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Day 5

 翌朝。ミチは右腕の内側に貼られた注射用保護パッドを見て、昨夜の出来事が夢ではなかったことを知った。

 まさか、まさかそんなことが

 父親から、昨晩救急外来で点滴を受けたことを聞いてもまだ信じられなかった。

「ママが夜中にお前の具合が悪いことに気付いたんだよ」

 なんというプチミラクル。点滴が効いたのか熱は三十七度八分まで下がったが、学校に行くことは当然禁じられた。

「今日は大人しく寝てなさい。水分を多めに取るようにってお医者さんが言っていたわ」

 ママったら、まるで母親みたいなことを言う。

 ミチはこの日一日を、自宅のベッドで夢と現実の間を行ったり来たりして過ごすことになる。途中、母が作ってくれたおかゆを食べたり、汗で濡れたパジャマを着替えさせられたりするのを、無抵抗に受け入れた。義指をつけていないことに度々気が付いたが、何事も起こらなかった。

 まさか、まさか、まさかそんなことが

 しかし、長年今度こそ、今度こそはという期待を裏切られ続けてきたミチは簡単には騙されない。

 こんなことが長続きするわけがない。油断させておいて、いきなり馬乗りになって両手で首を絞めてくるかもしれない。実際、母親の体調が最悪のときに、思いつめた顔をした母親に首を絞められたことがある。いや、それは子供のころに見た恐ろしい夢だったかも。もうわからない。狂人の考えることなど、自分にわかるはずがない。ニコニコ笑っていると思ったら、いきなり包丁で滅多刺しにされるかもしれない。

 ミチの悲観的な予想は幸い当たらなかったが、完全に外れたわけでもなかった。

 佐竹がミチの自宅襲撃を決めたのは、この前日のことである。電話もメールも完全に無視された佐竹は、学校帰りに待ち伏せして、激しい雨の中、ミチのあとをつけた。ミチを尾行するのはこれが初めてではないが、その日のミチは妙にゆっくりした歩き方で、いつもはぴんと伸びた背中が丸くなっていた。

 電車に乗り込んでからも、前回見た時はドアの脇に立って本を読んでいたのに、この日は早々に一番端っこの席に座り、うつろな目で床を眺めている。佐竹が斜向いの席に腰掛けたことにも全く気づく様子がない。相手の無防備な姿を覗き見ているという行為が佐竹の窃視願望を心地よく充たし、ミチに声をかけるのを先延ばしにさせた。

 そこへあの薄汚いガキが乗って来やがった。

「おい」

 学ランを着た背の低いガキがミチの上に屈み込んでいた。佐竹のところからは横顔しか見えないが、ニキビが目立ち、ちびでずんぐりとした体形の、冴えない少年。だが、ミチの生気のない頬に赤みが差し、うっすらと口元をほころばせるのを見て、佐竹は狼狽した。佐竹には決して見せない類の表情。そう、ミチは、嬉しそうだった。

「顔が緑色になってんぞ」

「え」

 美しい眉をしかめるミチ。そうだ、馴れ馴れしいガキは追い払ってしまえ。

「ゾンビみたいだ。かなり気持ち悪いぞ」

 あろうことか、糞ガキはミチの額に手を当てた。

 それからあとのことは、怒りでよく覚えていない。

 ビッチめ、清純そうな顔しやがって。よりによって俺の目の前で。ズボンのポケットのなかのナイフを佐竹はきつく握りしめた。この場で二人とも血祭りにしてやりたかったが、いかんせん人目が多すぎた。

 ユースケの肩に頭をもたれさせたミチは、熱と幸福感のせいで斜め向かいの座席からただならぬ気配を漂わせている眼鏡男の存在に最後まで気が付かなかった。頭のてっぺんまで真っ赤になって、この状況を同じ学校の連中に見られたいのか見られたくないのか決めあぐねているユースケも一点前を凝視したまま固まっていたし、第一彼は佐竹の顔を知らなかった。

 怒りに我を忘れた佐竹が金縛り状態から抜けられず、肩を寄せ合った初々しい高校生カップルが下車するのを見ながら体を動かすことができなかったお陰で、ミチの自宅マンションではない一軒家に二人が消えていくのを彼が目撃することはなく、ユースケ一家は無事だった。

 翌日、一晩冷静にこの電車内での出来事を熟考したうえで――彼はミチと名付けた子猫を溺愛していたが、その日はどれだけしつこくじゃれつかれても相手にしなかった――やっぱり殺すという結論に達した彼は、以前にミチのあとをつけて確認済みの自宅マンションまでやって来た。前日までの雨は止んでいた。ミチが今日学校を休んでいることは、親友のちんちくりんに確認していた。

「あの、ミチをストーカーするの、やめてもらえませんか。あの子、本気で嫌がってますから」

 何も知らないくせに、チビの雌猿が。あのブスは、糞ガキのあとにぶっ殺す。

 頭の悪そうなガキの肩にもたれてじっと目を閉じていたミチの蒼白な顔が浮かぶ。もしかしたら具合が悪かっただけかもしれない、と佐竹は思う。あのガキはただの幼馴染か何かで。だったら、今回だけは許してやってもよい。勿論、今後あのガキと会うのは禁ずるが。もう高校に行くのもやめさせる。俺のところで、俺の奴隷となって猫の世話をして生きていくのならば許してやる。つべこべ言うなら許さない。俺を邪魔する奴は、何人たりとも許さない。

 錯乱状態のサイコパスの襲撃を出迎えたのは、クミだった。

「安東さん、お届けものです」

「どちらの会社の方でしょうか」

「えっ」

「見たことがないユニフォームですけど、どちらの運送会社の方ですか」

 インターホンに設置されたカメラの映像を見ながら、クミは尋ねた。

 つなぎにベースボールキャップ、空の段ボール箱を手に完璧な変装だと安心しきっていた佐竹は、あからさまな動揺を示してしまった。

「社名を教えてください」

 結局、エントランスのオートロックを解除させることはできず、佐竹はインターホンの前から逃げ出した。クミの冷静な対応は佐竹の怒りに火を注いだ。

 あのババア。精神疾患を患っているんじゃないのかよ。私立探偵の言うことなんてあてにならないものだな。俺に恥をかかせやがって。まず真っ先にあのババアを殺してやる。

 佐竹はミチの父親の帰宅を待つことにした。母親が警察に通報していると厄介なことになる。ひとまず身を隠さなければ。父親は今日も帰りが遅いはずだということを佐竹は知っていた。

 なぜいつも旦那の帰宅が遅いのか、殺す前にあのババアに教えてやる。

 そしてタカシがその日遅くに帰宅するのを待って、佐竹は計画を実行した。

 佐竹にはよくわからない理由で並の母親以上に冷静沈着、母性本能に溢れかえった優しい母親になったクミは、つま先立ちで夫の喉首にナイフを押し付けて――タカシは日本人にしては背が高く、佐竹は小柄だった――自宅玄関に立った男の姿を見るや、踵を返してキッチンに行き、一番大きな出刃包丁を手に戻ってきた。

「おい、勝手に動くな。ミチはどこだ。こいつを殺されたくなければ」

 しかしクミは佐竹を無視して、射るような目をタカシに向けた。

「そんな男に脅されるままに家の中に招き入れるなんて、なんて父親ですか、あなたは」

「すまない、俺は」

「情けない人。あの子のためを思うなら、さっさと離婚してあの子をわたしから取り上げればよかったのに。あなたは外に愛人を作って、自分だけの避難所に逃げ込んで、あの子をわたしの元に残した。そのうえ、これですか。それでも父親ですか。自分の身を犠牲にしてでも家族を守ろうとするのが父親でしょう」

「うるさいババア。さっさとミチを連れて来い。でないとこの男を」

「殺せばいいじゃないですか。親は子を守るためなら、自らの命だって犠牲にするものです」

「殺さないでくれ!」

「静かにしなさい。情けない。ミチに聞かれたらどうするんです。母親がこんなで父親までがそんなだと知ったら、あの子はこの先どうやって生きていけばいいんですか」

 クミは静かな声で言った。昨晩ミチが高熱で苦しんでいると告げた時の方が余程取り乱していた。

「女みたいに情けない悲鳴をあげるなら、その男がやる前にわたしが刺しますよ。あなたは黙ってらっしゃい」

「おい、こっちに来るな、ババア。ミチを連れて来いって言ってるだろうが」

「さっさと刺せばいいわ。娘を守るのは親の務めだと言ったでしょう。わたしはあなたと刺し違えてでも、絶対に娘に危害は加えさせない。二度とね」

 クミは有言実行の女だった。恐怖に駆られた佐竹が威嚇のためにタカシの脇腹を刺しても、彼女は包丁を両手で握りしめたまま、ゆっくりと向かって行った。悲鳴をあげて床を転がりまわるタカシに蹴りを入れて血まみれのナイフを振りかざして襲いかかるサイコの心臓をめがけて、クミはぶつかっていった。肩に突き立てられたナイフの痛みで目標がずれて、包丁が男の下腹に突き刺さった。獣のような咆哮をあげながら、佐竹はクミの腕、首、顔、胸等を滅多刺しにしたが、クミは痛みに顔を歪めながら悲鳴を噛み殺し、引き抜いた包丁をもう一度男の心臓めがけて突き出した。


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