2.恋と呪い
少し想定より長めになりました。
「ねえジーク、わたしをお嫁さんにしてね」
一際澄んだ声だった。陽の粒に触れてしまったら、溶けるような声音。それに願いを乗せながら、オパールのような輝きを閉じ込めた瞳がじっと一人の男を見上げる。静謐な美しさがありながらも、そこにはきらきら光る好意が熱を持って宿っていた。
彼女の想いを代弁するように、咲き誇る薔薇たちが揺れている。王女のためだけに整えられた、小さな庭園。彼女のお気に入りをいくつも集めたその場所に、いつしか男は入ることを許されていた。
城の外れにある温室は二人の秘密を共有する場所だった。花の香りと差し込む陽の光、柔らかな土の匂いと水音に包まれた、小さな異界。
逢瀬はいつもここでひっそりと、夢のように行われていた。
*
ジーク・ヴェルガーは美しい男だった。
けれどその美しさは祝福ではない。それは過ちの痕跡だ。
鈍く光を返す金の髪。黄昏の色を湛えた目。涼しげな睫と整った唇。どこか冷たく寂しげな、その愁いを帯びた貌は、見る者に奇妙な懐かしさを抱かせた。
貴族の娘たちは彼に夢を見た。使用人たちも、皆ひそやかに彼の姿を追っていた。
彼は己が美しく生まれたことを知っていた。だが美しいと言われるたび、心がささくれた。
鏡に映る己の顔を、よくできた仮面のようだと思った。眉の弧も、瞼の薄さも、唇の曲線も──それは、母によく似ている。
ジークは伯爵の父と使用人の母のもとに生まれた。
母は若く美しい人だったが、その美貌を売りにはせず、倹しく暮らしていた。生活が苦しい生家の家計を支えるために仕送りをし、骨身を削って働くことを当然としていた。自分の幸せなど、考えたこともなかったのだろう。
伯爵は、そんな彼女に恋をした。
来る日も来る日も、毎日のように甘言を重ね、愛を語った。彼女がそれを拒んでも、執拗に口説き続けた。頑なだった母も、必死に言い募る伯爵に絆されてとうとう体を許してしまった。
そうして身籠ったのがジークだ。妊娠がわかった途端、伯爵は彼女に多額の金を握らせて遠くへやった。必ず迎えにいくと、家を捨ててでも君とともに生きると、そう告げられた言葉を母は信じた。
しかし伯爵が迎えに来ることはなかった。今までの無理がたたって体を壊し体調を崩しがちになった母は床に臥せる時間が長くなり、そのうち寝たきりになった。
やがて、じっと窓の向こうばかりを見るようになった。そんな状態になってまでも、母は伯爵を信じていたのだ。
いつか伯爵様が迎えにきてくださるから、そうしたらきっとお母さんもよくなるから。何度も何度も、ジークにそう言い聞かせた。
そして──伯爵の愛を信じた彼女は、そのまま死んだ。
伯爵が迎えを寄越したのは、母が亡くなったと知ってからだった。
彼が何を思って自分を引き取ったのか。ジークにはわからなかったし、知りたいとも思わなかった。
ただその日から、自分の名前は“ジーク・ヴェルガー”となった。あまりにも舌に馴染まない響きで、余計なものが取り付いてしまった心地だった。父親の姓が付いたその名前は、重くて剝がせなかった。
伯爵家の人間として育てられても、違和感が拭えなかった。居場所はなく、伯爵家の絨毯の上に立つたび、まるでぬかるんだ泥を踏んでいるようだった。
ジークは愛を信じなかった。
幼い背丈で見送ることになった女の枯れた手と、痩せた頬と、閉じたままの瞳の奥に残ったもの──それが、愛などというものだったのならば。
そんなものなら、ないほうがよかった。信じることで、死んでいった。信じることで、すべてを失った。
母を殺したのは病ではなく、待ち続けた約束の熱。呼ばれなかった名。返されなかった手紙。来なかった人。そのすべてすら、愛という名がついていたのなら──ジークにとって、それは人を死に導く呪いでしかなかった。
だからジークは傲慢に振る舞い、美貌を武器にし、女たちを翻弄した。愛を試し、愛を否定する。
そうして、彼は気付かぬふりをして生きてきた。
愛などない。少なくとも、自分に向けられるそれは、すべて仮面の上にかかる幻に過ぎないのだと。
──引き取られて数年経った頃のことである。
ジークは王宮の祝宴に立っていた。国の第一王子の誕生会に伯爵家の代表として出席することになったのだ。顔だけはいいのだから愛想でもなんでも振りまいてこい、と社交を面倒がった父に言われてのことだった。
金糸のような光が天蓋から降る広間の片隅に、彼は静かに潜んでいた。
人々のざわめき、甘い菓子の香、楽しげに揺れるドレス──すべてが、彼には絵画の中のことのように思えた。
ジークが庶子であることはとうに知れていたから、遠巻きに見られているだけで誰も表立っては話しかけて来ようとしなかった。そんな中で積極的に交流を持とうという気にはジークもなれなかった。
ひとりで壁際に立ち、遠くで交わされる言葉たちを黙って眺めて、適当に時間を潰す。
そして頃合いを見て、そろそろ帰ろうと広間を横断しようとしたときのことだった。
「きゃっ……!」
か細い悲鳴が脇から聞こえた。驚いて体ごとそちらを見やれば、この国のたったひとりの王女──エリュシアがバランスを崩して、ふわりと腕の中に倒れこんできた。奇しくも、王女を救うために身を挺した図になってしまった。
軽く触れたその手の華奢さと、まっすぐに見上げてくる瞳の大きさが、ジークの呼吸を不意に止めさせる。
「お怪我はありませんか、レディ」
口に出してから、自分の声音の滑稽さに気付いた。
祝いの場にて、不敬に当たりかねない接触。すぐに身を離さなければならないはずだった。
けれどエリュシアは何も言わず、ただぽかんとジークを見つめ続けている。まるで、夜空に初めて星を見つけた幼子のようだった。
さすがに気障すぎただろうか、と今になって恥ずかしくなってきたジークはようやく彼女から離れようとする。しかしその腕を、少女の手がしっかりと掴んでいた。
ジークは思わず周囲を見やる。騒ぎを察して動こうとした衛兵たちを、王女が視線だけで押しとどめたのを見て、彼の背中に冷たい汗が滲んだ。
「……レディ?」
これ以上はさすがに周りの視線が痛い。ジークは笑みを貼り付けながら、頬が引き攣るのを感じた。
「あなたが……」
「はい?」
「あなたが、わたしの王子さま?」
豪奢なシャンデリアの光を取り込んだかのごとく、王女の目が輝いた。
「ねえ、そうなの?」
「い、いや……俺、私は、そんな身分では。恐れ多いことです」
「そういうことじゃないの! それなら、お名前を教えて?」
少女は頬をぷくりと膨らませた。その仕草ひとつとっても、どこまでも無垢で、王族という言葉からほど遠かった。
エリュシアに乞われるままに、ジークは戸惑いながらも唇を開く。
「ジークです。……ジーク・ヴェルガー」
「そう! ジークね。ジーク・ヴェルガー。覚えたわ!」
満開の花のように、エリュシアは笑った。
その瞬間、ジークははじめて、自分の名前が口にされて心地よいと感じた。それまで、己の名は重荷にほかならなかった。母の記憶、伯爵の影、押し付けられた血筋──すべてが名の中にあった。
けれど彼女が呼んだとき、それはただ一人の自分のもののように軽やかに響いた。
「わたしはエリュシア。ねえ、ジーク。わたしのお願いを聞いてくれる?」
「え? ああ……ご命令であれば」
「命令じゃないわ! お願いよ!」
少女は今度は唇を尖らせる仕草で不満を示した。表情がくるくると変わる、賑やかな少女だ。まさか王女がこれほど感情がはっきりした人だとは思いもしなかった。王族とはそれだけで、自分とは──ただの人間とは、遠い存在のように感じていたから。
そしてそのまま、彼女は告げた。
「あのね、ジーク。わたしを……お嫁さんにしてくれる?」
時が止まった。
ガタッと王が椅子から思わず立ち上がった音。パリンと王子が持ったグラスが手から落ちて割れた音。それらを見て、王妃が優雅に笑う声。
周囲の人間も、ジーク本人ですら、何が起きたのかわからなかった。
しかしその原因である少女はひたむきに、ジークを見上げ続けていた。
それが何を意味するのかも知らずに、ただ目の前のものに心を奪われた少女がそこにいた。
*
遅くに生まれた末娘だということもあって、エリュシアはその家族によく可愛がられていた。誰かの悪意も知らぬまま、日々を愛されて過ごしてきた。
唇を尖らせて何かを望めば、それは小鳥の囀りのように扱われ、誰も咎めなかった。幼い王女が一人の青年に恋をしたことも、周囲は夢の一節として微笑ましく受け止めた。
誰も真剣だと思う者はいなかった。王家が本気でヴェルガー家の庶子に王女を与えるはずがない──与えられたのはひとときの夢を見る許しだけだ、と。
しかしエリュシアは、そんなことは知らない。王女はまだ狭い世界で生きていた。自分に優しいものたちしか知らなかった。
エリュシアに見初められたジークの率直な感想としてはひとつ──面倒なことになった、であった。
王女との婚姻にヴェルガー伯爵が乗り気であることも気に食わないことのひとつだった。自分という存在を利用する気なのが透けて見えて、嫌気が差さないわけがなかった。
しかし王女はまだ幼い。その夢がじき醒めるのなら、しばらくは絵物語の王子の仮面をかぶってやってもいい。ジークは最初から、彼女の気持ちなど信じていなかった。
──ねえ、ジーク。わたしをお嫁さんにしてね。
──ええ。もちろんです、我が王女。
そのやりとりは、いつしか二人の合言葉のようになった。そう答えればエリュシアの白雪の頬には決まって紅が差すが、反対にジークの胸の奥にはいつも冷たい何かが沈んでいた。代わり映えのしない問答にもかかわらず毎度新鮮な反応をする彼女に、熱を持つことはない。あまりにも容易すぎて──これほど簡単に信じるのなら、その気持ちとて軽いのだろうと決めつけていた。
ジークはほかの女たちに使った言葉で、王女にも愛を語った。いつものように、嘘と真実の境目を濁した甘い約束を口にした。未来を預けるふりをして、手の中に彼女を閉じ込めた。
エリュシアは、ただそれだけで嬉しそうだった。
ジークはそれが、己が忌み嫌った父親と同等の行為であることに気付いていなかった。
*
「まあ、ジーク! とてもすてき! やっぱりあなたが王子さまだわ!」
着飾ったジークの姿を見ると、エリュシアの声が弾んだ。声の調子のように飛び跳ねてしまいそうなくらいの足取りで、彼女は彼に近寄った。
とある舞踏会にて、エリュシアのパートナーとしてジークは出席することとなった。
それは王の不承認を押し切ってのことだった。けれども王女がさんざん駄々を捏ねて、「お父様なんかもうキライ」と言ってしまえば王女の勝利だったらしい。相変わらず末の娘に甘いようだった。
エリュシアの瞳はまっすぐにジークを見つめてくる。素敵だとは言われ慣れてきた言葉ではあったが、彼女のそういった視線は慣れないものだった。彼女の宝石のような瞳がきらきらと熱を宿している。
様子はいつもと変わらないながらも、いつになく今日の彼女は美しかった。白磁の肌、整えられた髪の艶──それらの美しさを彩るような宝飾品とドレスを身にまとっている。
「今宵も……いえ。今宵は特に大変お美しいです、王女殿下」
そう言うと、彼女の頬がまた紅に色づく。
「もうっ! 名前で呼んでといつも言っているでしょっ!」
拗ねるように唇を尖らせる。これもお決まりの台詞だった。
彼は微笑み、敢えて言う。
「……失礼いたしました、エリュシア様」
「ジークだったら、様もいらないのよ?」
「それはさすがに。ご理解いただけると……」
あからさまにそっぽを向く王女に、思わず微笑みがこぼれた。
王女は拗ね、ジークは宥め、そしていつものやりとりに収束する。温室で幾度となく繰り返された習慣だった。
「さあ、お手を」
恭しく差し出したジークの手に、エリュシアは感動したようにそっと小さな手を重ねる。白くて、細くて、あたたかい。折れやすい雪の枝のような指だった。
そのままゆっくりと王女をエスコートして、ジークは広間へと進んだ。
途端視線が突き刺さる──好奇、冷笑、憐憫、侮蔑。人の心のざらつきに、ジークは気にしないふりをした。エリュシアに至っては、まったく気付いてもいない。
ただジークの隣に立てていることを純粋に喜んでいるだけだった。
王子が正統な婚約者とのダンスを終えると、エリュシアはジークの服の裾をそっと引っ張った。
「ねえ。ジーク、わたしをダンスに誘ってくれる?」
「ええ。もちろん。では、王女殿下──」
「そうじゃなくてっ!」
「ごめんごめん、それなら……美しいお嬢さん。私と踊っていただけますか?」
「ふふっ、いいわ! 行きましょ!」
くすくすと笑いながら、エスコートのために差し出した手を引っ張って、エリュシアは軽やかにホールへと飛び出した。
そしてジークの手を掴んだまま、くるくると回った。そうしてしばらくしてからはっとした顔をして、「違うのよ。嬉しくて。本当はちゃんと踊れるのよ」と流れた曲に合わせてステップを踏み出した。ジークも、淡く笑ってそれに合わせた。
「夢みたい……。大好きな人と舞踏会で踊るの、ずっと憧れていたの。わたし、今日のことを忘れないわ」
華やかな旋律の中、うっとりした顔でエリュシアが微笑む。その表情で、その目線で、その全身で、あなたのことが大好きだと、そう告げているようだった。
けれど彼は──恋に浮かされた熱を間近で見ながらも、どうせ忘れてしまうだろうなと思っていた。この夜も、この手の温もりも。きっといつか、飽きられて捨てられるものだ。
「お望みなら、どんなことだって現実にして差し上げます」
「本当?」
「ええ。もちろん」
「わたしのお願い、なんでも叶えてくれるの?」
「俺にできることであれば」
「ふふ、ありがとう。その気持ちがとっても嬉しいわ!」
彼女はまた、眩しいほどに笑った。夢を信じる者の笑顔だった。
ジークはその輝きの前に、目を細めた。眩しさではなく、痛みのように。
舞踏が終わると、エリュシアははしゃいで血色のよくなった頬のまま、少しだけ休むと奥へ引いていった。
音楽の名残を引きずりながら、ジークも夜風にでも当たろうかとバルコニーに出る。
そこにはすでに、月の影に紛れるようにして先客がいた。
「あらあ。こんなところになんのご用かしら、“王子さま”?」
艶の混じる声だった。薄絹のようなドレスが風に揺れ、肩先の肌が冷えた光を孕んでいる。
彼女はかつて、ジークが気まぐれに関係を持った女だった。
「止してくれよ、その呼び方は」
「有名なことじゃない。可愛い王女さまの一途な思いを注がれて……なあんて、子どものお守りも大変ね」
女は楽しげにくすくすと笑う。王女の恋という茶番を面白おかしく見守る観客の一人だった。
「それで、最近は随分と大人しいじゃない。まさか、本当にあの王女さまのことを好きになっちゃったの?」
その問いに、ジークはわずかに眉をひそめた。
「何を言ってる。そんなはず、ないだろ」
「ふうん? じゃあ、また私とも遊んでちょうだいよ。退屈してるの」
女が身を寄せる。香水の匂いが肩越しにまとわりついて、指先が袖口をなぞった。
けれど、ジークは微動だにしなかった。
「……気分じゃない」
「またそうやって。つれないのね」
女は首を傾げ、少しだけ声を落とす。
「……ね、もし私があなたに本気なのって言ったら、どうする?」
その言葉に、ジークはふっと鼻を鳴らした。
「お前が? ……ないだろ。俺もだ」
「ふふ。……やっぱり、あなたって臆病者なのね」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ。本気の恋をするのが怖いんでしょう?」
月の下、彼女の声は鏡のように冷たく光っていた。それじゃあね、と女は言うだけ言って戻っていった。
夜の闇の中、ひとりになったジークはため息をついた。
ジークは、恋や愛に本当のものは何もないと思っている。だから適当に渡り歩くくらいがちょうどいい。怖いからなど、そんな理由ではないはずだ。もやつく感情に蓋をして、ジークも踵を返した。
ジークが戻った頃、エリュシアも奥から姿を現した。一目でジークを見つけるなり、王女はぱっと笑顔を浮かべ、迷いなく駆け寄ってくる。
「ねえジーク。もう一度、ダンスに誘って?」
その声に宿る熱は、先ほどの女のそれとはまるで違っていた。真摯で、疑いを知らず、まっすぐで──。
ジークはひと呼吸だけ遅れて、手を差し出した。考えるより先に、体が動いた。
それがどういうことなのか、深く考えもせず。
*
王女は本当に、何も知らなかった。しがらみも、責任も、裏切りも。
人の愛が歪み、形を変え、やがて呪いに転じることも。
知らなかったからこそ、なんでも簡単に言葉にできた。
信じることを躊躇わない者だけが持つ無垢な残酷さが、そこにはあったのだ。
──ねえジーク、わたしをお嫁さんにしてね。きっとよ。