第1話 こっくりさんはやめなさい
「こっくりさんこっくりさんどうぞお入りください」一年D組、昼休みの教室。一つの机の周りに集った生徒たちは口を合わせてそう言う。そしてふとお互いの顔を見合わせては、たまらず笑い声が漏れてしまう。
プリントに書いた五十一音のひらがなの下方に、赤ペンで簡易な鳥居を描き、一枚の10円玉の上にみんなで人差し指を置く。低級の動物の霊などを呼び寄せ、コインなどを動かしお告げを聞く儀式、それが【こっくりさん】だ。
しかし突然「やめておいた方がいいわ」と、こっくりさんを始めようとしていた彼らのはしゃぐ様子を、後ろの席で見ていた一人の女子生徒が立ち上がり忠告する。
後ろの席にいた女子生徒は、今前の席に群がっている彼らのグループに属してはいない。そのグループに属する七人の生徒たちが静まり返ってしまったのは、そんな長い黒髪をした彼女の静かな佇まいと放った一言が、どこか真実味を帯びていたように聞こえたからだろう。
彼らは後ろの席に立つ長い黒髪の彼女のことをじっと注目しながら押し黙り、やがて、また──一人と一人と喋り始めた。
「へぇ、藤乃さん。オカルトっぽいしね」
沈黙を最初に破ったのは【湊天】。落ち着いたクールな印象の女子だが、冗談もさらりと言える人だ。最近ほくろが増えてきていることに秘かに悩んでいる。
「あはは、わかる。なんかオーラあるよね、こぅ……紫の!」
【山崎もより】湊とはある意味対照的であり、活発で明るく分かりやすい性格をした女子だ。名字はヤマサキだがあだ名はザッキー。
「それただの色気じゃね?」
【宗海斗】見目整った長い黒髪の女子のことを見ながら、ニヤりと笑う坊主頭。いかがわしいことに興味津々な様子をあまり隠そうとしないオープンな性格の男だ。野球部に所属し運動神経はグループの中で一番良いが、ここぞのチャンスに弱いリードオフマン。
「は? ちょっとエロ男子、普通にやめて」
【阿部加奈】が宗のことを注意する。彼女はグループの中でも頭がよく常識人寄りだが、実はお笑いには詳しい方だ。お忍びで芸人たちのお笑いライブに足を運ぶほどに熱心。
「はは。てか、そんなに興味あるなら混ざる藤乃さん? エロ男子が約二名ついてるけど」
軽く笑った湊天が長い黒髪の女子【藤乃春】のことを誘う。少し冗談と皮肉まじりにも聞こえる言い回しで。
「二人? 宗と、残りは……中川か」
「金閣寺」
「金閣寺くーん!」
「カクジ」
「きんきん」
「きんかくじ……さん」
「おい、なぜそうなる」
【中川透】に獲得票数で大差をつけたのは──
【金閣寺歩】文武これといって秀でた特長のない男だが、他人から面倒事や小ボケを雑投げされがちのようだ。しかし彼の小ボケの処理能力と野球のバント技術だけは、時に一目置かれることもあるんだとか。
「だって、金閣寺くーん! だもん」
「雑に投げてくれんなよ。本能で生きてんのか。納得できる論理を示せ論理を山崎」
金閣寺歩は納得していない。山崎もよりに論理はなく、ただの悪ノリと決めつけで「エロ男子」呼ばわりに巻き込まれるのは金閣寺にとって誠に心外である。
「確かにカクジには雑投げしたくなる。だいたいなんとかしてくれるしね。てか、あながちそれも本望?」
「本能と本望そうきたか……もう本題にもどっていいか湊?」
湊天がそよ風のようにさりげなく囁く小ボケを、生かすのも殺すのもこの男には朝飯前だ。
「はぁ……エロ担当大臣」
「ついた覚えはねぇ」
阿部加奈の嘆く小言にも、即座にその男は返す。そうせざるを得ない体質なのだ。
「腐れ縁で入れといた」
「投票してくれてんじゃねぇよ。って俺もお前に先に投票したはずだが? ……おかしいな?」
「そこにあるのが信頼の差だろ? うらやましいな金閣寺」
「じゃあ代われ、即刻、中川」
金閣寺歩と中川透はこのグループの中で一番長い付き合い同士である。高校一年生になっても腐れ縁で学校も一緒になったようだ。
「ま、こういうとき、やっぱつるむのは金閣寺だろ? 信頼、信頼、信頼と実績の金閣寺と、出塁率ナンバーワンの宗海斗だ」
「ここまでうれしくねぇ信頼のされ方は初めてだ。肩組むな肩、ってなんの実績だよ」
宗海斗は何かと金閣寺を自分の起こした厄介事に巻き込む。所属する野球部でも便利屋のバント要員として部員でない金閣寺のことをスカウトしてくるほどに、気に入っているようだ。
「あはは。てかトミミちゃんにも突っ込んであげてよ」
「ご、ごめんなさい……きんかくじさん」
【富宮麗華】グループの中で一番内気な彼女は、よく他人の行動や言動に流されてしまいがちな羊タイプだ。しかし金閣寺歩の彼女に対する評価はぶれず〝富宮はそんなこと言わない〟で固定されている。
「はぁ、〝富宮はそんなこと言わない〟。下手な傀儡子が後ろにいたな」
富宮の後ろで何かを吹き込んでいた山崎のことは把握している。金閣寺は冷静に対処した。
「くくくバレたか。ってなんかトミミにだけ甘くなーい?」
「甘くねぇよ。普通なんだよこれが。お前らが俺の息する普通を乱してんだ。毎日な」
「じゃあ、毎日感謝してもらわないとね」
「毎日よくやるものね」
「毎日はちょっとなァ?」
「そうめんなら毎日いけるぞ」
「そ、そうめんならわたしも……」
「きゃー、乱されるー!」
「もう、どうにでもなっとけ」
七人がまたガヤガヤと騒ぎ出した。さっき押し黙っていたことももう忘れたように、内輪ノリの騒ぎ声が一年D組の教室に響いていく。
「そうさせてもらうわ」
少し離れた後ろから聞こえてきた静かな声に、一瞬時が凍り付いたが、遅れて七人の生徒たちは理解した。
「なんだよ、藤乃さん俺のこっくりさんに混ざりたかったんだなぁ。俺の隣座る?」
一瞬、変な雰囲気になった。だが宗は笑い、藤乃のことを輪に誘うようなジェスチャーをする。
「ええ、ありがとう」
(本当に隣に座った……!?)
ゆっくりと歩み寄り、宗の誘った隣の空いた椅子に掛けた藤乃の行動に、金閣寺は思わず心の中で驚いた。彼の周りの六人も同じように驚いた様子だ。
(誘ったヤツが照れてどうするんだよ。このエロ担当大臣め)
宗がいま堂々と隣にかけた藤乃に対し、頭をかきながら少しその頬を染めている。そんな仕草・反応を見つけ、金閣寺が他に何かツッコミどころがないか目を光らせ訝しんでいると──
(そうだ俺は、やはりあの目が苦手だ。見透かされているような俺の後ろの席の、彼女の目が)
紫色の瞳の視線が、妖しく鋭く、ふと彼の目に突き刺さる。
とても真っ直ぐに、突き刺さり、息の根に絡み付くような──
金閣寺歩は、後ろ席の彼女のその紫の目がやはり苦手であった。
▼
▽
「この中で一番エロい人はだーーれ?」
「き」
「ん」
「か…」
「おい、だからなんでそうなる」
「きんか……財宝? この教室のどこかに?」
「お財布の中だろうよ」
「あった。えーっと……おそらくファミレスのポイントカードだろうけど、スタンプを全部集めると……あっ、ポテサラ一個無料」
「スタンプ12個の内、2個……。何故あきらめねぇ、そこまでよれよれのポイカを」
「ふぇ? あ……! きんか……くじ……さん」
「皆は言わずともと言っておく」
「きんかん」
「たしか、のど飴とか、塗る薬のやつか? みかんとの違いは確か……って今の誰が言った?」
仕込みのようなポイントカードネタを披露した阿部加奈でもない。山崎にまた言わされた奥手な富宮でもない。その声の主は──
小ボケの処理に明け暮れていた金閣寺が今、紫の瞳と目が合う。
皆の笑い声をBGMに、微笑みもしない藤乃春が椅子を並べたその輪の内に座っていた。
「ははは、藤乃さんさっそく金閣寺歩をご利用なされてる」
「俺はサービスじゃねぇ……」
意外な人物の意外性のある一言にどっと笑い声が噴き出た。すると中川が金閣寺のことをフルネーム呼びで茶化す。
金閣寺が歯切れ悪くそう中川に言い返すと、藤乃がまた淡々と話しかけてきた。
「じゃあ、サービスしてくれたの? ありがとう」
「──! どういたしまして……」
金閣寺は頭髪をかきながら苦笑する。だがさっき宗がしていた照れた仕草に期せずして似ていた事に気付き、途中でそれをやめた。
「藤乃さんノリいい?」
「それほどでも」
湊も藤乃春という新鮮なキャラクターに、興味が湧いてきたのか。湊がクールに問うと、藤乃もクールにお返事する。
「あはは藤乃っちおもしろ。じゃ──リセットリセット! もっかいやろー!」
笑う七人の輪に溶け込む八人目。
金閣寺歩だけは歯に何かが詰まったような心地であった。
500円玉の上にまた指を置いていく。八人で一つのコインに指を置くのは不可能だという判断で、500円玉を二枚使い四人のグループ同士で交互にコインを動かしてこっくりさんのお告げを聞くことにした。
10円玉の方が古風な色合いから儀式的雰囲気は出るが、この遊びにはより価値のある500円玉を二枚用いる。【千円こっくりさん】と彼らは名付けて、その方がこっくりさんも喜ぶだろうと笑っていた。
「この中の誰かの好きな人は誰でぇぇしょーーーーう」
「なんだその日本語……もやつくな?」
「つまり、誰かの好きな人ってことでしょ」
「「「あぁー」」」
金閣寺が引っ掛かり微妙な顔をするも、山崎の放った不自由な日本語を、阿部加奈がおうむ返しするように言い直す。
もやつきながらも、それが遊びとして楽しめる範囲の最善の問い方であると八人は納得したようだ。
既に指を添えていた500円玉。まずは、言い出しっぺの山崎もより率いる、湊天、中川透、富宮麗華の四人で。
こっくりさんのルールと言えるものは、コインに指を添えるだけ。誰か一人でも能動的にその指を動かして答えを決めてしまうのではそれは〝こっくりさん〟とは言えない。
しかし、そんな厳密なルールや雰囲気を守っているものはあまりいないだろう。500円玉に乗せた四本の指が、強引に引き寄せられるように最初の一文字にたどり着いた。
動き出した山崎班のコインがひらがな表の上に示したのは──「き」
「おい、だから山崎」
「いやいや、わたしじゃないよ金閣寺くん! ななななんかこれ、勝手に動いてた気がしたんだけど?」
「え、モヨが〝てんどん〟したいんじゃないの?」
「ち、違うし! ほんとだってぇ! ねぇ、中川くん! トミミちゃんも」
「まぁ、なんかさっきとは感覚的に違ったかもな? もしかして、これ。こっくりさん本人の好きな人だったりするか?」
「そ、そうなのかもっ……あ! じゃなくて、こ、これは…きんかくじさんのこと…じゃなくて…その……確定はしてな……く」
「ふざけんな中川。こっくりさんがそんな人間みたいな〝てんどん〟をするかよ。明確な意思・悪意を見て取れたぞ、俺は、お前らの、その悪魔の指先に(富宮はのぞく)」
「き」から始まる言葉といえば当然、金閣寺歩は察し警戒をする。またその悪ノリを始めようというのだから、釘を刺しておく必要があった。
「まったく……」
金閣寺歩は呆れたように欠伸をした。そして、指先の滑る感覚にふと彼が下を覗くと──「ん」その位置にコインは動いていた。
「──あ?」
見つめ合う金閣寺歩、阿部加奈、宗海斗、藤乃春。果たして金閣寺班の内誰のいたずらな指先がこの悪ノリへと導いたのか。金閣寺は二人に対し嫌疑をかけ始めた。
「宗、阿部。どっちだ?」
「はぁ!? なにいってんだ金閣寺!? 俺は何もしてねぇぞ! 信頼コンビの俺を信頼しないっていうのかよ??」
「〝てんどん〟しますって宣言しながら、同じネタ繰り返すなんてまるで愚行だし。そんなのしないから、金閣寺くん」
犯人は名乗り出ない。誰も罪を認めず、もっともらしくはぐらかすのがお得意のようだ。
指先を添えながら疑わしき二人のことを間近で睨んでいた金閣寺は黙り首を傾げた。
(よし、こうなりゃ全力で抵抗してこの愚行を終わらせてやる)
予想通りにあっちの山崎班のコインは「か」へと滑るように進む。
(よしっ、なんとなくこの遊びのコツと力の入れ具合は掴んだ。【は】だ。【は】に上手いこと誘導して)
金閣寺はこっくりさんの攻略法を見つけた。指先の感覚を研ぎ澄まし、「は」行に誘導しようとするが──。コインはまるで言う事を聞かない。500円硬化をしつけたことなど金閣寺歩にはない。コインが「た」行から進まない、いくら力を込めてもそれ以上にコイン自体が反発しようとするようだ。
「……いい加減に! くだらねぇことは!!」
コインを抑える、震える。湯でも沸き上がってきたかのような振動と熱が金閣寺の指先にダイレクトに伝う。
誰の仕業だ。尋常じゃない。手汗までわき出てきた。
強く抑える、抑える。滴る汗粒にインクが滲み、文字がコインで擦れかすれる。
必死の形相を浮かべる金閣寺歩は、もうこれ以上込めれない程の力で────
「ッ……!?」
「どした金閣寺??」
金閣寺は鋭い電流でも浴びたかのように500円玉からひとり、指を離した。
そんな彼の様子に驚いた六人が心配そうに声をかけるが。
「いや、なんでも…」
注目の視線を浴びた金閣寺は、なんでもないと取り繕った。
だが、なんでもないわけはない。金閣寺以外の六人はまた口々に邪推し、喋りはじめた。
「いきなり変な声だすから、びびったんだけどカクジくん?」
「てかちょっとえろくなかったかさっきの?」
「あはは、ウケる」
「こいつむっつりだからな」
「おい、ふざけんな。こっくりとむっつりの関連性を教えろ」
「むっつりさん?」
「もう、どうにでもなっとけ……」
「「「はははは」」」
昼休み終了のチャイムが鳴る。山崎、中川、宗、湊らが1-Dの教室をそそくさと抜け出し自分の教室へと帰ってゆく。
疲れた様相で1-Dの教室の自分の席に着く。この遊びの後始末を任された金閣寺歩は、おもむろにくしゃつき破けた白いプリントを広げてみた。
五十一音のひらがな表、整然と文字が並ぶそこにはまるで、何かに食べられたような不自然な余白が五つあった──────────
運動場わきの水道の蛇口をひねる。五時間目の休み時間、誰もいないそこで必死に何かを洗い流そうとする男がいる。
「はぁはぁ……なんだこれ? 血は流れてない? 痛ッ────!?」
手を洗っても洗っても落ちない。腕をこすってもこすっても解決しない。
爪でかきむしる──余計に痒さと、噛むような痛みが広がりその男を襲いつづけた。
彼は何も殺めていない。彼は何もしていない。彼はただただ水を求めた。飲んでも、浴びても、冷やしても、満たされることはない。不快感と身に覚えのない痛みが彼を苦しめつづけた。
両手の水の器から、透明がこぼれ落ちる────
「何をしてるの、水びたしだけど」
呼ぶ声に左に振り向いた彼は、ひどく濡れている。臙脂色のブレザーは無造作にも水道の上にかけられ、白シャツが水びたしになっていた。
忽然と、運動場わきの水道に現れた長い黒髪の女子生徒が、そんな様子の彼のことをまじまじと見ている。
「あ、あぁ藤乃さん? なんでここ……いや、別に……? ちょっと暑くて──ってなんだこりゃ?? 涼みすぎちゃったか? ははは……ミスったなぁこれじゃホームルームに──」
突っ立っていた藤乃がおどけたように取り繕う金閣寺の元に近付いてくる。
ゆっくりと、
ゆっくりと、
一歩一歩近付く黒髪の少女の存在に、圧に、金閣寺歩は思わずそれ以上寄ることを遮るように左の手を伸ばしていた。
「どこかで、すりむいた?」
「あ、あぁ……」
彼の左手を手に取る。彼女の細い白い指先が絡み、触れて、一本一本彼の指が折りたたまれていく。操り人形のように彼は突っ立ったまま、彼女のなすがままに、動けない──。
「これ、サービス。────じゃ、また明日」
「……? お、おぅ」
青ざめた顔の彼の顎に伝う雫を、彼女の細い指先がゆっくりと払う。
別れの挨拶をあっさりと済ませた藤乃春の後ろ背、微風に靡く黒髪を、金閣寺歩はただただ眺めていた。
ふと、彼が目線を下げると、左の人差し指に、【絆創膏】が巻かれていた。
▼▼▼
▽▽▽
(────ズキズキとする。あらかじめ言っておく、恋じゃない。絆創膏の内側がただズキズキと痛むのだ。家で目覚めたとき、そんなことはなかった。いつもの通学路を歩き進み、学校に近付いていくにつれ、俺の左の人差しが、痛い。耐えられないほどの痛みではないが、くすぐったいというレベルでもない────〝ズキズキ〟するんだ)
彼は登校する。もう遅刻だと知っていながらも、校舎の赤い階段を上っていく。
気にしたその左の人差し指の「ズキズキ」に引っ張られていくように前へ前へと歩いた。
通り過ぎるA組──B組──C組、漏れ出た騒ぎ声をBGMに、すれ違う者の今日はやけに少ない廊下を進んでいくと次第に指の痛みがひいていく。
「ひょっとすると気のせいだったのかもしれない」彼は安堵するよう、浮かずにいた表情も次第に口角を上げていく。廊下の窓から差し込む温かな光は、日常のそれと変わりない。
穏林高校1年D組の教室のドアを引き開けると──
「……なんでこっくりが、流行ってん……だよ」
6月20日、校舎三階昼休みの教室、黒板にはチョークで彩られたカラフルな鳥居とこっくりさんの似顔絵のファンアート。
金閣寺歩は分からない。これが一体何なのか。
教室のあちこちで机と睨めっこしコインに指を添えている、小グループの数々。
教室中に響き渡る笑い声と時々鳴るコインの落ちる音に、彼は不安を拭えずにいた。
遅刻した男に手を振る友人たち、自分の席を占拠していたいつもの六人の男女の顔を金閣寺は見つめる。
六人、いや椅子の輪に腰掛ける七人目。
「金閣寺歩くん。おはよう、それともこんにちは?」
左手のひらを広げ優雅にさしむけ、藤乃春は遅れて来た金閣寺歩にそう言う。一本一本ゆっくりと折りたたまれていく妖しい指先が知らない世界へと彼を誘うように──。
突き刺さる彼女の紫の瞳、折りたたまれずに最後に残った彼女の一本の指を、教室の後ろドア付近から彼は遠目に見つめたまま。
「おぅ? おはよう藤乃さん」
金閣寺歩の左の人差し指、その絆創膏の裏側がまたズキりと疼いた────。
自分の席を既に占拠していたいつもの六人と、その輪にひっそりと加わったもう一人の元へと遅れて学校に来た金閣寺は歩いていった。
案の定、六人に遅刻したことについて触れられ、いじられる。スマホの通信アプリにメッセージが溜まっていたことに金閣寺は今頃気付いた。
遅刻の話題も程々に、何故自分たちが内輪で一度遊んだだけの〝こっくりさん〟がこの1-Dの教室内でこんなに流行っているのか、金閣寺は聞き出そうとしたが──
「遅刻寺、こっくりさんやるんだろ?」
「やらない。ってチコクデラって誰だよ。だから俺はなんでこっくりさんがはや──」
中川に昨日もやったその遊びに誘われたが金閣寺は遠慮した。この1-Dの教室の状況をまだ整理しきれていない金閣寺は改めて、問おうとするが──
「じゃあ菓子パン買ってきて」
被せ気味に、山﨑もよりがふざけて突飛もないことを言う。
「じゃあってなんだよ」
金閣寺は山崎にこっくりさんに用いていた机上の500円玉を軽く投げ渡された。
「俺いま来たとこだぞ……ったく、あぁ分かった。お小遣いありがとね」
「え!? お小遣い??」
「え、じゃねぇよ。昨日俺の500円硬貨×2枚パクってたろ山﨑」
「え!? わたし違うし!? それ!」
「じゃあこれまでの迷惑料としてありがたくもらっておくぜ」
「はぁ?? ちょっと金閣寺くーん!」
金閣寺は「何パンにしようか」あれこれ、これみよがしに考えつぶやきながら、1-Dの教室を悠然と出て行った。
「なにあのドSカクジ、ちょっと良いじゃん?」
「……」
「あいつ、バットを持つと性格が変わるタイプだしな。ははは」
湊が鼻で笑う。中川が顎に手を当てる。宗は意味もなく素振りをし、ニヤリ。阿部はスマホをいじり何かをメモした。
山﨑が慌てて手を伸ばすも500円玉はすかされ奪えず。金閣寺は山崎に目もくれず、遠のいていく。
藤乃春はその臙脂色ブレザーの彼の背を、ただじっと廊下へと消えゆくまで見つめていた。
今日の屋上はどうやら、利用する生徒がいないようだ。
学校の屋上までわざわざ階段を上りやって来た金閣寺、まだ自分の教室に戻るつもりはないらしい。
あんなこぞって机に睨めっこする集団とコインの音だらけのところにいるのは、彼にとってあまり居心地がよくなかったのだ。山﨑もよりが好きだと言っていた菓子パン、売店に寄り運良くも購入できた残り一個のクリームパンを頬張りながら考え事をする。
さすがにここでは、こっくりさんをやるやつはいない。金閣寺は安堵の息を疲れたように吐く。
手すりにもたれ、空と街並みを眺める。彼はそんな代わり映えのしない景色に、今日はなぜだかいつもより没入できた。
菓子パンを頬張りながら、ありふれた景色を眺める。何にツッコむ必要もない、そんな景色も彼は案外好きなのかもしれない。
しかし、また次第にもやもやとした思いは募る。思っていたより早くクリームパンを食べ終えてしまった金閣寺は、また意味深に考え込む。
「結局、どこもかしこもこっくりさん。1年も2年も3年の階の廊下も、しれっと徘徊したが……。それとも俺が、気付かず三日ぐらいぐっすり寝てたとでもいうのか? いや、三日でこうなるかよ」
自問自答する。やはりこっくりさんがこれ程、爆発的な流行になっているのは納得がいかない。
ぞわぞわとする、落ち着かない。こっくりさんの事を少し考えただけでも、フラッシュバックしてしまう。反発するコインや、あの謎の痛みや、この指のことを────。
金閣寺は、ふと、あの運動場わきの水道の辺りを屋上から見下ろした。
「藤乃春────もしかするとアイツはなにか」
オカルトなど信じたことはあまりない。だが手がかりとなるものは────金閣寺は左の人差し指、そこに巻かれた絆創膏を見つめてみる。おもむろに、あいていた右手で絆創膏に触れようとする。
この変哲のない絆創膏の裏側に、もしかすると剥がし忘れたミエナイ何かが隠されているのかもしれない。真実か真相かそれとも恐怖か。そう勝手に想像の限りを膨らませては、心臓の鼓動が自ずと速くなる。
馬鹿げていると分かっていても、確かめずにはいられなかった。
粘着するその一枚の絆創膏を、彼がゆっくりとても慎重に、いけない封を解くように剥がそうとしたその時────
「なにか──用?」
彼が振り返ると、誰もいなかったはずの殺風景な屋上に、藤乃春の姿が佇みそこにいた。
▼
▽
藤乃はおもむろに手持ちの黒傘を広げる。晴れているというのに屋上で何をしているのか、金閣寺は怪訝な表情をした。
日傘のつもりか、その雪のように白い肌は、その成果の現れか。金閣寺が余計なことをあれこれ考えながらいると──
「よければ、入る?」
彼女はどうやら彼のことを誘っているようだ。
金閣寺は彼女の予期せぬ提案に迷いながらも、おそるおそる失礼した。どうしても彼女のことが気になったのだ。
手すりから離れ歩み寄った金閣寺は、彼女の黒傘がつくる影の中に今、足を踏み入れた。
何の変哲もない黒傘の下、藤乃の横に金閣寺は並び立つが、特に何も起こらない。
金閣寺がこれ以上の沈黙は逆に変だと、気を利かせ口を開こうとしたその時──
「好きな動物、おしえて?」
「すっ!──え!? あ、あぁー、好きな動物? 俺の? えーっと、まず犬猫でいえば……そうだな、猫派だろ? そんで、なんだ? あとは、そうそう狐とかも良いなって最近思うな。あ、でもアイツら残念なことに人間と触れ合うことが難しいっていうんだから、そう考えるとやっぱ犬のほうが人間にとって──」
金閣寺より僅かに先に話題を振ってきた藤乃。いきなり思ったよりも普通の事を問われた金閣寺は、猫や犬や狐など、彼の持ち得る浅い動物知識を交えながら語った。
「そう、意外なのね」
「え? ま、まぁ、そう……かもな? はは」
向こうの手すりの方を見ながら話していた金閣寺は、感じた隣の視線に、ちらりと目を合わせた。彼女が微笑っているのか、相変わらずその表情からは読み取ることができない。
他愛もない面白くもない事を言ってしまった金閣寺は、一人微笑い、誤魔化すようにまた手すりの方に視線を逸らした。
「なにか気になった?」
また、同じ傘にご一緒するお隣から何かを問われた。金閣寺には、それはまるで、今度はそっちから話題を提供しなさいとでも言われているように感じてしまい──
「え? 気になるといえば、そそ、こっくりさん! なんでアレ、教室で流行っちまってんだ。てか俺のクラスだけじゃなくて他のクラスでもみんなこっくりを」
「よくあることよ」
「よくある? ……んー、まぁそうなのか……?」
(いや、よくあるわけないだろお前。って……そりゃぁ、知っていたとしても俺に教える義理も、知らなくて調べる義理もないか)
金閣寺は心でぼやきながらも、素っ気ない返事をした藤乃に怒る道理もない。逆に突飛もない変な事をあたかも彼女を頼るように聞いてしまったと、自省した。
「それ」
金閣寺が少ししょぼくれた顔をしていると、藤乃は絆創膏に巻かれた彼の左の指を、指差した。
「あ、あぁ? これは……」
「どう?」
「どうって? その……たぶん、ありがとう? って言った方がいいと…おもう……感じだな」
頭の茶髪を困ったように掻きながらも、金閣寺は「ありがとう」と歯切れ悪くも彼女に礼を言っていた。
「そう。でも礼ならその子に言ってあげて」
「その子?」
藤乃の見つめる彼の左の肩には、何も見えない。何かあるのかと彼女の見つめる視線の先へ、金閣寺は振り返るが、そこには「その子」も誰もいない。
金閣寺は直り、おそるおそる隣の彼女のことを窺った。だが、その整った横顔は真っ直ぐ手すり側を見つめたままで、彼女と目が上手く合うことはなかった。
息を継ぐように、また視線を外す。分からないことばかりで気分や思考は相変わらずもやつき晴れないが、金閣寺歩にも一つ分かったことがあった。それは彼女がこういった種の沈黙も苦にしないタイプの人間なのだということだ。
黒傘の下でただ佇む。金閣寺も彼女の佇み様を真似てみた。彼女の立ち姿はまるで何かを待っているかのようにも見える。
(傘を差しながら彼女は何を待つ……案外難しいお題だな。なんてな、大喜利じゃね──ん?)
何かが落ちてきた音がした。雨ではない。雨は降っていない快晴と言っていいお天気だ。どこか聞き覚えのある鋭い金属音のようにも金閣寺の耳には聞こえた。
光る何かが一つ、屋上の地に落ちているのが見える──自分がさっきまでもたれていた手すりの方だ。金閣寺はそれが気になり、藤乃の横の黒傘の影から抜け出した。
見つけた光る何かの元へと怪訝な表情で歩き、おもむろに腰をかがめそれを拾い上げてみる。
「コイン? なんだこれ、どこの国のだ? ってなんでコインが屋上に落ち──」
また「チャリン」と間抜けな金属音が鳴る。
また何かが落ちてきた、右耳に刺さるように鳴り響いた突拍子のない音に金閣寺は驚く。
おそらくその音はコインによるもの。誰の仕業だ、悪戯だ。さすがに冗談が過ぎると、顔を顰めた金閣寺歩は犯人と思わしき後ろの人物へと振り返る前に、天を睨み上げた──。
ぽつり、
ぽつり、
ちゃりん、
ちゃりん、
雨足が早まるように落下してきたのは、コイン。紛れもないその音、丸いその形、その煌めき。
彼の周りにコインが落ちてきたトリックが分からない。不可解、理解不能な足音が段々と近づいてきているようにも聞こえたその怪奇現象に、金閣寺歩は、唖然と天を見上げつづける。
そして不吉な音を降らせつづける天を、睨んでいた黒の瞳が、やがて震えながら大きく見開かれた。
コインの雨、いやギラつく煌めきの塊が、突如、金閣寺の面に向かい落ちてきた。
ありえない光景が高速落下する。雨でもない、隕石でもない、大量のコインが、長髪の人型のシルエットになって落ちてくる──
あまりにも唐突、あまりにも大量、あまりにもあり得ない。
コインを連ねた長髪を靡かせ、露わになったその赤眼。ただの金属の塊じゃない、見たこともない化物と目が合う。
金閣寺歩は分からない。金閣寺歩は動かない。鳥肌をびっしり立たせた警告など意味がない。
ぽつり、ぽつり、ちゃりん、ちゃりん。耳をつんざき鳴り響く音に息ができない。彼の呼吸がその不快不可解な金属音のリズムに同期するよう荒くなる。
拾い上げたのはただの一枚の見知らぬコイン。それが今は大量に降ってわき衝突寸前、彼が避けようも、彼が理解しようもない怪奇の塊が晴々しい空から堂々と襲い来た。
金縛りにあったように金閣寺歩は見上げたまま動けない。迫る恐怖の塊におののき、思考も息も逃げることも何もできない。
まさに絶体絶命にも思えたその時、彼が見上げていた空は、突如にも真っ黒に覆われた────
黒傘がパッと広がり咲く。頭上にどもり鳴り響く轟音──黒傘に水粒のように弾かれたコインの数々が、屋上の地に鋭く悲惨な音を打ち鳴らし落ちてゆく。
「な、なんだ……これ……」
黒傘を差した藤乃春のその背は振り向かない。静かに黙ったまま、前を見据える。
まだ味わった恐怖の塊に立ち上がることはできない。そんな金閣寺歩は、同じように見たいま彼女の凝らす視線の先に、集い蠢く異様な光景を目撃する。
散り散りに落ちたコインが一箇所に吸い寄せられるように──やがて、ひとりでに──形を成す。
銅や銀や金色の、まだら模様のシルエット。
じゃらじゃらと乱れる髪からのぞく赤い眼が妖しく点る。全身コインの怪物が、腰を抜かし倒れた金閣寺歩の目の前、真昼の学校の屋上に降って顕れた──────。