5.謁見と転落
その夜も、その次の夜も──ジークは、エリュシアへ手紙を書いた。
書かずにはいられなかった。書くこと以外に、彼の夜を埋める方法が、もはや残されていなかった。
返ってくるのは、相も変わらず冷たく磨かれた却下の文。誰の気配も匂いもしない言葉が、機械のように差し出されている。
封を切るたび、彼は酒を煽った。言葉に斬られるたび、煙草に火をつけた。
湿気を帯びた部屋の隅に、それらの匂いだけが静かに積もっていく。
行く宛のない執着が、部屋の空気を重くした。
もはや、遊び歩く気など起きなかった。酒場の女の笑みも賭場の熱気も、今のジークには遠すぎた。部屋の外の世界が、夢のように淡くぼやけていた。
横たわったまま、冷えた空気の中で手探りに酒瓶を探す。指先がぶつかった。瓶が倒れ、床を転がる音が鈍く響いた。
じわりと広がる液体──かと思えば、中身はもう残っていなかった。からん、と乾いた音だけ響く。
気がつけば、何杯飲んだかわからなかった。いや、もう数えようとすら思わなくなっていた。
寄る辺のない日々は、甘くもなければ、苦くもなかった。ただ、淡く、浅く、音もなく沈んでいく。
そのくせ心のどこかに、未だ一筋の確信が細く生きていた。
──会うことができれば、エリュシアはきっと、わかってくれる。
あの子が女王になっても、心までは変わらない。
自分の名を、あのやさしい声で呼んでくれるはずだ。
その確信に、理屈など要らなかった。証拠もいらなかった。
むしろ、ないほうがよかった。幻想はいつも、証拠を必要としない。
手紙が届いていないのだ。きっとそうだ。
あの子の手元に渡る前に、誰かが握りつぶしているのだ。
そうでなければ、会わないはずがない。
乾ききったインク壺。使いかけの紙。灰皿に折れ曲がった煙草。
夜明けに染まりかけた部屋の中で、ジークはふらりと立ち上がった。
机の上に、前夜のまま放置された便箋の束がある。そこから新しい紙を引き寄せる。酩酊でにじんだ視界のまま、手探りにペンを取る。
震える手で、また一枚、己の名を書きつけた。
──まだ間に合う。
──あの子は、俺を待っている。
ジークはそれが祈りだということに気付かぬまま、かすかな希望をペン先に乗せ、白い紙ににじませた。
*
手紙への返事は、いつだって決まっていた。
刷ったように同じ文面。整った書式に、行儀のよい否定だけが並んでいる。
謁見は許可されない──そう記された紙切れが、無言で彼を突き放す。
毎晩手紙を書き続けた。彼女の目に自分の名が映りさえすれば、何もかもが昔のように戻るはずだと。
ひとつひとつの夜が焼けつくような渇きとともに重なる。
このままでいたら、彼女は別の男のものになってしまうのではないか。
もしそのときが来たら、自分はどうなってしまうのか──そんなこと、許せるはずがない。
いつしか衝動のままに、ジークは扉を開けて外へ飛び出した。
道順は、忘れてなどいなかった。屋敷から王宮へと続く、何百回も馬車で通った道。緩やかな通りが続いていたような気がするが、今はすべてが障害物だった。石に躓き、人にぶつかり、罵倒を背に浴びながらも、止まることができなかった。
走らねばならなかった。どうしても会わなければならなかった。
身体の節々が悲鳴を上げても、歩みは止まらない。いつしか時間の感覚すら曖昧になった頃──ようやく、城が視界の中に現れた。
懐かしいはずの城門が、見知らぬ異国の要塞のように彼の前にそびえ立っていた。
門の前の衛兵の「止まれ!」と叫ぶ声が、鋭い鞭のように飛んできた。
ジークは足を止めた。
その場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと顔を上げる。見上げた城壁は、あまりにも高く、冷たく、突き放していた。
記憶の中のそれは、こんなにもおそろしかっただったろうか。前までは、笑顔で通されていた門。挨拶を交わした衛兵。
だが、彼らはジークの名など覚えていなかった。あるいは、覚えていたとしても──もう、意味はなかった。
小汚い身なりに、やつれた顔。もはや誰の目にも、彼はただの不審者に過ぎなかった。
一歩、足を踏み出した──そしてすぐに肩を掴まれ、押し倒される。
冷たい石畳に身体を打ちつけられた。
「聞いているのか! 貴様!」
怒号が、鼓膜を貫いた。
ジークは何も言わなかった。叫びも、痛みも、どこか他人事のようだった。
「……何か、問題でも起きましたか」
凛とした声が、静かに空気を切り裂く。
目線を上げた先に、光があった。
太陽を背に、白銀の髪が揺れていた。オパールのように淡く滲む瞳。絹を思わせる衣の白。
そこに立っていたのは、少女──ではなく、一国を治める女王だった。
「──エリュシア……?」
掠れた声が、喉から漏れた。
けれど、彼女は表情を変えなかった。知らぬ人を眺めるように、彼女の瞳には、何の色もなかった。
名を呼ぶことも、笑みを浮かべることも、駆け寄ってくることもなかった。
「女王陛下、この者が城内へ侵入を……」
「そう。わかりました。では、丁重にお帰り願って」
その声には、何の感情も含まれていなかった。
いや──感情など、あってはならなかった。
彼女は女王として、国だけのものとして、そこに立っていた。
しかしくるりと背を向けた白い背中が、遠ざかっていく。
──駄目だ。このままでは、終わってしまう。
「ま、待って……。待ってください!」
声が出た。咄嗟に、声だけが飛び出した。
身体はまだ地に伏せられたまま。その姿のまま、彼女の背に向かって言葉を投げかけた。
「少しで……少しでいいんです。俺の話を……聞いてください……!」
その言葉に、彼女の足が止まった。
ゆっくりと、振り返る。その目の中にはきらめきはなく──底冷えするような、夜があった。
「三時間後。空けられるのは、そこだけです」
その一言は、確かに救いだった。粉々に砕けそうだった幻想が、なんとか形を保った。
エリュシアは、自分のために時間を割いてくれる。
「待ちます! どれほどでも……!」
ジークは声を震わせながら叫んだ。
その声に、彼女は何も答えなかった。ただ、側近に言葉を言付け、再びゆるやかに歩き出す。
そしてジークは衛兵の手によって立たされると、そのまま中へと通された。
待機の間で彼は深く息を吐いた。
時計の針は、千年かけて動くかのように遅かった。
*
ぴたり、と音を立てて時が止む。──ちょうど三時間。
それ見計らうように、重々しい扉が両開きに押し開かれる。風が起き、空気の層が移動して、光が差し込む。
玉座の間。
陽光を背に、女王エリュシア・ル・タレイアが座していた。
あの頃のように、もう一度だけ目が合ったなら──すべてが戻る気がしていた。だが彼女の瞳は、はじめからそこに焦点を合わせてなどいなかった。
エリュシアは遠く、けれどあまりにも鮮明な存在だった。
陽の光が織物のように揺れて、金の縁取りを燃やしている。その白銀の髪、その透き通るような貌──すべてが人間離れして見えた。
しなやかに、ただそこに在る権力と美。彼女はその場を支配する、人の姿をした威厳そのものだった。
ジークの膝は、音もなく折れた。
それは意志による動作ではなかった。肉体のどこかが、彼女を見て崩れた。おそれと憧れと、すべての錯綜の果てに、ただひとつの跪伏があった。
「それで、あなたの話とやらは? 早く済ませてしまいなさい」
その声はあまりに平坦だった。
感情を孕まぬことを訓練された声。情けも憤りも帯びず、波紋を起こすことさえない。機械仕掛けの、王政の歯車。
ジークはゆっくりと、おそるおそる顔を上げた。
けれど視線の先にあったのは、かつての少女ではなかった。──そのはずなのに、姿は何も変わっていなかった。
あの温室で、髪を撫でたあのときと同じ面影が、そこにあるのに。
もうそこに“彼女”はいなかった。
王冠だけが、彼女の影の中で燦然と浮かび上がっている。
「……っ……君が……」
どうしても、それ以外の言葉が出なかった。
名前では呼べなかった。けれど、女王陛下と呼ぶには、胸が焼けた。
喉がざらついて、鉄錆びの味がした。
「君が……他の男のものになると聞いて……」
なんと惨めな言葉だったろう。何通も手紙を書いた末の、最初の一言がこれだ。
女王は何も言わなかった。ただ、まなざしで、過去を葬った。彼女という光が自分を見ていたことなど、なかったかのように。
ジークは思い知った。目を背けてきた事実を直視した。
彼女の背を押したその瞬間──少女は死に、ここにいる者が生まれたのだと。
「──もう、わたくしはあの頃の“わたし”ではありません」
その言葉は、刃よりも鋭く、氷よりも冷たかった。
震える吐息が、耳の奥で跳ね返る。幻想が一枚ずつ剥がれて、音を立てて落ちていった。
王座にあるその姿は、あの日恋心とともに殺された少女の亡骸だった。
ジークを信じて微笑む少女──あれは、何も知らなかったわけではない。彼女は、ただジークを愛してくれていただけだった。
それを信じる勇気のなかった自分が壊した。壊しておいて、まだ昔のままの彼女をほしがった。どこまでも愚かで、どこまでも傲慢で──身勝手な願望だった。
女王として立つ彼女の目に映るのは、もう誰でもない。ジークの存在は、もはや何の価値も持っていなかった。
だからといって、諦めきれなかった。今もなお、必死に思い出の中で彼女の温もりを探していた。
「それでもっ……どうか……もう一度、俺を、傍に……置いて、いただけませんか……」
それは、どこかで見た光景だった。
あの日の彼女の、祈るような声。王になるのが怖いと泣いていた少女の、あの哀願。
その役目は入れ替わっていた。今度は彼が、彼女の愛を乞う番だった。
「愛して、いるんです……」
震えながら額を床に擦り付ける。掠れた声で心を差し出す。その愛を白状する。
ようやく遅すぎる本当の言葉が、音を持った。
「……そう。今になって、気が付いたの」
女王は、静かに立ち上がる。滑るように階段を降りてくる。その一歩ごとに、天秤が沈んでゆく。
処刑の足音のようだった。聖なる裁きのようでもあった。
「“わたし”がどれほど、あなたを愛していたか。どれほど、待っていたか。そして、どれほど、諦めたか」
ジークの視界が涙に滲んで歪む。それはぼたぼたと滴って、顎を伝い落ちていく。
彼女はそっと微笑んだ。けれどその微笑は、彼に向けられたものではなかった。
愛を信じていた愚かな“少女”に対する、哀れみの微笑だった。
「それなら、王になるのを止めるべきだったわ。そうすればあのときの“わたし”が、あなたの隣にいられたかもしれないのに」
ジークは跪いたまま、声にならない声で呟く。
「俺は君に、もう一度……」
震える手を伸ばす。
「……もう、何も望んでないわ。あなたには」
彼は崩れた。膝から、背へ、全身が折れた。
絨毯の上に涙を落としながら鼻を啜って、ただひとつの言葉にすがった。
「どうか……どうか俺を……あなたの傍に、足元でもいい、置いてください……! 命でも尊厳でも、魂でも、なんでも差し出します……! 愛されなくてもいい……ただ、捨てないで……!」
それはもはや、男の言葉ではなかった。名もなく愛されぬものが、餌を乞うように口を開いただけだった。
女王は静かにそれを見下ろした。犬が哀れに吠えるのを、風の音のように聞きながら。
「……あなた、昔、私に言ったことがあったわね。“俺は君を幸せにできる”と」
その言葉が、骨の奥まで突き刺さった。
「できた?」
「…………いえ」
吐き出すような声だった。
「あなたが“わたし”にくれたのは、裏切りと失望だったわ」
「それでも……俺は、あなたを……」
もはや震える声しか出なかった。
縋る。願う。祈る。
「俺はあなたを、今でも……心の底から……!」
「そう」
女王の声は凪のようにおだやかだった。
「でもわたくしは、もうあなたを愛していないの」
言葉は一撃だった。抵抗もなければ、救いもなかった。
「だから、あなたに何かをあげるつもりもない。勝手にすればいいわ」
だがその言葉だけは拒絶のようでいて、慈悲でもあった。
突き放すのではなく、手を離すということ。奪うのではなく、委ねるということ。自ら選ばせるという、その行為。
彼女が、最後に心を差し出した日。
それは受け止めるのではなく、置き去りにされた。
もしも彼がただ一言「君の好きにすればいい」と言っていたら──少女は、殺されずに済んだかもしれない。
そう思わせるほどの、静かな、遅すぎた平等。それが今、この場にだけ与えられた。
あの日、与えられたかった小さな自由を──女王は何も残さぬ愛の名残として、ただ彼に返した。
「はい……はい。どうか、あなたの傍にいさせてください。……なんでも、します……。ただ、傍に……」
彼の手は震えていた。自尊心も何もかもを剥ぎ取られ、残ったのはただの人の形をした、かつて人間だったもの。
ジークは、もう顔を上げられなかった。
地に伏せ、女王の足元で嗚咽するその姿を、彼女はただ見下ろしていた。
まるで、遠い過去の夢でも眺めるように。
*
その後、女王エリュシア・ル・タレイアの祝言は、国を挙げて盛大に執り行われた。
正装に身を包んだ民たちは通りに押し寄せ、王宮の尖塔に飾らせた幟が風に翻り、鐘の音が青空の高みにまで響き渡った。
東の国より輿入れした王子は、絵物語に出てくるような立ち姿で女王のもとへと歩を進める。
そして、光が彼らの上にだけ差し込んだ。すべてが美しく、整っていた。過去など、なかったかのように。
即位当初、彼女の若さと性を蔑むような声を上げていた老獪な貴族たちも、彼女の鮮やかな手腕と、感情に流されぬ決断力の前に次々と口を噤んだ。
敬意と羨望とが同居した視線が、おそれとともに今や王宮の隅々まで満ちていた。
花嫁衣裳に身を包んだ女王は、白金の刺繍を織り込んだ薄絹のヴェールを揺らしながら、民衆に向かって優美に手を振った。
その笑顔は、国家の繁栄を象徴する微笑みであったが──“少女”だった誰かのことを知る者には、どこか遠い、寒さを湛えているように見えたかもしれない。
女王は、王配の横顔を上目遣いに見上げる。華やかに微笑むその仕草に、幼い日々の面影はもうない。
その光景を、ひとりの男が影に付き従うようにして見ていた。式の列の端にただひとり、名も立場もないその姿を誰も気に留めはしない。
けれどその男の目は、確かに女王の微笑みを追っていた。
彼女は国家の威光を纏い、隣には“正しい男”がいる。
自らの涙の上に王冠を戴き、もう決して振り返らない。
男は、ただ立っていた。
愛を乞うこともせず、赦しを求めることもせず。
もはや彼の名は、誰の唇にも上らない。
それでも、ただ──彼女のことを、見上げていた。