのだろう。こうして赤幕市まで来たのも何か安心するための材料が欲しかった、それだけのことなのかもしれない。あの怪談好きのバーのマスターは怪異について深い知見をもっている。自分もそのようなことをここ最近調べ始めてはいたが、きっと彼の持つ知識の足元にも及ばないだろう────。
『次は、おんばやし、おんばやし──』
電車に揺られながら、金閣寺歩はひとり、熟考していた。
電車が止まり右側のドアが開いたとき、入り込んでいた出口の見えない夢から醒めるよう、思考するのをやめた。
夜半、舞台上のスポットライトのように照らされた暗い駅のホームで、彼の左ポケットが震えた。
おもむろに取り出したスマホの画面を眺める。他愛もない返信をし、彼は用のなくなった帽を脱ぎ、駅の階段を下っていった。
後日──またアイツが家に来た。
マンション六階、褪せた青色のドアの前、見慣れた臙脂色の制服姿、クールに手を振り無邪気に笑う黒髪ショートの女子がいる。
玄関には、今脱いだばかりの一足のスニーカー。たった今、するりとドアの隙間から入り込んだローファーがその隣にならんだ。
苦い顔で迎え入れる茶髪の家主がいる。
ローテーブルにノートを置き、ペンを片手に男子高生は勉強に励む。夜遊びしたり、カラオケ屋で騒いだり、バッティングピッチャーを請け負ったり、学生は遊んでばかりとはいられないのだ。
テレビモニターに出力した映像が浮かぶ。暗い迷宮を頼りない松明を片手に彷徨いつづける勇者もまた遊びじゃないのだろう。
「やっぱりさぁちょっとだけ増えてる気がするんだよねぇ」
「見えないとこならいいんじゃねぇか。多少増えても」
「うーん、それはそう。──いんや、それもそうともいかず、みせることもあるかもじゃん?」
「はぁ……しらねぇ」
「ふふっ。ねぇねぇ、ところでカクジって、魔王とこの勇者どっちになりたい?」
「はぁ? 魔王とこの勇者? うーん。魔王」
「え? なんで? 即決するの?」
「魔王は城でぬくぬく待ってりゃいいが、この勇者は世界をどさ回りしながらどことも知らない道端でゲームオーバーばっかだろ。命が一つならぜってぇ魔王がこの勇者に負ける要素はねぇよ。──そこ、たしか左に宝箱」
「あはは、たしかに。へぇー、そうなんだ。──あ、ほんとだ! ナイスカクジ」
金閣寺は数学のノートに定規を取る。身勝手にふらつく勇者の行先を白紙にマッピングしていく。
身の入らない自分の勉強よりも、同じリビングで愉快な音を立て誘う彼女のゲームの方が気になってしまう。そして、彼女が腰掛ける小さなソファーの上に浮かぶ、あの黒い風船は、もっと気になる。
風船はただただ、しずかに天井の辺りを浮かんでいる。
(気にしすぎない。ほくろといっしょだ)
彼は心の中でそんなことを呟いていた。そして、ノートの上に置いていた手を離し、おもむろに自分の左指を見つめた。
その人差し指に巻き付く、絆創膏は剥がさない。
自分にもあるのだ。気にしすぎてはいけないことが、こんなにも近くに。
彼女にとっての黒い風船は、自分にとってのこの絆創膏。金閣寺はそうイコールづけて、それが妙にしっくりときたように思えた。
「あ、カクジ。金、ない」
「だからお前いちいち街着くたびに、全装備買おうとしてんじゃねぇよ」
「んー、ふるさと納税? ふふっ」
「三日もいねぇよ! この勇者が、ははは」
静かに浮かぶ風船も、指に貼り付く絆創膏も、行き当たりばったりのゲームをしている彼女も、シャーペンを意味もなく手に回す彼も、ありふれた日常────。
金閣寺歩は、天井をもう見上げない。
コントローラーを片手に振り返る湊。
金閣寺は、助言を求めるゲーム下手の彼女に、光るテレビのモニターを指差し笑った。
黒い風船はソファーの上に浮かび留まる。影を落とさず、ただただ、じっと────────
テレビを消して、マンション六階の家をともに出る。
街から街へと移ろい、のめり込んでいたポップで幻想的な勇者の旅は一時中断し。
時刻は午後6時45分、金閣寺歩は友人の湊天をマンション前の路地まで見送ることにした。
「魔王、クリアできなかったー」
「プレイ初日で倒されちゃ、魔王城にもクレームが届きそうだからな」
「じゃあまた今度! それまでは勇者カクジ、お金、貯めといて」
「なんだそれ、バイトでも嫌だな」
「ふふ。数学、またおしえてあげるから。それでウィンウィンってことで」
「うぃんうぃん、うーん……ま、考えてやらんでもない」
そうあやふやな約束をしながら、金閣寺は湊と別れた。
時々確認するように振り返る彼女に、また、うっとうしそうにも手を振り別れた。
黒い風船は、まるで勇者の後をついていく仲間のように、彼女の後ろをただよう。
街灯に照らされた人影が、夜道を曲がり、かくれ消えてゆく。
こういう日常もありなのかもしれない。そんなことを金閣寺は密かに心の中で思ってしまった。
結局、あの風船は割れやしない。ただ彼女の後ろに、近くにそっといたいだけなのかもしれない。そんな大人しい怪異であった。
静かな道の真ん中で一つ、金閣寺が安堵や何かが混じった息を吐いた。これ以上用もない。住むマンションの敷地内に引き返そうとした、そのとき────
後ろになにか、気配を感じた。
「なんだ?」
金閣寺が振り返ると、ちょうど電柱の影に隠れるように、半身に満たないほどの姿を見せる何かがいる。
薄闇にフードらしき何かを被り、容貌は遠目にはっきりとしない。そんな人型の判然としないシルエットをじっと金閣寺が見つめていると、電柱に身を潜めていたそれは、突然後ろへと逃げるように駆けだした。
「おいっ」
明らかにこちらを意識したような逃げ出し方だ。金閣寺は思わず反応し、突然逃げ出したヤツの後を追おうとした。
夜道を走るヤツと同じように左に辻を走り曲がったが、────いない。
そこは古い家々の並ぶ袋小路になっていたが、金閣寺が追いかけていた人っぽいシルエットはそこにはもういなかった。
「って、なに追いかけてんだおれ?」
無論、金閣寺は本気でそれを追っていたわけでもなかった。半分ほどの力で走り、素早く走り去ってゆくその怪しげなシルエットの行き着く後を、どうやら確認したかった、ただそれだけのことであった。
「気にしすぎない」赤幕市のBARがしゃらばに行き、マスターの言葉をもとに考えたそんな方針を今、彼は思いだした。
知らない家の前で止めた彼の足に、じわじわと徒労感が押し寄せる。
「帰るか」
こんなところに薄暗い中立っている自分の方が側から見れば怪しいものだ。そう思った金閣寺は、また、一つ息を吐いた。
「帰って勉強のつづきでもするか……いや待て? ひょっとしてこの場合、あの勇者でどさ回りした方が結果的には、勉強になるのか? ……ふぁあ。ねむっ」
金閣寺は帰ってゲームをするか勉強をするか迷った。実は彼は、ツッコミ役でありながらもあの七人グループの中で一番か二番目に勉強が苦手な生徒なのだ。
今度、湊にまた教えてもらったほうが効率がいいだろう、そう彼は悩んだ末に判断した。
行き止まりを回れ右で踵を返す。金閣寺はもう来ることもないであろう袋小路を歩き、自分のいえへとつづく元の道へと帰っていった。
足音がゆっくりと去ってゆく────。
呑気な足音が、完全に消えたとき────
誰ともしらない赤い車の影でじっと潜めていた息遣いは、明かりの下にゆっくりと姿を見せる。
そして、握っていた拳をゆっくりと解き、その人影は、どこともしらないその場を去っていった────。




