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1.噂と犬

 

 

 その日、ジークは回廊の影に立っていた。

 風すら差し込まぬ場所で、壁を伝う陽光を避けるように、ひっそりと柱の隙間に身を沈めていた。揺れる光の埃すら、触れてはならないようなものに感じられていた。

 まるで世界から隔絶されたかのように思えはしても、近付く靴音とともに貴族たちの談笑を耳が拾うことは避けられない。

 

「……いやあ、エリュシア女王陛下には頭が上がらんよ。まさか王配殿下とここまで巧くやられるとはね」

「あの政略結婚がなかったら、まだ我が国は隣国の顔色を窺うばかりだっただろう」

「何より、陛下には国を統べる者としての眼があった。あのラグラン様を選ぶなんて、ただの王女にはできない采配だよ」

 

 ひとつひとつの音の粒が意味を伴って鼓膜を震わせる。立っている位置からは、貴族たちの顔は見えない。しかし確かに感じる気配が、幻聴などではないことを教えてくる。

 名前も知らぬ誰かの口が、自分の記憶を勝手に再演させていく。

 すべてが地続きの現実だった。

 

「でも、昔の話を知ってるか? 数年前には伯爵家の放蕩息子と少し噂があったそうだが──」

「ああ、ヴェルガー伯爵家の。聞いたことがありますとも。まったく……あのままくっついていたら国が滅んでいたかもしれん。いやはや、よかったよかった」

「うんうん、彼は……何と言うか。見映えはよかったが、頭は軽くて立場を弁えぬところがあったからな」

「確か妾腹の子で、爵位も継げない身分だったそうじゃないか。そりゃあ陛下に相応しいとは、とても……ねえ?」

「それに比べて王配殿下は……真摯で誠実。派手さはないが、堅実で忠義に厚い。女王陛下の選択は、まさに国を救ったと言っていい」

「運命とは時に残酷で……時に、これほど見事に収まるものだな」

「そうとも、そうとも」

 

 彼らの声は軽やかで、笑いが回廊の天井に響き渡った。それは現状に対する心からの賞賛と、過去への嘲りだった。

 止まらぬ笑い声が石の回廊に跳ね返って、巡りながら重なり合って深くなっていく。

 

 嘲笑に取り囲まれたジークは影の中で歯を食いしばっていた。

 

 なおも貴族たちの噂話は留まるところを知らない。聞けば聞くほど、割れた心がさらに砕かれる感覚がした。

 彼らの言葉は磨かれた刃のようでもあった。かつての自分と、かつての彼女と──そのすべてを断ち切り、笑いの中へと葬り去る。

 

 その場に出て行って否定したくても、言葉など出るはずもない。

 それを告げたところでどうにもならないことは痛いほど知っているからだ。

 

 ──あの人は、俺を愛してくれていた。心から、俺を……。

 

 その思いは忘れ去られた亡霊のようなものだった。誰にも届かず、誰にも信じられず、自分の心の中でのみ薄く光っている。

 彼女が国のために結んだのは、信頼に足る男との確かなる契約。自分という枝葉は、彼女の中ではとうに要らぬとして静かに切り落とされた。それを誰よりも知っているのは、ジーク自身であった。

 

「ああ……ええと、ジーク・ヴェルガーか。いたな、そんな男も」

 

 貴族のひとりが思い出したように名を口にした。

 

 久方ぶりに、他人の口から自分の名を聞いた。その響きは、確かに己のものであるはずなのに、そうであるという実感がない。なんの温度も感じない。

 靴裏に付いた泥のように振り払われるだけの、愛された痕跡ごと笑い飛ばされる──ただの失敗の一例の名。

 彼らの嘲笑のもと話題に上がるそれこそ、影に潜むこの男の名にほかならなかった。

 

 ジークの目線は、自然と足元へと下った。そこにはただ物言わぬ石畳があるだけだ。背筋が少しずつ丸まっていく。肩が震え、指先が冷たくなり、息が浅くなる。

 

 逃げられはしないのに、けれど逃げずにはいられずに──視線を横へずらせば、彼女のために建てられた温室が見える。静かに光と花を閉じ込めた、少女のための硝子の箱。しかし、そこにはもう誰もいない。

 だが遠くなった記憶の中では、王女があどけなく笑う姿が浮かんでいた。この城には、彼女との思い出が多すぎた。

 

 ──もう、わたくしはあの頃の“わたし”ではありません。

 

 いつか突きつけられたその言葉が、何度も反響する。頭が理解を拒んでいるのがわかる。それでも、それは向き合うしかない真実だった。

 

 彼女の願いをはねのけたのは、自分だった。

 縋る眼差しから目を逸らし、純粋な想いを踏みにじったのも、紛れもない自分だった。


 そして少女の背を押したのも、自分だった。

 あの無垢なる王女を冷徹な女王にしたのは──ジーク・ヴェルガー。誰でもない、自分自身だ。

 

 自分の手で、あの子を遠くにやった。戻ってこられぬところまで歩かせた。そんな当たり前のことを、何度思い知れば済むのだろう。

 この国には王女はもうおらず、女王しかいない。それはもう戻せないことだとわかっているのに、ジークだけが今もまだ歩み出せずにいる。過去を抱えて立ち止まっているのは自分だけだ。それを知りながらも、ひとつも動けないでいる。

 

 遠くで鐘の音がした。彼女もきっと同じように、この音を聞いている。今でも彼女はこの城で暮らしている。けれども、あの日々はもう二度と帰らない。

 何も知らなかった夢見がちな少女を、恋心とともに殺してしまったから。

 

 だから、自分は──ただここで、彼女のことを待っている。

 吠えることもなく、影に従い、静かに主を待つ従順な犬のように。

 

 そんな姿になってもなお、すべてが遅いと知りながら、ひとりの少女を想い続けている──。

 

 

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