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8.哀願と愛玩(終)

最終話にして、最長です……。

 

 

 午後の光が、温室を満たしている。

 硝子越しの陽は花の縁をたゆたって、その輪郭を確かめるようになぞってゆく。

 

 その昔、ここは王女だけに許された秘密の庭だった。花に語りかけ、語り返されるための場所。

 けれど今はもう、記憶の薄膜を破って、別の時間が流れている。

 

 中央には二脚の椅子と、小さなテーブル。花壇には新しい薔薇たちが息づき、あちらこちらに手入れの跡が残されている。

 まるで誰かが、過去に触れながら未来を育てようとしているように──。

 

 この温室は変わった。だがその隅には、変わらぬ影がひとつだけ残されている。

 

 ジーク・ヴェルガー。──地を這うように項垂れたその姿は、風景の一部になりかけた彫像のようだった。

 庭石に膝をつき、額を土に預けたまま、彼はただ静かに、何も終わらせることができずにいた。

 捨てられた忠犬にも似た姿。しかし犬ならば、いつか鳴くこともできただろう。

 彼にはもう、立ち上がる理由も、赦しを乞うための言葉も、とうに尽き果てていた。

 

 女王の足元に縋りついたあの記憶が、彼をこの場所に縫いつけている。

 季節がいくたび巡っても──この男だけが、永遠に踏み出すことを拒んでいた。

 

 

 

 

 ラグランは鋏を手に、花壇の前に腰を落としていた。

 

「ここを切ってやれば、陽が通りやすくなりますよ」

 

 低くやさしい声が薔薇の香りの合間を縫って、温室の空気に溶けていく。

 エリュシアもまた身を屈め、彼の隣にしゃがみ込んだ。

 視線が揃う。ドレスの裾がそっと土に触れて、花と同じ高さで息をする。

 

「ほんとう。よく気が付いたわね」

 

 彼女の声もまた、花びらを撫でるようにやわらかだった。

 それに対しラグランは、少し大げさに肩をすくめてみせる。無論それは彼らしい軽やかさを持っていた。

 

「それほどでも。観察するのは得意ですので」

「でもこっちは、もう少し切ってもいいわ」

 

 エリュシアの細い指先が、ひとつの枝をそっと示す。手袋に覆われた白い指には、ほんの少しだけ乾いた土の気配が残っていた。

 

「おや、厳しいご指導を」

「だって、私の花壇ですもの」

 

 からかうような声音に、目元が綻ぶ。

 たわいない言葉の応酬が、微睡みのようなおだやかさで二人をゆるやかに包んでいた。

 いつのまにかラグランの冗談に彼女が笑うだけでなく、エリュシアのほうからも先に軽やかな言葉がこぼれるようになっていた。

 

 鋏が音を立てる。ためらいなく、切り落とされる。刈られた枝が地に落ちて、音もなく死を受け入れた。

 ひとつの命が選ばれ、ひとつの命が残されていく。

 

 

 ジークはただ、黙ってその光景を見つめていた。

 選ばれ、切られ、落とされる。選ばれなかったものが、地に伏す。

 それは自分のことのようだった。彼女の温室からも、人生からも、静かに刈り取られて、名もなく捨てられてゆく。

 

 あの手が土に触れていたことを、自分は教えてもらえなかった。それなのに、あの男は──ラグランは、許されている。

 いや、違う。許されたのではない。彼が、知ろうとしたのだろう。

 対する自分は、エリュシアが王女であるというだけで、結局彼女を遠い存在に閉じ込めて──何ひとつ、本当のことを知ろうとしなかったし、明かそうともしなかった。

 

 もしあの頃、自分がほんの少しでも勇気を出していたなら。花に触れ、棘を恐れず、彼女の傍に腰を落としていたなら。

 あそこにいるのは、自分だったかもしれないのに。

 

 

「次は、あの白薔薇ね。前にあなたが選んでくれた……」

 

 エリュシアの視線の先に、ひとつの白薔薇がまだ蕾も抱かぬままに立っている。

 その茎はまっすぐに空を向き、瑞々しい緑をたたえ、光へと透かしていた。未来を待っている花の姿だった。

 

「覚えていてくださったとは、光栄です」

「もちろんよ。あれも、咲くのが楽しみだわ」

 

 剪定鋏の音が呼吸のようにやさしく響く。間合いを合わせるように、二人の動きは確かで滑らかだった。言葉が途切れたあとの沈黙までもが、温室の薔薇たちの吐息のように心地よい。

 

「陛下のためなら、僕は何度でも手を伸ばしましょう」

 

 指先が棘に掠らぬよう注意を払いながら、ラグランは枝を撫でるように扱い、冗談めかして言う。その口調の奥には、真心の温度が滲んでいた。

 

「ふふ。その手が傷だらけになっても?」

 

 問い返したエリュシアの声音は甘やかで、わずかに試すようでもあった。

 

「もちろん。愛しい方のためですから」

「そう。なんたって、愛しい女王の庭に侍る誉れだものね?」

 

 さらりと返された言葉に、彼の動作が一瞬だけ止まる。頬に忍び寄る熱をやり過ごすように、鋏を置くふりをして視線を逸らす。

 

「……本当に、あなたは時々ひどい」

「まあ、今さら何を。あなたが最初にその道化を演じたのよ」

 

 いつからか、彼女はこんなふうに、人の心に手を伸ばすようになっていた。

 言葉をただ受け取って抱きしめて終わるのではなく、それをあたためて返せるようになった。

 

 ジークから受け取った言葉は、いつも耳に心地よい旋律を帯びていた。けれどそれは、台本をなぞるような響きでもあった。手渡すよりも先に、受け入れられないことをおそれていた声音だった。そこには勝手な諦観と、猜疑心が込められていた。

 けれども同じように芝居がかった言葉を選びながら、ラグランの奥にあったのは──疑いではなく、慈しみだった。

 だからこそ、彼の言葉は空を彷徨うことなく、彼女の手のひらに、きちんと降りてきたのだ。

 

 

 

 

「──そろそろ、お茶にしましょうか」

 

 エリュシアが立ち上がると、軽やかなドレスの裾が薔薇の葉先をかすかに揺らした。泥を払い手を清める動きひとつにも、品が宿っている。

 しつらえられたテーブルへと歩み寄る彼女に、ラグランも連れ立った。

 

 この場所は、今や女王とその伴侶のための語らいの間となっていた。

 政務の合間に訪れる、陽の光のもとで言葉を交わすひとときのやすらぎ。

 それを邪魔せぬよう、侍女たちは静かに礼を尽くし、お茶の支度を終えると気配を残さぬよう去っていく。

 

「この香り……少し違いますね。配合を変えられましたか?」

 

 ラグランはカップを手に取り、香りを吸い込むようにして言う。声音には、日常の一片を愛おしむようなやわらかさがあった。

 

「ええ。今朝、新しい茶葉が届いたの。あなたの好みに合うかと思って」

 

 そう返すエリュシアの表情は自然で、おだやかで、満ち足りていた。

 

「ご明察です。前のものも捨てがたいですが、こちらのほうがより好きですね」

「でしょう? わたくし、あなたのことにはわりと詳しいのよ」

 

 その一言に、ラグランの頬に再びわずかに紅が差したように見えた。軽口めいていながら、確かに心を撫でる言葉だった。

 

 

 あなたのことに詳しい──その言葉の端が耳に触れたとき、ジークの胸に、遠い記憶が浮かんだ。

 かつての少女は、自分の好きなものをよく話した。彼女は問いかけもした。ジークが何を好きか、どんなことが好きか、どんな味が好きか、どんな色が──。

 だがその問いに、彼はどう答えただろう。

 おそらく場当たりだった。無難で、適当な回答。どうせ聞き流されるのだと思っていた。

 心を明け渡せば、足元をすくわれる。そう信じていた自分は、彼女の問いに本当の顔を見せることができなかった。

 

 だからきっと、彼女はジークのことを、本当の意味では知らない。

 知りたがってくれていたはずなのに、自分がそれを拒んだのだ。

 

 ──あのとき、もし。

 心の奥にあるものを、言葉にして手渡せていたら。

 今あの席にいるのは、自分だっただろうか。

 

 そんな考えが何度も浮かんでは、かき消されていく。

 

 

 エリュシアの白い指が、紅茶の隣に添えられた小皿へと伸びる。そこには、蜂蜜と薔薇の花弁を練り込んだ焼き菓子がひそやかに並べられていた。小さな光の粒をまとうように、かすかな甘い香りが立ちのぼる。

 

「これ、食べてみて」

「……何か企んでいたりします?」

「さあ、どうかしら」

 

 促されるままにラグランはひとつを取り、ひどく慎重な手つきで口元へと運ぶ。

 その動作の細やかさに、エリュシアが小さく、いたずらを仕掛けるような表情を浮かべた。

 

「わたくしの手作りなのよ」

「えっ」

「昨夜、侍女と一緒にこっそり焼いてみたの。あなたの口に合えばいいけれど」

 

 その声の奥には、小さな誇らしさが滲んでいた。

 誰かのために時間を費やし、香りを重ね、指先に粉をまとわせて焼き上げた者だけが知る、達成感の笑みを浮かべている。

 

「……恐れ入りました。まさか、国の宝ともいえる御手が、夜の厨房に降りられるとは」

「そんなに大げさなことではないわ。あなたの喜ぶ顔が見たかったの。ただ、それだけ」

「それだけで、ですか」

 

 声が、少しだけ掠れる。答えが欲しいのではなく、その言葉の重みを胸の内で確かめるために、繰り返した。

 彼の指先が、皿の上のもうひとつをそっと持ち上げる。

 

「とても、おいしいです。……危うく、国ごとあなたに捧げてしまいそうになるほどに」

 

 囁くように言ったその声は、彼自身の心を驚かせているようでもあった。

 そして、それを受けてエリュシアが言う。

 

「それは困るわね。わたくし、あなたがいれば十分よ」

 

 エリュシアのその口調には飾り気がなかった。

 誰かに寄り添うことの意味を知った者の口からこぼれる、慈しみに満ちた音。時間そのものをやさしく撫でる、やわらかな手のひらのようだった。

 

 

 漂ってきた甘い香りに──ジークは、心をひと突きされた。

 記憶の襞から何かが滲み出してくる。情景が、音もなく揺れた。

 

 少女の小さな手が差し出した、蜜の香る菓子。いびつながらも丁寧に焼かれたそれを、「あなたのために作ったの!」と言ってはにかんだ彼女の顔。

 自分はそれを砂糖漬けの子どもじみた愚かさと見なし、裏で吐き捨てるように嘲った。

 

 今になって、わかる。

 あのとき差し出されたものに、どれほどのぬくもりがあったのかを。

 

 彼女の愛を、素直に受け取ればよかった。疑わず、恐れずに、育てればよかったのだ。

 

 あの頃、確かに彼女は、ジークを喜ばせたいと願っていた。

 そのやさしさを自分は育てるどころか、踏みにじった。靴底で、ためらいもなく。

 

 そして今、別の男の手によって──その愛が、美しく咲いていた。

 

 

 エリュシアはラグランを見つめながら、湯気の立つカップに口を寄せる。

 彼はまっすぐなその言葉に、いつもの調子で返そうとして──不意に、胸が詰まった。

 言葉は笑みを追い越さず、ただ、喉の奥で熱を孕んで沈黙する。

 さっきまで口にしていた焼き菓子の甘さが、今はやけに切なく舌に残った。

 

「──そう言っていただけるなら、僕はもう、何も望みません」

 

 吐息のような声だった。抑えきれない感情の隙間からこぼれ出た、祈りにも近い響き。

 手の中の焼き菓子が、まだぬくもりを残しているように思えた。それだけで、十分だった。

 

「あら。そんな無欲では困るわ。ほら、もうひとつほしいでしょう? 望んでみなさいな」

 

 エリュシアは嫣然と微笑む。しかしその言葉はやわらかく、子どもをあやすようでもあった。

 彼女は小さな皿をそっとラグランのほうへ差し向ける。その所作は彼の幸福を願う手つきだった。

 

「……あまり甘やかすと、駄目になってしまうかもしれませんよ」

 

 声にはかすかな照れが混じって、彼の頬が淡い色に染まる。与えることには慣れていても、こうして与えられることはまだ慣れない。人に愛され、受け入れられることの重みを、今さらのように感じている顔だった。

 エリュシアにそういった態度を取られてしまうと、どうにもラグランは弱かった。

 

「いいのよ。あなたは、甘やかされていい人なんだから」

 

 エリュシアの声には、彼の仮面もすべて見抜いた上で──それでもなお包み込む者の、揺るぎないやさしさがそこにあった。

 それは言葉だけでは届かない。重ねた日々の記憶が編み上げた、ひとつの愛だった。

 

 

 ジークは、その親密な距離感に言いようのない絶望を覚えていた。

 

 名を呼ばれた。笑いかけられた。見上げる少女のまなざしは、自分ひとりを映していた。そんな差し出されたぬくもりを、恐れて受け止めきれなかったあの日々。

 自分のものであったはずのそれは、もう完全に別の誰かのために息をしていた。

 

 ティーカップが静かにソーサーに戻される。

 それだけのことが、あたりの空気を裂くように乾いた音を立てた。まるで、すべてを終わらせる鐘の音。心の奥に、冷たく響く宣告だった。

 

 喉が軋む。呼吸も言葉も出てこない。ただ、胸の奥に残されたのは、削られるような痛みだけだった。

 

 彼女の未来に、自分の居場所はなかった。

 

 

 

 

「そういえば、陛下──後継ぎのことですが」

 

 ラグランが、声音を整えて口を開いた。

 湯気の向こうに揺れるその言葉には、未来を見据える覚悟と、共に築いていく者への誠実さが込められていた。

 

「大丈夫よ。生まれてくる子はあなたに似て、優秀で誠実な子になるわ」

 

 彼女の声は落ち着いていて、一片の迷いもなかった。胸を焼いた不安も痛みも、今はもうゆっくりと溶けて、あたたかな光へと昇華されている。

 

「……僕に似るのは構いませんが、あなたの芯の強さも受け継いでほしいですね」

 

 言葉のあとに、小さな笑いが添えられる。その声が響くたび、エリュシアの目元がやわらかく細められていく。

 互いの視線が、ささやかな余白のなかで、ふわりと重なった。

 

 

 ジークは、眩しすぎるその光景に、反射的に目を逸らした。

 

 それは恋人のような熱のこもった会話ではなかった。だからこそ深く沁みた。

 肌に触れずとも伝わるぬくもり。愛を伝えずとも届く想い。信頼と敬意。甘えと理解。欲望ではなく、選び合う意志。

 何も交わさずとも、通じ合う関係。

 

 そして自分では到底届かない関係でもあった。

 

 男は、石畳の上に額をすりつけた。喉が焼けつくように渇いて、声が出ない。差し出す先のない手のひらが震えていた。

 ここまで来ても、何も求められないと知りながら──傍にいたいと願ってしまう己の愚かさに、ただ縋りつくしかなかった。

 

 

「あとは──よく気が利いて、ちょっとお調子者で、でもときどき頑固な子になるでしょうね」

 

 エリュシアは紅茶を一口含んでから、ことさら何でもないことのように付け加えた。

 ラグランの反応を待つように、伏し目がちの笑みを含んだ視線を注ぐ。

 

「随分と手厳しい予想ですね、陛下」

 

 苦笑混じりに眉をひそめたラグランに、エリュシアはくすりと声を鳴らした。

 

「あら。あなたの好ましいところの話をしたのよ」

「……あまり、いじめないでやってくれますか」

 

 やや拗ねたような口調。その仕草の子どもじみた不器用さに、エリュシアは肩をすくめて、わざと芝居がかったため息をついた。

 

「心外ね。可愛がっているの。光栄に思いなさいな」

「じゃあ僕なら、たとえばお気に入りの玩具のように……壊れても、そばに置いてくれます?」

 

 軽く響いた声が、最後だけ少し沈んだ。どこまでが本気で、どこまでが戯れか。そんな境目を曖昧にしながら、軽く首を傾げて聞く。けれど、その目の奥の真剣さは隠しきれていなかった。

 

「まあ。いつから玩具になったつもりなの? あなた、そんな器じゃないでしょう」

 

 にべもなく言いながらも、彼女の声は不思議なほどやわらかだった。

 ひと呼吸の沈黙を置いて、ラグランは小さく問う。

 

「じゃあ……何なら?」

 

 そこには、確かな戸惑いが宿っていた。エリュシアは微笑みながら、真正面からそれを受け止めた。

 

「そのままでいいのよ。わからない? あなたのことは、そのままでも可愛がってあげる」

 

 彼女の言葉は凛としていた。そこに込められた温度は、飾りではない。

 思わず、息を呑んだ。

 

「……僕を、人間として、傍に置くおつもりで?」

「あら。今頃になって?」

 

 エリュシアは、ゆっくりとラグランを見つめる。そこにあるのは女王としての威厳ではなく、ひとりの女として──信頼する人間に向ける、親しみと慈しみのまなざしだった。

 

「また、僕のことをからかって……」

「本当のことよ。今だって、わたくしに可愛がられているじゃない」

「……あなたの傍にいると、男という生き物の滑稽さがよくわかりますよ」

 

 たまらず何かを堪えるように片手で口元を覆ってしまったラグランの言葉に、エリュシアは笑みを深めた。

 

「わたくしがこうして愛おしむのは、ラグラン。あなただけよ」

 

 軽やかな音ながら、決して揺るがない響きだった。

 

 

 

 

 ジークは息を詰め、気配を殺して、犬のように主の言葉を待つ──もうエリュシアの言葉は自分には向けられないと知っていながら、耳を傾けることをやめられなかった。何度も何度もなぞり尽くした手紙の文面のように、彼女の語りの残響を記憶から拾い上げては、内に沈める。

 

 彼は願ったのだ。哀願の果てに、愛玩されることを。

 せめて──あと一度だけでいい、名前だけでも呼んでほしかった。あるいは、頭を撫でる仕草ひとつでもよかった。

 

 昔の自分は少女を愛したのではなく、愚かにも所有した。

 玩具のように掴み、祈りを踏みにじり、彼女の意志をひとつの飾りのように軽んじた。

 

 幼いあの子が差し出した手のひら。お嫁さんにしてと願った唇。叶えられなかった約束の熱。呼ばれない名。返されない言葉。こちらを見てくれない人。

 愛を信じていないくせに、誰よりも信じていたのだ。壊れてもそこに──きらめきは一度でも宿れば、星のように空を穿って輝き続けるのだと。

 

 それは呪いだった。エリュシアがかけたのではない。ジーク自身が、自分にかけたのだ。

 人を死に導く呪い──忘れられず、許されず、それでもなお縋りつくための、呪いを。

 

 だからその願いは、届かない。

 

 

 あれさえなければ、と、幾度も繰り返す。

 少女を壊していなければ、今頃は。今も、隣に──と。

 

 だが仮にあのとき手を取れていたとして、果たして自分に彼女を支えきれただろうか。

 あの光を。あの深い悩みと誇りを。魂の細部に至るまでを。あの人のすべてを抱きしめる器が自分にあったと、本気で思えるだろうか。

 

 ──ないだろうと、思った。それはもう、とうの昔に、知っていたことだった。彼女の未来に、自分の影など届くはずもない。

 彼女を信じずに嘲って、か弱く何も知らぬと、手のひらにおさまるものと決めつけて、閉じ込めようとだけした。

 優位に立ったつもりでいた。それでは隣に立てなかった。

 本当は知っていた。しかし思い知っても、終わらなかった。

 

 だからまだ、自分はここにいる。

 日の差さぬ隅の、影の中に。彼女の庭に。彼女の足元に。

 

 記憶の中の温室で、少女の日々を探し求める。幼気な彼女が座る白いベンチ。華奢な足。頬に咲いた花の影。

 

 それらはもう──遠ざかったというのに。

 この温室は移り変わる。あの白色は朽ちて、花壇は新たな色に染まり、しつらえは違うものへ変わっていく。忘れられ、更新され、上書きされてゆく幸福の記録。

  

 それでもジークは変わることもできず、歩き出すこともしない。あの日に取り残され、名もなき愛を、名を失ったまま捧げている。

 

 彼の唇がかすかに動いて、少女の名が声にもならずに消えていく。

 ジークは吠えることもできぬ犬として、沈黙のままそこに在り続けた。

 

 

「──エリュシア」

 

 ラグランの声が風のようにそよぎ、陽の中を渡る。

 

「次の季節に植えるものは、薔薇ではない花も選んでも?」

「いいわ。共に考えましょう」

 

 光の中で、女王は微笑んでいる。

 その微笑は、影をひとつずつ眠らせていく。

 

 そこにあったのは、もう少女の亡骸ではない。

 ひとりの人間がいた。孤独をまといながら数え切れない痛みを超え、幸福を自らの手で選び取った者の姿があった。

 だからそこに、誰かの独りよがりな祈りは要らなかった。

 

 

 女王の庭に、哀しい過去は響かない。

 それはここには咲かぬ花。遠くへと過ぎ去っていった。

  

 ここにあるのは、これから選び取る愛しい未来だけ。

 未だ来ない名も知らぬ明日にも、新たな実りを願って種を蒔くことができる。

 

 瞳のオパールが虹の色を宿し──幸福の石が、光に満ちてきらめく。

 

 彼女の笑い声が空気を震わせる。温室の花たちも、晴れやかに咲き綻んでいた。

 

 

 

 

これにて本編、完結です。

リアクションや評価、ブックマークのひとつひとつが、本当に励みになりました。


もし読後に何か感じたことがあれば、感想をいただけるととても嬉しいです。

後日、活動報告にてちょっとしたあとがきも掲載予定ですので、ご興味ありましたらそちらもぜひ。


最後まで見届けてくださって、ありがとうございました。

それではまた、別の物語でお会いできますように。

 

 

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