トゥオネラの白鳥は死して踊り
それはひどく哀しげで、美しい音色だった。
(ヴァイオリン……?)
春華は耳を澄ませた。
早春の陽射しが柔らかい日曜日の早朝。
散歩に出ていたところ、家から少し離れた公園に来たとき、春華はその音色に気づいたのだ。
(これは……トゥオネラの白鳥……)
それは、春華の思った通り、シベリウス作曲『トゥオネラの白鳥』だった。
冥界との境を流れるトゥオネラ川で、その川に浮かぶ幻想的な白鳥の姿を描いている音楽である。
そして、春華は見た。
木陰のベンチの脇にスッと立ち、ヴァイオリンを奏でている長身の青年の姿を。
青年は奏でる。
それは、澄んだ物悲しげな旋律で。
それは、すすり泣くように哀しく。
とても神秘的で美しい音色で……。
(トゥオネラ……黄泉の国の白鳥ならきっと……)
春華はおもむろにステップを踏み、踊り始めた。
三歳の時からクラッシックバレエで培っている踊りの素養。コンテンポラリーの能力も既に培っている。
それはまるで、黄泉の国トゥオネラの川に漂う一羽の白鳥そのものだった。
「……君?」
「?!」
春華の舞が止む。
おどおどと春華は青年を見つめ、一歩一歩後ずさる。
「君は……」
「し、失礼します……!」
それだけを言い残して、春華は一目散に走り去った。
後にはヴァイオリンの手にした青年だけが、何かを想うように立ち尽くしていた。
・
・
・
それからの日々。
春華の耳には、あのヴァイオリンの『トゥオネラの白鳥』が残って離れずにいた。
あの青年。
春華より少し年上だろうか。
そんな若干二十歳になるかならないかの青年に出せる音では、常なら、ない。
何か尋常ではない音があのヴァイオリンからは響いていた。
(もう一度。もう一度、あの音色が聴きたい……!)
いても立ってもいられなくなり、春華は一週間後の日曜日の朝、同じ時間帯にあの公園を訪れた。
(いるわけないか……そんな都合良く)
寂れた児童公園には、子どもの一人として誰も見当たらず、静けさを保っている。
しかし、春華の脳裏にはあの旋律が鳴り響いていた。
春華はまた自然と踊り始めた。
それは即興ながら、完成された踊りだった。
ひとしきり踊り、白鳥が羽を休めるように春華が踊ることをやめたとき。
「君」
不意に声がした。
振り返ると、まさしくあの青年がヴァイオリンを片手にそこに立っていた。
「あ、あの……」
「君……ずいぶんバレエが上手いんだね」
柔らかく彼が微笑んでいる。
その前髪は朝日に透けていて。
文句のつけようのない美丈夫ぶりだ。
「あなたこそ。ヴァイオリンがすごくお上手ですよね」
「君のバレエほどじゃないよ」
「そんなこと……」
そんな会話から始まった二人だったが、春華が尋ねた。
「何故、トゥオネラの白鳥を?」
その問いに彼はしばし黙していたが、ややあって口を開いた。
「僕には妹がいて。そりゃあ、バレエが好きで上手だった。君みたいにね」
そして、ふっつりと彼は口を閉ざした。
「妹さんは……」
「……先月。事故で亡くなったよ」
「……」
「きっと黄泉の国でも踊り続けている気がして……この曲を。家の中で弾いていたら、家中が重くてね。だから、思い切って朝の公園に来たわけさ」
春華は何も言えなかった。
彼のあの哀愁のヴァイオリンの音色にはそんな深い訳が隠されていたのか……。
彼は、春華の目を見据えて言った。
「君のバレエは素晴らしいよ。ずっと見ていたい」
その時。
春華は、彼の瞳の中に言いようのない暗い憂いを見た。
最愛の妹を亡くした彼の悲哀の色を……。
泣くように、春華は叫んだ。
「黄泉の国に引き摺られてはダメ!」
「黄泉……僕が……?」
「あなたはもっと違う。もっともっと素晴らしいヴァイオリンを奏でることができると思う」
春華は、必死だった。
「トゥオネラに身を投じてはダメ」
「僕は……」
彼は、ヴァイオリンを見つめた。
しばしの時。それは無言だった。
しかし、彼はヴァイオリンを構えると、おもむろに奏で始めたのだ。
「……クライスラー。『愛の挨拶』……?」
それは、透き通っていて明るくて。
やっと訪れた夜明けを感じさせて。
今し方まで冥界の音楽を奏でていたとは信じられないほど、それは陽気で清々しい音だった。
曲が終わり、春華は精一杯拍手した。
照れくさそうに、彼が言った。
「ありがとう。……自己紹介がまだだったよね。僕は、岡野雄一郎。園田芸大付属高校器楽科専攻三年。君は?」
「水野春華、聖修館高校一年です」
「君のバレエ。もっと見せてくれないかい?」
「岡野さんが伴奏してくださいますか?」
「是非」
そして、雄一郎が奏で始めたのは、サン=サーンスの『白鳥』だった。
『トゥオネラの白鳥』とは違う旋律と踊りで、朝日を浴びてそれは透明で美しく。
息の合う二人はいつまでも奏で、踊り続ける。
どこまでも深く、麗しいまでに──────
作中イラストは、「AIイラストくん」を用いて作成しました。
お読みいただき、本当にどうもありがとうございました。