3.戴冠と別れ
今回も少し長くなってしまいました……。
王女の庭では、今日も薔薇が思い思いの色を咲かせていた。薄紅から純白、黄、橙、黒に近い赤など──いつ来ても花が絶えることはなかった。
ジークはふとなんとはなしに、エリュシアへと問いかける。
「薔薇を美しく咲かせる秘訣はあるのかい?」
王族に対しては不遜とも思える口調。
しかしながら何度もエリュシアがせがむので、根負けしたジークがこの温室の中では使うようになったものだ。この光の箱の中では、ただのジークとエリュシアだった。とはいえ、外でも王女の機嫌を取るためには時折顔を見せる言葉ではあったけれど。
ジークの言葉の在り方を聞いてエリュシアはずっと嬉しそうにしながらも、彼女はそっとその唇の前に指を一本立てた。
「乙女の秘密よ」
そして意味ありげに微笑んだ。
その仕草に、ジークは無意識に片眉を上げる。どうせお抱えの庭師が丁寧に仕事をしているだけだろうな、と思った。何を隠したがるのかはわからないが、そういった秘密というものに憧れのある年頃なのだろう、とも。王女が泥に膝をつく姿など、想像できなかった。
けれど本当のところは違った。
王女は自ら夜明け前にひとりこっそりと温室を訪れては新しい苗を植え、古い葉を摘み取っていた。気に入ったものに手をかけ、大切に世話をするのが好きだった。ただ泥にまみれた手を、好きな人には知られたくなかっただけだ。
「あっ、そうだわ。ジーク、今日はしてほしいことがあったの」
今日“も”、のほうがきっと正しい。彼女のお願いは日々留まるところを知らなかった。
叶えられることに慣れきった言葉を聞きながら、ジークは癖になったように形のよい笑みを作って望み通りにする。
「いいよ。何?」
「お膝をちょっと貸してほしいの!」
言うや否や、エリュシアは白いベンチにジークを座らせ、自らの身を躊躇いなく預けた。正確には、彼の膝の上に少女の頭が置かれる。
温室に注ぎ込む日の光がエリュシアの瞳に吸い込まれていく。睫の影が落ちても、きらめきはそのままだった。
ジークの心はひどくざわついた。彼女の瞳が、あまりにも熱を孕んでまっすぐ自分を見上げるからだ。
一向に飽きる気配のない王女に、近頃のジークもさすがに困惑していた。まさか一生飽きることがないのだとしたら、それは、もしかしたら本当に──……いや、そんなわけはない。あくまでこれはままごとにすぎないのだから。
やがてジークはその視線に耐えきれず、あるいは惹かれるように、手を伸ばした。その手は、そっと髪に触れた。指先が、そのつややかな糸を撫でる。触れたそばから、指の間からするりと抜け落ちる。それでも、光が彼の手元にも宿った気がした。
「……すみません、許可なく触れるなど」
即座に頭を下げる。だが王女は、感激したように頬を紅潮させて言った。
「いいえ、いいの! ねえジーク、もう一度……今のをして?」
ジークは目を逸らしかけた。けれど、輝く瞳の引力から逃れることができない。見つめる力が相も変わらずあまりにもまっすぐで、強かった。
もう一度ジークは、そっと彼女の髪を、その頭を撫でた。少女は心地よさそうに目を閉じた。瞼に隠されてしまったことが、少しだけ惜しいと思った。
奇妙な時間だった。一国の王女が、一介の青年に膝枕を所望する。普通なら、そんなことはありえない。
けれども、ここは温室。花が咲き、陽が注ぎ、鳥すらも訪れない、二人きりの庭。
今日も、おだやかな時間が流れていた。
──ずっと、こんな日々が続くものだと。終わりが来るのだと勝手に決めつけておきながら、ジークはそんなことを思っていた。
*
──王妃が、逝去された。
昔から体の弱かった王妃が寝込む日が増え、ついに灯を失った。まるでろうそくの火を吹き消すように、静かに何も告げず、ただ一夜のうちに。王と二人揃って隠居しようと考えていた矢先のことだった。
王はそれから呼吸の仕方を忘れてしまったかのように言葉を失い、後を追うように病床に伏せた。その数日後には深い眠りに沈み込み、もう誰の呼び声にも応えない。
王宮の空気は冷え込み、国が喪の色に染まっていく中、ただひとり──少女だけが、時の速度に取り残されていた。
目まぐるしく変わっていく環境に、エリュシアはついていけなかった。
このところ空もずっと淀んでいて、気持ちが落ち着かない。世界がいつもより濁って見えて、知らない場所に来てしまったかのようだった。
国は王子に託された。かねてより王子は国を継ぐ者として教育を受け、もとより戴冠式も間近に迫っていたことから、その手続きを早めることとなった。
そうして慌ただしく過ごしている兄に、エリュシアはつい縋ってしまった。
「ねえ、お兄様……どうすればいいの、わたし……」
王宮の片隅で、エリュシアはおずおずと尋ねる。
「エリュシア……何も不安がることはないよ。すべてお兄様に任せていなさい」
そうやって、エリュシアを安心させるように笑ってくれた。いつも通りのやさしい笑顔だった。
これでもう安心だ。エリュシアは嬉しそうにして、それからも変わらない日々を過ごした。
兄の戴冠が徐々に近付いてくる。婚約者も正式に義姉となる。王妃の死は悲しいし、王のことも心配だ。でも、きっとみんながなんとかしてくれる。
だから、大丈夫だ。
けれどその安心は、あまりに脆く、甘く、儚かった。
──不幸は時に、重なって訪れる。
「……え? お兄様が……?」
報せを携えた臣下の声が、耳の奥で遠のいた。
視察先で、王子の乗る馬車が土砂崩れに巻き込まれたという。捜索は行われているが、生存は絶望的とのことだった。
血の気が引いて、言葉が出なかった。自分の体の重さすら、どこか遠いもののようだった。
任せていいと言った兄がいなくなった。いつもエリュシアのお願いを聞いてくれた母も、父も、兄も──誰も、いなくなってしまった。
「ど……どうしよう、わたし、どうしたら……」
口の中で崩れるように、言葉が形にならない。
誰か答えてほしい。でも、誰も教えてくれない。少女が求めているのは、この状況を一瞬で解決してくれる魔法だった。
王子にこの国は託されたはずだった。兄がこの国を導いていくはずだった。けれどその兄がいなくなってしまったというなら、この国はどうなるというのだ。エリュシアにはわからなかった。
「エリュシア王女殿下──あなたが、王になるのです」
冷たく澄んだ水面のような言葉が、部屋の空気を震わせる。
「……え……?」
そのとき、エリュシアは己の頭の上に雷が落ちてきたのかと思って身を竦ませた。
聞いたのに、理解できなかった。自分が王になるのだと、そんなことは考えたことがなかった。
偉大なる父王と、それを継ぐべく立っていた兄の背中。それだけを見て、それに守られて、少女はここまで生きてきた。王冠とは、父と兄のものであり、自分はその傍らで花を愛でていればいいと思っていた。温室に咲く薔薇のように、ただ愛されて生きていくのだと。
けれどここにきて、国を背負わなければならないと言われて──戸惑いを浮かべるほかなかった。
「そ、そんな……無理よ。無理、わたしには無理っ……!」
足元から崩れるように、体が揺れた。
なれるわけがない。自分が王になど。
「残された直系血族は、王女殿下おひとり。……かつて女王が即位された例もございます」
「そんな……だけど、国のみんなだって、こんなわたしが王だなんて……絶対嫌だと、そう言うはずよ」
藁にも縋る思いで発した言葉。こんな右も左もわからぬ小娘などを、民たちが望んでくれるはずがない。
「いいえ。誰もが、王女殿下の即位を望んでおります」
臣下は言った。
王妃によく似た姿かたち。朗らかで、よく人の声に耳を傾け、笑顔を絶やさなかった王女のことを、民は愛していると。
そして王が臥せ、王妃と王子を喪った今、国は新しい光を欲しているのだと。
それは傍系などから無理矢理探してくるのではなく、ずっと民に姿を見せ愛されてきたエリュシアだからこそ担える役割だと。
エリュシアはめまいがした。
頭の中で世界が反転していく音を聞いた。目の前の光が、急速に歪んで見える。
「うそよ……これは、全部悪い夢? そうなんでしょ?」
声に出して言えば、目が覚めるような気がしていた。
けれど、それを否定する者はいなかった。
エリュシアはそのまま、ふらふらと自室へと戻る。
扉を重く閉ざし、侍女も残らず下がらせた。たったひとりで、少女は眠りに逃げようとした。
目を閉じると、ひとつの想いが浮かび上がってくる。
──ジーク。あなたに、会いたい。
温室の光を夢想した。
あの何も起こらなかった幸せな時間が、胸の中で痛むほど、まぶしかった。
*
日に日に民衆の声は大きくなっていった。
エリュシア王女殿下を、女王に。
願いでもなく、祈りでもなく、それはもはや抑えきれぬ奔流のように膨れ上がっていた。
エリュシアは、あの日から一歩も外に出ていなかった。
あれほど大好きだった温室にも行けなかった。城の中にいてさえ、民衆の声が聞こえる気がする。この部屋から出ていったら、その声がきっともっと大きくなる。耳に届く名指しの呼び声が、エリュシアはおそろしくてたまらなかった。
それに触れてしまったら、戻れなくなるような気がしていた。
民衆がエリュシアを女王に押し上げようとする熱が高まるほどに、エリュシアは弱っていった。
やがて、それを見かねた臣下がある人物を呼び寄せた。
──控えめで、迷いがあるような音で、エリュシアの部屋の扉が叩かれる。
「誰? この部屋には誰も通さないようにって……」
震える声が響いた次の瞬間、その扉の向こうから声がした。
「……王女殿下──」
「!」
その声を聞いた途端、エリュシアの足が床を蹴っていた。駆け出した少女は扉を思いきり開け放つと、その胸に飛び込んだ。
そこは、あまりにも懐かしかった。あたたかく、柔らかく、やさしい記憶そのものだった。
「ジーク! ああ、ジーク……! わたし、あなたに……とても会いたかった……!」
その声は、悲鳴のようでもあった。
驚いたように動きを止めた男の腕に、少女の細い腕がしがみつく。その頬は涙に濡れていて、息は乱れていた。奥底に溜め込んだものが、今すべて流れ出していくようだった。
「王女殿下……」
「いや、いやよ、ジーク。お願い、名前で呼んで」
「……エリュシア様」
願いを叶えてもらった少女は、かすかな安堵を浮かべる。
いつもはただ自分の名前を呼んでほしいだけだった。けれど今は、どうしても王女と呼ばれたくなかった。その立場から、遠いところへ行きたかった。
「ジーク……お願い、撫でて……撫でて、ほしいの。わたしを、安心させて……」
少女の声は、とても小さく震えていた。
こわごわと、それでも確かに、ジークがエリュシアの頭を撫でる。それが嬉しかった。だが、それでも彼女の涙は止まらなかった。
「ねえ、ジーク。わたし、王様になんて……なりたく、ないの」
「……」
「だって、何もわからないの……お母様も、お父様も、お兄様も……誰も、教えてくれないのよ。どうしてなの……」
壊れそうな声が、言葉の途中で何度も折れた。
答えを求めるように、エリュシアはジークを見上げた。ジークは眉を寄せて、何かを堪えるような表情をしていた。それがどんな感情から来るものなのかエリュシアにはわからなかった。それでもジークのことを信じていたから、言葉を続ける。
息継ぎさえままならない中で、彼女は絞り出すように言った。
「ひとりにしないで……ジーク、わたしとずっと一緒に、そばにいて……」
それはいつものお願いではなかった。
彼女のお願いは、愛されてきた証拠。ひたむきにすべてを信じた、誰も自分を拒むことはないと思っていた、疑うことなく差し出された彼女の心。
けれど今ここにあったのは、哀願と呼ぶに相応しいものだった。彼女は今はじめて、差し出した心を握りつぶされるのではないかと怯えている。
「わたしを……お嫁さんにするって、そう言って。ジーク、お願いよ……」
王になったら、その願いは叶わない。
「お願い、言って……」
だから、叶えてほしい。
涙に潤んだ瞳が、輝きが、光そのものが、ジークを見上げた。
ジークの手が、そっと彼女の肩に置かれた。
そしてやさしく──けれど決定的に、彼女を離した。
「君なら、できるよ」
告別のような言葉だった。
ぱきり、と。心の奥で、音が割れた。
「……あなたは、わたしに……王になれと、そう言うの?」
ジークは何も答えなかった。その背を向けて、静かに去った。
「……ジーク」
扉が閉じた後、ぽつりと呟いた声以外、部屋には何の音も残されていなかった。
そこには光を失った少女だけがいて、彼女の胸の中で、何かが静かに終わっていた。
*
彼女が“少女”を終えるその朝は、ここ数日の曇天を嘘にしてしまうくらい晴れていた。
この日のためにあつらえたはずのドレスは、着慣れた喪服のようにも感じられる。肌にすべる感触も、冷ややかでよそよそしい。
鏡の中に映る“王女”は、かすかに震えていた。
そのことを知るのは、鏡の中の彼女と──これから“女王”になる自分自身だけだった。
扉の外では、式の準備が整い、音楽家たちが練習のために音を鳴らし始めている。
もう今度こそ本当に戻れないのだと、思った。
この扉から一歩踏み出せば、もう誰も自分を少女と呼んでくれない世界が待っている。
本当は──エリュシアだって、わかっていた。
残された自分がこの国を継がねばならぬこと。いつまでもわがままを言うばかりの娘ではいられないこと。そして、ジークのお嫁さんには、なれないこと。
けれどでも、ただ、言葉だけがほしかった。あの人の口から語られる、愛の証がほしかった。いつものように、お願いを叶えてくれるだけでよかった。そうしたら、きっとこの先も生きていけるような気がしていた。
でも、最後の最後に彼は、それをくれなかった。
だから、無垢なる王女はここで殺してしまおう。
エリュシア・ル・タレイアは、冷徹な女王となる。
この国のために、この身を捧げよう。
──さようなら、わたしの恋心。
扉が叩かれる。それは儀式開始の合図だった。
立ち上がる。足元がふらつく。
前までなら、誰かに支えてもらった。けれどもう、誰の手も借りないと決めた。
しめやかに扉が開かれる。そこに満ちるのは、祝福の香気──けれどその底に、どこか死の気配が混じっている。
参列者たちの列、その奥に広がる戴冠の間。
エリュシアは一歩、また一歩と、式場の中心へと歩みを進める。民たちはその様子を見守っていた。
王冠が持ち上げられ、ゆっくりとエリュシアの頭上に乗せられる。本来は、誰の頭上に置かれるはずだったのか──それは、もう考えてはならぬことだった。
「今日この日より、わたしが──」
口にしてしまってから、すぐに言い直す。
「わたくしが、この国の王となります」
震える唇を悟らせないよう、明瞭に宣言する。
父のものでも、兄のものでも、少女のものでもない──ただひとつの、女王の声で。
そこにいるのは、もう少女ではなかった。その瞳は、もう夢を見ていなかった。
民たちは涙を流して、彼女を呼んだ。
「エリュシア女王陛下万歳!」
「我らが女王に祝福を!」
けれどその歓声が、くぐもって聞こえる。音も、色も、熱も──すべてが遠く、硝子の向こうにあるようだった。
エリュシアは民衆の熱狂を見下ろしながら、静かに微笑んだ。
──そのとき、光を浴びていた窓のひとつから、ひとすじの露がすっと垂れ落ちる。
それは少女の終わりを悼んだ世界が、そっとこぼした涙のようだった。