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Day 3

 三日目になると、ミチはなんとなくそわそわしながら蛙に会いに行った。今日のミチはとても機嫌がよい。今朝、サッカー部の試合を見に行くことをユースケに承諾させたからだ。

「なんで試合のこと知ってんだよ」

 と憮然とするユースケに

「同じクラスの子が、あんたの学校の子と付き合ってるの。中学からずっとだって」

「ふーん」

「わたし、二年生から告白されちゃった。割とカッコいいひと。バンドやってるんだって。どうしようかな」

「知らねーよ。あのオッサンはどうするんだよ」

「佐竹さんとは付き合ってないから」

「じゃあ。やるだけの関係かよ。サイテーだな、お前」

「寝てないし。あんなヤツ、全然好みじゃない」

 深い霧が一瞬で晴れたみたいなユースケの顔を見て、ミチの方でも内心小躍りしたい程だったが、ユースケや佐竹とは異なりミチは感情を押し殺す術に長けていた。電車を降りていく際に、ユースケはミチの目を見ずにこう言った。

「見に来てもいいけど、俺まだ補欠だぞ」

 ユースケの前では喜びを隠したミチだったが、ユキリンには早速報告した。

「やったね。あたしも見に行っていい?」 

「ハア? なんで?」

「だってみったんが片思いしてる相手、見てみたいじゃん」

「片思いじゃないし」

「だって好きなんでしょ?」

「別に……」 

「顔が赤くなってるよ」

 ユキリンを思い止まらせるのは一苦労だった。社交的で誰からも好かれるユキリン。身長一四五センチのユキリン。母親がキ印でもなく、サイコに襲われたこともない天真爛漫なユキリンと並んで立ったら、わたしはキリンのように見えるだろう。ユキリンとユースケだったら、きっとお似合いだ。二人とも面食いだから、引き合わせたところで何も起こるはずがない、とミチは思うのだが、それでもユースケに女の子を紹介するのは嫌だった。

 蛙が三日目もまだそこに潰れ続けていたことで、ミチはこれですべてがうまくいく、という根拠を欠く確信を抱き、写真をまた一枚撮った。

 来週土曜の試合まで、蛙はここに居続けるだろうか、とミチは考える。蛙は潰されて皮だけの干からびた存在になったことで、腐敗を逃れているようだった。ということは、蟻に運び去られるか、風に吹き飛ばされるかしない限り、蛙はここに在り続けるのではないか、そんな期待をミチは抱いた。もうすっかり舗装の色に同化して、元から道路の一部でしたみたいな顔――仰向けだから実際には顔は見えないのだが――を蛙はしている。

 佐竹からは、死ぬだのぶっ殺すだの物騒な言葉をふんだんに散りばめたメールが今日になって更に二十件程届いた。なぜ自分の周りには頭のイカれた人間ばかり集まって来るのか、と少し嫌な気持ちがしたが、無視した。いや、ユースケやユキリンはまともな人間だ。健全な肉体と健全な精神を持っている。

 その日の夕飯も安東家の食卓は豪勢だった。昨日の朝食から本日の夕食まで、テーブルからはみ出さんばかりの皿、また皿。ひと騒動やらかしたあとの、母の罪滅ぼし。

 料理で気が張れるならいくらでも、好きなだけすればいいのに。自分が醜いデブになることで家庭が平穏に保たれるのなら、その方がいいとミチは心の底から思う。ユースケには振られるだろうが、仕方ない。

 父も珍しく帰宅が早く、夕餉のテーブルには久し振りに一家三人がそろった。父親と母親が穏やかに談笑しているのを見ると、ミチは思わず泣きそうになる。普段から感情を押し殺す訓練をしていなかったら、泣いていただろう。

 このままガス爆発か何かで、みんなで吹き飛んでしまえたらいいのに、とミチは密かに願う。上辺だけの家族団欒、母親が躁状態の時だけ束の間訪れる偽りの幸福。

 パパとママとわたし。笑いながら粉々に砕け散ればいい。

 無論、そんな幸福なエンディングなど訪れない。決して。都合よくマンションに飛行機が突っ込んで来ることもない。

 電車内でやり残した宿題を済ませて、BBCラジオを聴いて床に就く前に、ミチは窓の前に立ってガラスを伝う雨の筋を眺めていた。蛙は無事にこの雨を乗り切るだろうか。夕方、あの路地裏、蛙の前に立ち尽くしている時に、ぽつりと冷たいものがミチの頬を打った。小指がずっと疼いていたから、予感はあった。

 天を仰ぐミチの上に、次々と雨粒が落ちてきた。雨は大嫌い。長時間傘をさして歩くのは疲れる。濡れる。風邪をひく。ミチはしばらく天を見据えたまま雨粒の落下を眺めていた。

 星の王子さまよろしく、蛙にガラス瓶を被せてやれたらいいのに。でもそんなことをしたところで、きっと足元をよく見ていない粗忽者にガラス瓶を蹴り飛ばされて、終了。

 蛙はこの雨を生き延びるだろうか、とミチは考える。

 いや、蛙はもうとっくの昔に死んでいる。


 雨は大嫌い。

 雨音に聞き入っているうちに、静けさに包まれる。雨はまだ降り続いているのに。

 そしてあれがやって来る。

 あの日は晴れていた。

 ミチは丸々と太った健康優良児だった。まあ、お母さんにそっくり。誰もがそう言う、クミの自慢の娘だった。生後六ヶ月。にこにことよく笑い、悩みごとなど何一つない赤ちゃん。

 あの笑顔

 クミを見つけた瞬間に、嬉しさを爆発させたように破顔する無邪気な存在。長い睫毛に縁どられた大きな瞳をくりくりさせ、口元に笑みを浮かべてクミの姿を目で追う、母親に依存しきった無力な赤子。この子のためなら命だって差し出せる、そう思ったものだ。

 あの女

 その日クミは、天気の良い暖かな午前中に、ミチをベビーカーに乗せて散歩に出かけた。美しい朝だった。雨など、降っていなかったのに。

 雨など

 雨が

 雨音――

 白い帽子を被ったミチは、小さな貴婦人みたいだった。ベビーカーの中で彼女は上機嫌だ。お散歩が大好きで、興奮してしきりに手足を動かしている。もう一人でお座りだってできる。発育は良好で、もうじきハイハイだって始めそうだ。

 何もかも順調。

 夫もクミも背が高く、娘は体重三八〇〇グラムで生まれた。

「あら可愛い。ママにそっくりね」

 誰もがそう口にする。赤ん坊を連れた母親に向かって「なんて不細工な子なんだろう」などと言う人間はまずいないだろうが、お世辞ではなく、ミチは可愛いらしい子だった。

 ママ友からは「赤ちゃんモデルになれるんじゃない?」と言われた。満更悪い気はしないのだが、本当にそんなチャンスが巡ってきたとしても、夫が許さないだろう。

 しかし、若い頃華やかなモデルの世界に憧れを抱いていたクミは、娘がいつかスカウトに見いだされ……という密かな夢を抱いていた。背が高くスレンダーな体形、顔だって醜くはないが、どこか控え目でぱっとしない自分にはオーディションを受ける勇気すらなかった。でも、この子なら、と。娘は全体的にはクミに似ているが、夫の遺伝子も明らかに受け継いでいる。親馬鹿と言われても、娘には華があるとクミは思う。笑われると思って誰にも話したことがない、ささやかな夢。世界は美しく輝いていた。

 その公園には頻繁に足を運んでいるのだが、花壇に植えられた色とりどりの花々が突然一斉に咲き誇ったかのようで、クミはハッと息をのんだ。

 あの女

 花壇の前にあるベンチで、娘をベビーカーから降ろして膝に抱いた。アア、アアアと花に手を差し伸べてもがく娘に

「お花、きれいねえ」

 と優しく話しかけて立ち上がり、花壇の一つに近付いていく。もぞもぞ動く帽子がクミの頬をかすめる。

 あの女がクミの視界の隅に映っている。

 おかしな素振りなどない。少し離れたところから、いかにも子供好きという満面の笑みを浮かべ、ちょっと首を傾けてミチを見ている。――あの時は何も気付かなかったが、今はあの女の禍々しい本性が透けて見える。赤い口を醜く歪めて笑う化け物。全身から血の気が引いていくが、クミはどうすることもできない。

「お花さん、抜かないでね。かわいそうよ。お花さんは、土から抜かれてしまったら、生きていけないのよ」

 娘は手に触れるものはなんでも掴んで投げ飛ばそうとするため、花に手が届かないよう安全な距離を保つ。

「あらまあ、なんてかわいいお嬢さんかしら」

 雨脚が強くなる。雨なんか降っていなかった。あれは雨じゃない。あれは、あれは――ホースで、少し離れた花壇に水を撒く音。

 今目を覚まさないと、自分は声を限りに叫ぶだろう、とクミは思う。

「今六ヶ月ぐらい?」

 あの女がすぐ側に立って、娘の顔を覗き込んでいた。そんなに水をやったら、花が腐ってしまう。花が

 暗闇で大きく息を呑んで、クミは目を覚ました。

 大きく見開かれた目には、はじめは何も映らない。徐々に目が慣れてくると、隣で規則正しく呼吸を繰り返す夫の背中を見つめていることがわかった。

 では、叫ばなかったのだ。深い安堵。夜中に夢を見て叫んだからといって、夫から叱られることはない。愛の反対は無関心だと、以前聞いたことがある。

 夫は最早いかなる希望もわたしに抱いていない。心配しているようなふりはするが、内心もう何も期待していないことははっきり見て取れた。娘はわたしとは目を合わせようとしない。当然だ。

 一昨日、クミはまた手首を切った。なぜあんなことをしたのか、自分でもよくわからない。毎回、わからないのだ。自分が自分ではなくなってしまう時に、クミは自分を傷つける。

 学校から帰ってきたミチは、クミの不甲斐ない姿を見てしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがて鞄を床に叩きつけるように置くと、ものすごい速さで部屋を出て行った。

 玄関のドアが乱暴に開く音がして、扉が閉まった。

 そのあと、どれだけの時間が経ったのかわからないが、ミチが戻ってきて、泣きながら傷の手当てをしてくれた。もう嫌だ、もうダメ、と何度も小声で呟いていた。

 あの子が感情を露にするのは珍しい。一度もわたしと目を合わせようとしなかった。母がまたやりました。病院の受付でそう低い声で告げて、わたしを顎で指したけど、こちらを絶対に見ないようにしていた。病院から帰るタクシーの中でも、一言も口をきかなかった。隣に座っているのに、娘は手が届かないほど遠くにいた。唇をきつく噛みしめて下を向いていた。何か口にした途端に娘が爆発するのではないかと思い、クミは何も言えなかった。

 ごめんね、もう二度としないから。お前にはすまないと思っているのよ。お父さんにも。ごめんね、ごめん。本当にごめんなさい。

 そんな子供騙しは一切信じないという娘の頑なな横顔。もう聞き飽きた、と細い肩が訴えている。そんな嘘はもう聞きたくない。

 一度家を出て行って、また戻ってきた時の表情で、何もかもクミにはわかってしまった。

 娘は、わたしが死ねばよかったのにと思っている。夫もきっとそう思っている。もう震えるわたしの体に腕をまわして抱き寄せてくれることもない。ダブルベッドの片端で、いつも背中を向けて寝る夫。どうしてこんなことになってしまったのか、そう考える。あの日から、毎日そう思っている。


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