上
三隅巡査部長が刺された。
その一報は衝撃的に、それでいて至極当然の出来事の様に。複雑な響きで警視庁の内部へ広がった。
大変な事件だ。
法の番人たる警察官が刺されると言うのは、警察組織そのものにさえ傷を付け兼ねない。
けれどもあの三隅なら、そう言う事もあるだろう。
騒然となりながらに、どこか醒めた空気の中にはこんな意味が含まれていた。
私は、唇を噛む。
いくら疎まれているからと言って、刺されて当然なんて事はないはずだ。
「生岐警部補、どちらへ?」
「病院です」
私は一言だけ答えて、机を離れた。
好奇の視線が刺さるのを感じる。
「いいなぁ、三隅は。美人のキャリアさんに気に入られて」
ドアを潜ろうとする背中に、そんな声が浴びせられた。
警察庁から出向する身である私が、出世コースの警備部や公安ではなく捜査1課を希望したのは珍しい事だったらしい。
その志望動機は、三隅だ。
どんな人か知りたかった。誰よりも傍で仕事をしたかった。もっと言うなら、警察官を志したのさえ三隅のためだ。
もちろん、こんな個人的な理由を誰に言う訳もない。しかし私が三隅と言う男にこだわっている事実は、やがて周囲に知れた。
先ほどの揶揄は、そこにも理由がある。だが大半は、三隅に向けられた悪意が原因だと思う。
三隅と言うのは中々に忙しい男で、不祥事を恐れる上司からは煙たがられ、同僚には功績を妬まれているのだ。
あの人のやり方がまずいのは解る。だが、あれほど優れた刑事はいない。
どうして、その事を素直に認める人間がいないのだろう。
私は真っ直ぐな廊下を歩きながら、悔しいのか悲しいのか解らない様な気分になった。
警察病院に到着すると、玄関の前に人影がある。ダークグレーのスーツに、よれよれのネクタイ。
「何してるんです、三隅さん」
「あ?」
「だって、刺され……」
呆気に取られる私をよそに、当の本人は面倒臭そうに「ああ、刺された」などと言う。
情報と違う。何と三隅は自分の足でぴんしゃん立って、口からは煙草の煙をもわもわと吐き出している。
「その割に、お元気そうですね」
「相手は重症だけどな」
つまり、返り討ちにしたと言う事か。
全身の力が抜ける。刺された事は刺されたらしいが、この様子なら軽傷なのだろう。ほっと息を吐くと、三隅に睨まれた。
「構うんじゃねぇよ」
そして私を置いて歩き出す。
これはいつもの事で、三隅は私を遠ざけたがる。だから私もいつも通り、後に付いて歩き出した。
三隅は上司や同僚に何を言われても平気なくせに、私の事だけは苦手みたいだった。女キャリアのお気に入りと言われるのは嫌なのか、この悪態にはめくじらを立てる。
しかし実際、私が隣にいると不機嫌にはなるが、大人しくもあった。そのために、課長や係長は私と三隅をよく組ませるのだ。
自分を嫌う人間とみっちり一緒にいるのは息苦しい事もあったが、私にはこれも幸運だった。
足の速い背中に問う。
「どうして刺されたりしたんです」
「モテるもんでな」
恨まれる覚えが多くて解らない、と。
「死なないで下さいよ」
「関係ねぇだろ」
「まだ何も、教わってません」
三隅は肩でため息を吐いた。背中を向けたまま、俺はセンセイじゃねぇよ、などと小声で言ったきり黙り込む。
私はその背を懸命に追って、両足を動かした。
やっとここまで、追い付いたのだから。
何故私が、三隅にこだわるかと言う話をしよう。
十年以上前の事だが、私には誘拐された経験がある。
父が会社を経営している関係で、私は裕福な家庭に育った。そこに目を付けた、身代金目的の誘拐だった。
犯行は単純。小学校の下校途中、背後から近付いてきた灰色のワゴンが私の真横で急停車した。スライド式のドアが乱暴に開いたかと思うと、あっと言う間に車内へと引きずり込まれたのだ。
黒っぽいフィルムで窓を塞いだ車内後部は薄暗く、私は羽交い締めにされた上に口を塞がれていた。口元に押し付けられた男の手が軍手越しにも湿っていて、それが気持ち悪かった。
別の男が「大人しくしろ」と脅したが、言われるまでもなく身じろぎ一つできなかった。恐ろしさでだ。覆面で顔を隠した三人もの男に囲まれて、自分がこれからどうなるのか解らない。完全に混乱していたはずなのに、体は頭より先に状況を理解してガタガタと細かく震えていた。
粘着テープで口と手足の自由を奪い、廃工場の様な場所に連れて行かれて床の上に転がされた。
床は砂か埃かも解らないもので、ザラザラと滑る。そこに頭を擦り付けて、心臓を締め付ける様な不安と、胃の底からこみ上げてくる吐きそうに冷たい恐怖に耐えようとした。
男達は一人を見張りに屋外へ出し、残った二人で私の家に電話を掛ける。身代金は三千万にするらしい。高いのか安いのか、私には解らなかった。
二人が電話で交渉をしていると、見張りに出たはずの男が戻ってきた。三人は揃いの黒い覆面に黒いジャンパーで、ズボンと靴はそれぞれ違った。
入ってきた男は異常ないとでも言う様に、片手を上げる。二人は特に気にするでもなく、構ってられないふうにそれを見ようともしなかった。
電話での会話に集中する二人をよそに、彼は私に近付いた。汚れた床に片膝を突き、覆面の口元で軍手をはめた人差し指を立てる。それから極力音を立てない様に注意しながら、それでも素早く上着のジッパーを下して前を開いた。
小学生の子供にも解る。
紺色の上着に、左胸に光る銀色のバッジ。
交番で見掛ける、おまわりさん。
身分を明かして安心させると、犯人二人から死角になる場所に移動した。私を抱えたまま窓から抜け出し、建物の裏手に回る。そこには手錠でフェンスに繋がれて、ぐったりと気絶した男がいる。これが本当の犯人なのだろう。
私の手足を自由にし、素顔になった若い警官はジャンパーと軍手を脱いでスニーカーをその辺りに放り投げた。代りに、揃えてあった革靴を履く。
近くの路地に停めた自転車に私を乗せると、後は力任せにペダルを漕いで一目散に逃げ出した。