2-1. 思い出の始まり
記憶が明瞭に残るには、理由が必要だと思う。私の場合、十二歳の誕生日に起きたことをはっきり記憶しているのは、出来事そのもののせいなのか、誕生日だったからなのか、よく分からない。あるいはちょうど今、そこを中心として時間的な端にいるからだろうか。ある作家が、自伝で人生とは二つの闇の間を走る光芒のようなものだと書いていたけれど、今の私がいる場所から見て、その真ん中というわけ。
とはいえ結局のところ、理由はよく分からない。例えば、なぜその日私が、あの薄暗い地下の空間に足を踏み入れたのかも。どこにその最初のきっかけがあったのかは、もう見当もつかない。ずっと小さな頃、その当時にはまだあったはずの、スーパーマーケットだかデパートのゲームコーナーで目にしたことだったかもしれない。あるいは小学校の野球部の友達と何度か行ったバッティングセンターで見たもの。二台の画面(その頃には筐体という言葉を知らなかった)を挟んで座り、左手でレバーを弾くように、例えば六時から三時という方向に素早く二回続けて回し、そしてボタンを押す鮮やかな手さばき。すると画面の中では閃光と共に時間が止まり、空手の胴着姿の女の子は、拳の連打を見舞う。もしくはもっと後、同じようなものをインターネットという不思議な道具を使って目にしたとき。どういう経緯で私がそれにたどり着いたのかは分からないけれど、私はそこで初めて、そんな遊びが、競い合いという形で、もっと緊張感のある形にもなるのだと知った。そしてそれが、自分が今までただ通り過ぎたり、むしろ何か恐ろしげな場所に思えたような見知った場所でも行われているのだとも。
きっかけというよりは、こういうことが(たぶん他にも、きっといくらでもあるのだろうけれど)つながった結果として、あの日の出来事に行き着くのかもしれない。もっともこんな考えも、結局のところ全部後知恵で、ただ都合よく整理しているだけなのかもしれないけれど。
電車で三十分ほどをかけて街中につれてこられ、その頃の家族の習慣の通りに、自由時間になった。つまり解散して、決まった時間に待ち合わせる。そうやって自由の身になると、急いで、そして行き先を偽ってこっそりと、私は商店街に向かった。そして、何度か通ったことのある場所を目指す。そのときは家族が一緒にいたから、通り過ぎるだけだったところ。今は私一人。だから、そこに向かう私を止めたりとがめたりは誰もしない――そんな経験があったわけではないけれど。何しろ、そこに行くという意思を表したこともなかったのだから。でも、そうなるに決まっていると思っていた。男の子と遊ぶことに全く抵抗を感じず、擦り傷を作ってとがめられるのが一度や二度ではなかったその頃の私でも、そのくらいは気づいていた。
商店街を歩いている人がみんな、後ろで私を見ているような気がした。アーケードの歩道に面しているその入口は、階段の向こうにある。壁には雑然とポスターやら何やらが貼られ、薄暗い階段の先に、ガラス戸が見えた。というか、足が進まず、そんな光景をずっと眺めていた。
後ろからは雑踏の喧噪、すぐ横には建物の一階にあるラーメン屋の看板を兼ねた、鉢の上で麺を引っかけた箸が持ち上がったり下がったりを繰り返す愉快な模型があって、そこからギシギシという軽いきしみ、モーターの控えめなうなりが、妙にはっきりと聞こえた。でもその先、私が向かおうとする自動ドアの先からは、私の耳にまでたどり着く音は何も漏れてこないのだった。