Day 2
前日と同じ場所で、相変わらず潰れて干からび続けている蛙を発見した時、ミチはかなり驚いた。蛙のことなど正直忘れていた。昨晩、母親がまたリストカットをして、それどころではなかった。まるで思春期の悩める少女みたいに、ミチの母は自傷行為を繰り返す。
「いい加減にして。本気で死ぬ気あるの? あるならそんな中途半端な切り方しないで。もっと深く切って、バスタブに張った水に浸して血が止まらないようにすれば? 睡眠薬だって持ってるじゃない。なんでちゃんと死ねないの? 死ぬ気がないなら面倒くさいことしないでよ。誰が汚れた床の掃除をすると思ってるの? わたしが帰ってくる時間をわざわざ狙ってやってるんじゃないの?」
そう母に叫んでやりたかった。
「あんたなんか死ねばいいのに。そうすれば、パパとわたしは呪いから解放されて、人生をやり直すことができる。こんなちっぽけな傷より、あんたから受けた傷のほうが余程ひどい。わたしは血塗れだ。癒えない傷から今も血が噴き出しているから、血塗れだ。あんたが中途半端なリスカで流すよりも大量の血を、今だって噴水みたいにまき散らしているんだからね」
時々、うっかりと本音が口をついて出そうになる。絶対言わないとミチは固く誓っているのだが、それでも気を付けていないと、それはどこかしら隙間を見つけて、這い出して来ようとする。
「お母さんは病気なんだから」
父親にそう言われてしまっては、喉元まで出かかった言葉を飲み下すしかない。ミチが幼い頃からそうだった。伝家の宝刀「お母さんは病気なんだから」。
しかし、何度経験しても母、親の自殺未遂の後始末は最悪だった。自分も発狂してしまえば楽になるのに、と心の底から思うが、精神の病というのはそう都合よく発症できないものらしい。
「佐竹さんはケンブリッジで博士号を取得したんだって」
ミチが佐竹の話を始めると、ユースケはたちまち不機嫌になる。学歴をひけらかして女子高生の気を引こうとする変態オヤジ、ユースケは佐竹のことをそう思っている。
事実、佐竹というのは気持ちの悪い男だ。ミチのことを舐め回すように見るし、「君は天使みたいだ」なんて臆面もなく口にする。それでもイケメンならば大抵のことは許されるのだろうが、生憎彼は好感の持てる容姿ではなかった。ミチとは一、二度お茶を飲んだだけの付き合いで、最近は誘われても断るようにしているのだが、ユースケはそれを知らない。
「ポスドクなんて、二、三年ごとに契約更新がある派遣社員みたいなもんだろ。大学勤めなんて聞こえはいいけど、安月給でこき使わる高学歴プアじゃないか」
しかもロリコンのエンコー野郎、と暗い顔で呟いて、今朝ユースケは電車を降りて行った。
「ポスドク」の意味をちゃんと調べたらしい、と車内に残されたミチは他の乗客に気味悪がられるのも気にせずニヤニヤした。
ユースケとは自宅が近く、同じ幼稚園、小学校、中学校に通った幼馴染だが、高校はユースケがサッカー推薦でスポーツ強豪校に進学したために別れてしまった。ミチの知る限り、ユースケは小学二年生の時からずっとミチのことが好きなのだが、高校が離れ離れになることが決定しても、ミチに告白するでもなく現在に至っている。
ミチの女友達がユースケの男友達から聞き出した情報によれば、ユースケは美人で成績優秀なミチと自分は不釣り合いだと思っているらしい。こういう場合、ミチは嫌でも第二関節より上が欠損した左手小指のことを意識せずにはいられない。不釣り合いだのなんだのと言い出したら、体のパーツが一部欠けている自分は、一体誰になら相応しいというのだろうか。無防備に吊革に掴まっていることが急に恥ずかしく思えて来た。だが、鞄の中の義指を取り出すには車内は混雑し過ぎている。こんなことは平気だとミチは自分に言い聞かせる。物心ついた時から自分はこの体だったのだから、と。
五体満足で誰に気兼ねする必要もなさそうなユースケが特に気にしているのは、どうやら身長のことらしかった。早生まれのユースケはクラスでは常に小柄な方で、身長でミチを追い越したことが一度もない。
一方、ミチは出生時から大きかったし、運動は苦手ながら、中学生の頃よりほぼ毎日太陽の下で二、三時間徘徊という名の有酸素運動を続けている超健康優良児だ。身長が伸びない方がおかしい。ここ数年は風邪を引いたこともない。
学校が終わって、躊躇いなく帰ることができる家があったら、ここまで大きくはならなかったのではないか、とミチは思う。両親ともに大柄であるから、何もしなくても一七〇センチぐらいにはなったのかもしれず、それでもまだユースケより十センチ高いことになるが、ミチ自身は、身長差など気にしない。しかし、十五歳にして一七五センチという今の勢いだと最終的に一八〇センチを超えてしまいそうである。日本人女性としては規格外の大きさであり、目立つことが嫌いなミチにとっては全くありがたくないことだ。既に、電車内の女性客はほぼ全員ミチより小さい。
高校進学以降、ユースケと顔を合わせるのはほぼ通学電車の中だけになった。それもサッカー部の朝練がなければの話。そこでミチは、ユースケに嫉妬される小さな喜びを得るために、「女子高生とやりたがるキモいおっさん」の話をわざわざ聞かせる。我ながら情けない戦略だと思うが、ミチとしては、今まで我慢してきたのだから、なんとしても向こうから告白させたい気持ちがある。
帰りの電車でユースケと一緒になることはまずない。それも帰りの電車が憂鬱な理由の一つだ。それでもユースケが朝電車を降りていく駅に停車した時は、もしやと思ってプラットホームに立つ黒い学生服の中にその姿を探してしまう。近々サッカー部の試合があると、人づてに聞いた。他の女子より頭一つ抜きん出た、非常に目立つ自分が試合の応援に行ったら、あいつは嫌な顔をするだろうか、とミチは考える。
時間を確認しようと鞄から取り出した携帯に、佐竹からのメールを着信していたことに気が付いた。
「裏門で待ってる」
黄色いオープンカーで学校まで来るなんて恥ずかしい、とミチは露骨に顔をしかめる。放課後に皆とおしゃべりする気分じゃなくて速攻で学校を出たお陰で、偶然待ち伏せをかわすことができたらしい。夕べは散々だったから、少しは運がまわってきたのかもしれない。
佐竹には、学校近くにある大型書店内のカフェで本を読んでいる時に声をかけられた。ミチがたっぷり時間をかけて店内をうろついている間、わざとらしく周囲をちょろちょろしていた鬱陶しい眼鏡男。ナンパなどしてくる男は首を絞めたら膣が収縮して快感が増すと信じているような変態だと日頃から警戒しているため普段は相手にしないのだが、この時に限って少し話をするぐらいならいいかと思ったのは、男がその時ミチの読んでいた本を指さしながら
「それ、ルイス・キャロルでしょ?」
と言い当てたからだ。有名な挿絵から簡単にそれとわかるのだが、他の男達(「えー、英語の本が読めるの? すごいね」)よりは気が利いていた。何より相手はミチの許可も得ずに勝手に向いの席に座ってしまっていたし、ミチはラテを一口飲んだところだった。
しかし、「イギリスのどこの大学院にいたのか」という質問に対し「C・S・ルイスの勤務先と同じ」などというまどろっこしい答え方をする面倒くさい男であることが程なく判明して、なぜさっさと追い払わなかったのかとミチは大いに後悔した。イギリス留学中の話は興味深かったが、訊きもしないのに現在の勤務先のことまでぺらぺら喋るのは鬱陶しい。しかも、よくよく聞けば研究職といっても任期制の不安定な身分だという。気に入らないことがあると露骨に嫌な顔をする。いい年をして、感情を隠すことができない。これでは、終身雇用のアカデミックポストを巡る熾烈な争いを制することなどできまい、とミチは思う。だからにこやかに拒絶することにしたのに、男はしつこかった。
「LINEはしないので」
「じゃあ、メルアド教えてよ」
「両親が厳しいので」
「黙っていればわからないよ」
「ケータイをチェックされるので」
「マジで? じゃあ、君に会いたいときは、君の学校に行けばいいのかな」
偶然にも佐竹はミチの高校のOBであったし、そうでなくともその制服の認知度は地元では高かった。シマッタと思ってもあとの祭り。書店の駐車場に停車された派手な黄色い外車を自慢げに見せられたミチは、こういうセンスの男はいくら家が金持ちでも願い下げだと決めた。
その後佐竹は何度かミチの学校付近にあのバカげた車に乗って現れ、どんな手段を使ったのか、ミチの携帯番号やメールアドレスまで勝手に探り出していた。車に乗ることはどれだけ誘われても断固として拒否した(「親が厳しいから」は魔法の呪文)。しかし、あまりにしつこいので、何度かカフェでお茶を飲んだ。
「えーっ、それってストーカーじゃん」
ユキリンの言う通り。気持ちの悪いロリコンはもう相手にしない方がいい、とミチも思う。ドライブに行こう。旅行に行こう。何か欲しいものはないのか。指輪ぐらい買ってあげる。俺の部屋に遊びに来ないか。最近猫を飼い始めたんだ――相手の要求は果てしなく、断り続けることに疲れ果てて、うっかり首を縦に振ってしまいそうになるのが恐ろしい。アメリカンショートヘアの子猫には強く惹かれるものがあったが、佐竹の一人暮らしの部屋になど行ったら、何をされるかわからない。猫が本当に存在するのかも怪しい。それだったら、一人で徘徊しているほうがいい、とミチは思う。
少なくとも、潰れて道路と一体化した蛙は、人畜無害な存在である。
こんなところで一体何をしていたんだろう。裏向きに干からびた蛙を見下ろして、ミチは考える。住宅街の奥の奥、車一台がやっと通れる細い道路を挟んで、人が住んでいるのかわからない年代物のアパートと、あまり広くない畑が向い合っている。畑にはまだ何も植えられておらず、晴天続きで土が乾燥している。この畑寄りの路上に、蛙は本日もひっそり潰れている。
水気がないのに、こんなところで蛙が生息できるのだろうか、とミチは周囲を見回して訝しがる。いや、もう死んでいるのだから生息する必要はないのだけれど。この蛙は一体どこから来て、どこへ行こうとしていたのか。
ミチは、再び蛙のポートレートを撮影し、携帯に保存した。
睡眠不足のため、今日のミチは普段よりも強い疲労を感じている。昨晩タクシーで病院から戻り、くたびれきった体をベッドに横たえたあとも、手首を血まみれにして呆然と座りつくしている母親を発見したときの怒りが発作のように襲ってきて気持ちが治まらなかったのだ。傷の応急処置をして、病院に連れて行き、床を掃除して、食事の支度もして、夜遅く帰宅した父親に報告した。父親は「そうか」と言っただけだった。「ああ、食事は外で済ませてきたからいらないよ」それだけ。
今日は一日授業に身が入らなかった。体は泥のように疲れているが、それでも家には帰りたくない。母親があんな風になっているところの第一発見者になるのは、もう嫌だった。遅く帰れば、運よく手遅れになっているかもしれない。そんなことを考える自分がミチは嫌いだ。
今朝の母親はすこぶる機嫌がよかった。あたかも、流れ出た血液とともに体内の膿も出し切ったかのように。母が早朝より張り切って作ったボリューム満点の朝食を、昨夜の騒動で食欲などないミチは吐き気を堪えながら半分程食べた。
「そんなんじゃ、授業中に腹が鳴るぞ」
ことさらに明るい風を装って父が言った。
蛙。潰されて内臓を吐き出した蛙のことが一瞬ミチの頭をよぎった。あんな風に、食べた物も内臓も胸の内に色々溜めこんだ物全てを吐き出したいと強く願った。
こんな世界は消滅してしまえばいいのに。
朝の電車でユースケに愚痴を言いたかったが、車内はあまりにも混雑していて、ユースケは明らかにミチの体との間にわずかな隙間を保持するために全力で周囲の乗客と格闘している最中に額に向かって話しかけられることを迷惑がっていた。頭にきたので佐竹の話をしてやった。あんな変態にも、利用価値がある。
佐竹はこの日の夜中まで「なぜ来なかったのか」「どうして無視するのか」「せめて連絡してほしい」云々しつこくメールを送ってきたが、ミチは全て無視した。ミチの友人ならば全員ミチが極度のメール不精であることを知っている。彼らはミチ宛に送ったメールがいつ読まれるかわからないことを知っている。電話をしても三回に二回は出ない。わざとではないが、ケータイをサイレントマナーモードにして鞄に突っこんだままにしているから、どうしても気付くのが遅れる、それがミチだ。なぜすぐに返信しないのかと未だにしつこいのは佐竹だけ。
まったく面倒くさい男だ。親にチェックされていると言ってやったのに、信じないのか。まあ、今どきそんな親がいるとはミチだって信じられない。しかしそれにしたって、これらの大量メールを職場に転送されたらどうなるかとか、考えないのだろうか。女子高生をストーキングするポスドク。本当に気味が悪い。
だがミチを守ってくれる大人は、誰一人としていない。