このブルーベリーの犬めが
風呂場というワードと犬というワードが、僕の中では強く結びついている。昔面白半分でみていた獣姦動画の影響かもしれない。とにかく僕の風呂場には犬が一匹いて、それも体はブルーベリー色をしている。1秒間だって舌を口の中で閉じておけない、息の荒い生き物が、風呂の蓋の上から僕のことを見下ろしていた。僕は僕自身が小さいのか、それともただ寝転がっているだけなのか、どちらかを判断するための背の感触や首を回す機能といった基本的な要素を渡されていなかった。僕はこの風呂場の神であるはずなのに最低限の能力さえないし、そもそも、この役回りを誰かから任されたような憶えがあった。渡されたという表現は、つまりそういう理由だった。もし人から任された訳ではなかったのなら、僕は自分が神だったとしても絶対に神だとは名乗らない。一応、責任感から、役割としての神を名乗り出ているのであって、まず神の存在を信じないのも等しく自分への不信感からなのである。風呂の蓋に乗った目の前の犬が静かだった。ここまで静かだと大人しいという感想が妙だという方向に流れつつある。そしてそれは対峙している僕も静かであるということを意味していた。風呂場には犬の荒い呼吸だけが反響し、まるでこの空間に僕はいないみたいな、とにかく僕の視点からは風呂場という場所がそう映っているのだった。願望であれば尚よかった。
オフィスの神々しさには巨大なエレベーターを昇らせてから気が付いた。ただコードを書けるだけの僕は渡された仕様書の通りに指を動かし、これ以上勉強する気も湧いてこないエンジニアとしての終焉を見つめていた。グラスからウィスキーを一口すする。途端に頭が回らなくなる。この仕事に頭など最初から必要なかった。キーボードさえ叩ければヤギでも構わない。そのあいだに僕は自分の脳を国のスパコンに提供してから死んでしまうとするよ。そうだそれがいい。仕事を人任せにしてうろつく昼の街並みは、僕だけが数センチ宙に浮いてみえた。浮いていても僕より大きい人は沢山歩いている。キッチンカーのロゴはグロテスクであるほどに食欲をそそった。映画でされた整形批判をまとめた書籍が今の本屋のイチオシなんだって。気が付くとそんな文言でティッシュ配りをナンパしていた。これほどの悪手もそう打ちようはないが、僕はそれが悪手だと思えば思うほどにやってしまうという、これはもう一種のサガとして理解していた。ロマンシングサガってよくいうだろ。そういった言葉と共に、どんどんティッシュ配りとの距離を詰めていくにつれ、ティッシュ配りの女も女で、この人には意思の欠片もなかったのだろう。叫んで助けを呼ばれることもなく、僕はティッシュ配りの体を通過して、振り返ることもしないで進行方向のまま家に帰ってしまった。なんだか急に顔を振り向かせるのが恥ずかしくなったんだ。ほんとうに何をしているんだろう、という言葉があるが、あの言葉はつまりこういう状況のことをいうんだ。ティッシュ配りの女は何事もなかったかのようにきっとティッシュを配り続けていたはずだ。
帰るといえば風呂場で、風呂場といえば犬、そして僕は神を任されていた。エンジニアはもうやめだ。そして10数年ぶりに獣姦動画にアクセスしてみる。これはすげえなって感じだった。犬は相変わらずブルーベリー色の体で息を荒げ、今一度この空間に入ってわかったが、奴は風呂の蓋から数十センチは浮かんで立っていたし、一方僕はゲームのバグみたいに床を通過して顔だけが外に出ている状態になっていた。こうして不可解だった状況が明らかになった瞬間に僕はなぜか、誰かが皮肉を言う前段階について、皮肉の内容がどうであれまず頭の中で一回嫌な笑いを自分だけで済ませてから話し始めているんだと思うと、それ以来は映画や小説を皮肉だからという単調な理由で評価できなくなったし、個人的な趣味としてもすっかり笑えなくなくなってしまった。これは僕が大人になったのか子供になったのか、その2つの項目のあいだに線を引く斜め45度的な成長ならばきっと将来は宇宙飛行士にだってなれるはずだったが、なっていないということはつまりそういうことなのだ。
風呂場から出ると、僕と犬は和解を済ませた。別に何で喧嘩をしていたわけでもないが、とにかく二人とも和解がしたい気分だった。安心が訪れるときのあの雰囲気を確かめたかったし、久々に体温のある握手も交わしたかった。理由とは案外そんな程度でもいい本当にどうでもいいものに過ぎなかった。和解が終わるとブルーベリーの犬は4本足をすいすい動かしてどこかへ帰り、僕はエンジニアを辞めたその日の残り時間を味わった。これから僕らはもう会わないだろうし、きっとお互いに会いたいとも思わない。そんな一度切りの関係には、種族の違いがむしろマッチしていてあとは思う存分忘れてしまえることがとても心地よかった。