4.堕落と焦燥
ようやく折り返しです。
──少女が王冠を戴く、その少し前のこと。
あのとき彼女の目に映った沈黙の奥に、男は名もなき悔いを抱えていた。
何ひとつ語らなかった男の胸には、言い損ねた愛が夜露のように息をしていた。
けれどもどれだけ悔いようと、取り返すには手遅れだった。
ささやかな矜持のためだけに、少女を踏みにじった。
しかしそれらの事実を、彼はまだ認めようとしなかった。
*
「エリュシア王女殿下には、この国の王として立っていただきます。あなたには、その手伝いをしてもらいたい」
ジークを突然呼び出した男が、そう告げる。
王国が喪に沈んでいることはジークも聞き及んでいた。
だが、その果てに彼女が──あの無垢なる少女が、王になるとは。
その言葉は命令ではなかったが、すでに決定された事実としての響きを持っていた。
男の声音には感情の起伏がなく、反論の余地は初めから存在していない。
目の前の男の目には、冷ややかな蔑みが浮かんでいた。その目が、己が本来どこに属するべき存在なのかを思い出させてくる。
社会における、正しい位置づけ。今ジークが立っている場所は、伯爵家の庶子などがいていいところではない。
つまりは王女に別れを告げろと、そういうことだった。
胸の奥で、何かがはらりと剥がれ落ちる。
そのときわかった。王女に慕われていたことで、自分もまた、ほんの少しばかり清らかになったつもりでいたのだと。
「……わかりました」
声は驚くほど静かだった。
己の役目が終わるときが来たのだと、体の奥底が知っていた。
どうせいつかは、彼女のほうから手を離される。だから自分から動いたって、なんの変わりもない。ただ少しばかり、その時が早まるだけだ。
そうしてジークは、彼女の臣下に導かれるまま王女の部屋へと向かった。
王女を、女王にする。
それは夢見る少女を踏みにじり、無垢な花を手折ること。
泣きながら、王になどなれないと訴えていると聞いていた。
今まで求められたのは、その涙を拭ってやさしく寄り添い、願いを叶えてやることだった。
けれど今から、それとは正反対のことをする。差し伸ばされた手を払いのけ、甘える声を冷たい刃で断ち切ろうとしている。
ジークは一抹の緊張を携えながら、部屋の扉を叩いた。
声をかければ扉が勢いよく開き、すぐにエリュシアが胸に飛び込んできた。
まず、その軽さに驚いた。この数日間で、随分とやつれてしまったようだった。
腕の中の彼女は羽のように細く、頼りなく、折れそうで。泣きはらした目も頬の色も、まるで花びらが擦り切れる直前のようだった。
「ジーク! ああ、ジーク……! わたし、あなたに……とても会いたかった……!」
消え入りそうになりながら、届けようと必死な声。壊れかけの音色が胸の奥を揺らした。
こちらを見上げるその瞳は、涙に濡れながらもなお、懸命に輝こうとしていた。
思わず、逃げ出したくなった。否、連れ出してしまいたくなった。
このまま、この少女を王などにせず、どこか遠くへ──。やはりこの少女には、王などという荷は重すぎるのではないか。
いや、そんなことをして何になるというのだ。今日は彼女に引導を渡すために来たというのに。
喉まで出かかったその言葉を、寸前で噛み殺す。
そして少女はいつものように、願いを口にした。けれどその声は震えていて、いつもより、ずっと必死だった。
なんのことはない、いつもと変わらない、ただのわがままだ。
そう言い聞かせて、現実へと突き放す。
「君なら、できるよ」
こう言ったら、泣いて縋るのだろうと思っていた。
皆に愛され、優しさしか知らぬ、甘やかされた純真なる少女。きっと傷つけられたら、一人で立ち上がれずに助けを求めてくるに違いない。
そんな人の悪意を知らぬ彼女が眩しくて──妬ましくて、憎らしかった。ひたむきに愛情を注がれ続けることが、鬱陶しかった。そう思わないと、自分を形作るものが変質していきそうで、おそろしかった。
だから彼女が一番望まぬ言葉を選んだ。そうしたあとに縋ってくる彼女に、最後の情けを与えるふりをして終わらせようと──そう思っていた。
けれど。縋りはしなかった。泣き崩れも、助けも求めなかった。
それどころか──エリュシアの顔からは、色が抜け落ちていた。
笑っていた唇が、凍るように静かになった。きらきらと幸せの象徴のように揺れていた虹色の瞳が、深い影に沈んでいく。
音もなく、花が落ちた。
愚かにも、違うと心が叫ぶ。こんなはずではなかったという衝撃が広がる。
これを選んだのは疑いようなく己であるはずなのに、愕然とした。
もっと縋って、もっと泣いて、できないと惑うのがエリュシアだったはずなのに。
彼女は、自分の思う通りにはならなかった。
口がからからに渇く。本音も、誤魔化しも、何ひとつ形にできない。
途端に、自分が何をしたかったのかわからなくなった。終わらせるつもりで来た。傷つけるつもりで来た。少女を、殺すつもりで来た。しかし今、ジークに湧き上がった感情は──。
笑みを刻まぬ口元が、潤まぬ瞳が、その静けさが、おそろしい。
ジークはそれ以上見ていられずに、振り返りもせず、無言のまま部屋を出た。
逃げ帰る足音が、自分を追い詰めるようだった。
自分は今、この世で一番美しいものを壊してしまったのではないか。それを望んだはずなのに、押し寄せる後悔に足元をすくわれた。
出迎えた臣下が、薄く微笑んで礼を言う。
目も合わせられぬまま、乱れた歩幅でジークはその場を離れた。
*
呼び出しは途絶えた。
今までは頻繁に王宮に顔を出すように言われていたが、今はもうそれは必要ない。
あの日以来、臣下から再び声がかかることはなかった。
まもなくエリュシアの女王即位の報が、鐘の音のように国中に広がった。つまり、彼女を王にすること自体は上手くいったということだ。
戴冠式にも、記念パレードにも、夜会のいずれにも、ジークは顔を出さなかった。出せなかったというほうが近い。
エリュシアとあのような別れ方をして、どのような顔をして、どんな話をすればいいのかわからなかったからだ。
それに、自分がその姿を見せたら──ほんのわずかでも甘えた表情を浮かべてしまうかもしれない。それは、戴冠した女王の面目を潰すことになる。だから息を潜めているくらいがちょうどいいのだと、そんな勝手なことを考えた。
あれからジークは己からこの関係に終止符を打ったことについて、あくまでも正しいことをしたのだと思い込もうとしていた。
それが彼女の未来のためであり、国のためでもあったのだ、と。
これを彼女も理解してくれるだろうし、感謝こそすれ恨まれる謂れはない。いつか再会することがあれば、笑って迎えてくれるはずだ。
そう思うことで、逃げようとしていた。
ジークは日常へと戻った。
女遊びに耽り、安い酒と煙草、そして賭博に沈む。夜の街に吸い寄せられ、女の膝枕で酔い潰れ、朝方には路地で頭痛を抱える。
エリュシアと出会ってから、次第に足を遠ざけていた場所だった。だが、もうそうする理由がない。
媚びた女のまなざしが、肌の上をなぞる。酒場の喧騒は知らぬ言語の歌のように、頭の奥で濁る。
久方ぶりに、煙草に火をつけた。苦みと焦げた香りが肺を満たす。
そういえば──近頃は、花の香りを含んだ清涼な空気ばかりを吸っていた。吐き出された白煙の向こうに、硝子の温室がちらりと脳裏を過ぎる。
それを振り払いながら、ジークは再び濁った夜の中へ身を投じた。
家は居心地が悪すぎて、帰る気にもならない。どうせ自分がいないほうが、上手く回るに決まっているのだ。
夜の帳が下りる酒場には、いつも決まって不確かな灯が揺れていた。
酔いと煤けた笑い声のあいだには、日のあたる場所では決して交わされない話題が浮かび、沈み、また泡のように浮かびあがってくる。
そこでは、国の未来も女王の威厳も、ただの噂と冗談の材料にすぎなかった。
「──あの女王様さあ、昔っからわがままだったんだろ? ほら、なんでもお願いで通してきたって聞いたことあるぜ」
「『ねえ、お願い。戦争しないでくれる?』とか言ったりして」
「え~俺なら許しちゃうかも~」
「なあ、ジーク。お前はどう思う?」
グラスの底で氷がからんと鳴った。
数秒の沈黙が落ちる。ジークは静かに一口酒を飲んだあと、グラスを置いた。
「……ああ。確かに、言うかもな」
笑い声が弾ける。軽薄な声が、天井の低い空間に跳ねて、また湿った空気に溶けていく。
ジークも笑っていた。薄く、なかば義務のように、口角を引き上げた。
彼の中で、エリュシアはまだあの頃のままだった。お嫁さんにしてね、と言いながら、そっと自分の袖を引いた華奢な指。
あの日の光を失った少女の姿は、今ではもう彼の中ではうまく現実と結びついていなかった。
──あれは、動揺していただけだろう。
そう、自分に言い聞かせる。
ジークの中では、彼女はまだ願いを言ってなんとかしようとしてもらう庇護の必要な少女であるという想像が抜けなかった。手折った自覚は時間とともにどこかへいってしまった。
女王になった彼女は、きっと今も不安がっているはずだ。
だからもしも、彼女がまた自分を必要としたのなら──そのときは、手を伸ばしてやってもいいかもしれない。
そんな都合のいいことばかりを考えていた。
ある晩、酒場で些細なトラブルに巻き込まれた。
肩がぶつかっただの、見た目が気に食わないだの──理由というにはあまりにも貧しい罵声の応酬。
酔いと煙草の匂いにまみれた空間で、怒りを撒き散らす声が飛び交った。
ただ同じ空間にいて目が合ったというだけで、数発もらった。鋭い痛みが頬を打ち、腹を抉り、感覚が傾いた。
ジークは顔を腫らしたまま、路地裏の端へと放り出された。
澱んだ痰壺のような夜の底。石畳の上に転がる音が、どこか遠くの出来事のように響いた。
身体が地面に沈む。手足は重たく、冷たい地に吸い込まれてゆくようだった。
起き上がることもできず、そのまま仰向けになった。
静かだった。空を見上げると、薄い雲の切れ間に、ひとつ、またひとつ、星が浮かんでいた。
街の光が届かない、ほんのわずかな空白の夜。光が遠いほど、なぜか、それが手に届くような錯覚を覚える。
ジークは、指を伸ばしてみた。掠れるように開いた指先が、空の粒をなぞるように揺れた。
「……エリュシアよりも、輝く星は……ないんだな」
言葉は、吐息に近かった。濁った息が夜気にほどけ、そばから消えていく。誰にも届かぬ言葉だったが、だからこそ本音だった。
星は瞬く。ただそこに在るだけで、美しかった。何も語らず、誰の答えも要せず、ただ淡く、凛として。
地に背を押しつけたまま、ジークはずっと、空を見ていた。
彼はもとの自分に戻れたとばかり思っていた。酒も、女も、煙草も、夜の雑踏も、あの頃と変わらない。
けれど──何かが、足りなかった。
どんなに飲んでも酔いは薄く、どんなに触れても熱は残らなかった。飢えのような渇きが、骨の奥に染みついていた。
それが、なんなのか。──わかりきっているはずなのに、わからないふりをした。
男は鈍く、臆病だった。そしていちばん大事なものほど、最後の最後まで認められなかった。
*
女王が、他国から婿を迎えるらしい──そんな噂を耳にしたのは、相も変わらず酒場の隅で、濁った酒と吐き捨てられた陰口が渦巻く夜だった。
「婿を取るんだとよ、あの女王陛下サマ。なんでも、東の国からだとか。ま、政略ってやつだよな」
あまりに軽い声だった。つまらぬ噂話のひとつとして交わされる、ただの戯言。
けれどそれが、ジークの心臓を素手で掴んだ。胸の奥にあった、いびつに固まった何かが、いとも容易く崩れ落ちていく。
冗談だろう、と思った。いや、冗談であってくれと、どこかで縋っていた。
なぜなら──彼女は、あの子は。まだジークを、呼んでいない。
自分の手を取って、髪に触れられて、瞳を細めて笑った。あんなにもまっすぐに、愛してくれていたはずなのに。
震える指先で、酒瓶を掴む。喉を焼くほどの強い酒が、舌の上を通りすぎる。
何も満たされなかった。ただ、黒く冷たいものが、胸の内側に沈殿してゆくだけだった。
彼女が、誰かの隣に立つ? 他の男の名を呼び、他の男に「お嫁さんにして」と願う──?
そんなもの、あってはならない。ありえるはずがない。
最初に頼られるのは、最後まで信じてもらえるのは、誰より近くにいた自分だったはずだ。
それを、彼女の愛を否定していたくせに当然のように思っていた。
彼女が他の男の腕に納まることなど、一度だって想像したこともなかった。
胸の奥が、黒く焦げた鉛のような何かに締めつけられ、焼けただれるように痛んだ。
焦燥が、喉元までせり上がってくる。
その瞬間ようやく、ジークは気付いてしまった。今更、認めてしまった。
ジーク・ヴェルガーは、エリュシア・ル・タレイアを愛していたと。
愛のことをどこまでも忌み嫌っておきながら、無垢なる少女の心を否定しておきながら、注がれる愛情にいつしか心地よさを感じていた。それをずっと、自分自身で否定し続けていた。彼女の愛を信じたら、今までの自分がすべて嘘になってしまう。
それが怖くて──だから踏みにじった。自分の中のおそれを宥めようとした。
本当は、今までもずっと、心の奥で彼女の名前を呼び続けていた。
あの声を、あの瞳を、あの温度を、胸のいちばん奥で抱いていた。
どんなに酒に溺れても、煙草に沈んでも、その面影はひとつも消えなかった。
すぐにでも、会わなければ。遅くなる前に。
今ならまだ、間に合うかもしれない。それだけですべて、元に戻るかもしれない。
そう信じて、立ち上がった。
ふらふらと、家へ帰る。靴は泥にまみれ、手には酒の匂いが染みついている。
それでも迷いはなかった。
机の引き出しを乱雑に開き、便箋を引きずり出し、酔ったまま、筆を取った。
震える手で、伯爵家の名を綴る。
謁見を申し込む。女王エリュシア・ル・タレイアに、かつての“友人”として。
「彼女なら、きっとすぐに会ってくれる。だって、エリュシアは……」
ジークは、その幻想に縋るように、目を閉じた。
──女王になっても、君は変わっていない。
変わってなど、いるはずがない。
あの光の中で、俺だけを見つめていた君のまま──今も、俺を待っているはずだ。
だって彼女の温もりを、俺はまだ、覚えている。
だから君は、きっと許してくれる。
わかってくれているはずだ。俺が手を離したのは、君を試したかったからだと。
愛していたから、壊したのだと。
壊したとしてもなお残っているなら──それが、真実の愛なのだと。
そして、それこそが俺を救うことのできる唯一の証だったのだと。
そうでなければ、あの瞬きも、あの微笑みも、すべて夢で終わってしまう。
そんなわけがないと、思いたかった。
*
謁見の許可は下りなかった。
届けられた手紙の封蝋を解いた瞬間、冷気のような何かが差し込んだ。
ジークは、半ばぼやけた目で便箋に目を走らせる。
──必要性を認め難い。
──公的な利益が認められない。
──個人的感情に基づく内容と推察される。
行儀の良い言葉で、見下ろすような文面が記されていた。
会う価値すらないと、そう書いてあるのと同義だった。形式的な、他人の手による無機質な手紙。
指先が震えたのは、酔いのせいか、怒りのせいか。あるいは、恐怖だったのかもしれない。
「エリュシア、俺は……」
送った手紙にどんな言葉を綴ったかなんて、もう覚えていない。けれど、想いは確かだった。自分が傷つけたことも、終わったはずの関係だということも、全部忘れて──ただまた会えたらと願っていた。
今更胸が苦しかった。文字が滲んだのは、涙のせいではない。ただの二日酔いだ。
酔いなどとうに醒めているくせに、そう言い聞かせる。ジークは手紙を握りしめたままその場に崩れ落ちた。
どこにも彼女の名前がない文面を、何度もなぞるように読み返す。そこに別の言葉が浮かび上がってくるのを、待つかのように。
ただの少女の名を、声にならない声で呼んだ。
彼女は答えてくれなかったのに──まだ、戻れると思っていた。
だって、記憶に住む温室に咲いた少女は今もなお笑いかけてくれる。
あの光の日々の中で、自分を待ってくれているはずだった。
その花を手折ったのはほかでもなく、己であったのに。