渇いた世界の遭遇
黒く粘り気を帯びた液体。あれはタールなのか、油なのか、それとももっと悍ましい何かであるのか。今の俺には知る由もない。
湖というのは水があることが前提として定義されているのだろう。ならあれは湖ではなく巨大な窪地だ。窪地に何かが溜まっているに過ぎない。
そうなると俺は湖畔を歩いているのではなく、窪地の淵を歩いていることになる。
馬車があれに落ちてしまわないように、地面に神経を尖らせながらだ。
「間違っても落ちるなよ。今まで喰わせた食料が無駄になる」
「あの中に何かいるのか? それともあの液体自体がやばい物なのか?」
「そうだな。何か喰える物があるのかもしれないし、飲み水にもなるかもしれない。貴様が潜って確かめてみるといい」
「毎回毎回はぐらかしやがって。何だってそんなに教えたがらないんだよ」
殺風景で一辺倒だった景色が転機を迎え、新たな地形と刺激が加わった。
延々に続いていた油臭さも鳴りを潜め、今は更に強烈な刺激臭に包まれている。
そんな中で俺は、この果てしなく続く旅もいつか終わりが来るのではないかと期待を膨らませていた。
同じ場所をグルグルと回っていただけのように錯覚していたのだが、この女は間違いなくどこか別の場所に向かっている。
とはいえ、俺の仕事が楽になったわけではなかった。
突然馬車が大きな音を立てて止まり、鉄馬の脚が地面を掻き出した。
本来なら地面に染み出すはずの油が、全てあの窪地に流れてしまっている。おかげで車輪が窪みに嵌りまくって、ちっとも進みやしない。
「おいクソ犬、まただ」
「分かってるよ、下手くそが」
そんな愚痴をこぼしてから、俺は何度も使ったせいで妙に手に馴染んだ金属片を車輪に滑り込ませる。
そして馬車の後ろに回り込み、渾身の力を込めて押した。
「もっと力を入れろ。ここで夜を越すつもりか」
「飯を減らされたおかげで力が入んねぇんだよ。たまには自分でやったらどうだ」
「そうすれば貴様は存在意義を失う。飯を喰わせる意味もなくなるわけだが」
「このクソ性悪女が!」
俺がそう吠えて、憤りの感情を込めて再び押し込むと僅かに手ごたえがあった。そのまま押し込み続けると、徐々に車輪が浮いてくる。
そして必要以上に不自然に浮いたと思うと、次の瞬間には音を立てて地面に着地する。そしてそのまま、息を切らして喘いでいる俺を置いて馬車は進んで行った。
「何回繰り返すんだよ。少しはまともな運転したらどうだ」
息を整えつつ悪態を付く。そして地面に横たわる相棒を拾い上げ、地面を擦りながら引きずって行く。
飯が減らされたということは、次の狩りも近いということだ。
あの女がどういう方法で獲物を探しているのかは知らないが、まるでそこに居ることを知っているかのように見つけやがる。
前回は犬みたいな化け物だった。その前は豚みたいな化け物だった。更にその前は、表現し難い異形の化け物だった。
形はそれぞれだが、皆一様に絶品だ。多少の抵抗こそあれど、精々が手足が飛んで腹が裂けるくらいだ。それ以上の快楽を彼らは与えてくれる。
まだ見ぬ御馳走を想像し、乾燥した口内に唾液が滲み始めた頃、前方を走る馬車が再び停止した。
深いため息と共に駆け寄り、どこの車輪が嵌ったのか確かめる。だが車輪は意気揚々と乾燥した地面に鎮座していた。
何故止まったのだろうか。それを確かめるために馬車の前方に視線を移した瞬間、俺は全てを理解した。
「クソ犬、来るぞ。構えていろ」
進路の先から、二匹の人間が近づいてくる。両手を振り回しながら大声を上げて、停車を呼び掛けているようだった。
気が付くと女は猟銃を構え、彼らに対して向けている。その姿を見た俺は、相棒の金属片を放り投げて腰から短剣を抜いた。
やがて何を叫んでいるのかが聞き取れる距離に差し掛かったころ、女の猟銃が容赦なく火花を散らした。
けたたましく鳴り響く爆音。穏やかな風を引き裂くかの如く、黒い液体の溜まる窪地に殺意の一撃を轟かせた。
その弾丸は彼らの進む先の地面を抉り、驚きと恐怖から足を絡めさせる。だが性懲りもなく起き上がり、再びこちらに近づいてきた。
両手を上げて、敵意のないことを示しながら。彼ら唯一の武器である、ただの金属片を見せつけるように投げ捨てながら。
「貴様は後ろを見張っていろ。この地形は待ち伏せするのに都合がいい」
「挟み撃ちのための陽動にしては露骨すぎじゃねぇか? それとも本命の奴らが後ろに控えてるのか?」
「どの道やることは変わらんさ。分かったならさっさと行け」
「あいよ。今回は楽出来そうだな」
笑い混じりにそう返し、鼻歌を歌いながら馬車の裏へと回る。横目ではあの女が鉈を取り出し、馬車を降りて彼らを待ち構えている姿が見えた。
ただの馬鹿ならそれでいい。もしも賢い馬鹿ならば丁度良い。余った奴らはあの黒い窪地に放り投げてみよう。何が起こるのか楽しみだ。
未知に対する探求心。その情熱が俺の思考を支配していった。
襲撃の気配がまるでしない窪地の淵で、俺はあの女が放つ命令を今か今かと待ち望んでいた。
あの女が何を言っているのかは聞き取れないが、二匹の人間が声を張り上げて言っていることはただ一つ。俺達も連れて行ってくれ、だ。
この世界にも親近感の沸く連中が残っているもんだ。てっきりあの女みたいな連中ばかりだと思っていた。
生きた人間に出会うのは初めてだが、感動はない。違う意味での喜びはあるが、それは彼らにとって好ましくない結果を生むだろう。
彼らの切羽詰まった声が疑念の声となり、そこから更に悲痛な物に代わる。
そして時を置かずして悲鳴へと移り変わると、ガスマスクの女は俺に対して淡々と命令を下した。
「クソ犬、一匹逃げた。追って殺せ」
「あいよ」
死骸を踏みつけながら、深々とめり込んだ鉈を引き抜く様を一瞥して走り出す。
必死に逃げているようだが、ひどく遅い。本当に逃げる気があるのだろうかと疑ってしまうほどに。
瞬く間に距離を詰め、髪を掴んで地面に引き倒す。このまま殺してもいいのだが、俺にはある秘策があった。
それを実行するため、寝転んでいる男の腹に座り込んで、両腕を掴み自由を奪う。
「まあまあ、落ち着けって。聞きたいこと聞いたら生かして帰してやるからよ」
「ま、待ってくれ! 俺は何もしていない! 助けてくれ!」
「そうだとも。お前は何も悪くはない。だからちょっとばかし答えてくれや。な?」
「わ、分かった! 何でも言う! 何でもするから!」
物分かりの良い奴で助かった。まずは第一段階完了だ。
さて、何を聞こうか。
「ここは何て名前の場所なんだ?」
「分からない! 本当だ! 俺はただ逃げて来ただけだ!」
「へぇ、逃げたのか。どこからだ?」
「帝国だよ! 俺はただの奴隷だ! 魔法使いでも何でもない!」
衝撃的な単語がこいつの口から飛び出してきた。思わず自分の耳を疑ってしまったほどだ。
魔法使いだと? この世界が、この光景がファンタジーだとでも言いたいのか?
あの女は魔法使いで、俺はその使い魔として召喚されたとでも言いたいのか? 俺が世界を救う勇者として召喚されたとでも言いたいのか?
「おい。あんまりふざけてると、あの黒いのに漬けちまうぞ」
「ま、待て! 待ってくれ! 本当だ! 俺はただの奴隷だ!」
「じゃあその魔法使いって何だよ。テメエが三十過ぎても女っ気が無いことなんて聞いてねぇんだよ」
「魔法使いだよ! 帝国の戦士階級の奴らは皆使ってる! 他の仲間は追ってきた魔法使いに殺されたんだ!」
呆然。放心。確かに聞こえているはずの事実を、俺の脳が拒絶している。
このクソみたいな世界で魔法かよ。このクソみたいな世界がファンタジーかよ。
意味が分からねぇ。分かりたくもねぇ。どういうことなんだ。違うだろう、コレは。
気が付けば俺の腹に金属片が突き刺さっていた。
いつの間にか両腕の拘束を解いていたようだ。この男は隠し持っていた金属片で俺を殺そうとしていた。
それを無視してさっさと首の骨を折り、血と唾液の交じった泡を吹く死骸を馬車に運ぶ。
既にあの女は最初の一匹目を解体し終え、馬車の上で使用済みの銃のメンテナンスにご執心になっていた。
「遅いぞ、クソ犬。つまみ喰いしてはいないだろうな?」
「ああ、そうだな……」
「やけに気が抜けているじゃないか。その刺さってる金属片を抜いたら萎んでしまいそうだな」
「分かったから。これ、早いとこバラしてくれ」
そう言って馬車の近くに放り投げる。今夜の食事は豪勢になるだろうに、俺の気分は少しも晴れなかった。
ふと思い出したかのように、腹に刺さった金属片を抜いて黒い窪地に投げ入れる。
それは着水するや否や白い煙を上げ、まるで鉄板の上で肉を焼いた時のような音を立てながら底へと沈んで行った。
「なぁ、無駄だと思うが一つ聞いていいか?」
「無駄だと分かっているなら答えてやろうか」
死骸に鉈を振い、手際よく解体している女に対して俺は質問した。
「お前も魔法使いなのか?」
「少なくとも貴様は使えないようだな」
どうしようもなく渇いた笑い声が、骨を叩き折る音に掻き消されていった。