憎たらしい上司
ルアン・デラフィス、26歳。
名門デラフィス侯爵家の次男として生まれ、齢14にして薬学と医学の国家試験を満点で通過した帝国が誇る天才。
彼はその試験に合格した後すぐに医薬研究所の薬学部門に入り、新薬の開発実績からあっという間に一等職員、そして部門長にまで上り詰めた実力者でもあるのだが…
しかしそんなことも知らない今のアイリスにとっては、ただの憎たらしい草臥れた男にしか見えない。
「へぇ…まさか俺以外に10代で薬師の試験に受かった奴がいるとはな。
とりあえずその小さな頭は使いものになりそうだ」
応客用のソファに足を組んで踏ん反り返って座るルアンは、免許を見ながらそう呟く。
なんて憎たらしい…今すぐ足を引っ掴んでソファから床へ引き摺り下ろしてやりたい。
そんな思いに駆られつつ、アイリスは膝の上で拳を握り締め、なんとか引き攣った笑みを浮かべた。
こんな奴でも一応上司になるのだ、我慢我慢。
「ルアン様、お願いですからその辺にしてください…このままじゃ貴重な人材を失いそうです」
リュベルは2人をヒヤヒヤした目で見つめて、そっと淹れたてのお茶を差し出した。
そしてアイリスの方を向いて、必死にルアンを擁護し始める。
「ごめんよ、アイリスちゃん。
ルアン様はちょっと不器用なんだ」
「おい、誰が不器用だって?」
斜め上のサポートに対してあからさまにキレたルアンはリュベルをジロリと睨みつつも上品にカップを摘み、様になる姿でお茶を飲んだ。
育ちの気品はちょっとした仕草に出るらしい。
「で、小娘。お前みたいに優秀な奴がなんでわざわざこの国に来た?」
ルアンの何もかもを見通すような鋭い視線に、アイリスは思わずドキッとする。
これ、下手な嘘ついたらバレるな…
そう直感で悟ったアイリスは、当たり障りのない事実を述べることにした。
「独立のためです。私の家では成人したら家から独立するというルールがあるんですけど、ずっと同じ土地に縛られるのも性に合わなくて。せっかくなら世界でも名高いレヴィス帝国で薬師として働けたらいいなぁと思ってきたんです」
よし、嘘はついてないぞ。
そう自信を持って真向かいに座る男の顔を見返すと、ルアンは自分で聞いておきながら全く興味なさそうな顔をしていた。
なんならさっきまで私に圧をかけていた視線も今じゃ山積みの資料の方へ向いている。
…私の緊張感を返せ、この野郎。
「なるほどな、まぁいいんじゃないか。
この小娘が実際に使えるかしらんが、猫の手も借りたいほどの万年人手不足だしな」
私の話を聞いたのか聞いてなかったのか、ルアンは立ち上がって書類が山積みになった自身の机へと戻っていく。
そしてこちらを追い払うようにシッシッと手を振った。
「見ての通り、俺は忙しいんだ。
リュベル、そいつに空いてる部屋案内して、白衣の手配をしてやれ。
出来上がるまでは適当な予備の白衣を渡しとけばいい」
「実は僕、ルアン様に頼まれた仕事結構抱えているんですけど…」
「なにか文句が?」
「いやっ、何でもないです。分かりました」
ルアンの威圧感に押され、大人しく命令を受けたリュベルは「どうせ僕は雑用係ですよ」としょんぼりしながら扉の外へとアイリスを案内する。
しかしアイリスはそのまますんなりと部屋を出ることはせず、ルアンのいる方向へドスドスと歩いていき、ポケットに入れていた青の薬瓶をドンっ!と机の上の隙間に置いた。
その衝撃で危ういバランスだった資料たちは崩れ落ち、床にバサバサっと音を立てて落ちていく。
それを見たアイリスは内心やってしまったと思ったが、おかげさまで憎たらしい男の顔がちゃんと見えるようになったことは喜ばしい。
そう思って、真正面から堂々と睨みつける。
一方、ルアンはアイリスの行動があまりに予想外で、口を半開きにして崩れた書類の残骸を見ていた。
「これ、私の作った薬です。疲労感を和らげる効果があるので、飲んでみてください。
あと私はチビ女でもなければ小娘でもなく、アイリスという名前がありますので!!」
「では、さようなら!」と強気に言い切ったアイリスはそのままリュベルのいる廊下に出て、扉を丁寧に閉めた。
正直感情のまま勢いよく扉を閉めてしまいたかったが、かなり青白くなっているリュベルの顔を見てこれ以上は彼の精神衛生上良くないとアイリスの本能が察知したのだ。
そして、そのまま廊下で固まるアイリスとリュベルの間に気まずい空気が流れ……
アイリスの頭では、緊急言い訳大反省会が開催していた。
いつの間に怒りの限界値を超えていたのか、ほぼ無意識の行動だったんです!
あの薬だって本当は研究所の人に私の技術力を知ってもらおうと思って用意したもので、あんな乱暴な渡し方をするつもりは…
しかしどんな言葉で繕おうと、自分が衝動的に上司へ怒りをぶつけた事実は消えない。
それにより、板挟みになっているリュベルに多大なストレスを与えたことも。
「…ごめんなさい」
すっかり青ざめてしまったリュベルを前に、アイリスは心の底から謝罪した。
⭐︎⭐︎⭐︎
「アハハ、それでそれで?
その後はどうしたの?」
そう言って目の前でお腹を抱えて大爆笑するのはリュベルの先輩であり、研究所でも数少ない女性職員のマリーナだ。
彼女は4年前に他国からスカウトされる形で医薬研究所にやって来た薬師であり、今年31歳を迎えるらしい。
彼女はピンク色の髪をウェーブさせたナイスバディであり、20代前半に見えるほど若々しい超絶美人だが、いまだに未婚。
その理由として、本人は「私は薬草と愛の契りを結んでいるの」と言っており、その愛に相応しい優秀さで彼女の名は銀色の刺繍で縫われていた。
「どうもこうも…アイリスちゃんを守るためにもすぐにその場から逃げ出すように走って寮に帰って来たらちょうどマリーナさんがいたんですよ」
「本当に、すみませんでした!」
リュベルさんの心身にとてつもない負担をかけてしまったことに、心の底から反省する私。
胃が痛そうだし、後で胃薬でも作って渡しておくべきかもしれない…
あれから凄い勢いでその場から走り去ろうとするリュベルさんに腕を引っ張られ、すっかり汗だくになった私は研究所の寮にやって来ていた。
そして寮の食堂で遅れて昼食を取っていたマリーナさんに見つかり、「なにこの子、新入り?てかなんで2人ともそんな汗かいてるの?」から互いの自己紹介と事の経緯を話すことになったのだ。
「いやぁ、ルアン様に対してそんなあからさまに反抗的な態度とるなんて。アイリスちゃんってば肝が据わってるのね」
「本当に、見てるこっちがヒヤッとしました」
愉快そうに笑うマリーナに、胃のある部分を摩るリュベル。
なんだか対照的な2人だけど、意外と気は合ってそうな2人だ。
そして笑いの波がひと段落したのか、マリーナはリュベルを励ますように肩を軽く叩いた。
「まぁリュベルは実質ルアン様専属の雑用係みたいな感じだからね。
私の知る限り、前にリュベルと同じポジションにいた人なんて耐えきれずに研究所やめて国外逃亡してたし…本当に3年も良くやってるわ」
国外逃亡するほど耐えきれなかったのか…
まぁ確かに、リュベルが耐えているのが不思議なくらいかもしれない。
私だってあの男の側で扱き使われるのは耐えきれない…というか、すでに初対面でキレてしまった。
我ながら情けないと少し思う。
しかしリュベルはキレるどころか尊敬しているっぽい発言もしていたので、相当器が大きい。
願わくばこの人が私の直属上司であってほしいが…そもそもリュベルは何故ルアンの雑用係なんかに収まっているのだろうか?
「あの、リュベルさんってなんで雑用係なんてやっているんですか?」
「あ、それは…なんというか、自分で言うのも恥ずかしいことなんだけど…」
私の質問に目が泳ぐリュベルさん。
そんなに言いにくいことを私は聞いてしまったのかと反省しかけたその時、ニヤニヤとしたマリーナさんが口を開いた。
「リュベルはね、薬草や薬についての知識は豊富なんだけど、絶望的に薬を作る才能が無いの」
「グハッ…」
「見ても区別しづらい薬草を嗅ぎ分けることができる素晴らしい嗅覚もあるんだけどね〜。
まぁ薬師は結局薬が作れなきゃどうしようもないから」
マリーナの辛辣な言葉によって床に崩れ落ちたリュベル。
なんだか見ていて可哀想なほど、精神的ダメージを食らっているのを見てアイリスは申し訳なく感じた。
リュベルのように、薬学に関する知識はあっても手先が不器用で薬を作ることができない薬師は稀に存在する。
何故そんな薬師が生まれてしまうのかというと、薬師免許は筆記のみという形式の試験だからだ。実技が存在しないが故に、リュベルのような哀れな薬師が稀に爆誕してしまうのである。
「なんかすみませんでした、変なことを聞いて」
アイリスは図らずもリュベルの心の傷を抉ってしまったことを申し訳なく思い謝る。
するとリュベルは両手を横に振って「気にしないで」と笑った。
「いいんだよ、全部事実だから。
今聞いた通り、それが僕が四等職員であり続けることの理由でもあるわけで…そもそも薬の作れない薬師なんかがこの研究所で働けているのが奇跡なんだ。
ルアン様の慈悲がなければとっくにクビだよ」
研究所に入って早々何度も研究室を爆破させて謎の黒い液体を量産したリュベルに、ルアンは『薬を作る才能は無くとも、お前の知識と嗅覚は役に立つ』と言って手を差し伸べたらしい。
なるほど、どおりでルアンを尊敬しているわけである。
あの男にはそんな一面もあったのか…
「アイリスちゃん。
勝手なお願いかもしれないけど…ルアン様のこと、嫌わないであげてほしいんだ。
あの人は不器用だし口は悪いかもだけど、平民だからと見下すことはしないし、職員それぞれの才能を活かしてより良い薬を作ることに誰よりも心血を注いできた。
富を築きやすい医師じゃなくて薬師の道を選んだのだって、薬が無ければ人の命は救えないからと言い切る人だよ。
多分新薬を開発して多くの人を助けたいという想いは、あの人が一番強いんじゃないかな」
「そうだったんですね…」
リュベルの話を聞いて、その時初めてルアンに罪悪感を抱いた。
ルアンがそんな立派な考えを持った人だったなんて、全然知らなかったのだ。
なんだか悪いことをしてしまったかもしれない。
あんな乱暴に薬瓶を置いたあげく崩れた書類もそのままにしてきたし…せめて書類は元の場所に戻すべきだった。
感情的に行動するのはアイリスの悪いところだ。
やっぱり、今からでも謝りに行くべきだろう。
「あの…私、謝ってきます」
そう言って、アイリスがくるりと振り返り、寮の出口へ向かおうとした瞬間、何故か笑顔のマリーナから腕を掴まれた。
「それは待って」
え、なんで止められた??
マリーナの行動の意味がわからずに固まったアイリスを、マリーナはその豊満な胸でギュッと抱きしめ、優しい声で語りかけた。
「そんなことしなくて大丈夫。
話を聞く限りルアン様の態度も悪いから、アイリスちゃんの言動でちょっとは反省したんじゃない?
まぁ、でも…今度からルアン様にムカついた時は家名のデラフィス様って呼ぶといいよ。あの人、家名で呼ばれるの死ぬほど嫌がるから」
「ちょっ、マリーナさん!
余計なこと吹き込まないで下さい」
ヨシヨシと私の頭を撫でるマリーナさんに、悲鳴を上げるリュベルさん。
ハテナで頭がいっぱいの私。
そんなカオスな状況でも、マリーナさんの腕の中の居心地はとても良くて……
私はさっきの決意など簡単に放り投げ、甘えるようにマリーナさんの胸に顔を埋めた。
だってこんな機会そうそう訪れないんだもん、と開き直りながら。
それにしてもやばい、なにこれ気持ちいい。
コレ本当に私と同じ胸??段違いの柔らかさだ。
それに彼女からは薬草の匂いに混じって、お日様みたいないい匂いがする。
もし私にお姉ちゃんかお母さんがいたら、こんな感じの匂いがしたのかな?
なんてことを思ったその時、アイリスを天国から地獄へと引きずり落とす声が聞こえた。
「おい、こむ…じゃなくてアイリス!
この薬、どうやって作ったのか教えろ!」
先ほどの私たちと同じように汗をかき息を切らしたルアンが、薬瓶を握り締めながら突然寮の扉を開いたのだ。