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7.遠雷と追憶

 

 

 夜を裂くように雷が鳴った。

 低く、長く、空の底から絞り出されるような音。雲の奥で紫電が脈打ち、天が呻いているかのように震えるたび、忘れかけてきた記憶の輪郭が浮かび上がる。

 

 エリュシアは執務室の窓越しにゆらめく雷光を見つめていた。あの空に刻まれる閃きは、誰かの悲鳴が形を変えて光になったようで──どこか懐かしく、遠い痛みを呼び覚ました。

 

 嵐の夜は、昔を連れ戻してくる。それは、彼女にとって幼い日の影であり、ひとつの光でもあった。

 まだ“女王”ではなく“王女”と呼ばれていた日々。大きな音が怖くて、ただ泣いていたあの頃。怯えた感情に任せて怖いと言えたあの夜。

 かつては、そんな自分を誰かが抱きしめてくれた。髪を撫でられ、耳元でもう大丈夫だと囁いてもらった。細い腕が、拙い願いを込めて、誰かの体に縋りついていた。

 

 その思い出は、雷鳴が落ちるたびに──ほんのひとひら、光を帯びて揺れるのだった。

 

 

 机に置かれたティーカップからは、もはや湯気の気配さえ立ちのぼっていなかった。紅茶に触れようとした彼女の指は、宙に凍ったようになっていた。

 

「陛下?」

 

 控えめな声が聞こえる。

 

「……昔ね、雷が苦手だったの」

 

 導かれるように、過去がぽつりと音を持った。

 

 その声は硝子のように薄く、ひと息で割れてしまいそうだった。けれどその語り口に、ひと匙だけ、懐かしさの色が滲んでいた。

 

「だった……ということは、今は違うのですか?」

 

 問いを重ねる声──ラグランは、相変わらずの軽さを纏っていた。

 戯れにも似た声音で、踏み込まず、でも退かず、足音を立てぬまま距離を縮めてくる。

 

「ええ。違うわ」

 

 ちょうどその瞬間、空の奥が割れて、閃光が部屋に飛び込んでくる。即答したつもりだったのに、言葉の尾は雷鳴にさらわれた。

 否応なく沈黙が訪れ、返事の意味が曖昧にぼやけた。まるで、否定を許さぬように。

 

「震えていらっしゃいますよ」

 

 その指摘に、彼女は視線を落とした。見下ろせば、薄い手の甲が確かに細く揺れていた。

 胸の奥で波打っていた小さな恐れが、皮膚の表面にまで滲み出していたことに言われてはじめて気が付いた。

 

「……あなたの前では、弱みを出してしまうみたいね」

 

 唇の端を吊り上げて笑ってみせる。けれどそれがどれほど形だけのものか、きっとこの男には見抜かれている。

 その声音には自嘲が含まれていたが、どこか安堵もあった。取り繕いもせず、見透かされることにも、もう驚かない。

 

「いつもなら、震えくらい誤魔化せるのに」

 

 それは、玉座に座る者の習いだった。強くあらねばならない。怯えも、悲しみも、決して人目に触れてはならぬ。

 だが彼が傍にいるときだけは、ふと、鎧を脱いでしまう。ほんのひととき、ただの女に戻ってしまう。

 

「それは、僕の役得というものでしょうか」

 

 やさしく冗談のように笑うその人の存在が、どれほど救いになっているか。口には出さないが、エリュシアはそれを知っていた。

 雨を含んだ雲の下でも、その微笑みはやわらかく明るかった。

 

「王女だった頃にはね、雷が鳴るたびに泣いていたわ。お母様やお父様、お兄様に、騎士や侍女たち──皆が慰めてくれたの」

 

 ぽつぽつと、雨がこぼれるように言葉が続く。

 エリュシアは椅子に細い背を預け、遠くを見ていた。視線は窓の向こう、けれど本当はそこにはいない。彼女は今、記憶の中を音もなく歩いている。

 

「女王になってからも、時々、どうしても耐えられなくて。夜中にひとりで温室まで行って……花たちに、話しかけていたの。怖いの、怖いのって、ね」

 

 外では雷鳴が再び鳴り、窓をかすかに震わせた。

 その音に呼応するように、エリュシアの肩が、ほんのわずかに縮んだ。揺れるその背は小さくて、儚く──幼い少女がそこにいるかのように思われた。

 

 ラグランは、何も言わずにその姿を見つめていた。

 冗談を挟むこともできた。そうすれば空気は軽くなる。

 けれど今、この場を冗談で塗り潰すのは、何か取り返しのつかないことをしてしまう気がした。

 だから彼は、何か言葉を口にするよりも先に己の心の揺れに耳を傾けた。

 

 ──自分はずっと、観察者でいる方が楽だった。

 

 高みに立つ女王を、他人の過去として眺めていた。哀れな亡霊への好奇心を言い訳に、その痛みからはわざと目を逸らして、手を触れようとはしなかった。

 深入りはしないほうが、世の中はうまく渡れる。

 

 けれど、ここで背を向けたくはないと思ってしまった。

 それをたった今、自覚する。

 

「……これからは、僕がいますよ」

 

 思いのほか、声が小さくなった。その言葉を口にするのは、少しおそろしかったからだ。

 なぜならそれは与えられた王配としての役目の責任に則るものではなく、ただのラグランとしてのものだったから。

 

 いつもなら、一歩引いて笑うところだった。軽やかな比喩で、あるいは茶化して、心を包んでしまっていた。

 だが、今は彼女に飾り気のないものをそのまま渡したかった。

 

「なんて、柄にもないことを。はは……」

 

 それを彼女がどう扱うか知ることに怯んで、つい誤魔化そうとしてしまう。けれど、一度口から飛び出したものは、たとえ祝福であっても凶器であっても取り戻すことはできない。

 

 エリュシアは雷鳴に混じってその声を聞き、しばし黙して、彼の顔を見つめていた。

 研ぎ澄まされた視線。しかしその瞳の奥が揺らいだような気がしたとき──彼女の唇が、弧を描いた。

  

「それなら……今夜は、一緒に寝てもらおうかしら」

 

 少しの沈黙。続いて、雷鳴。

 音の帳が二人の間に降りる。

 

「……っ、そ、れは」

 

 ラグランの声がわずかに裏返った。いつもの調子が完全に崩れる。ゆるやかに、耳朶から頬にかけて、色が差す。

 そんな彼の反応を面白がるように、エリュシアは頬杖をつきながらふっと笑みを浮かべた。

 

「あら、あなたでもそんな顔をするのね。珍しいものを見たわ」

「……僕をからかっておられますか?」

 

 ラグランの声には、照れと戸惑いが半ば混ざっていた。

 その混じり方が不器用で、どこか愛おしい。

 

「違うわ。“お願い”してるの。一人じゃ、怖いのって」

 

 その言い方は、遠い記憶を撫でるようだった。

 ひとときの夢の中に、確かに存在していた“王女”の面影──葬られたはずの声が、そっと浮かび上がってくる。

 

 小さな、けれど確かな甘え。強さの隙間からこぼれた、誰にも見せない弱さ。

 そのひとしずくをすくい上げてもらうことを、彼女はきっと、ずっと待っていた。

 

 窺うように、エリュシアの瞳が彼を見つめる。

 それを同じだけ返したラグランは、ゆっくりと息を吸った。

 

「……僕でよければ、そのお役目を喜んでお引き受けいたします」

 

 わざとらしく、演技じみた口調で。平静さを取り繕って笑ってみせた。

 けれどエリュシアには、すでにその仮面の向こうが透けて見え始めている。

 

「ばかね。あなただから、言ってるのよ」

 

 雷がまたひとつ、遠くで鳴った。

 

 それは、いまだ取り残されて彷徨う誰かの、遠吠えのようでもあった。

 

 

 

 

 夜が深まる。

 明かりを落とした室内は、静寂を纏っていた。

 

 風はすでに止み、雷鳴も遠ざかっている。外の嵐が嘘のように、部屋の中はしんと冷えていた。

 寝台に並んで横たわる二つの呼吸。そこには、わずかな隙間──けれど、心は近づいていた。

 

「後継のことを、考えなければならないの」

 

 ぽつり、とエリュシアが言った。

 消えかけた雷の残響に紛れさせるような言葉だった。

 

「女王として、国のために。それが我が身に課された義務ならば……」

「きっと、陛下ならば立派に成し遂げられますよ」

 

 彼はすぐにそう言った。けれどその声音には、かすかな翳りがあった。

 

「ラグラン? ……何か、不安なの?」

 

 エリュシアの問いに、ラグランは少しだけ目を伏せた。

 瞼の裏に浮かぶのは、まだ訪れてもいない未来の影。

 それから少し遅れて眉根を下げて笑う。自分でも手に余るような、戸惑いを抱いた笑みだった。

 

「いえ……ただ。あなたがあまりにも、遠くに行ってしまうような気がして」

 

 その声に、かつての雷よりも深い余韻があった。

 力強さではなく、無力を曝け出すことでしか届かない想いがあると、彼はすでに知っていた。

 そしてそのように本心を見せることを、先ほどよりはおそろしく感じなくなっていた。

 

 エリュシアは目を細める。

 そして、そっと──ほんとうにそっと、手を伸ばし、彼の手に触れた。

 重ねた手のひらに、わずかな温度。ゆっくりと響く脈動。それだけのことで、胸がほぐれてゆく。

 

「あなたは、わたくしの隣にいるでしょう? それは、何も変わらないわ」

 

 おだやかな声だった。炎のように燃え上がる情熱ではなく、灯火のように宿る確信。

 

「あなたとなら──育てていけると思うの。わたくしたちの手で、未来を築いていけると」

 

 それは、信頼の表明だった。

 王として、母として、ひとりの女として──玉座の孤独を知る者が、その孤独を分かち合いたいと願った、ただ一人の相手に向けた言葉。

 それは、雨後の地に沁み込む一滴だった。

 

 ラグランの指がわずかに動いて、エリュシアの手を包み返す。

 その触れ方は言葉よりも誠実だった。触れ合ったぬくもりに、ひとひらの安堵が咲く。

 

「女王陛下……」

 

 その呼び名は、礼儀と親密さのあわいに漂っていた。

 けれど、それはこの夜には似合わない。

 

「もう。こういうときは名前で呼んでちょうだい」

 

 エリュシアの声はやわらかく、どこか幼い頃のままの響きを含んでいた。

 それはただ名を呼ばれることを望んだだけではなく、ひとりの人間として隣り合うことを許す言葉でもあった。

 

 雷鳴の遠ざかった空に代わって、室内には心音が満ちる。

 窓の外では、星が光りはじめていた。

 

「これは失礼しました。我らが麗しの──」

「ねえ、それはやめて。あまり呼ばれると、鳥肌が立つから」

 

 やわらかな吐息が混じるように、二人はくすくすと笑い合った。

 夜のしじまに咲いた花のような明るさが、部屋の中に満ちていく。

 

「……ありがとう、エリュシア。僕を選んでくれて」

 

 まっすぐにエリュシアを見つめたラグランが、秘密を打ち明けるように告げた。

 その瞳は夜そのものでありながら、真昼の星がきらめいているようでもあった。

 

 仮面が剥がれた顔をしていた。

 誰にも見せぬ奥に息をひそめていた彼が、ようやく手渡してくれた素顔。

 それを、エリュシアは両手で受けとった。大切に、落とさぬように。


 そのあたたかさを、指先から胸の奥まで確かめながら、彼女は微笑んだ。

 

 

 

 

 幻の遠雷が耳の奥にだけ淡く鳴った。

 鼓膜の裏側に染みた、記憶の残響。誰かの遠吠え、あるいは嗚咽。

 

 彼女は、思索の渦の中にいた。

 

 注ぎ続けられた愛がどこにも根を下ろさず、花をひとつも咲かせることもなく過ぎていったならば、その土はいずれ腐って、名もない泥になってしまうのだろうか。

 

 エリュシアの視線が、何かを追うように宙に浮く。何かを追いかけるように、けれど何にも触れず、ただ空白を辿る。

 彼の名を、唇には乗せなかった。けれど胸の奥で、ひとつ呟いた。

 

 ──ジーク。

 

 温室にいたときに急に嵐が来てしまったとき──王女として、気丈に振る舞わなければならないと咄嗟に思った。本当は彼にも泣いて縋りたかったけれど、好きな人にそんな姿を見られるのはあまりに子どものようで、憚られた。

 震える指先を隠し、耳を塞ぎたくなるのを堪えて、ただ空を見上げた。それでも、雷の音は強くあろうとする心を易々と貫いた。

 その揺らぎに彼は気付いてくれた。何も言わずに隣に座ってくれて、ただ手を握ってくれた。

 

 それだけで、どれだけ心が救われたあの人は知らないだろう。雷に震える自分を、あたたかな手のひらが包んでくれた。

 たとえあの恋が砕け散ったのだとしても、もらったやさしさはエリュシアにとって真実だった。

 

 ──ねえ、ジーク。わたしをお嫁さんにしてね。

 

 あの一言に、少女のすべてが詰まっていた。

 見ていた未来も、願った日々も。 

 

 あの頃の彼は、彼女にとって光だった。呼べば応えてくれると、疑いもせずに思っていた。

 大好きだった。愛していた。何もかもを捧げられるとまで、信じていた。

 今となっては、影へと溶けていってしまったけれど。

 

 雷鳴に泣いていた少女は、もうここにはいない。代わりにいるのは、嵐の夜を乗り越えた女王だ。

 耳を塞ぐ必要はなくなった。誰かの手を取ることを、選べるようになったから。

 

(あの人が、今もどこかで泣いているのだとしても──)

 

 かすかなざらつきはまだ、そこに息づいている。けれども、涙の音はじきに聞こえなくなるだろう。

 なぜなら嵐は、もうとっくに過ぎ去ってしまっていたから。

 

 この部屋にあるのは、心の灯火と、凪いだ安息と、明日へと向かう誓いだけ。

 夜の深みに沈みながら、それらはぬくもりを編んでいる。

 

 隣では、ラグランの寝息が規則正しく重ねられてゆく。彼の眠る横顔は、意外なほど無防備で、あたたかい。

 エリュシアはその横顔を見つめながら、目を閉じる。

 

 ──今夜は、夢を見ない気がした。

 あの遠雷はもう、届かない。怖がる必要は、どこにもなかった。

 

 

 それでも、まぶたの裏にはまたひとつ、捨てられなかった思い出が瞬いた。

 それは雷とは違う、あの人の手を引いてくるくると回った、夢みたいに幸せだった夜のこと。

 

 この先もずっと、きっとあの日のことは忘れられない。けれど、無理に捨ててしまわなくてもいいのだと──摘みきれずに残された花びらは、心の静かな場所にそっと置いておいたっていいのだと。

 そう、自分を許せるようになった。

 

 心の中にずっといた少女の亡霊は、この夜を越えて泣き止んでいる。

 涙を止められるのは、何もあの人だけではなかったのだ。

 

 あの日に残してきた“わたし”は、幸福な夜の記憶を胸に、そっと息を吐き──静かに、やすらいで眠った。

 

 

次回で最終話です。

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