二つのレンズ
会社勤めの陽菜乃は家に帰りつくが早いかすぐさま洗面台に駆け込むと、洗った指先でコンタクトレンズをはずして目をつむりほっとひと息。
この一瞬がなによりの幸せで、始終レンズをつけているのは苦痛で仕方ないものの、といっていやでも人目が向くなかを眼鏡姿でとおす勇気もない。
瞳が一挙に回復する手術を敢行できれば万事解決と心づきながら、しかし気を張っているせいか不思議と勤務中は耐えれば耐えられもするし、いくら安全とはいえいざ手術をすると考えると不安で仕方がない。
目が良くなりたいという気持ちはもちろんあるし、小さかったあの頃のように目の前がくっきりと見えるようになれたらと夢見つつも、その実あの頃というものを今ではもう忘れ切っている。
中学にはいった頃には、陽菜乃はすでに視力検査の一番上の記号さえ定かでないのを知りながら、順番がまわってくるのをどきどきと待ち、それから次の人と急かれるままにいそいそと線まですすんで、この時にしかお目にかかれない黒いスプーンを片目におしつける。
「目は細めないでね」
そう横からつぶやく女性の眼科医に声ではなく首で返事はするものの、その言いつけを律儀にまもると一番大きい記号の形さえわからないのは最早知れきった事。
ひと通りやってみて陽菜乃の近視に気がつくと、白衣の先生は四角い白いボードに黒い記号がしるされたものを手に前へ立って行って、
「これはどうですか?」
「わかりません」
と答えたり首を傾げたり横に振ったりするたびにこちらへ一歩近寄って来る。ようやくぼんやりと分かった方向を指し示すと共に、陽菜乃は恥ずかしさと悔しさとこれからどんどん目がみえなくなる恐怖にうるうると涙があふれて来るのをどうにも抑えきれずにいたのは二年も前のことで、今はすこし治まりだしたらしい近視の進行にほっと胸をなでおろしつつ、しかしこれからずっと付き合っていかなければならないらしい眼鏡が嫌で嫌でたまらなかった。
だから日々の学校はもちろんの事、中学になると視力検査の日さえ寸前までコンタクトレンズで押し通したのは無理からぬことではあるものの、今年二十四になる今となっては毛嫌いしていた眼鏡で過ごすのが一日のうちでも飛び抜けて甘美なひとときなのである。
しかもよくよく自分の顔のつくりを眺めて研究すれば、眼鏡はかえって似合うと来ている。メタルフレームでは度数のつよい自分のレンズでは少しはみだしてしまって不格好になるから試せないものの、それさえ伊達眼鏡として休日になるとふいと鏡の前であわせて気分が乗ればそのまま外へでる。
でも陽菜乃にとってそれは本物の眼鏡ででかけるための前振りのようなもの。誰にも会う恐れのない休日ばかりではない。ちょっとばかり目を小さくしてしまうのが玉に瑕のお気に入りのセルフレームで堂々と電車に乗って会社の席に着き、会議に出席したりお客を訪ねたり、それからお昼にランチへでて初めての店を開拓するばかりでなく、静かに戸をひいた行きつけの一軒。
「いらっしゃいませ」
の声より早く気にかかるのは爽やかな店主がこちらへくれる眼差し。いつもと違う自分の風貌にあれっと目を見開かれるのも恥ずかしいけれど、それよりも何よりも気づかれぬままにいつもと同じ対応をされるのはさらに耐え切れぬ事。
お客にしても会社の人にしてもお店の人にしてもそちらの目ばかり気にかかり、自分の一存で眼鏡姿のまま出勤してもいいのやら。かえって向こうに迷惑がかかるのではとの憂慮が先に立ってしまう。
そんなこんなで平日に眼鏡姿へと変身するのはまだまだ先の事。そう溜息まじりに諦めをつけるのは致し方ないものの、もう付き合って三年になる彼氏に会いに行くたびに未だに毎度のごとくコンタクトレンズをつけてしまうのはどうなのか。実のところすでに幾度となく家にいるときの眼鏡をかけた自分は見せている。彼もそれを悪くは言わない。褒めてもくれた。
とはいえいくら褒められようが家のなかで見られるのと、その姿のまま外で会うのとはちょっと話の次元が違う気もする。けれどもこれから先、二人の仲が長く続くなら、ずっと続くなら、そろそろ眼鏡をかけて彼の家を訪ねたり、共に街へでかけたり、それでなくても近場へご飯を食べに行くくらいはしてもよい時期に差し掛かっているのではないか。もしこれからさき二人がそのまま。
とここでふっと考えが途切れたまま、陽菜乃は背にあたりつづける暖かいシャワーをしばし浴びたのち風呂にはつからず部屋へともどり、テーブルの前にあぐらをかいて小さな鏡をみつめている最中、絨毯に捨て置かれた携帯電話がふいに鳴ったのを見れば彼からでもう着くよとの事。
えっと焦ると共に、陽菜乃はきれいに額をだした素顔がふいに恥ずかしくなり、たまらず眼鏡を取ってかければ尚更の事で、せめて髪を乾かしてからとは思うものの彼を待たせるわけにもいかず、一度は長い髪をタオルに巻きながらすぐに解いて洗面台へ行きドライヤーをあてはじめた折からドアホンが鳴る。
陽菜乃はすぐに立って行ってカメラで彼と確かめたのち鍵を開け、いそいそと洗面台へ立ち戻りドライヤーを手にする間もなく、ふっと横合いから恋人の気配がして、そちらは向かずに大きな鏡を見つめたまま、
「ちょっと待っててね」
「うん」
「部屋で待っててくれる?」
「ここに居たらいけない?」
「だめだよ」
「どうしても」
それへ大きくうなずいて首を横にふったのち彼を一瞥すると、相手は早くも観念したのかすっと立ち去ったのち、陽菜乃はふと眼鏡ばかりではない、これでは乗り越えなければいけないことだらけだと思いつつ、不思議とそれが嫌ではなく楽しみにしている自分に気がつくと、ふわりと先程の彼の立ち姿が浮かぶままに微笑みながら、手早くすませてすぐにでも隣へ行かなければとふわふわ心浮き立つままに風をつよく髪へ当てだした。
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