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6.光と影

またしても長くなってしまいました……。

時系列的には、1話の直後です。

 

 

 それから数年の時が過ぎ、現在──噂された犬は、変わらず少女を想い続けて黙していた。

 

 回廊の影は、彼にとって定位置になっていた。誰にも見つからぬ場所で、ただ空気に染みついた記憶の残り香を吸い込むように、その場から離れない。

 

 貴族たちの談笑が過ぎ去ったあとに、石を慣らす足音がひとつ、乾いた空間を滑った。

 軽やかで、律動を持つ音。女王の足音とは異なるが、似ていた。己の存在を確かに認識して歩く者のそれだった。

 

 その音が、すぐ近くで止まった。

 ジークはゆっくりと目を上げる。

 

 陽光を背に、ひとりの男が立っていた。

 真正面からこちらを見据えてくる視線があるのは、どれほどぶりだろう。

 

 黒曜石のように深く澄んだ、淀みを知らぬ双眸。夜をひと房ずつ編み込んだような髪は、光をすっと吸い込み、音もなく影を孕ませる。

 宵の景色に融けるような顔立ちでありながら、浮かべた笑みは白昼さながらに、何も隠さずにそこにあった。

 

 ラグラン──東の国より迎えられた王配。

 この国の頂に立つ女王が、自らの手で選び取った“正しい男”。

 そして自分とは最も遠い場所にいる男が、そこにいた。

 

 

 

 

 静まった回廊に、陽が差していた。

 

 城の造りは長年の風雨にも怯まず、その荘厳さを崩すことはない。けれど、石の隙間から差し込む光だけはいつだってやさしく、あたたかい──そう感じるのはおそらく自分が光を背負う側の人間だからだと、ラグランは知っていた。

 どこか申し訳ないような、しかしそれ以上に心地よさを覚える。そんな自分の在り方を、まったく罪深い立場だなと思った。

 

 女王を迎えにいく道すがら、ふと気配を感じて足を止める。

 

 ──また、いるな。

 柱の影を見た。もう何度目の遭遇だろうか。前々から、彼の存在には気付いていた。空間に染みついたように、そこにいることが日常になっていた。

 視線を感じたこともあった。けれどそこに刺さるような敵意はなく、彼女への濁った執着と未練があるだけだった。

 彼のことは知っている。その名も、その過去も。他ならぬ女王から、すべてを聞いていた。

 そのうえで、放っておいてと言われているのでそうしていた。だから今まで、何も言わずにきた。

 

 しかし今日は、彼女も、周囲にも誰もいない。

 ならば、少しだけ──気まぐれに、触れてみたくなった。

 

 「……こんなところで日向ぼっこですか?」

 

 返事はない。あるいは言葉を出すことを忘れてしまったかのように、影に潜む男は風景の一部のように沈黙していた。

 俄然、興味がわいてきた。動かないものというのは、時として動くものより面白い。たとえば閉ざされた箱の中身のほうが、蓋を開けられた中身より心を惹くのと同じだ。

 

「随分長くそこにいますね、ジーク・ヴェルガー殿」

 

 一歩近付いて、名前を呼んでみる。明確な反応はない。ただ、ほんの一瞬だけ空気の流れが変わる。

 視線が動いたのだろう。あるいは、息が詰まったのかもしれない。置物か何かだったような男に、生きた気配が戻った。

 

「ここから──陛下のご様子を窺うのが日課で?」

 

 戯れのように、毒を一滴落としてみる。

 そうすると、低く、くぐもった声が影から漏れた。

 

「……あなたに……何がわかる」

 

 その声は、壊れかけた楽器のようだった。調律もされず弦も緩んで掠れきり、それでも鳴らそうとした愚直な音。

 

「存じていますよ。陛下が王女だった頃の、旧知の方だと」

「──俺は……」

 

 先がつかえて、そのまま止まった。

 ラグランは、笑みを湛えたまま傾けた首を戻す。

 

「人はどうして、過去に縋るのでしょうね。もう戻れないと知っていながら、なぜあんなにも執着できるのか……」

 

 ジークは、何かを言いかけて──それでも、黙った。

 しかし口元がかすかに動いたのを、この男は見逃さなかった。

 

「言ってみてください。ここには、あなたを嘲る者はいませんよ。僕を除いては、ですが」

 

 冗談交じりのそれに、ジークの肩がぴくりと動いた。

 次の瞬間、唇が開く。

 

「……彼女は……あの頃、俺のことを、愛してくれていた。俺も……あの子を……」

 

 思ったよりも簡単に、弁は開いた。その中身は、随分と情けないものだった。

 言葉は音になった途端に脆く崩れ、もはや言い訳にもならぬものを、ジークはぶつけるように吐き出す。

 

「俺は……彼女を……本当に、愛していた。今でも、愛している……。どんな形になっても、どんなに変わっても……あの子は、俺にとって……!」

 

 影の奥で、ジークの手が震えていた。

 

「あの子が、あの人が、あんなふうに、誰かの隣に立って微笑んでいるのを……俺は……」

 

 未練と悔いと哀願が混ざり合い、傲慢さは跡形もなく剥がれていた。

 それを聞いたラグランは、この男は長らく彷徨っているのだと思った。貶すつもりはない。遅れてきた本物というものも、この世にはある。ただ彼は宛先を失った、それだけだ。

 

 女王が彼のことを語ったとき、そこに怒りも恨みもなかった。ただ一度だけ──「あの頃のわたくしには、彼が必要だったの」と、抑えた声で口にした。

 そんな彼女はもう彼とのことを、噛み砕いて、飲み込んで、消化してしまっている。でも、この男は──まだ、その入り口にすら立てていないのだ、と知った。

 

「……愛されていたから、彼女が戻ってくると思ったのですか?」

「……っ」

 

 静かに投げかけた問いが、空気を凍らせる。

 決して彼を見下しているわけではない。むしろ、よくここまで残っていると思う。自分だったらとっくに何もかも忘れて、違う誰かの手を取っていたように思う。

 

 彼に本当に必要なのは、女王の手ではない。過去という檻から、自ら歩み出す力だった。それを、少しだけ教えてやることにした。

 

「とはいえ、過去に縋るのは自由だと思います。しかし、あなたのそれはただの自己満足です」

 

 ジークの喉が鳴る。

 さらに淡々と続けた。

 

「あなたが愛しているのは、あの方ではありません。自分に微笑んでくれた誰か──その幻想でしょう。あの頃の彼女が、今も変わらず自分だけを見てくれると信じたかった。だから置いていかれた現実を、ずっと認められないでいる」

 

 その刃に、ジークの膝がわずかに折れた。

 けれど、倒れることはなかった。ただ、拳を固く握って、歯を食いしばる。

 

「過去に与えられたものを、今もなお自分のものだと信じている。だが愛は施しではありません。保持する義務など、誰にもない」

 

 その声音は柔らかいままなのに、ジークを的確に深く刺す。

 

「あなたは、過去の影を抱いたまま、足元に立ちすくんでいる。誰の隣にも立とうとせず、ただ見上げて、ただ縋って──」

 

 そして最後に告げる。

 

「──それを“愛”と呼び続けるつもりなら、彼女の歩んできた年月が少しばかり気の毒ですね」

 

 これは断罪ではなく、断絶の提示だ。

 ジークは何も言えなかった。もはや言葉にする力すら、残っていなかった。

 

「なんて、少し言い過ぎてしまいましたか? あまりお気を悪くされませんよう」

 

 そうして、さらりと微笑む。

 

 ──なんとまあ、哀れで、そして滑稽だ。

 

 この国の女王が、何を愛し、何を捨て、今ここにいるか。その過去が、今なお形を保って生きている。

 ラグランはこの男のこの有様に、好奇心を寄せていた。

 

 

 そのとき、空気の襞が破れた。高く澄んだ靴音が、回廊に新たな風を連れてきた。

 

 絹のように光沢を帯びて揺れる白銀の髪。歩みは軽く、けれど決して急かず、花のように優雅に、その存在を空間に開いていく。

 女王エリュシア・ル・タレイア──影の奥に沈む空気を陽の方向から破るようにして、その姿は現れる。

 

 彼女の姿は、冠の重みと沈黙の光を纏って、威厳に満ちていた。人々が遠巻きに頭を垂れるその姿を前にして、ラグランはふっと肩の力を抜く。彼女の傍に臆せず寄って、片方の口角をわずかに上げながら愉快そうに言った。

 

「王国の太陽に、ご挨拶申し上げます」

 

 手を胸に、芝居がかった口調で軽やかに頭を下げる。その仕草は形式に則った敬礼でありながら、どこかやわらかい。親愛を含んだ礼節だった。言葉の端に棘はなく、この国でただひとり、女王をおどけて呼べる者の声音を持っていた。

 

 エリュシアはくす、と笑った。銀の睫がふわりと揺れる。

 その微笑は、玉座の上では決して見せないものだった。

  

「なあに、ラグラン。なんの真似? あなた、いつもそんなこと言わないでしょう」

「たまには陛下に似合う称号を捧げてみようかと」

「ふうん。どうせ、また退屈でもしてわたくしを揶揄う方法を考えていたのではなくて?」

「おや、図星を突かれるとは。さすが陛下、我が習性にお詳しいですね」

 

 二人のやりとりはさざ波のようにおだやかだった。

 エリュシアは笑いながら首を傾げた。揺れた銀の髪が頬をかすめ、彼女はそれを指先で払う。その仕草があまりにも無造作で愛らしく、国を統べる存在とは思えぬほどだった。

 

「いいわ。気晴らしになったから」

「それならよかった。女王の憂いを払うことは、側仕えの小さな栄誉ですから」

「まあ。側仕えにしては態度が尊大よ」

「態度の大きな陛下に感化されてしまったのかもしれませんね」

「なんですって? 図々しい側仕えには、罰を与えてしまおうかしら」

 

 エリュシアがいたずらっぽく笑う。その笑みは、少女の名残を感じさせながらも、確かに女王としての成熟を帯びている。

 その緩みは、エリュシアがラグランの前でだけ見せるものだった。

 

 誰よりも重たい冠を戴くこの女王が気を抜いて話すことができる相手──その立ち位置を、ラグランは心得ていた。

 そしてそれは特別である以上に、ある種の責任でもあった。

 エリュシアの周囲には、常に敬意と緊張が渦巻いている。名で呼ばれることも、冗談に笑うことも、国に身を捧げた女王には贅沢になると、彼女は己を律していた。

 

 だからこそ、こうしてくだらない言葉を投げ、ふざけた顔で応じることができる役が、ひとつくらいあってもいい。

 誰よりも高みにいる彼女が、ときどき地に降りられるように。

 

 そんな中、一瞬だけ彼女の視線がわずかに逸れた。

 

 たった一拍、ほんの少しだけ音のない時間。そのまなざしが、意識よりも先に回廊の柱の影に潜むものを捉えている。無意識の動作に、ラグランだけが気付いていた。

 

 表情は微動だにせず、美しいままだ。けれどその奥に、影が差したような気がした。それはきっと、彼女にとって意図的なものではない。かつて誰かを探すように、振り向く癖を持っていた頃の残響だ。

 

 だからこそ、ラグランは笑う。少しだけ大仰に、わざとらしい声を差し出す。それが彼なりの慈しみの形だった。

 

「それはご勘弁を。我らが麗しのエリュシア様、どうぞ寛大な御心でお許しください」

 

 おどけて片目を閉じる姿は、敬意の仮面をかぶった救済だ。

 それを受け取ったエリュシアは、呆れたようにしながらも笑う。それは玉座の女王ではないときだけに許される、ごくわずかな破綻だった。

  

「またそれ? このお喋り」

「お褒めに預かり光栄です」

「よく回る口だこと」

「陛下のように、無口ではいられないもので」

 

 そうして、二人は肩を並べた。

 腕を差し出せば、彼女は迷いなく手を添える。それはいつからか当然のことになっていた。習慣でも義務でもなく、並び立つことを選び続けている事実。

 エリュシアは彼を見上げて微笑み、それを見つめ返したラグランは笑みを深くした。その仕草は、あまりにも自然だった。

 

 白と黒。光と影。統治する者と支える者。エリュシアとラグランは、まるで劇の一場面のように完成された構図のようでいて、確かな信頼の上に成り立っている。

 

「南部領の件、あなたはどう考える?」

「協定を優先すべきでしょう。侯が動くなら、先手を」

「そうよね。じゃあラグラン、次の議会には同行して。あなたがいたほうが動きやすいわ」

「喜んで。いくらでもお供いたします」

 

 互いの台詞は譜面のように重なって、無駄なく響き合う。支え合って、補い合いながら、それは決して依存ではない。

 

 

 ふと後ろを振り返れば、影の中で一人、過去を抱えて沈む男がいる。

 その姿は、舞台袖で出番を待ち続けている役者のようだった。

 

 ラグランとジークの目が合った。

 何も語らない冷静な瞳が、まっすぐにジークを捉えた。

 

 だがその一瞬の視線がジークの膝を砕いた。

 呻きもなく、叫びもなく、彼は地に伏した。吠えることすらできず、音を殺して。

 

 

 

 

 分厚いカーテンが陽を遮り、部屋の空気は涼やかで落ち着いていた。窓辺にはほのかな香が満ち、書類とインクの匂いと混ざり合って、いかにもこの場に相応しい清廉さを作っている。

 あとの執務はラグランとの整理だけ──ほかの臣下たちはすでに下がらせていた。

 

「……あの老伯爵、相変わらず前世紀の制度に未練があるようですね」

「彼には過去しかないのだから。仕方がないわ」

 

 返された声があまりにも正鵠を射ていて、ラグランはどこかの誰かを思い出しながらわずかに肩をすくめた。彼女の言葉には皮肉も批判も込められておらず、事実だけがそこにあった。

 

「本日の書状はこれで最後。あとは明日に回しましょう」

 

 女王がペンを置く。滑らかな手首の動きに無駄はない。

 政においては、もはや疑いようのない完成形だ。この人が今、間違いなくこの国を治めている。それを、何より重く感じる瞬間だった。

 

「はあ……しかし、退屈な文言だらけですね。石のように固く冷たいものばかりだ」

 

 ラグランは椅子の背に深く沈み込み、天井を仰いだ。豪奢な彫刻が施された意匠も、見慣れてしまえばどれほど精緻でも視界の一部に過ぎなくなる。

 その様子に、エリュシアが小さく笑った。睫が光をすくってきらめく。

 

「文言で済むならまだ可愛いものよ。人の心までそうならないようにするのが、わたくしたちの仕事でしょう?」

「ええ、それはもう。ご尤もです、女王陛下殿」

 

 演技めいた敬礼に、また小さく息を吐いて微笑む彼女は、人前に立つときとはまったく別の人物のようだった。

 

 

 ふと、静寂が降りる。窓の外の風が、書類の端をめくった。ぺらりというその音が、ひどく人間的だった。

 その一枚を拾った拍子に、ずっと思っていたことがつい口から出た。

 

「──彼は、あのままでよろしいので?」

 

 それを問いかけるつもりはなかった。彼について自分が彼女へ言及するのははじめてだった。

 

 ただ気付けば彼女が黙って窓の外を見ていたものだから、その静けさに言葉を落としたくなった。

 彼女の沈黙は深い。その音のない思考を時折つついてみたくなるのはラグランの悪い癖であり──彼女が唯一彼だけに許す特権のひとつだった。

 

 少しの間、答えはなかった。

 

 エリュシアの横顔に、光と影が宿る。額の線、睫の弧、唇の形──彼女は今や、象徴としてこの国で最も尊い顔を持っている。それでもたまに、ラグランではない者によってその顔が変わるときがある。それに気が付いているのは、おそらく自分だけだ。エリュシアはもちろん、その本人すら知らないだろう。

 

「構わないわ。もう、人ではないから」

 

 感情の起伏はない。けれど、その無風の声がかえって何より冷たかった。

 彼女の言葉は、いつもきっぱりしている。その裏にあるものの重さを知っていてなお言えるのが、女王の強さだ。

 

「彼は、自分の愛に酔っているの。愛していたということだけに縋って……それを抱えて溺れている」

 

 まるでかつての“わたし”を、岸辺から見ているかのような、他人事のような口調だった。

 

「それは、人ではなく──亡霊よ。あのときの、あの場所の、あの“わたし”の傍にいた亡霊」

 

 ラグランは頷きもせず、ただ視線を滑らせた。

 

「その亡霊を生かしているのは、あなたでは?」

「ええ、たぶんね」

 

 あっさりと認めた。答えはあまりにも軽く、正確だった。

 それが、今もここにジーク・ヴェルガーという亡霊が彷徨う理由。そしてきっと、彼女の中にも──少しばかりの亡霊がいる。

 

「彼がここから出ていかない限り──わたくしも、彼を完全には忘れられない。それだけよ」

 

 そうして彼女が口を閉ざしたのを見て、ラグランは興味深げに目を細めた。

 彼女は彼が、自らの意志で出て行くのを待っている。突き放されてしまったからこそ、突き放すことができないのだ。

 冷徹な女王であるはずの彼女の、誰も侵すことができない部分がそこにあった。──つまりこれは、女王の裁きではなく、少女が仕掛けたささやかな仕返しなのだろう。

 

「なるほど。ようやく腑に落ちました」

「……あなた、面白がっているでしょ」

「はい、少し。ばれてしまいましたか」

 

 彼女はまた呆れたように息を吐いた。唇にかすかな弧が生まれる。

 

「ほんとうに、奇特な人ね」

「陛下のご慧眼の賜物ですよ」

 

 言葉の応酬は、あくまでも軽やかだった。

 

「調子のいいことを言えば許されると思って」

「許してくださるでしょう?」

 

 ラグランの問いに、彼女の目元に柔らかな光が差す。──そして、真顔で応じた。

 

「そうね。そんなあなたのことを、信頼しているわ。人として、国の一翼を担う者として。本当に、あなたが王配でよかったと思っている」

 

 そこに一片の揺らぎもなかった。

 それは女王としてではなく、エリュシアという一個人が持つ、極めて静謐な敬意だった。

 

 それを見て、軽く目を伏せる。

 こうして彼女がふと人に戻る瞬間に立ち会えるのは、やはり光栄だ。

 

「それは──最上級の賛辞と、受け取っても?」

「もちろんよ」

「では、その信頼に足るよう、これからも努めましょう」

 

 彼は改まった声音でそう言った。

 それは女王の隣に立つ者として、未来に向けてきちんと置かれた一歩だった。

 

 

 

 

 彼には過去しかない──その言葉を反芻したラグランは、思い出していた。

 玉座の光からこぼれた影の中、いまだ地べたに這いつくばる、一匹の犬の姿を。

 過去の香りに鼻先を埋め、女王の記憶の縁にしがみつくようにして、なお己を保とうとする影。

 

 彼の愚かさを断じたものの、それしきのことで自らの足で立ち、ここを去るとは思えない。

 けれど亡霊が亡霊である限り、誰も彼に責を問わぬのなら──その影がこのままここでひっそりと薄れていくのも、ひとつの終幕だ。

 

 そのときこそ、過去はようやく眠るのだろう。

 それを見届けてやるのが、せめてもの情けなのかもしれなかった。

 

 


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