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渇いた世界の猟人

 美味い。もっと喰いたい。

 美味い。もっと飲みたい。


 不自然なほどに静まり返った夜闇に下品な咀嚼音が響く。

 辺りには血を吸った小結晶が、まるで蛍のように微かに輝いていた。


 俺は喰らっていた。俺は飲んでいた。

 仕留めた獲物の腹を裂き、肝臓を引きずり出して喰らう。

 心臓を抉り出し、中に溜まった血液を啜る。


 俺はこの世で最も美味な食事に舌鼓を打ちながら、急かす本能をなだめるかの如く、必死に顎を動かしていた。


 きっと、爪に切り裂かれた俺の腹からは内臓が飛び出しているのだろう。

 きっと、喰いちぎられた俺の左肩からは血が噴き出し、骨が飛び出ているのだろう。


 そんな些細な問題が吹き飛ぶほどの幸福とカタルシス。

 今喰らっているのが獲物の内臓なのか、自分の内臓なのかも考えられないほどの強烈な快楽に身を任せていた。


 「嗚呼、美味い。美味すぎる」


 口いっぱいに肉片を詰め込んで、思わず天を仰ぎ見た。

 月明りすら届かぬ曇天だが、あの深い雲の向こうに人知を超えた何者かの存在を感じるのだ。

 当の昔に神など存在しないと理解したこの世界においても、やはり人は何かに対して信仰心を抱かずにはいられない。

 俺は今の俺を俺たらしめた何かに感謝し、同時に深く憎悪した。




 千切っては喰らい、千切っては飲み干す。幾度繰り返しただろうか。

 かつて俺を支配していた衝動が和らぎつつあったころ、突然背後に気配を感じた。


 汚染物質に彩られた地面を踏み締め、小結晶を踏み砕きながら近づいてくる。

 俺は目の前の御馳走から腸を引きずり出し、口に運びながらおもむろに振り返った。


 光だ。橙色に輝く人工的な光。

 俺は余りの眩しさに目を背けつつも、あれが獲物を横取りしに来た存在であるに違いないと感じていた。


 「グルルルルルルル……」


 口に咥えていた喰い物を吐き出し、残った右腕で短剣を構えて威嚇する。

 先ほどの立場が逆転したかのような構図だ。気が付けば俺は狩られる側に成り下がっていた。


 その光は俺の精一杯の威嚇にも動じることはなく、一定の速度で歩み寄ってくる。

 あれが松明の炎だと理解するのには、随分と時間がかかった。


 やがて松明が俺の姿を照らし、この血溜まりの食卓を照らすまでに近づく。


 それ以上踏み込めば、お前も仕留める。首を掻き切って腹を引き裂いてやる。

 折角なら別の物も喰いたいと思っていたところだ。お前の内臓がどんな味なのか楽しみだ。

 そう強く念じながら、威嚇の声を一層張り上げた。


 「……おい」


 くぐもった女の声。その一言が、殺意に塗り固められた俺の意識を鋭く貫いた。


 揺らめく橙色の炎に照らされた、薄汚れたローブ姿。粗末だが、俺が着ているボロ布よりも遥かに上質な衣服。

 使い古されてカビの生えた布製のガスマスクが表情を隠し、目の部分のひび割れたガラスは松明の光で白く染まっている。

 そして松明とは他に、この女が手にしている猟銃。ガラクタを組み合わせただけの下らない道具だが、その用途を満たすのに充分の機構を備えていた。


 その姿を見て、俺の全身から力が抜けていく。右手から短剣が滑り落ち、渇いた音を立てて転がる。

 それを見て、光の主は俺の間合いへと踏み込んできた。


 目を合わせられない。こんなにも近くに獲物が近づいているのに、飛び掛かることはおろか、殺意すら向けることが出来ない。

 なぜならこの女は――。


 「この駄犬が」


 この言葉と同時に、側頭部に鋭い痛みが走る。その衝撃で地面に叩きつけられ、倒れた俺に対して更に足の重みが圧し掛かる。

 銃座で殴られたのか。頭が割れて、中から液体が流れている感触がある。明らかに殺意を込めた一撃だ。

 だが抵抗はしなかった。歯を食いしばり、苦痛と屈辱に耐えている俺に対して、その女はこう続けた。


 「誰が戦って殺せと言った。誰が先に喰っていいと言った。私は”力尽きるまで見張っていろ”と命令したはずだ」


 女は擦れた声でそう吐き捨てる。

 感情を込めずに機械的に言ったつもりだろうが、言葉の節々には明らかな怒気が含まれていた。

 俺はそれが堪らないほど可笑しく感じ、この世界に来て初めて心の底から笑った。


 「クックック……胴体じゃなくて頭を狙ってりゃ、こんな手間を掛けずに済んだのによ。テメエが下手くそなだけじゃねぇか」

 「クソ犬がっ!」


 頭を思い切り踏みつけられ、首から骨の軋む音が聞こえた。

 何度も腹を蹴り上げられ、飛び出た内臓が血飛沫と共に千切れるのが見える。

 それでも俺は笑いを止められなかった。気なんて当の昔に狂っている。それをまだ自覚出来ていること自体が奇跡だ。


 そんな姿を見かねてか、女は猟銃を手放し、俺の首につけられた拘束具を掴んで顔元まで引き寄せた。

 ツンと鼻を刺すカビの臭い。ガスマスク越しで見える表情は、まるで汚物を見るかの如く冷めきっている。


 「立場を弁えろ。この首輪が貴様の魂ごと粉々に砕けても、同じ態度が取れるのか?」

 「おお、いいぜ。やってみろよ。そしたら体をバラして保存食にでもするといいさ」

 「餓死寸前の貴様を拾ってやった恩を忘れたか。犬は犬らしく、素直に尻尾を振っていればいいものを」

 「恩だと? テメエは便利な道具を拾っただけだろ。俺を助けるためじゃねぇ、自分を助けるためにだ」

 「そうだな。ならば便利な道具として、精々私の役に立ってもらおうか」


 言い終わるや否や、女はまるでゴミを投げ捨てるが如く首輪から手を離した。

 そして猟銃を拾い上げ、踵を返して帰っていく。


 俺は最後に短く唸るような声で笑うと、這いつくばりながら短剣を拾い、ふらつきながらも立ち上がる。

 自分の内臓が足に絡んで鬱陶しい。邪魔な臓器を短剣で鋸のように切り落とし、去り行く女の後ろ姿を目で追った。

 すると突然女は立ち止まり、振り返ることなく言った。


 「何をしている。さっさと馬車まで運べ」

 「ああ、分かってるさ。腹が減ってんだろ? 何なら今ここで抓んで行けばいい」

 「それは貴様も同じだろう。食った物がどこに行ったのかは知らんが、腹の中が空っぽだぞ」

 「なら後でテメエの残飯でも漁っておくさ。犬らしく、な。」 

 「……化け物が」


 この言葉を最後に、あの女からの返事が返ってくることはなかった。

 何を今さら当たり前のことを言っているんだ。腕を失い、腹が裂け、頭が割れても平然としている奴が人間のはずがないだろう。


 俺は俺の正体を知っている。そしてあの女もまた、俺を拾った時から気づいていたのだろう。

 俺は化け物だ。どんな酷い傷を負っても、喰って寝りゃいつの間にか元に戻っている。ただそれだけの、化け物だ。


 だが食用には向かないらしい。その証拠に他の奴らが俺を喰おうとしたことはないし、あの女から手足を差し出せなんて命令が出た試しがない。

 まあ、あいつが何故喰えねぇ事を知っているのかって話になると、答えは簡単だがな。


 「……今は従ってやるよ。犬の真似事をしろってんなら、喜んでやってやる」


 そう呟いて、俺は仕留めて間もない御馳走へと歩みを進める。まだまだ喰い足りないが、仕方がない。

 ご主人様がお腹が空いて辛抱堪らないんだとよ。なら、忠犬らしく俺の喰い物を分けてやるか。


 「精々今のうちに威張ってるがいいさ。その方が後々楽しめそうだしな」


 もはやただの荷物となった獲物の前足を掴み、ズルズルと引きずっていく。

 黒と茶色の大地に深紅の彩りが加えられ、小結晶が心地よい音を立てて押しつぶされていく。


 この世界に堕ちた当初、俺は笑ってしまうほど無力だった。

 いかに頑丈でも、いかに死なずとも、本質はただの人間だったんだ。


 だが俺は気づいてしまった。この異形の怪物共を喰らえば喰らうほど、俺の中にある未知の力が増すということを。

 今ではこの数百キロはあろうかという死骸を、右手一本で引きずることが出来るようになったことを。


 その事実をあの女は知らない。都合良く、まるで初めからそうだったかのように錯覚している。

 そして、こんな首輪で俺を従えた気になっている。どうやら命令一つで俺の魂ごと砕け散るようになっているそうだ。


 あの女の話では、だが。


 「楽しみだな。本当に楽しみだ」


 仮にあの女を殺したとして、首輪の話が嘘だったとして、猟犬から猟人になったとして、その先はどうなるのというのだ。

 俺はこの世界のことをまるで知らない。当てもなく彷徨った挙句に弾薬が尽き、干からびて死ぬのがオチだろう。


 幸いにもあの女には明確な目的地があるようだ。これまで馬車を進める方向に迷いがなかったからな。

 好都合だ。この先にどんな楽園が待っているのかを知ってから殺しても遅くはない。


 この渇いた世界にもきっと、俺にとっての安住の地があるはずだ。

 これまで苦しんできた分の借金をチャラにするような、理想の世界が待っているはずだ。


 そこに辿り着いた時には、一際豪華な御馳走で盛大に祝おうか。

 きっと頬が落ちるほど美味いに違いない。この世で最も美味い物に違いない。


 火は通さないほうが美味いだろう。踊り喰いってのも良いかもしれない。

 だけど、あの食欲の失せるガスマスクはさっさと外さないとな。カビ臭くて気分が悪くなる。


 「どこから捌いてやろうか。どうやって喰ってやろうか。どんな味がするんだろうか。待ち遠しくて狂っちまいそうだ」


 ――気が付けば荷物と地面の間に金属片が挟まり、振動して心地よいリズムを刻んでいた。

 来た道を振り返ると、潰されずに生き残った小結晶がまるで俺の行く末を祝福してるかのように淡く輝いている。


 文明が滅び、生命の痕跡も消え、何もかもが風化してしまったこの世界。

 それらを嘲笑うかのように、軽やかな鼻歌が夜の曇空に鳴り響いた。

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