渇いた世界の旅路
「どうだクソ犬。ここは素晴らしい所だろう?」
晴れることのない空。機械油の臭いがする風。どこまで行っても変わり映えのしない毒々しい景色。
これのどこが素晴らしいってんだよ。頭おかしいんじゃねぇのか?
そんなことを思いながら、俺はガタガタと怪しい音を立てて進む鉄製のボロ馬車と歩調を合わせて歩いていた。
昼になって気温が上がってくると、地面に染みこんだ機械油が地表に染み出してくる。
おかげで毎日が雨上がりみたいなものだ。あちこちに出来た油たまりに気を付けながら馬車を走らしているから、大した速度は出せていない。
逆に言えば、車輪が嵌りそうな場所を前もって教えてくれているということだ。
「せっかく主人が声をかけてやったんだ。返事くらいしたらどうだ」
「えらくご機嫌じゃねぇか。腹も膨れて備蓄もできて、便利な犬コロも異常無しだ。下らねぇ」
「やけに噛みつくじゃないか。大腸をクソごと食って腹でも壊したのか?」
「生憎だがよ、壊した腹は新品と入れ替わってんだ。寝てる間にサンタクロースがプレゼントしてくれたのよ」
売り文句に買い文句。これが会話の態を成しているのすら怪しいものだが、狩りが終わった後なんていつもこんなものだ。
腹が減ったら機嫌が悪くなり、飯を喰ったら機嫌が良くなる。それはどの世界でも共通の決まり事のようだな。
割れた頭も裂けた腹も、一晩立てば元通り。腕はまだ生え掛けだが、辛うじて物は掴めるから問題はない。
昨日獲ったあのデカい犬コロも、食える部分は精々十数キロらしい。
後は汚染がひどくて食えたものじゃないんだとよ。汚染まみれの内臓を平らげた俺からすれば、ただの喰わず嫌いにしか聞こえないな。
俺も久しぶりに腹が膨れて気分がいい。満腹の狼は羊に興味を失うとは言うが、今の俺がまさしくその状態だ。
楽園への道を知っているのはこの女だけだ。銃の腕も、少なくとも俺よりは上だ。生かす理由はいくらでもある。
昨夜の悪意は鳴りを潜め、空腹から解放された化け物は人間の真似をすることに決めたとさ。
馬車は油だまりの密集する難所を慎重に進む。どうしても躱せなさそうな場所は、その辺に落ちている金属片で車輪を軌道修正している。
もちろんその仕事は俺の役目だ。
それにしても、馬車はともかくこの馬共は何なんだ。機械で出来ているみたいだが、四匹とも内部構造が剥き出しで中身が丸見えだ。
錆びた鉄の骨格に、変色したベルトやワイヤーの数々。その隙間を縫うように、大小様々な歯車がカリカリと音を立てて回っている。
潤滑油はその辺にいくらでもあるのだろうが、そもそもこれがどういう原理で動いているのかが分からない。
有馬記念にこいつが出たら度肝を抜かれるだろうな。オッズは三桁行きそうだが。
そんな冗談を皮切りに、俺は考えることをやめた。
ようやく難所を超えて一息ついた頃に、この女がまた変な事を言い出した。
「貴様が逃亡者だということは知っている。どこの派閥かは分からんが、どうせ旧文明技術の実験体か何かだろう」
「だから違うって何回言わせんだよ。俺は半グレになった覚えはねぇし、手術台で内臓をこねくり回された覚えもねぇよ」
「貴様が何と言おうが既に結論は出ている。それとも、あの迷い事を本気で信じるとでも思っているのか?」
「気が付いたらこのクソみたいな世界に飛ばされてたんだよ。俺にも何が起こったのか分からねぇ。だけどこれは夢じゃねぇんだ」
「そうかそうか、気の毒だな。化け物になった挙句、脳みそまで弄られているとは」
この女の言いたいことは分かる。俺だって『別世界から来た』なんて言う奴がいたら、まずそいつの正気を疑うだろう。
まだ猫型ロボットが机の引き出しから飛び出してくるほうが現実的だ。少なくとも過去と未来という繋がりがある。
繋がり……そうか。俺にも過去と現在を繋げる何かがあったはずだ。しかし、いくら思い出そうとしても思い出せなかった。
俺の憎むべき相手は、きっとその忘れ去られた記憶の中に存在するのだろうか。
だが、それが分かったところで何になる? この女がそれを信じた所で何になる?
同情が欲しいのか? 慰めが欲しいのか? 違うだろう。
俺が欲しいのは喰い物と飲み物。ただ、それだけだ。
「でもよ、派閥ってのがあるんならお前はどこ所属なんだよ」
「犬如きが人間の営みに興味を持つな」
「なんだよ冷てぇな。少しくらい教えてくれたっていいじゃねぇか」
「貴様は黙って命令を聞いていればいい。余計な詮索は無意味だ」
「はぁ、分かったよ」
日頃から続けている努力も虚しく、今日も空振りだ。未だに俺は、この延々と続く油臭い場所だけしか知らない。
こんな世界でも生き残っている奴らがいるんだな。きっと金属喰って油飲んでる連中なんだろう。
凄いな、鉄の胃袋を地で行っているのか。
俺も試しに喰ったことがあるが、あれは無理だ。文字通り歯が立たない。
それにこの女が持っている浄水器で濾した水ですら、油臭くて気分が悪くなるのに。
「それにしてもだな、この場所は素晴らしいぞ」
その話はさっきしただろう。いや、途中で変な方向に行ったっきりだったか。
同じ話を何度も掘り返す辺り、どうしても聞いて欲しいようだ。それとも、つい犬に話しかけてしまう飼い主のようなものか?
「風も穏やかで雨も降らない。肉もあるし水もある。殺意を向けてくる化け物も機械共もいない。派閥争いの先兵にもならなくて済むし、徴税なんて何処吹く風だ」
「そりゃよかった。ならよ、今すぐその馬車を降りてここで暮らせばいい。お前にはお似合いの良い場所だと思うぜ」
何を言うかと思えば、出来の悪い冗談だ。聞くだけ無駄だったな。
期待外れの収穫に、思わず道端の小結晶を蹴り飛ばす。その衝撃で地面を薄く覆っていた油が勢いよく飛び散り、灰色の岩肌に痕跡を残した。
「可愛いな」
ガスマスクの下から漏れ出た呟きが、誰の耳に止まることもなく、穏やかな風に乗って彼方へと飛んで行った。