21 再会は暗闇の夜
真夜中の貴族街はとても静かだった。今夜は月も出ておらず、街灯のない裏の道に入ればそこは自分の足下さえ見えない闇が広がっている。
ただしそれは普段から暗闇に慣れていない者の目で見た場合だ。
夜目が利く者にとっては大通りに街灯がある分、むしろ見やすい暗さだった。
「はぁ、はぁ……くっ」
裏の仕事を生業としている彼女もまた、この程度の闇は慣れたものだった。しかし今日は、いつもとは違った理由で目がよく見えない。
よく見ると女は腹から血を流しており、足下はふらついている。今にも倒れそうなのを、気力だけで歩いている状態だった。
とはいえやはり重傷らしく、女は建物の壁に寄りかかるとずるずるとその場に座り込んだ。
「はぁ……やらかしちゃったわね」
苦痛に歪められた眉とは裏腹に、強がりなのか口元には笑みを浮かべている。
ふぅー、と長い息を吐きながら空を見上げると、女は霞む目で星明かりを見た。
月がない分、今日はよく星が見えるからかもしれない。
「霞まない目で、見たかったわね……」
自分はここまでかもしれない。女は覚悟を決めた。
このまま誰にも発見されず、朝になって死体を見つけられるか、良からぬ輩に見つかって身体を使われるか。
どうせ死ぬのだとしたらせめて前者がいいが、女は生きるために後者を望んだ。
(まだ、死ぬわけにはいかないもの……)
そのためにわざわざこの怪我で、貧民街から貴族街まで逃げてきたのだ。
どのみち夜は治安が悪いものの、貧民街なら金目の物を奪われ、身体を穢された上でそのまま放置だろうが、貴族街なら自身の見目の良さを気に入って連れ帰ってもらえるかもしれない。その可能性に一縷の望みにかけたのだ。
女ほどの美人なら、あり得ないでもなかった。
すべては、生き延びる確率が上げるために。
コツコツと、足音が聞こえてくる。
女はただ目を閉じて、その足音が自分のほうへと向かっているのを感じていた。
(紳士的な人だといいわね。顔が好みだとなおいいわ)
そんな冗談を考える余裕はどこから出てくるのか。
あるいは、絶望的な状況だからこそ、そんな風に考えないとやっていられないのかもしれない。
足音が少しだけ止まる。恐らく、女の存在に気づいたのだろう。
(ほら、美人が血を流して倒れているわよ。あなたは、どう出る?)
あえて目を閉じたまま、微動だにせず足音の主の気配に集中する。
自身の「隠密」スキルを一切使っていないため、すぐに見つかるだろうことを期待して。
数秒だけ立ち止まった後、足音は確実に女のほうに向かっているのがわかった。
緊張が走る。足音の主はもう目の前まで来ていた。
「星の綺麗な夜だね、レディー。とはいえ、夜遊びだなんて……いけない子だ」
その声には覚えがあった。
黒髪黒目の物腰柔らかな紳士……いや、この時間のこの場所をうろついているということは、今の彼は赤髪に赤目かもしれない。
血紅の公子とも呼ばれる暴れん坊。以前、彼女も仕事で接触したことがあったが、迂闊に手を出してはいけない相手だと感じていた。
(まさかこんな姿を彼に見られることになるとはね)
女は一度顔を伏せた。長い銀髪が揺れ、口元には笑みが浮かんでいる。
(好みの男でよかったと思うべきかしら)
再び顔を上げた女は、灰色の瞳を真っ直ぐ声の主に向けた。
「ふ、ふふ。そう、ね」
視線の先には予想通りの人物、デルロイ・スカイラーが立っていた。
彼のもう一つの顔、鑑定士ロイではない。
「ずいぶんやんちゃをしたようだね」
「そうなの。はしゃぎすぎちゃったわ」
「ふぅん、思ったよりも元気そうだ。いや、強がりかな?」
「さぁ、どっちかしらね」
本音を言えば、今すぐに意識を手放したいくらいには辛い状態だ。
だが、敵でも味方でもない彼相手に、あまり弱い姿は見せたくなかった。
(むしろ彼にとって私は敵寄りよね。……助けようとは思わないはず)
女がそう思った時、デルロイはその場にしゃがみ込むと内緒話でもするかのように囁いた。
「ちょっと痛むかもしれないが。君に触れるよ」
「え、うっ……」
デルロイは自身が来ていた上着を女の肩にかけると、彼女の返事を待たずにさっと抱き上げた。その衝撃で傷口が痛み、女の口からうめき声が漏れる。
「口の堅い良い医者を知っているんだ」
「どう、して」
「ん? 知っているといっただけで、そこに連れて行くとは言っていない。あまり俺を信じないほうがいい」
「ふ、ふふ、そうね」
デルロイがどんな気持ちでそんな軽口を叩くのかはわからないが、今はあまり笑わせないでほしいと女は思う。傷口がいちいち傷んで仕方ない。
もしくは、それが狙いなのだとしたらいい性格をしている。
抱き上げられて移動されてはいるが、どうしても振動で傷は痛み、疲労で瞼は重くなる。
そんな彼女の変化に気づいたのか、デルロイはまたしても軽口を叩いた。
「寝ていてもいいが、どこへ連れて行かれるかわからないよ? 君がどうなるのかも保証はできない」
「あら……でも、悪くは、ないわ」
「レディーはもっと自分を大事にすべきだね」
どの口が、と言い返したかったが、もはや女にそれ以上の余力は残っていなかった。
意識が遠のく前、女が最後に聞いたのは、低く優しい「ゆっくりおやすみ」という声だった。
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