渇いた世界の猟犬
気が付いた時には、俺はこの見知らぬ場所に居た。
退屈を嫌い、束縛が敵であった俺にこの世界が与えたのは、目的と自由だった。
誰しもが今の俺を化け物と呼ぶのだろう。ならば、俺は化け物らしく生きよう。
下らない罪悪感や倫理観からは解放された方がいい。その方が楽だ。
俺は誰を恨めばいい。この恨むべき何者も存在しない世界で、何を――。
腹が減った。喉が渇いた。
肉を喰らいたい。血を啜りたい。
厚い雲に覆われた閉鎖的な空。辛うじて地上に届く太陽の光も徐々に弱まり、間もなくこの場所は夜闇に呑まれようとしている。
見上げるほどに高くそびえ立つ巨大な岩肌。その色は死者の灰を押し固めて作ったかのように灰色に染まっていた。
地面は黒と茶色のグラデーションに彩られており、ひび割れた隙間からは毒々しい色の小結晶体が突き出している。
そして元の形が分からないほどに風化し、錆びついた大小様々な金属の破片が、視界に映る物体の至る所に突き刺さっていた。
世界の終焉。いや、世界など当の昔に滅んだのだろう。ここは滅びにすら見放された残りカスだ。
その証拠に、この世界には色鮮やかな自然の植物も、清らかな水のせせらぎも、心安らぐ小動物の戯れも存在しない。
あるのは飢えと渇き。ただそれだけだ。
俺はそんな無機質で救いようのない世界で、繰り返し脳内に木霊する強烈な衝動に抗っていた。
腹が減った。喉が渇いた。
肉を喰らいたい。血を啜りたい。
俺の身を包んでいるボロ布が、機械油の刺激臭を含んだ風になびく。
首に掛けられた二つの拘束具がこすれ合い、微かな金属音を出す。
それと同時に、右手に持つ短剣を――短剣を模しただけの金属の破片だが――血が滲むほどに握りしめる。
もう何日も喰ってない。もう何日も腐った水しか飲んでいない。
日に日に強くなっていく生存本能の悲鳴。体に鞭を打ち、苦痛を与え、有無を言わさず行動させるためだけの拷問。
だが、その苦しみも今終わるだろう。目の前の”獲物”を仕留めれば、すぐに。
「グルルルルルルル……」
犬の形をした怪物が威嚇している。
前世の記憶で例えるならば……大型の闘犬を二回りも大きくして、顔や体からいくつもの牙を生やしたらこんな形になるのだろうか。
人間はおろか、大型の肉食哺乳類ですら捕食するであろう強靭な肉体。この過酷な世界で生き延びることが出来るほどの優秀な頭脳。
誰もが逃げられぬと分かっていても逃げてしまうような恐怖の象徴。それが今、俺に対して敵意を向けている。
「…………」
だが俺はそんな化け物の前にして、静かに歓喜していた。
ふと怪物の足元に目を向ける。そこには胴体から滴り落ちる血によって、赤黒い小さな水たまりが出来ていた。
健気に強がっているようだが、既に手負いだ。もはや走り回ることも、満足に戦うことも出来まい。
”あの女”の放った銃弾が、こいつの内臓を蹂躙しながら反対側まで突き抜けているのだから――。
このまま放っておいてもいずれ死に至るだろう。
もっとも、途中で血の匂いを嗅ぎつけたやつに止めを刺されなければの話だ。
「……今、喰う」
短剣を逆手に持ち替え、目の前の御馳走に向けてゆっくりとにじり寄る。
それと同時に、威嚇の唸り声が大きくなっていく。
待てるわけがない。今この瞬間を逃すわけがない。
極度の飢餓状態において、目の前に置かれた食い物に手を伸ばさない奴がどこにいる。
ましてや、こんな美味そうな臭いを嗅いで、正気を保てる奴がどこにいるんだ。
鼻腔いっぱいに広がる生臭い鉄の匂り。口から涎が溢れ、顎を伝って地面へと吸い込まれる。
それを拭うことすら忘れてしまうほどの感動。俺は抗うことなく、その根拠となる食い物に近づいていった。
岩肌に刺さった金属片が、錆びと風の力に負けて崩れ落ちる。
獲物から滴る血が地面に生える小結晶に吸い込まれ、鈍い輝きを放つ。
最後の力を振り絞り、今にも飛び掛かろうとする異形の怪物。
そしてその間合いへと詰め寄る、人の形をした怪物。
互いの間合いが重なり、崩れ落ちた金属片が高らかな音を立てて地面に衝突した瞬間、全てが始まった。
「ウォオオオオオオオオオン!!」
「ウォオオオオオアアアアア!!」
悍ましい獣たちの絶叫が、渇いた世界に鳴り響いた。