国立医薬研究所
翌朝。
昨晩、研究所に入るなら早い方が良いと2人に説得されたアイリスは、渋々ながらも今日の朝に出発することにした。
本当は1ヶ月という区切りの良いところまでは働きたかったのに…
だいぶ迷惑をかけてしまった気がする。
せめて、何かの形でお礼しないと。
2人への申し訳なさや感謝から、アイリスは徹夜で痛み止め薬を何本か作った。
そして朝ごはんの片付けで忙しい中、わざわざ見送ってくれるというゴルドーとトーマスに薬を手渡す。
「本当は膝の治療に効果のある薬を渡したかったんですけど、今手持ちにその薬草がなくて…」
ショボンとしながらアイリスがそう言うと、トーマスは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、アイリス。大事に使うよ。
ちょうど私も働いてくれた分の賃金を渡そうと思ってたんだ」
そう言ってトーマスが取り出したのは、アイリスが働いた分よりも多い1ヶ月分の金貨2枚だった。
その金額を見て、アイリスはブンブンと風を切りそうな勢いで首と手を振る。
「うっ受け取れないです、そんな大金!
そもそも1ヶ月働いてすらいないのに…」
「いいんだ、働き者の君に見合った正当な報酬だから。
それにこれから色々と物入りだろう?」
ニコリと笑い、アイリスの手を掴んでそれを無理やり握らせるトーマス。
そんなトーマスの笑顔から『受け取らないと許さない』という圧力を感じたアイリスはものすごい申し訳なさに襲われながらそれを受け取った。
経験したことはないが、祖父母に無理やりお小遣いを渡される孫の気分である。
「こんな大金…ありがとうございます」
「いやいや、こちらこそありがとう。
こんなに素晴らしい薬まで貰ってしまって、本当に助かるよ」
「親父の感謝の気持ちもこもってんだ。
申し訳なく思う必要なんかねぇよ。」
アハハ、と揃って快活に笑う2人。
穏やかな老紳士のトーマスと大工のようなゴツい見た目のゴルドーは一見全く似てないが、やっぱり親子だからか笑う姿はそっくりである。
「貴族街は城を囲むように出来ていてな、大広場から城に向かってまっすぐ進めばデカい壁と門があるからすぐわかるはずだ。
そこで門番に薬師の免許と研究所のことを伝えれば案内してくれるだろうよ」
「わかりました、ありがとうございます」
貴族街の場所を教えてもらい、ついに出発する時が来た。
しかしいざ別れとなると言葉が出てこない。
そんな時、トーマスが口を開いた。
「アイリス、気をつけてね。
もし何か嫌なことや辛いことがあったら、いつでもここへ帰ってきなさい」
「お前はウチの家族みたいなもんだからな。
窮屈な研究所から逃げ出す場所くらいにはなれるさ」
そんな2人の言葉に、アイリスはまた泣きそうになる。
トーマスとゴルドーを家族のように慕うアイリスだけでなく、2人にとってもアイリスは家族のような存在なのだと知れたから。
「っはい、また帰ってきますね」
アイリスは泣かなかった。
2人との別れの挨拶は笑顔でしたかったのだ。
「いってきます!」
満面の笑みで手を振って、宿屋"曲がり角"を出て大広場へと歩き出すアイリス。
そんなアイリスに、2人は見えなくなるその瞬間まで手を振り返してくれた。
そしてしばらくして、初日を思い出すほど歩いたアイリスはようやくゴルドーの行っていた門までたどり着いた。
「で、デカい…そして何だか仰々しい…」
平民と貴族の心の隔たりを表すかのような高い石壁に、首都に入った時と同じくらい大きい鉄の門を見て、アイリスは開いた口が塞がらない。
階級社会とは聞いていたが…これは中々凄そうである。
ちなみに門自体は開いており、そこから時々馬車が出入りしているが、徒歩の人などは見当たらない。
まぁ貴族が自分の足で歩くわけないと言われればそうなのだが、アイリスが中に入るにはあそこを徒歩で通らなければいけない。
アイリスは勇気を振り、門の周辺で剣を携え鎧を着て立っている門番に声をかけた。
「あの、すみません。
私薬師で、中にある国立医薬研究所に行きたいんですけど…」
「はぁ、君が薬師?
信じられないな…免許を貸せ」
門番は疑うような視線をアイリスに向け、アイリスの手から免許を奪い取るように取った。
なんだコイツ…感じ悪いな。
しかし反抗することもできないので、アイリスは大人しく太陽の光で免許を確かめる門番の様子を見守った。
薬師や医師の免許は偽造されるのを防ぐため、特殊な透かし技術が使われている。
そして門番の手にあるアイリスの免許も、日光に当てることで普段は見えなくなっている免許取得国の紋章が透けて見えるのだ。
そしたその紋章がしっかり見えた時、門番は動揺したように声を出した。
「おいこれ、本物じゃないか。
免許取得年齢16歳って…これは失礼した。
どうぞ、中へ入ってくれ」
免許が本物だと知り、急に態度を軟化させた門番は同僚らしき兵士に少し離れると声をかけ、アイリスと共に門の内側へ入った。
「この道を城の方へまっすぐに進めば右手に青い旗に国家の紋章が描かれた旗を掲げているところがある。そこが研究所の入り口だ」
それだけ言って、門番はそのまま元の場所へと帰っていってしまった。
アイリスは不安になりつつ、目的地に向かって歩き始める。
「なんか、悪目立ちしているような…」
貴族街は、まさに貴族の街という感じだった。
石畳は多少凸凹していた平民街と違って綺麗に整えられているし、店だって貴族向けの綺麗な高級店ばかりでなんか良い匂いがする。
それに馬車は行き交えど歩いている人は少なく、それもスーツやメイド服など小綺麗な格好をした従者っぽい人ばかりだ。
だから当然、普通の平民の格好をして大きなカバンを背負っているアイリスは目立つ。
「うん、気にしないのが一番だ」
居心地は悪いが、気にすることはない。
私が平民なのは事実だし、別に恥じることでもないのだから。
なんだかんだポジティブなアイリスは周囲の『なんだこの平民』と言いたげな視線を交わし、前だけを見て歩き続けた。
そして太陽が頭の真上に来た頃、アイリスはついに門番の言っていた青い旗が掲げられた大きいアーチ状の入り口に到着した。
「ここが、国立医薬研究所…」
荘厳な雰囲気をもつ立派な鉄製の門に圧倒されながらそっと中へ踏み入ると、アイリスは敷地の広さと建物の大きさに驚いて息を呑んだ。
入り口からは建物へ続く道に沿うように広大な芝生と整えられた石造りの道が広がっており、その道が続くはるか奥には白く角張った形の大きな建物と温室らしき半透明のドームが見えた。
他にもレンガ建ての建物はいくつか見えるが、おそらくこの2つの大きな建物がここのメインだろう。
敷地内には白衣を着た人もそこそこ歩いており、その中で比較的近くにいた焦茶色の髪を持つ男性がこちらに気づき、小走りで駆け寄ってきた。
「ようこそ、医薬研究所へ…って、この匂い。
君、もしかして薬草売りかい?」
度の強そうな丸いメガネをかけ、薄緑色の刺繍が入った白衣を着た20代後半くらいの男性は、アイリスを不思議そうに見た。
え…私ってそんなに薬草臭いの?
昨日徹夜で薬を作っていたとはいえ、ちゃんとお風呂に入っているのに。
アイリスは男性の言葉にへこみつつ、とりあえず謝るのと同時に薬師の免許を差し出した。
「薬草臭くてすみません…これ、私の身分証です。
どうぞご確認ください」
「いやいや、違うんだ!ごめんね。
僕は鼻が良くて、薬草の匂いを嗅ぎ分けるのが得意なんだ」
男性は「女性に失礼だったよね」と平謝りしてから、アイリスの差し出した免許を両手で丁寧に受け取った。
「へぇ、薬師なんだ……え、薬師!!??
こんなに若い女の子が!?」
信じられない、と驚いた様子で免許を太陽にかざす男性。
本日2度目の光景である。
そんなに若い女の薬師は珍しいのかと思わなくもないが…思い返せば、2年前トリアット王国で免許を渡された時も担当の人に酷く驚かれた記憶がある。
正直、今までは自分で作った薬も父の薬とまとめて売ってもらっていたし、薬師だと名乗る機会もなくて、いまいち自分が珍しい存在だと分からなかった。
だけど直近で何度も驚かれているのを見ると、流石に理解してきた。
薬師の世界において、アイリスほど若い女は滅多にいないのだと。
「あ、ごめん!僕としたことが、また失礼なことを言った。
いやぁ、羨ましいくらいの優秀さだ」
「いえ、そんなことないです」
アイリスは男性の賞賛をすぐに首と手を振って否定した。
正直、生まれた時から薬草や薬瓶に囲まれて育つレグルの民であるアイリスにとって、薬師の国家試験は簡単だった。
しかしそれは父の教えによって薬草や薬の知識が身体に染み付いているからだと、自分が一番分かっている。
だから0から勉強して国家試験に受かった人と自分は比べものにならないし、比べるのはなんだか烏滸がましい気がしてしまうのだ。
「なんにせよ、僕と同じ平民出身の薬師がこの研究所に来てくれて嬉しいよ。
僕はリュベル。この国の出身で、国家試験に合格した3年前から働いているんだ。
これからよろしくね」
リュベルと名乗った男性は、握手しようとアイリスに手を伸ばす。
そしてアイリスはその手を握って、挨拶に応えた。
「私の名はアイリスです。トリアット王国出身で、つい最近この国に来ました。
よろしくお願いします」
アイリスは物心つく前から各地を転々としていたので、故郷もなければ出生地についてもよく知らない。
しかし、出身は明らかにしておいた方が面倒が少なさそうなので、無難に免許を取得した国名を答えておくことにした。
それに、多分アイリスたちの生き方はあまり普通ではないし、レグルの民だとバレる要素を残すのもあまり良くないと判断したのもある。
…とはいえ、トリアット王国には1年くらいしか住んでいないので、この件についてはあまり深掘りされないことを祈るしかない。
「じゃあせっかくだし、薬学部門の職員を管理する上司のところまで案内するよ」
「本当ですか、ありがとうございます!」
握手を終えた後、リュベルはそう言ってアイリスのカバンを持った。
そしてその瞬間、ついに薬草の匂いの発生源を発見したことで彼はわかりやすく喜ぶ。
「あぁ、これが匂いの元だったんだ!
沢山の薬草の匂いがする…素敵だ」
「え…そう、ですか」
そう嬉しそうにカバンの匂いを嗅ぐリュベルにアイリスはちょっと引きつつ、2人は受付へと歩き出す。
そしてリュベルはカバンを持ってニコニコと歩きながら研究所について説明してくれた。
「ウチは医学と薬学で部門が分かれていて、医師か薬師か見分けられるように白衣の袖や襟にある刺繍の色が違うんだ」
薬師は薬草を意識させる薄緑色の刺繍で、医師はロイヤルブルーの刺繍らしい。
デザインもよく見ると違う模様だとか。
確かに周辺で歩いている人の白衣を見ると、リュベルの緑の刺繍が草や葉っぱを想起させるのに対し、青い刺繍は上品な花を想起させるデザインだった。
ほぇぇ…すごい、お金に余裕のあるところは違うな。
「あと、薬学部門でも職員にはそれぞれ階級が存在してね、階級によって職務が分けられているんだ」
リュベル曰く、一番下はリュベルと同じ四等職員で、そこから三等、二等、一等と研究所での実績や上司の評価を通して上がっていく仕組みになっているらしい。
見分け方は白衣の胸元に縫い付けられた名前の糸の色で、四等は黒、三等は銅、二等は銀、一等は金色で縫われているらしい。
まさかのオーダーメイド刺繍である。
「だけど残念ながら僕は特にこれといった実績はなくてね…3年経っても上司の雑用ばっかやってるよ」
そんなリュベルの愚痴を聞きつつ、アイリスは気になっていたことを聞いた。
「リュベルさん、この研究所って貴族の子息もいるって聞いたんですけど、やっぱり身分によって扱いも違うんですか?」
その質問に、リュベルは困ったような表情をした。
「正直、違わないとは言えない。研究所自体、王族や貴族の資金で成り立っているわけだからね。
でも平民出身でも一等職員になれた人はいるし、貴族出身でも平民を差別せず公正公平に評価してくれる人もいる。
例えば、これから会いに行く人なんかはそうだよ」
その代わりあの人は誰に対しても厳しいけどね、と言う彼の表情はどこか誇らしげで、その上司を尊敬しているのが伝わってきた。
そうか…それなら、私もここで上手くやっていけるかもしれない。
リュベルの言葉は、アイリスの漠然とした不安を少し和らげてくれた。
「さぁ、着いたよ。ここがその部屋だ」
そんな話をしていたら、いつの間にか着いたらしい。
扉を前にすっかり緊張しきったアイリスの代わりに、リュベルは高級感のある黒色の扉をノックして用件を告げる。
「ルアン様、リュベルです。
新しい薬師が来たのですが、今入っても大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ、入れ。」
部屋の主人の許可を受けてリュベルと一緒に部屋に入ると、アイリスはまず目に入ったその部屋の壁にズラッと並ぶ本と、机に乱雑に高く積まれた資料に圧倒された。
「ルアン様、またこんなに散らかして…片付けるのは僕じゃないですか!」
「それがお前の仕事だろ、いちいち文句を言うんじゃない。
こっちはジジイに連日駆り出されて死にそうなんだ」
部屋を見て発狂するリュベルに、冷たい言葉を返す男…ルアンは資料の向こうからフラフラと現れた。
忙しすぎるのか、ヨレヨレの白衣に寝癖がついたままクネクネする黒髪、そして極め付けの心が死んだような青い瞳はまさに研究者の鑑だと言いたいところだが…まぁ不思議。
顔が整っているという一点だけで、格好のだらしなさは男の色気に変化している。
これが生まれながらの貴族というものか。
私が同じ格好したら、ただの小汚い女になるというのに…
本当に、人は生まれながらにして不平等だ。
ため息を吐きたくなるのを抑えたアイリスは、改めてルアンを観察した。
年は、30くらいだろうか…いや、くたびれているからそう見えるだけで本当はもっと若いかも?
そんなことを考えてルアンを見ていると、偶然彼と目が合ってしまい、アイリスは慌てて自己紹介をした。
「は、初めまして、アイリスと申します」
しかしそんなアイリスを見たルアンは、何故か不愉快そうに目を細め……次の瞬間、衝撃的な言葉を放った。
「なんだ、このチビ女は?」
は?チビ女??
アイリスの中で、ルアンが"嫌なやつ"だと確定した瞬間である。