スリ師烈伝【千手観音の薫子】
子どものころ、鬼無里 薫子は愛情に無縁だった。
両親の仲は早くから破綻。満足に食事も与えられず、学校にも通わせてもらえなかった。双方から虐待され、ろくでもない環境で育ったのだ。
その無垢な瞳は、いつしか平凡に見える世間をうらやみ、やがて敵意の眼差しに変わるまでそう時間はかからなかった。
8歳のとき、両親のもとから逃げ出した。
夜の街をさまよっていたとき、着物姿の老女に拾われる。これこそが運命の出会いだった。
銀髪の似合う高齢者で、渋い色の着物を身に着けたうえ、すみれ色の羽織をまとっていた。見るからに優しそうな顔立ちに、薫子はこの人になら心許せると思った。
「あたしは、これでも着物の着付けの講師をしておりましてね。ふだんは先生って持て囃されているんです。だから同じように呼んでくれても構いやしません」
先生はその美しい所作や上品な言葉づかいからして、さぞかし上流階級の育ちの人かと思いきや、その裏の稼業は意外だった。
「じゃあ先生、よろしくお願いします」と、薫子は老女に手を引かれながら言った。「……でも、どこへ行くの?」
「今日は『ハコ』でやりたい気分だね。ついてきな。あんたに見せてやろう。そこで生活の術を身につけるがいい」
先生は、さっきまでの品のあるしゃべり方はどこへやら、急にはすっぱな口調になった。
金曜、夜9時すぎ、二人してJR埼京線の快速に乗った。
乗客には、せいぜい孫を連れた祖母にしか映るまい。誰も注意を払わなかった。
言わずと知れた渋谷、新宿、池袋など主要ターミナルを貫く路線なので、繁華街で一次会を終えて帰宅する客、残業から解放された客で重なり、かなり混雑していた。クロスシートには疲れ果てたスーツ姿や女たちが埋まり、吊革にしがみつき、立ったまま眠っている者までいる。
着物姿の老女が音もなく電車内を歩く。
背を向けたままのサラリーマンの尻ポケット。
長財布を抜いた。
なに食わぬ顔で、手提げカバンにしまう。
その一連の動作を薫子は見逃さなかった。他の乗客にも気づかれていないようだ。
先生は無防備な男たちのポケットから次々と財布を盗むだけでなく、すれ違いざま、相手の上着の内ポケットからも電光石火の速さで抜き取った。わずか1分間で6人からだった。
次の車両に向かうため、連結部に移動してから先生は薫子に白状した――。
なんとこの先生は、スリを道楽にしているというのだ。業界では名の知れた人物らしい。着付けの講師の収入だけでは少なすぎると言い訳した。何度か警察にマークされたこともあるものの、同じ『仕事場』をくり返さず神出鬼没のため、現行犯で逮捕されたことはないという。
「いいかい。スリをやるには『スリ眼』を養わなくちゃならない。電車はシケてるもんだが、イベント会場、競輪、競馬場なんてところは、それなりに軍資金を抱えてる奴は多いもんさ。つねにまわりに気を配って、誰が『持ってる奴』か見極めるんだ。標的を狙ったら最後まであきらめないこと。むろん絶対に悟られないように。相手にも、まわりにもだよ。やるときは集中し、大胆に攻めるのさ」
「はい。でも私、素早くできない」
「そりゃはじめは誰だって速くは盗れないさ。くり返しやっていれば、じきコツを憶える。要はどれだけ人間の盲点を突けるかだ。原理は手品の種といっしょさ」
「もうてん」
「見てみな。ほら、次の先頭車両」と、先生は仕切り扉のガラスを親指で示した。すぐ向こうの3人がけのシートを一人独占している無作法な中年男がいる。先生の眼は軽蔑そのものの眼つきで見下ろしている。「あそこに大口開けて寝ているだらしないサラリーマンがいるだろ。あれほど恰好の標的はない。今からあんたに手ほどきしてやる。いいかい、相手にこう話しかけるんだ――」
薫子はその教えに従い、仕切り扉を開けて一人、先頭車両に入った。
運転室には運転士の後ろ姿も見える。
心臓が高鳴る。自身の胸の早鐘が、他の乗客に聞こえやしないか、気が気じゃない。
クロスシートに横たわったスーツ姿に近づく。
背後の連結部に眼をやった。
扉の窓ガラスに、老女が佇んでいるのが見える。まるでさっぽろ雪まつりの氷像のような顔つきだ。
薫子は肯いた。なるほど、これは最初の試験というわけらしい。失敗は許されない。財布を盗らなければ、恐らくあの着付けの講師は容赦なく少女を見捨てるにちがいない。
薫子はかたわらに腰かけ、男の肩に手をかけた。
通路には携帯電話に夢中になっている青年が数人いる。
「お父さん、起きて。乗りすごしちゃうよ」
と、薫子は男の肩に手をかけて揺さぶった。揺さぶりつつ、本能的に青年たちに背を向け、手の動きを隠す。
中年男はカバンを腹にあずけ、大股を広げて鼾をかいている。酒臭い口臭がした。
薫子はカバンの中を探ったが、金目のものは見当たらない。
となると尻ポケットか? 腕をまわして男の腰を手探りしたが、空ぶりだった。五十男の、締まりのない臀部を撫でまわしただけだった。
上着の胸に手で触れた。内側に膨らみがある。
ボタンを素早くはずした。グズグスしていると、背後の連中に怪しまれるだろう。
「お父さんってば。風邪ひくから。次の駅で降りないと」
声をかけたくなかったが、黙ってばかりはいられない。
男はむにゃむにゃと念仏を唱え、眼をこすり出した。じきに起きてしまうかもしれない。
薫子は財布に手をつけた。
分厚い。カードの類が多そうだ。わずかに札束が見えた。たんまり持っている。会社経営者かなにかか?
少女は遠慮せずにはいられない。このまま財布ごと盗めば、きっと男は起きたあと、頭を抱えるだろう。
財布を開き、万札を5枚ばかり拝借する。さっと二つ折りにし、自身のポケットにおさめた。
財布を男の内ポケットに戻す。戻して直後だった。
「おれに、お嬢ちゃんみたいな娘はいないはずなんだが」と、脚を投げ出して寝ていた中年男が、ぱっちり瞼を開けた。酒臭い息を吹きかけ、しわがれた声でこう続けた。「……いかん、歌舞伎町で一杯引っかけてから記憶がない。まさかチーちゃんに一服盛られたかな」
「ごめんなさい。お父さんかと思いました。人違いです」
薫子は立ち上がり、ペコリと頭を垂れた。
あわてて逃げればよけい疑われる。中年男はまだ寝ぼけている。今なら誤魔化しが利く。
連結部を見た。着物姿の老女はこの試験を冷徹な眼差しで見守っている。
「だと思った。次で降りなきゃいけなかったんだ。ありがとよ」と、中年男はようやく半身を起こし、自ら上着の懐から財布を出した。おもむろに1万円をつまむ。「これは起こしてくれた礼だ。こんな遅い時間に電車に乗ってるってことは、さては訳ありだろ? これでうまいもんでも食いなさい」
薫子は半ば無理やり紙幣を押し付けられ、戸惑った顔を見せた。
が、両手でいただくと、頭を下げ、その場から連結部へ退いた。
老女は一部始終をちゃんと見ていた。
薫子が無事戻ってくると、なにも言わず頭を撫でた。
やがて快速列車は赤羽駅で停車した。
二人はそこで降りた。
「言ったろ。酔っ払って寝てる奴ほどチョロいもんはない。男はこの程度さ」
「はい」と、薫子はホームを歩きながら言った。「でも、今のおじさん、私にお礼までしてくれました」
「いい筋してるよ、あんた。財布ごとスらなかったのは利口だ。そのあとの演技が見返りを生んだってわけさ。滅多にないケースだね」
「うまくやれそうな気がします」
薫子はポケットから6枚の紙幣を出して、先生に褒めて欲しくて歯を見せた。
先生はそれを取り上げた。丁寧に折り畳んだあと、その場にしゃがんだ。
薫子のジャンパーのポケットに入れ、ポンポンと叩いた。
「だけどね、これだけは言っとく。あたしゃ、男から盗ることはあっても、女からは盗らない主義だ。別に男が憎くて、女だからって擁護してるわけじゃない。あんたもこれから学んでいくんだね。筋を通すんだ。こんな『モサ』(スリの常習犯)がいっぱしのプライドを語ったところで、ちゃんちゃらおかしいけどね」
◆◆◆◆◆
こうして薫子は先生から手ほどきを受け、スリの腕を磨いていった。
もっとも得意とした『仕事場』は、祭りやフェス、ライブ会場だった。都内では土日ともなれば、そこかしこで催され、人だかりで賑わった。
大抵の人々は懐を温かくしてハレの日に参加する。浮かれた気分がそうさせるのだろう。稼ぐにはうってつけだった。
10代から20歳にかけて、先生とのコンビで『オシドリ』となって生活するようになった。
『オシドリ』とは警察の隠語で『二人組のスリ稼業』をさす。一人を陽動に使って気をそらしている間に、もう片方が掠め取るわけである。
先生との息も合い、日に100万以上稼いだこともあった。なわばりをつねに変え、現行犯で捕まらないよう警戒した。
ただし欲張らず、月に数日しか稼働しない。やればやるほど見破られる恐れが高くなる。
ふだんは着付けの講師である先生の助手をしてすごした。おかげで薫子は、言葉づかいや所作が洗練されるようになった。
その日は中池袋公園、WACCA池袋で催された盆踊り大会でスリを働いた。
盆踊りは大いに盛り上がった。数年前から伝統的な音楽に加え、J-POPやダンスミュージック、はては誰もが知る有名な洋楽を盆踊りの振付にアレンジし、高齢者はもとより、若者たちまでが汗を流して楽しんでいると話題になっている。
会場は熱気に包まれていた。
老若男女がさまざまな衣装で、壇上の振付師の動きにしたがって、軽く両手をあげて踊る。浴衣姿の外国人観光客まで紛れ込んでいる。
規則正しい動作は、やがて群衆のうねりとグルーヴ感を生んだ。
浴衣姿の、ひときわ異彩を放つ若い女が参加していた。そばには見事な着物を着た先生も踊っている。
楽曲がサビの部分に入ると、盆踊りはヒートアップした。
どさくさに紛れて、若い女の手が一瞬消える。
すぐ眼前の男性の尻ポケットから、財布が掻っ攫われたことに気づいたかどうか。
財布は眼にも止まらぬ速さで、女の腰帯についた前板の内側に吸い込まれた。
群衆が前へ前へと進むにつれ、さながら千手観音菩薩なみの無数の手となって、男たちのそれを盗んだ。
まさに電光石火。女からくり出される手の速さは、もはや神速といえた。
男たちの尻ポケットをはじめ、胸ポケット、リュックサック、その懐にまで手が伸び、毟り取る。
しかも、相手は所持品を失ったことに一切気づかないほど、不自然さがないのである。
女は標的を定めるや否や、電撃の手さばきでスリをくり返した。わずか0.2秒の恐るべき早業。
踊りに夢中になっている雑踏にまぎれ、金品を盗るのは他愛もなかった。
電子マネーが普及したご時世とはいえ、いまだに現金主義の人間も一定数いる。スマートフォンには手を付けない。あくまで現金のみにこだわった。
夜の7時にさしかかろうとしていた。
会場から離れた日出町公園の、遊具の階段に腰かける先ほどの浴衣姿の女。
21になった薫子だった。興奮冷めやらぬ美貌が手元を見つめている。
「先生のおっしゃるとおりだね。男の『ケツパー』ほど楽なものはない」
薫子はいくつもの財布を物色しながら言った。浴衣姿が似合い、匂い立つような女に成長している。
遠くから盆踊り会場の賑わいが聞こえた。和太鼓を叩く音がビル街に響いている。ケツパーとは尻ポケットに入れた財布を意味する。
そばには着物姿の先生が佇んでいる。ひと仕事を終え、疲れをにじませた。
あれから13年。着付けの講師もさすがに寄る年波には逆らえず、かつての凄味は衰えていた。今や『オシドリ』をやるときは先生が囮となり、薫子がスリの本命役と立場が逆転していた。財布を盗るスピードは先生を凌駕していたのだ。
しかし、先生としては喜んでばかりもいられなかった。滑り台の階段に腰かけて札を勘定するのに夢中になっている愛弟子を見かねて、口を開いた。
「これ、薫子や。よくお聞き」
「はい。なんですの?」
薫子は財布から札を取り出しては容れ物を地面に捨てていた。クレジットカードにも手を付けない。あえて現金のみだった。
矢継ぎ早、くすねた財布を取り出しては金を抜いていた。
勘定していた手をとめ、先生を見た。
「薫子、あんたはたしかにあたし以上に速くなった。あたしと組むまでもないね。これからは『ボタハタキ』として独り立ちしてゆけばいい。あたしがいると、かえって足手まといになる」
『ボタハタキ』とは、縁日や劇場など人混み専門のスリのことをさす(※かつては刃物を用い、相手の着物の袂や巾着袋を切ったりして、その中の金品を奪う方法とされた。初歩的にして幼稚な技と称されたことも)。
同様に公共交通機関の乗り物の中で専門に行う者を『箱師』と呼び、繁華街の雑踏を得意とする者は『平場師』、あるいは路上ですれ違いざまに盗むのを『違い』と分類した。先生の場合は、あらゆる状況も苦にしなかった。
「足手まとい? そんなことない。先生、なに言ってんの」
「あたしも年だよ。今さらだけど、あんたに言おう――半年くらい前から体調が思わしくなくてね。やたらと下腹がキリキリ痛む。先日病院で精密検査を受けたんだ。そしたら末期がんであるのがわかって。そこらじゅうに転移してるようだ」
「そんな――」
「手遅れってわけさ。スリは廃業だ。人としても、おしまいだよ」
「金ならいくらでもある。すぐにでもいい病院探して、名医を紹介してもらお」
薫子は立ち上がり、札束を掲げてみせた。
先生は頭をふった。以前より顔がやつれていた。肌に昏い死相がよぎっている。
「いいんだよ。充分生きた。年相応にね。あたしゃ、あんたに教えることはもうない。巣立ちのときが来たのさ。――だけど、気がかりなことが一つだけある」
「私にとって、先生こそ親だ。私たちはこれからも一緒じゃないか。離れたくない」
二人は、ひしと抱き合った。
豊島区の日出町公園はさほど広くはない。夜になったとはいえ、そこかしこで人影が行き交ったり、ベンチや喫煙所で誰かが佇んでいた。そんな愁嘆場を目撃されたくなかった。ましてや薫子は札束を手にしていた。
「今後のあんたが心配だ。なにも食っていけるかどうか、案じてるんじゃない」
「じゃあ、なに?」
「これ。あたしの背中に回した金、早く仕舞いな。目立ちすぎる」
「わかった」
薫子は浴衣の帯の内側に挿し入れた。
ふたたび師匠と弟子は抱き合った。
「あんたはスリの技を身につけた。名人級の早業も。金銭を得ることを悦びとしている。それはいい。あたしもそうだったから」
「はい」
「いつしかあんたはその技に溺れるようになった。そして金勘定にのめり込んだ。あんたは悲しい女さ。生みの親から愛を知らずに育った。その寂しさを埋めるため、いつしか窃盗症になっちまってることに気づかないなんて。こんなあたしが、そういうふうに仕込んだんだから無理もあるまいがね」
「窃盗症?」
「あんたも21だ。そろそろ浮いた話の一つや二つ、あったっていいじゃないか。なのに、あたしにべったり。そんなに他人――男が嫌いかい?」
「あれほど男ばかりから盗ませておいて、今さら好きになれと、おっしゃりたいわけ? 先生だって、旦那に愛想尽かしたせいで男嫌いになったくせに。どの口が言うの」
「それとこれとは話は別さ。男女の仲ってのは、うまくいくときもあれば、いかないこともある。それでも諦めず誰か愛を受けるのも、自分の幸せのためだ。殻に閉じこもってばかりいてもダメなんだよ」
「あのね先生。もうそんな時代は、とっくに終わってるって。これからは女一人ででもやっていかないと」
「あんたのためを思えばこそ言ってる。あたしはいずれ死ぬ。金の亡者のようになったあんたの姿なんか見たくない。いっそのこと、この世界から足洗って、誰かいい人と手を取り合うべきなんだ。そうじゃないとあんたは破滅する」
「こんなふうに育てておいて、先生は自分勝手だ。私はどうせ、業まみれの女なんだ。いつか罰を受けなくちゃいけない……」
◆◆◆◆◆
じきに先生の症状は悪化し、入院することになった。
結局2か月後、彼女は帰らぬ人となる。人生の師の喪失であった。最期まで薫子の今後を心配していた。
鬼無里 薫子はしばらく気持ちがふさがり、窃盗は控えていた。こんなときは雑念が入り、盗みの現場を見破られる恐れがある。
喪に服したあと、先生の自宅で遺品整理をした。すると薫子が8歳のころ、一緒に撮った写真がいくつも見つかった。
大人になるにつれ、なんらかのイベントに参加しては二人してファインダーにおさまったものだ。それを眼にしては涙を流した。
人の心の痛みを知らないはずなのに、涙することができたのだ。まんざらではあるまいと、先生の遺影に微笑みかけるのであった。
そうこうするうちに、箪笥の中から別のアルバムを見つけた。
これに触れるのは先生の墓を荒らすようで気が咎めた。
ためらいがちに開くと、ページを繰らずにはいられなかった。
やり手の会社経営者だった夫の写真がある。外面はよかったが、酒乱の癖があったと聞いたことがある。酔うとすぐ先生に手をあげたという。
ページをめくると、赤ん坊を抱えた若き日の先生が映っていた。
アルバムはしだいに夫婦の姿はなくなり、代わりに男児の成長過程を記録するのみとなる。
これこそが生前、先生が気にかけていたプライベートな事案だったのだろう。
なにがあったか知らないが、一人息子とは疎遠だったにちがいない。現に薫子が先生とすごした13年間、一度もその姿を眼にしたことがなかったからだ。
薫子は片付けを終えると、簡単な手荷物ひとつで旅に出た。泣き疲れた末に思いついたのだ。
秋が深まるなか、日本海側を歩いたり、女性ドライバーにヒッチハイクさせてもらいながら小さな宿で逗留し、ゆっくり温泉に浸かって疲れを癒した。
途中、スリをしたい誘惑に何度もかられた。
抗い難い盗みへの渇望。金銭に不自由しているわけではない。
しかしながら無闇やたらに盗んだところで、ほんの一時、心の渇きが満たされずにすぎない。これではあの日、先生に指摘された破滅への道は免れまい。
だからこそ亡き師へ喪に服する意味で、全身全霊で耐えた。我が身を抱き、腕に爪を食い込ませ、病と闘った。
新潟で特急に揺られているときだった。車内でスリの噂を耳にする。
小島谷駅から乗車した客数人が、被害を受けたという声が交わされている。しきりに座席のそこかしこで、私も、私もと連呼しはじめた。
耳を欹てずにはいられない。
旅に出てから、一度も手を出しておらず、潔白を誓えた。魔の誘惑をことごとく跳ね除けたのだ。
とすれば、別のスリ師の仕業か。
薫子は情報を寄せ集め、パッチワークしてみる。
どうやら親子連れの『オシドリ』による仕業らしい。善良な成人男性をダシに使い、その隙に60すぎの父親がスリを働く手口だという。小島谷から乗った客たちは、周辺の町で財布を盗られたというのだ。
この時世に、新潟の小さな町から町へと旅をしている『流し』のスリか。巧みな手つきは眼にも止まらぬ速さだと、むしろ感心する声も洩れた。被害届を出したらしいが泣き寝入りしたようだ。
してみれば、かつての先生とのコンビネーションと同じやり口。
昔、スリの世界にも組織があり、ライバルたちとの交流もあったらしいが、今やスリを生業としている人間など絶滅危惧種同然。彼らと話す機会すらない。
薫子は急に思い立ち、次の吉田駅で下車した。
今来た道を徒歩で南下する。
ニットセーターにロングコートを羽織り、長いプリーツスカート姿だ。およそ旅人にしては軽装すぎた。
スリ眼は子どものころより鍛えられ、先生の折り紙付きだ。直感力は生まれつき冴えていた。
会えば、すぐにそれとわかると自信がある。
◆◆◆◆◆
金属加工が盛んな工業地帯である吉田町をトランクひとつ提げて歩いた。南北に流れる西川沿いに古くからの市街地が伸びている。
燕市をすぎるころ、思いきって国道116号線に踏み入れた。
道の両側は平坦な田園がはるか彼方まで広がっている。ときどき道沿いに大きな建物がうずくまっているような風景である。
まるで苦役のように歩き続けた。
道行く車は誰も気に留めない。何人かの歩行者とすれ違った。言葉すら交わさなかった。
やがて国道は二車線になり、歩道の幅もゆとりが出る。
秋風に冷たさが忍び込んだようだ。
そのときだった。
右側の歩道を歩いていると、向こうから二人連れの男がやってくるではないか。
国道116号線の交通量は少ない。長距離トラックはディーゼルエンジンを唸らせながら、かたわらをすぎていく。
薫子は男たちに眼をやった。
若者は薫子と同い年ほどの年齢か。さっぱりとした色のカジュアルな服装。ジャケットの前は開いている。
横に並ぶ黒いスーツ姿は老人と呼ぶにはいささか若すぎた。恰幅のいい体型で、帽子をかぶったしゃれたセンスをしている。片足が不自由らしく、杖をついている。
二人は驚くほど面差しが似ていた。父子であろう。
おたがいの距離が狭まった。嫌でも眼が合う。
薫子は悟った――なんたる偶然か。あれこそがJR車内で耳にしたスリの親子に違いあるまい。同じ匂いがした。
男たちもピンと来るものがあるのか、父子ははじめこそ談笑していたが、すぐに張り詰めた顔つきになり、唇を結んだまま薫子を見つめてくる。
薫子は歩調を一定に保つ。
父子も負けじと歩幅を変えず、闊歩してくる。逃げも隠れもしない、堂々たるものである。
やがて男たちは間隔を開けた。親父の右手はスーツの内側に入っている。息子は胸を張って腕を振っている。
あいにく薫子の両手はふさがっていた。片方にトランク、もう片方は夕食用の弁当の入ったビニール袋を提げているのだ。
居合道の試合前のような気迫が漲る。
まさに、すれ違う瞬間――。
「いざ――お手並み拝見」
薫子は父子の間を割る形になった。
そのとき、道行くドライバーたちは目撃したかどうか。
三人の腕がいっせいに霞んだ。父子は薫子に近い側の片手、薫子は両腕が消失した。
薫子のトランクとビニール袋が宙に浮いたまま、一刹那のあと、ふたたびその取っ手を手にしていた。
しかも両手は父子の財布をいっしょに握ったままだ。まるで手品師のように降って湧いたかのようだった。
男たちはなにも奪えていない。いや、若者はなぜかペットボトルを手にしていた。
親父は空だ。信じられぬといった顔で手のひらを見る。
父子は顔を見合わせた。
車が行き交う。この静かなるやりとりを誰も見ていないし、興味もあるまい。みんな、自分のことで精一杯なのだ。
三人はすれ違ってから、相手をふり返った。
そのときになって父子は上着の懐に手をやり、空になっていることに気づいた。やられたという顔をする。息子は眼を丸くし、親父は唇を曲げ、額に手を当てた。
「姉さんの財布を盗ったと思ったのに」
と、薫子と同じ世代の若者は唇を尖らせた。しぶしぶ拍手する。
「ごあいにくさま」薫子はトランクを置き、二つの長財布をちらつかせてみせた。しこたま稼いだようだ。ずっしりと重い。顔を傾け、白い歯をのぞかせる。「そのペットボトルは私のコートのポケットに入れてたの。ダミーのつもり。本物の財布はビニール袋の弁当の下」
薫子は父子に財布を返した。別に相手から盗りたくて盗ったわけではない。ほんの腕試しにすぎなかったのだ。
二人は持ち物を受け取り、笑って礼をした。
「今の『違い』の技術、お見事でしたな。同業者とすれ違うとは、確率論的にできすぎだったが。脱帽です」
と言い、親父の方は文字通りハットを脱いで頭を下げた。どこかで見慣れた銀髪が現れた。
「で……、どちらまで行かれるんです?」
若者が訊いた。さわやかな笑顔の好漢らしい。
「目的地は決めておりません。気のすむまで旅を続けようかと。あなたたちこそ」
「いやはや、人づてに実母の死を聞きましてな。親の死に目に会えないというのは心苦しいものです。こんな稼業は、なにごともタイミングが命。なのに肝心なときに合わせられないとは」と、親父は帽子をかぶり直し、しんみりした口調で言った。「我が子と一緒に『流し』をしながら、東京へ行こうとしていたのですが、どうも道草ばかり食ってしまいまして。かれこれ20年、合わせる顔がなかった。思うに、そうやって現実逃避していたんでしょう」
「それって、ひょっとして――」
薫子が驚いた顔をしているのをよそに、若者が頭を掻きながら、
「悔しいね、僕よりも速いなんて。完全に負けだ」と、言った。秋の日の釣瓶落としは伊達じゃない。急速に日が翳り、父子の姿が黒くなる。「財布を盗られただけじゃない。もしかすると――僕の心まで盗まれたかも」
父子に挟まれ、薫子は笑みをこぼした。とりわけ若者は熱っぽい眼差しを投げかけてくる。
「そのセリフ、どこかで聞いたことある」
「お嬢さん、よかったら、我々と一緒にお食事でもいかがかな? どうやらあなたは赤の他人ではないようだ」
と、親父は言うと、若者は指を鳴らした。
「賛成だ。きっと退屈させないよ」
「いいかも。じつは積もる話がありまして――」
了
※参考文献『賭博と掏摸の研究』尾佐竹 猛 新泉社




