耳元で囁いて
俺のアパートは、狭くて古い。上下左右は空き部屋の、風呂とトイレ共有の二階建て和室ボロアパート。
しかし、俺の部屋だけは綺麗に洋室にリノベーションされている。
それはこの部屋が、事故物件だからだ。
……とは言っても、不動産屋としては本来告知義務もないほど昔の話だそうなのだが、それ以降怪奇現象が起こるとのことで、住人が居座らないのだと説明を受けている。
それでも契約したのは、俺の個性に理解ある大屋さんの対応が嬉しかったのと、現実的に「学校近い・駅近い・コンビニ近い・スーパー近い」という好条件で家賃2万という魅力に抗えなかったからだ。
デバッカーのバイトを終え、深夜にコンビニ弁当をぶら下げて帰宅すると、何故か部屋の電気がついていた。
消し忘れかな?と首をひねりつつ靴を脱ぐと、今度は電気が消えた。
突然の電気の不具合や、水道が緩んで水が流れ始めるのはよく起こる。いくらリノベーションしていても、建物自体は古いから仕方ない。つけっぱなしの電気代や、出しっぱなしの水道代が心配になるが。
ふ、と風で俺の髪が揺れる。
『…………ウラ、メシ……イ……』
「?!」
『……オマエ、モ……ク、ル、シンデ……シネ……』
弱々しい、中低音な女性の声が耳のすぐそばで聞こえてきて、俺は驚愕のあまり弁当を取り落とした。
これは、これは……!
「凄い!脳に直接語りかけてるってやつだ!!」
『……ハ?』
「俺は聴覚障害あるのに、幽霊の声はっきり聞こえる!凄い凄い!久しぶりに声を聞いた!マジか。幽霊の声なら聞こえるんだ!」
『……』
「もっと話して幽霊さん!俺、途中失聴で話す方はできるから。お話ししよう!」
『……ラップ音鳴ラシテモ、モノヲ落トシテモ、夜中二突然レンジ回シテモ、完全二無視シテタノハ音ガ聞コエナカッタカラナノネ……』
耳元の声は呆れたような呟きだったけど、交通事故で突然の聴覚喪失から5年。耳鳴り以外に久しぶりの音だ。
俺は興奮のあまり、声のする方を大振りでハグした。
『キャ』という高い声と、なにやら柔らかい感触。
「あ、ごめん」
『ナニスル!変態!』
腕の中の質量が身動ぎする気配。咄嗟にハグは緩めたけど逃がさんぜ!
『ツ、ツカムナ!放セ!』
「そんなこと言わないでお話ししようよ。幽霊さんなら、長いこと誰とも会話できなかった俺の気持ちわかるでしょ?」
『ソ……ソレハ……』
「まじで嬉しい。もっと早く話しかけてくれて良かったのに」
『私ハ怨霊ダゾ!』
突然、パッと電気がついた。
モヤのような暗がりに見えていた幽霊が、ほんのり透けているだけの女の子姿になったが、俺は驚きのあまり彼女の肩を掴んでいた手を緩めてしまった。
「やば、想定外の美少女だった!」
『バカ!』
血色悪い頬を僅かに朱がさし、女の子はツンと身を翻して消えてしまった。
俺は呆然とする。
一瞬しか見てないにしても、目元は隠れていたが、ロングの黒髪ストレートからパーツとして見えていた細い顎、小さな口、細い鼻筋だけでも間違いなく可愛い確定だし、華奢な体格に真っ白ワンピースという姿は幽霊定番なんだろうけど清楚でとてもいい。
事故物件であることはすっかり忘れかけていたので、このアパートに住むようになってから、電気つけっぱなし問題とか水出しっぱなし問題くらいしか気にしてなかったけど、もしかして色々と怪奇アピールしてくれてたんだろうか。
気付かずに申し訳ないことをしたと思う反面、実はあんな美少女と半同棲生活だったのでは……とドキドキしてきた。
気持ち悪いとか、不気味だとかは思わなかった。
だって今のところ、恐らく唯一、俺が「聞こえる」声の持ち主だから。
音のない世界に絶望してから5年……まだ、たった5年。
俺は、落とした弁当を拾い上げた。
テーブルに持っていって、床に座る。
弁当を広げながら、俺は虚空に話しかけ続けた。
「……君は、ずっとこの部屋に住んでるの?」
「何か食べたりしないの?」
「外には出られるの?」
テレビもない、ラジオもない、動画も見ない。
今まで何一つ娯楽的な音がなかった俺の部屋に、彼女はずっといたのだろうか。
「暇だったよね。この部屋、テレビとかラジオとかないから」
『…………テレビ、クライ、置ケバイイノニ』
「!……耳聞こえないんだって思い知らされてる気がして、むかし勢いで棄てちゃったんだ」
『……今マデノ奴ラヨリ、静カナノハイイコトダ』
姿は見せてくれないが、耳元で声だけ聞こえる。
俺は何だか泣きそうになったけど、どうにか堪えた。
……それから。
彼女は時々おしゃべりに付き合ってくれるようになり、ごく稀に姿も見せてくれるようになり。
俺はアパートの契約を更新し、大屋さんにもとても喜ばれた。
ありがとうございました。