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Day 4

 昨晩から激しさを増した雨は、夕方になっても一向に止む気配がない。

昨日の夕方に雨がぽつぽつ降り出してからも、ミチは一時間ほど徘徊を続行した。傘を持っていなかったが、家に帰りたくなかった。熱でも出して家に母親と二人閉じ込められることを想像するとゾッとしたし、雨は徐々に激しくなっていったが、それでも家には帰りたくなかった。たとえ熱が四十度出ても、這ってでも学校に行くと、腹をくくった。

 翌朝熱を測ってみると、三十七度八分しかなく、ミチは胸をなでおろした。熱っぽく頭がぼーっとしていたが、どうせ授業は随分先まで予習してあるのだから、何も考えずに座っていればよかった。

 しかし、放課後になってもまだ雨が降りしきる中、いつものように二時間も歩き回る気にはさすがになれなかった。午後になって熱が少し上がったようだった。

 蛙は

 帰りの電車のシートにぐったりと体を預けるミチは、どこでどうやって時間を潰そうか思案していた。蛙のところまでは、駅から三十分は歩かなければならない。自宅とは方向も違う。昨日からの雨で、流されてしまっただろうか。発見から四日目。自分が発見するどれくらい前から、あの蛙はあの場所でああして

「おい」

 重い瞼を無理やり引き上げると、ユースケが眉間に皺を寄せてミチの上に屈み込んでいた。

「お前、大丈夫か」

 一瞬のパニックがミチを襲う。母親のリスカのことがばれた、と咄嗟に思った。二日前の朝、ユースケに話しそびれてからは誰にも話していないのに。母親に対してひどいことを考えているのが、どうにかして、一番知られたくない人に知られてしまった、と。

 ユースケは更に顔を近づけて

「顔が緑色になってんぞ」

「え」 

「ゾンビみたいだ。かなり気持ち悪いぞ」

 ミチの額と自分の額に手を当てたユースケの眉間の皺は、一層深くなった。

「お前さあ、どんだけ熱があっても絶対に学校休まないのな」

「学校好きだもん」

「嘘つけ」

 真実ではないが、完全な嘘でもない。ユースケに会うことができない学校は、前ほど楽しく思えなかった。それでも自宅よりは学校のほうが百倍マシだった。自惚れないでよ、とミチは心の中で呟く。

 ユースケはおもむろに学生服のボタンを外し始めた。

「何やってんの、露出狂」

「アホか、お前なんかにオレの鍛えあげた腹筋は見せてやんねえ」

「見たくないし」

 ユースケはミチの背中に学生服をかけた。

「震えてんじゃねえかよ。今日はふらふら歩き回らないで大人しく家に帰って寝ろ」

 電車が駅に停車して乗客が少し降りた。ミチの隣の席が空いたが、ユースケはミチの前に立ったままだった。ミチは熱っぽい手でユースケの手を掴むと、引っ張って無理矢理隣に座らせた。

「オイ、オレは小さくなってるお前を見下ろしていたいんだ」

 足の長いミチは、座るとユースケとほぼ同じ高さになる。熱のせいでぐったりしている今は、ユースケよりずいぶん小さく見えた。ミチは立ち上がろうともがくユースケの腕に自分の腕をからめて、頭を彼の肩に乗せた。ユースケが何か言う前に、頭痛い、くらくらする、と独り言風に呟いて黙らせた。次の、次の、次の駅で二人とも降りることになっていた。

 ミチが帰宅したのは、普段と変わらず八時頃だった。

 二人して電車を降りて、家まで送るというユースケに、まだ家へは帰らないとミチが駄々をこねて、結局二人でユースケの家に行くことになった。幼馴染のユースケは、ミチが家に帰りたがらない理由の半分は理解していた。

 ユースケは自分のレインコートをミチに着せて自転車の後ろに乗せると

「こんなザーザー降りの時に傘なんか差したって意味ないし、危ないだろ」

 と、自分はずぶぬれになって自転車を漕いだ。

 二人の自宅は徒歩で十分ほど離れた位置にある。ミチがユースケの家に来るのは小学校以来だ。ユースケの母は、玄関に立つミチを見て、開口一番こう言った。

「まあまあ、みっちゃん。どうしたの、その緑色の顔は」

「お久しぶりです。ちょっと寝不足なだけです。大丈夫です」

 ユースケの母は濡れ鼠の息子をバスルームに放り込んだあと、居間のソファに身を沈め、バスタオルで髪を拭くミチを見ながら、息子そっくりな顔の眉間に皺をよせた。

「まあ、みっちゃん。あなた、相変わらず家にまっすぐ帰るのが嫌なのね、かわいそうに」

 最後の言葉を口にした途端、ユースケの母は失言に気が付いた。ミチは何も気づかないふりをしていた。

 おばさんはすべてお見通しだ。

 この家には小学生の頃よく遊びに来ていた。ユースケをミチの自宅に呼んだことは一度もない。幼稚園時代からの付き合いでミチの母をよく知るユースケの母は、いつも夕食ぎりぎりまでミチを家に居させてくれた。たまに夕飯を食べていくよう勧められることもあったが、ミチはいつも断った。ごく普通の家族団欒なんかを知ってしまったら、自分の家に帰るのが余計辛くなるから。

 ユースケの子供部屋は、以前とあまり変わっていないように見えた。壁に貼られたJリーグ選手のポスターがイングランド代表選手に代わっているというマイナーチェンジは、サッカーに全く興味のないミチには認識できなかった。

 ユースケの母がカフェオレのマグカップを勉強机の上に二つ置いて部屋を出て行くと、ミチはたまらずベッドに倒れ込んだ。壁の鏡に映った自分は、粘土で作った人形のように生気のない顔をしていた。こんな情けない姿では、ユースケを誘惑することもできない。ミチは布団にくるまって、ユースケに命じられるまま体温計を受け取った。

「あれ、そういえば、部活はどうしたの?」

「今頃気付くなよ。大雨で中止になった。警報が出てるんだと」

「ふーん」

 ぴぴぴっという電子音。ミチは結果を確かめもしないで、取り出した体温計をユースケに手渡した。

「おい、三十九度もあるじゃないか」

 ミチの手からもぎ取った体温計を見て、ユースケは目を丸くした。

「母さん、風邪薬!」

 ユースケの母はすぐに飛んできた。 

「あらまあ、みっちゃん、大変だわ。車で送ってあげるから、今日はもう帰りなさい。ちゃんと休まなければ駄目よ。お母さんは、おうちにいらっしゃるかしら」

 いなかったら逆に驚く。母は通院かスーパーに買い物に行く以外はほとんど外出しないのだ。だからこそ、それだからこそ

「家には帰りたくないんです」

 ユースケの母に抱き起こされたミチは、思わず叫んで彼女を突き飛ばしていた。小柄なユースケの母は後方の洋服ダンスにぶつかって倒れた。

 とんでもないことをしてしまった。ミチは呆然とする。

 今までずっと礼儀正しい良い子として振る舞ってきたのに。イカれた女の子供はやっぱりイカれていると思われたに違いない。もう遊びに来させてくれないだろう。こんな自分と、息子が仲良くすることを今まで許してくれただけでも、どれだけありがたかったことか。それを、一瞬で全て台無しにした。

 ミチは、ひどく重たい布団からなんとか体を引き抜き、よろけながら立ち上がった。

「みっちゃん、みっちゃん」と胸の下あたりに腕を回され、仕返しで投げ飛ばされるのかと恐怖を感じたが、抵抗する力は残っていなかった。「みっちゃん、みっちゃん」随分低いところから声がする。ユースケの母はユースケより十センチ身長が低い。

「みっちゃん、泣かなくていいのよ。さあ座って。あなたも辛いわね。生姜湯を作ってあげる。体が温まるわよ。しばらく休んでいきなさい」

 ユースケのベッドにもう一度寝かされ、上から優しく布団を掛けられた。壊れた蛇口のように涙があふれ出てくるために、周囲の風景も流れてしまった。

 ごめんなさい

 ミチはうわ言のように繰り返した。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……

 高校生にもなって、人前であんなに大泣きするなんて恥ずかしい。二時間後、車でミチの自宅まで送ってくれたユースケの母は、マンションの前に止めた車の中から出てこなかった。ミチが母親に会わせたがらないことを知っているからだ。

 ユースケが先に降りて傘をさして待っている。車を降りようとするミチに、ユースケの母は声を低くして言った。

「みっちゃん、また遊びに来なさい。絶対に、約束よ。あなたはまだ子供なの。いいから、つべこべ言わずに来なさい。たまには大人の言うことを素直に聞きなさい。わかったわね」

 ミチは言葉が出なかったので、ただ頷いた。

 十五階の玄関前まではユースケが送ってくれた。

「ふん」

「なに」

「お前、そうやって弱々しくしてると、なかなか可愛いな。ついでに身長も二十センチぐらい縮めばいいのに」

「馬鹿じゃないの、ちび」

「なんだよ、泣くなよおい。冗談だよ」

 こうなったら恥はかき捨て――もう十二分に醜態を曝した。それに自分は今四十度近い熱がある。そのために死体みたいな顔色をして、お世辞にも魅力的とは言えない容貌になっているのが残念だが、高熱だから、仕方がない。

 ふらつくミチの体を支えるために二人は寄り添っており、ユースケの頭はミチのそれのすぐ近くにあった。玄関のドアを開けて中に入る前に、ユースケの唇の端に自分の唇を押し付け、何も言わせずに、ドアを閉めた。

 母親はキッチンのテーブルに向かって腰掛けていたが、ドアに背を向けているため死体のような顔を見られずに済んだ。

「ママ、電話で言ったけど、晩御飯はユースケのところでごちそうになったから」

 返事はない。微動だにせず座り尽している。今日は夕飯を作る気力もないと見える。どうせ父親は理由をつけて外で食べてくる。今朝の母は一転して調子が悪そうだった。

「具合が悪いから部屋で寝てるね」

 どうせ聞いちゃいない。この人はいつも、看病するよりされる側の人間だから、とミチは普段以上に苦々しく思う。

「とにかく、お腹に何か入れなさい」

生姜湯をすすりながらまだ泣いているミチの頭を何度か撫でつけると、ユースケの母はおかゆを作ると言って部屋を出て行った。

「たまにはうちでご飯を食べていきなさい。そのかわり、お母さんには自分で連絡するのよ」

 普通の母親とはああいうものなのだろう、とミチは思う。あらミチ、どうしたの、顔色が悪いわよ。まあ大変、熱があるじゃないの。ママなんて、わたしの顔が玉虫色に輝いていたところで何も気付かないんだろうけど。

 ユースケ宅でおかゆをすすったあとに、解熱剤をのんだ。無論、すぐに熱が下がるはずもないが、毛布を体に巻きつけてブルブル震えているミチの口にユースケが錠剤をねじ込み、水を飲ませてくれた。

「おばさん、怪我しなかったかな」

「大丈夫だよ、元柔道部だから」

「えっ」

「知らなかったのか。俺は元柔道部と元スキー部の間に生まれたサラブレッドで、将来日本のサッカー界を背負って立つ希望の星だ」

「それ、ハイブリッドって言うんだよ」

 ユースケとは付きあえない。それは分かっている。おばさんがどんなにいい人だったとしても、頭のおかしい母親を持つ娘と息子が交際するなんて、本当は嫌に決まっている。それも、惜しいところで五体満足ではない娘と。他の父母みたいに、ミチの顔を見ただけで露骨に嫌な顔をしたり、あの子とは仲良くしちゃダメと陰で我が子に言い含めないだけマシだと思わなければならない。自分のような者は、生まれ育ったこの町では、恋人も夫も手に入れることはできないのだ。

 だからミチは海外に逃亡しようと思っている。佐竹のように、日本の大学を卒業してから、海外の大学院に進学するのだ。博士号を取得して、そのままあちらで就職して、二度と日本には戻らない計画だ。亡命先の第一希望はイギリス。ユースケは子供のころからマンチェスター・ユナイテッドの選手になると言っていたし、ミチはずっと、シャーロック・ホームズとエルキュール・ポアロが大好きだった。そこでは、身長一八〇センチは「中背」だ。まあ、少なくとも男性の場合はそうだし、女性だって、きっと、ミチ程度なら、ちょっと背が高めと言われるだけだ。

 なんとかパジャマに着替えてベッドに横たわると、熱のせいでたちまちまぶたが重くなってきた。制服と鞄は床に放り出してあった。命綱である音楽プレイヤーだけはなんとか鞄から取り出したが、イヤホンのコードをほどく間もなく、手に握りしめたまま――そういえば義指を着けるのを忘れていた――眠りに落ちた。雨が止みそうな気配はない。昨日の夕方からずっと降り続いている。

 蛙は無事だろうか。

 そんな考えが一瞬の頭をかすめたあと、ミチは深い眠りに落ちた。


 雨が激しく降っている。

 いや違う。

 あれは、花壇に水を。

「今六ヶ月ぐらい?」

 あの女がすぐ側に立って、娘の顔を覗き込んでいた。そんなに水をやったら、花が腐ってしまうのではないかとぼんやり考えていたクミは、不意を突かれてびくっと体を震わせた。

「ええ、六ヶ月です」

 なんとかそう答えた。なぜ六ヶ月だとわかったのか、少々不信に思った。発育の良いミチは、実歳の月齢より上に見られることが多かった。

「ほんとうに可愛いわねえ、お母さんにそっくり」

 と女がもう一度繰り返した。

 公園で時々見かける女だった。ウォーキングなのか散歩なのか、公園をブラブラしている、どこにでもいそうな女。間近で見ると、若やいだ格好をしている割に目尻や口元の皺が深く、年齢不詳だった。髪も多分黒く染めているのだろう。ミチの顔を覗き込む姿は、いかにも子供好きな世話焼きのおばちゃん(おばあちゃん?)、といった風情だった。ただ口臭が酷く、ミチが露骨に顔をしかめて泣き出したりしないか心配だった。表面をいくら取り繕っても、漏れてくる腐臭。

 化け物。化け物!

「このぐらいの赤ちゃんが一番かわいいわね。うちの子はもう中学生で、話しかけてもろくに返事もしない。あの子にも、こんな可愛い時期があったわ」

 笑顔を崩さないまま、女はため息をついた。

 女にも子供がいると知って、クミの警戒心が少し和らいだ。

 本当は子供などいないと後で知るのだ。流産、精神科通い――あとの祭り。

 見ず知らずの他人と会話をしていることに少々居心地の悪さを感じたが、ミチはクミの腕の中にいて、滅多なことは起こりそうになかった。女がミチに関する一見無害な質問をしてくるので、クミはしばらく女と会話を続けた。

 おかしな素振りなどなかった。

 ミチは花に気を取られて、女の方には注意を払っていなかった。女の太い指で頬をつつかれても、明後日の方を見ていた。

 どうやって会話を終わらせようかとクミが思案している時に、携帯電話が鳴った。ミチの好きな子供番組のテーマ曲。クミの電話の着信音だった。電話はベビーカーに掛けたバッグの中。あとからわかったことだが、これは間違い電話だった。運が悪い時というのはこんなものだ。

 娘を抱いて見知らぬ女と立ち話中に電話がかかってきたことで、クミは一瞬パニックに陥った。

「あら、電話。それじゃあ、これで失礼します」

 そう言って立ち去ればよかったのだ。クミはその後何千回、何万回もこの場面を頭で繰り返し再生しながらそう悔やみ続けている。

 女はこの一瞬のチャンスを見逃さなかった。

「あら電話。出なさいな、大事な要件かもしれないじゃない」

 女は何のためらいもなく、クミの腕からミチを抱き取った。クミの表情がこわばったことを、あの女は確実に見て取ったはずだ。それなのにあの女は、落ち着き払った様子で愛想笑いを浮かべていた。大丈夫、何も心配することはないのよ、と言い聞かせるように。

 その子を返してくださいとは言えなかった。その時点では、女はただおせっかい焼きのおばさんに過ぎない。一昔前なら、この手の女性はいくらでもいた。

 クミはこわばった表情でバッグから携帯を取り出しながら、女の腕に抱かれたミチからできるだけ目を離さないようにしていた。電話をかけてきたのが誰であれ、早々に会話を切り上げて娘を取り戻すつもりだった。見知らぬ女の腕の中で、ミチはポカンとした顔をしていた。

「いい匂いねえ。ミルクの匂いね。だから赤ちゃんて好きよ。食べちゃいたいぐらい」

 女がミチの帽子に顔を寄せて匂いを吸い込んだとき、クミは思わず叫びそうになった。娘に触らないで! なぜ叫ばなかったのか、とずっと後悔し続けることになるのだが。クミの表情がさらに険しくなったのを見て、女の顔がグロテスクに歪んだ。笑っていた。

「本当に、食べちゃいたい」

 むき出しにした黄色い歯がミチの頬に近付いていく。あの嫌な臭いのする口で娘にキスするつもりだ、とクミは思い、小さな悲鳴を上げた。

 何かを察したのか、近づいてきた女の顔めがけて、ミチは腕を振り上げた。小さな掌が女の頬を打った。

 鳴り続ける携帯を片手に握りしめたままクミは女に歩み寄った。もはや理由などなんでもよい。とにかく娘を取り戻すつもりだった。

 そのあとに起こったことは、夢の中ですら断片的にしか再現できない。

 ゴキッ、という嫌な音

 火がついたように泣き出すミチ

 クミの顔にふりかかる生暖かいもの

 真っ赤な染みが点々と増えて広がっていくミチの白い帽子

 悲鳴

 悲鳴

 悲鳴

 赤く染まった女の口がもぐもぐと動いて、ゴクリと喉が上下した――

 近くにいた子連れカップルの男性が、抵抗する女に対してかなり手荒い真似も厭わずに、泣きじゃくるミチを取り戻してくれたのが不幸中の幸いだった。

 クミは携帯を握りしめたまま呆然と立ち尽くしていたし、周囲の子供連れの女性たちも悲鳴をあげて我先に子供を抱き上げて逃げて行くだけだった。自分の子供を守らなければならないお母さんたちに、文句を言えた筋合いではない。自分がミチを守ってやらなければならなかったのに。そもそも見知らぬ女に娘を抱かせたのはクミ自身だ。

 汗だくで、歯を食いしばりながらクミは目覚める。

 すぐにも娘の部屋に行って無事を確かめたいが、左手首に巻かれた包帯がクミを躊躇させた。数日前にリストカットした時に娘が見せた憎しみと嫌悪が忘れられない。

 あの子はわたしを嫌っている。当然だ。痛々しく左手を包帯でぐるぐる巻きにされた赤ん坊のミチを、クミは正視することができなかった。ミチは以前と変わらず満面の笑顔で母親に手を差し伸べて、無邪気にダッコを要求してきた。あんなことがあったのに。自分の身に何が起こったのか、この子にはまだ理解できないから。

 やがて包帯がとれて露になった醜い傷跡とは対照的に美しく成長していくミチに、クミは余計罪悪感を覚えるようになった。あらまあなんてかわいい子。何も知らない赤の他人は、無責任にもそんな言葉を平気で口にした。そして幼いミチが無邪気に振り回す左手――手袋をはめさせてもすぐに脱いでしまう――の異変に気付いて、顔を強張らせる。

 最悪なのは、鈍感で何も気づかずにミチを際限なくほめ続けるような輩だ。あんなに目立つものをどうして気付かずにいられるのか、それがクミを苛立たせた。

 これが見えないんですか、あなたには。気付かないはずがないでしょう。見えないわけがない。どうしてあなたは、これを見ようとしないんですか。これでも可愛いって言えるんですか。

 そう怒鳴り散らしてやりたい衝動を遂に抑えきれなくなった時、クミは夫に連れられて半ば強制的に精神科を受診した。

 夫を起こさないよう、クミは静かにベッドから抜け出した。

 少しぐらいなら。

 ミチの様子がどうしても気になって、無事を確認しなくては気が済まなかった。ほんの少し、ドアの隙間から、寝ているところを確認するだけでいい。居間を通ってミチの部屋まで行き、ゆっくりとドアノブをまわした。

 ミチの部屋には常夜灯がついており、布団にくるまっているミチの体の輪郭がはっきり見えた。ハアハアと荒い息遣いとともに上下する布団をしばらく眺めていたクミは、何かがおかしいことに気が付いた。

 軋むドアを押し広げて、ゆっくりとベッドに近付いていく。床の上に脱ぎ散らかした制服や鞄が置いてあるのは、几帳面なミチらしくなかった。ベッドに近付いて行くと、荒い呼吸の合間に、小さな呻き声が混ざっている。背を向けて丸まった娘の顔を覗き込むと、苦しそうに眉間にしわを寄せていた。額にそっと手を当てると、皮膚はじっとり湿り、燃えるように熱かった。

 誰かの大声で安東タカシは目を覚ました。すぐさま、またか、と怒りと諦めが同時に襲ってくる。跳ね起きてみると、案の定ベッドの隣がもぬけの殻になっている。タカシは舌打ちをした。

 無論、この家で夜中に叫び声をあげるような習慣を持つのは彼の妻しかいない。またどうせ娘の部屋に行って、ミチを死ぬほど怖がらせているのだろう。かわいそうな娘。やはり、あの時離婚していればよかったのだ。一緒に暮らしていても、クミは母親らしいことなど何もしない。頻繁に家事ができないような状況に陥るし、マイナス面ばかりだ。

 タカシは、もう妻には愛情を感じていない。あるのはただ惰性と幾許かの同情心だけ。娘が怪我をしたのが妻のせいだとは思わないが、あの事件以来妻はすっかり変わってしまった。身なりにも構わなくなり、種類が多すぎる処方薬のせいもあって、昔のスリムな体型など見る影もない。もうこんな生活には耐えられない。決断するのが遅すぎたぐらいだ。

 タカシが娘の部屋に向かおうと、ベッドから床に足を下ろした時、クミが部屋に駆け込んできた。

「あなた、大変です。ミチが高熱で苦しんでいるの。病院に連れて行かなければ」

 クミはそう言いながらパジャマを脱ぎ捨てた。

「そ、そうか。それは大変だ。じゃあ、俺は新聞で夜間外来を調べよう」

「もう調べました。花の宮病院です。あなたもこれに着替えてください。ミチはそのまま連れて行きますけど」

 手渡されたズボンとシャツに素早く着替え、五分後には親子三人、車に乗り込んでいた。


 これは夢なんだろう、とミチは夢うつつに思っていた。ママがまるで普通の母親みたいに振る舞っている。子供のころによく見た残酷な夢。小学校の高学年でもう卒業したと思っていたのに。やはり体が弱ると心も弱くなるんだな、と。

 遠くから母親の声がする。あなた、大変です。ミチが高熱で苦しんでるの。それから、やれ保険証だの財布だのとひとしきり騒いだあとで、気が付けばミチは父の運転する車の後部座席に、毛布にくるまったまま母親に肩を抱かれて座っていた。カーナビに病院の電話番号を入力するから、ちょっと待って。もう経路を検索してありますから、とにかく車を出してください。こんなに震えて、この子。可哀想に。なんて馬鹿げた夢だろう。こんなことが現実に起こりうるはずがない。母がスマホを使っているところなど見たことがない。左手をミチの肩に回した母の右手にはスマホが握られ、地図らしきものが表示された画面がぼんやり目に入った。

 なんてファンタジーだ、と意識を失う前にミチは思った。サイコ女の呪いからやっと解放されたお母さんは、スマホを駆使して娘のピンチを救いましたとさ。


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