1. 記憶と重ならない今
感触の違い。まだ残っているその余韻を矯めつ眇めつ眺めてみても、そんな風にしか言い表せない。はっきりしているのに、言葉にはならない。何を原因としていたのかは想像できるから、私が言葉にする方法を知らないだけなのだろう。
要するに表示する画面の問題であって、私の手がレバーを動かしてボタンを押し、それが反映されるまでの挙動や、あるいは映像を構成する粒の一つ一つだとか――冷たいほどくっきりとしていた――が、比較の元になっている古い記憶と異なっていたということなのだと思う。百円玉を入れて遊べるのが一回だけだったという時点で、それの見た目が思い出の中と似ていてもまるで違うものなのだと、気づいてはいたけれど。奇妙なのは、分析すれば原因だと理解できるそういう要素の一つ一つと、実際に私が直面した、重みのなさというか、足場を踏みしめられないような浮遊感のようなものが、直接的に結びつくように思えないということだった。しかし、実際にそうだったのだから仕方がない。
私がそれに気づいたのは、敏いとかいうのではなくて、記憶の中に数少ない比較対象しか持っていなかったからなのだと思う。つまりはそれが唯一の基準であって、唯一の立てる場所だった。ずっと変わらず、同じままで保存されていた記憶。私はそこでようやく、それが今ではもう本当に失われているのだと、はっきりと気がついた。
駅前のゲームセンター(もしくは『アミューズメントスポット』)の中で見た光景は、記憶や思い描いたものとはまるで似ていなかった。以前は賑やか過ぎるというよく分からない理由でそこの席に着くのは避けていたけれど、中の様子は知っていた。細部はともかくどんな場所なのかは、十分に。しかしこうして何年もの時間を隔てて訪れてみると、ほとんど見知らぬ場所も同然に様変わりしていたのだった。ようやく見つけた目当ての形式のゲーム筐体は、私が親しんだのと同じように、左側には先端にボールのついたレバー、右側にはボタンが三列二行の六個並んで、離れたところに小さなボタンがもう一つある。しかし画面は真っ平らでくっきりと鮮やかな色を発していて、何かのカードを読み取る装置が手元近くに備わっている。そして「100円1Play」という表示。いざ始めてみると、同じに見えたところですら、レバーやボタンの感触の行儀の良さというか上品さというかには、違和感があるほどだった。うまくいかなかったのはそういうことと、あまりにも久しぶりに触れたからなのだろうと、もっともらしい言い訳を浮かべながら、相手のいない――それは機械が務めた――私は席を立った。
そこには私の知らない大きな、例えばカードを置いて動かしたりするゲーム機が並び、煙草の臭いはせず、置かれている両替機は真新しく、五十円玉は出てこない。