Day 0
ウォーキングシューズの紐を結び直して、マンションを出る。ピンクを基調としたウエアは新品で、体重が五キロ減ったご褒美としてクミが自分に与えたものだ。若い頃のベスト体重まで戻すには、もう五キロ痩せなくてはならないのだが。
五月は日中屋外で運動をするには丁度良い季節だ。半年前、医者から運動を勧められた時には全く気のりがしなかったのに、今では悪天候のために外出できないと苛立ちを覚えるようになっている。もうじき熱中症を気にしなければならない季節になる。そうなったら、夕飯を済ませてから夜歩くことにしようか、とクミは考えている。
娘が持っているような、小さな音楽プレイヤーを買うのもいいかもしれない、と信号待ちをしながら思う。背中に背負った小さなリュックサックに入れたスマホでも音楽を聴くことはできるのだろうが、ぼんやりしているとあっという間にバッテリーが減ってしまうのが難点だった。クミの知らない間に世の中は随分便利になっていて、この小さな機械の持つポテンシャルには毎度驚かされる。
「もし道に迷ったら? スマートフォンはお持ちですか? だったら、大丈夫ですよ。道案内アプリというのがありまして」
医者に教えられて最初は渋々使ってみたのだが、なるほど便利なものだった。赤ん坊が生まれるのを機に社宅からマンションに引っ越して以来、スーパーや小児科医、役場といった必要最低限のスポットに参る以外は自宅に閉じ籠もって暮らして来たために近隣の地理をあまり把握していないクミがどこへ迷い込んでも、スマホのナビゲーションがちゃんと自宅まで導いてくれるのだった。
半年間あちこち歩き回って、迷子になる心配が殆どなくなった現在でも、クミはバッテリーをフル充電したスマホを持っていないと不安で居ても立ってもいられなくなる。不測の事態――途中で足を挫いて歩けなくなるとか――に備えて、財布もリュックの中に入れてある。更にタオルと、替えの下着も。
その築四十年のボロアパートまでは、自宅マンションから徒歩で五十分ほどかかる。この程度なら、ノンストップで歩き続けたとしても少し息が弾む程度だ。自宅を出る前にシャワーを浴びたのに、少し汗ばんでいるのを気にしながら、クミはアパートの前で素早く周囲を見回して、誰もいないのを確認してから、一〇三号室のドアノブを静かに回した。鍵はかかっておらず、素早くドアの中に滑り込むと、待ち構えていた男の腕に抱きすくめられた。
男とは精神科の待合室で出会った。最も、男が声をかけて来たのは、病院内ではなかった。
三ヶ月ほど前のこと、クミが気の向くままに細い路地の奥へ奥へと入り込み、方向感覚を完全に失ったところで、車がやっと一台通れる幅しかない道路の向こうの方から若い男性が歩いてくるのが見えた。暴漢に変貌しそうなタイプには見えなかったので、クミはそのまま通り過ぎようとした。
男の方は、クミの前で足を止めて
「アンドウクミさん」
とフルネームでクミの名を呼んだ。なぜと問いかけるクミに、男は周囲には誰もいないのにわざわざ声を低くして、「病院で」と言った。
クミの記憶に、待合室の長椅子の端に長い脚を持て余し気味に腰かけ、ピアニストのように細い指でスマホをいじっている若い男性の姿が甦った。まだ少年と言っていい程の年齢なのにこんなところの世話にならなければならないなんて気の毒に、そう思ったことをなんとなく覚えていた。
すぐそこのアパートに住んでいるという男は、お茶でも飲んでいくようにと強引にクミを誘った。クミの手を握って引っ張って行き、一〇三号室の中に無理やり押し込むと、驚く程澄んだ瞳でクミの目をまっすぐに見据えて
「ずっと、あなたのことが好きだった」
と言った。
二人の関係はその日から始まり、週に一度か二度の逢瀬を重ね続けている。夫に女がいることは知っていたから罪悪感はそれ程無かった。原因は自分にあるからと、気づかないふりをすることにしたクミだが、女物の香水の匂いをプンプンさせて帰宅する夫に腹を立ててもいた。そんなあからさまなサインを見逃す程頭がおかしいと思われているのかと、悲しくもあった。誰かに求められているということがクミには嬉しかった。
男の名はシンジといい、二十一歳の大学二年生だった。大学受験で一浪した頃から不眠に悩まされ、精神科を受診していた。クミは肉欲以外では、シンジに対し同情と共感、そして憐みを抱いていた。若い愛人というよりは、可哀想な息子のように思い、情交のあとには睡眠薬なしでよく眠ることができるというので、若い男の体力を持て余しながらも、セラピストのような心持ちで彼を受け入れていた。
しかしこの日、狭い浴室でシャワーを浴びて着衣を整えたクミの腕を掴んで、シンジは
「帰るなよ」
と言った。
「無理に決まっているでしょう。娘が帰ってくる前に食事の支度をしないと」
「娘も旦那も、あんたのことなんか必要としてないだろ」
その言葉はクミの胸を突いたが、四十過ぎた女が、自分の半分ほどの年齢の男との色恋に真剣に溺れることは容易ではなかった。すったもんだの末、クミは彼の部屋を飛び出したが、アパートの斜向いにある畑の前で追いつかれてしまった。腕を掴まれてしばしもみ合ったのち、シンジに泣き出されて、クミは周囲を気にしながら、若い愛人の濡れた頬を撫でながら、その腕をとってアパートに引き返した。
二人が去ったあとには、無謀にも痴話げんかの最中に二人の間を横切ろうとした蛙が――蛙からしてみれば、進路の先に唐突に障害物が出現したと言えるのだが――裏向きで無残に踏まれ、内臓を吐き出し、潰れていた。
今後も関係を続けていきたいのならば、クミの家庭を壊さないようにしなければならないということをシンジに納得させるまで三十分ほど要した。再びクミがアパートから出て来て、一人足早に畑の前を通りかかったが、子供っぽい愛人がちゃんと約束を守るのかどうかに気をとられていたせいで、そこに潰れている蛙には目もくれず、その小さな生き物の命を絶ったのが自分だったかもしれないことなどには、全く気付かないまま通り過ぎた。
「俺にはあんたしかいないんだ」
子供のように泣きじゃくるシンジを抱きしめて頭を撫でてやりながら、この子の病は睡眠障害だけではないのではないか、とクミは思った。もう終わりにしなければ、と足早にアパートから遠ざかりながら考える。もう会わない方がいい。幸い自宅がどこにあるのかは教えていない。病院を変えて、メールを着信拒否にすれば、彼だって諦めるだろう。
クミは唇を噛み締めたが、嗚咽を押し殺すことはできなかった。自分は、あの家庭を守りたいのだろうか。誰からも必要とされていないのに。
「一緒になれないのなら、死のう」
そうシンジは言った。睡眠薬を溜め込んであるから、楽に死ねる、と。
それもいいかもしれない、という気がしている。勿論、そんなことをするわけがないのだけれど。「睡眠薬なら、わたしだって沢山持ってる」もう少しでそう言いそうになった。
クミは一心不乱に歩き続けた。泥のようにくたびれ果てて、何も考えずに済むように。




