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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白き聖女と黒き魔女

作者: 曲尾 仁庵

「なぜ?」


 黒き魔女は問うた。その目から一粒の涙がこぼれる。


「……なぜ?」


 白き聖女は不思議そうに首を傾げる。そしてふと、何かに思い当たったように、笑った。


「……貴女を、泣かせたかったのかもね」


 からん、と乾いた音を立て、銀の短剣が床に落ちた。

 今よりはるか古の時代。人々は『聖女』と呼ばれる、奇跡の力を身に宿した存在に守られ、平和に暮らしていたという。人々は聖女を敬い、聖女は人々を愛したのだという。平和な時代は長く続き、そしてある日突然に終わりを迎えたのだという。


 これは、世界が聖女を失うまでの物語。




 華やかな都には、壮麗な城と大聖堂がある。城は世俗を統べる王のおわす場所。それに対する大聖堂は祭祀を司る聖女が祈りを捧げる場所だ。王は民を導き、聖女は民を慈しむ。遠い過去から今に至るまで、そうやって世界の秩序は保たれている。

 大聖堂の裏手には修道院があり、国中から集められた聖女候補が厳しい修行に耐えながら共同生活を送っている。聖女は災害を鎮め、疫病を癒し、天候を操り、豊作を招く。祈りによってあらゆる奇跡をもたらさねばならぬ過酷な役目だ。ゆえにその任に堪えうる期間は短く、次代の聖女は常に用意されている必要があった。


 当代の聖女候補には、傑出した二人の娘がいた。一人は陽光を思わせる金の髪に透き通る白い肌、そしてエメラルド色の瞳を持つ美しい娘。もう一人は髪も肌も闇のように黒く、瞳は夜空に君臨する月の如き金色の、身分卑しき娘。二人は聖女として必要な知識も、振る舞いも、奇跡の力も、他の追随を許さない。そしてその実力は互いに一歩も譲らぬ、全くの互角であった。

 力においていささかの相違もない二人は、しかしその扱いにおいて雲泥の差を付けられていた。白い肌の娘はいかなる時も常に称賛され、黒い肌の娘はいかなる時も侮蔑と冷笑を以て遇された。白い肌の娘の成功は才能と努力の結果であり、黒い肌の娘の成功は偶然あるいは不正の結果であるとされた。なぜならこの国において黒い肌の人々は身分卑しき者であり、身分卑しき者が優秀であるはずがないからだ。評価者にとって、あるいは黒い肌の娘の周囲にいるすべての人々にとって、彼女が優秀であってはならなかった(・・・・・・)のである。人々は黒い肌の娘に、常に猜疑と悪口を向けた。ただ一人の例外を除いて。


「皆の目は節穴なのだわ」


 白い肌の娘は不快そうに鼻を鳴らした。その目は容赦なく降り注ぐ太陽の光に似て、世の無理解と頑迷さを糾弾している。黒い肌の娘は静かに首を振り、白い肌の娘を窘めた。


「そのような物言いをするものではないわ。皆それぞれに事情がおありなのでしょう」

「その事情とやらは、あなたを不当に貶める理由になるほどご大層なことなの!?」


 まなじりを吊り上げ、白い肌の娘が詰め寄る。黒い肌の娘は困ったような顔で少しだけ目を伏せた。


「第一、何かの事情でそうしているというなら、理解した上で、ということでしょう? 余計に質が悪いわ!」


 周囲をはばかることもなく、白い肌の娘は思うままに憤りを吐き出している。修道院の中庭、樫の大木の影にいる二人の周りには誰もいない。穏やかな風が木の葉を撫で、木漏れ日がゆらゆらと揺れる。黒い肌の娘は顔を上げ、眩しげに目を細めた。

 白い肌の娘が過ちを過ちと呼ぶにためらわぬ苛烈な気性であるのに対し、黒い肌の娘はどんなことがあろうとも他者を否定せず、たいていは背を伸ばし沈黙するのみであった。だがそれは他者に媚びることではなく、他者からいかに否定されようとも、ただ超然と佇んでいるのだ。そしてその凛とした姿勢は、彼女のことを疎ましく思う者たちをしばしば刺激することとなった。陰に潜んで広がる謂れなき中傷から、より直接的な暴力まで、黒い肌の娘はいかなる時も悪意の渦中にあった。だが、白い肌の娘と共にいる時だけは、それらの悪意が黒い肌の娘に直接ぶつけられることはなかった。そのことに気付いてから、白い肌の娘は時間の許す限り黒い肌の娘の隣にいた。


「次代の聖女は私か、貴女か、どちらかになるでしょう。もし貴女が聖女になったら、貴女を貶めた者たちを皆、ことごとく火あぶりにでもすればよいわ。そうすれば世界を守る聖女に仇なした罪を存分に思い知るでしょう」


 本気か冗談か、判別しづらい笑みを浮かべる白い肌の娘に、黒い肌の娘は一瞬だけ呆れ顔になると、すぐに挑発するような表情を作った。


「珍しいわね。自分が負けた時のことを話すなんて」


 白い肌の娘はむきになった顔で黒い肌の娘に詰め寄る。


「もしも、の話よ! 私は貴女にだって、誰にだって負けるつもりはないわ!」


 白い肌の娘は黒い肌の娘の肩に手を置き、その目をのぞきこんだ。


「聖女の儀で問われるのは真に実力のみ。世界の命運を預かる者の選定に、下らぬ偏見など介入する余地はないわ。私は私の力で、貴女に勝つ」


 黒い肌の娘は、肩に置かれた白い手に自らの手を重ねる。


「私だって、負けるつもりはないわ」


 白い肌の娘と黒い肌の娘は互いに見つめ合い、楽しそうに笑った。白い肌の娘は気付かない。黒い肌の娘の瞳に、哀しげな色が揺らめいていることに。




 白い肌の娘と黒い肌の娘は支え合い、研鑽を積み、もはや歴代の聖女さえも凌駕するほどの奇跡を身に宿していた。当代の聖女は徐々にその力を失いつつあり、世の人々は新たな聖女の誕生を望んでいる。王は決断を下し、聖女降誕の儀が執り行われることとなった。

 聖女降誕の儀は聖女候補が大聖堂に一堂に会し、祈りによって己が身に宿す奇跡を示す儀式である。当代の聖女が最も強い奇跡を示した者に自らの額冠を与えることで、古きから新しきへの継承を内外に知らしめる。数百年の昔から連綿と続き、数百年の後も続くであろう荘厳な祭祀。

 白い肌の娘を先頭に、当代の聖女が待つ大聖堂へと聖女候補たちが連なって足を踏み入れる。白い肌の娘の顔には深い苦悩が滲み、その唇は蒼く震えていた。聖女候補たちの中に、黒い肌の娘の姿はない。


「なぜ!?」


 白い肌の娘の問いに、神官は無表情に告げる。


「あの者は聖女の資質に欠けるゆえ、昨日、都を追放されました」


 白い肌の娘は己の浅はかさを知った。聖女の儀で問われるのは真に実力のみ。なればこそ、黒い肌の娘はその場に立つことさえ許されなかったのだ。黒い肌の娘が今まで留め置かれたのは、いわば白い肌の娘の予備に過ぎなかった。白い肌の娘が聖女になることが確実になれば、もはや黒い肌の娘に用はない。王はそう判断したのだ。


 聖女候補たちが大聖堂の床に膝を突き、祈り始める。各々の身体から光が溢れ、大聖堂を満たした。当代の聖女はゆっくりと大聖堂を一周する。すべての候補を正しく見定めたと示すためだ。だが、その姿は人々に、殊更に白々しく映った事だろう。どこから、誰が見ても、聖女にふさわしい輝きを放つ者は一人しかいなかったのだから。

 当代の聖女が白い肌の娘の前に立つ。祈りの声が途絶え、大聖堂は静寂に包まれた。白い肌の娘は顔を上げる。当代の聖女はダイヤモンドの散りばめられた銀の額冠を外し、手ずから白い肌の娘に与えた。今、この瞬間に、新たな聖女が誕生したのだ。

 先代となった元聖女が白い肌の娘に微笑み、手を差し伸べる。その手を取り、白い肌の娘は立ち上がった。


「新たな聖女に祝福を!」

「新たな世界に祝福を!」


 人々は口々に叫び、地鳴りのような拍手が大聖堂を包んだ。新たな聖女となった白い肌の娘は、口を固く結び、厳しい表情のまま、人々に礼を返した。


 新たな聖女は過去に類を見ぬほどの強い力を示し、国をより豊かに、人々をより幸せに導いた。人々はその功績を讃え、彼女を『白き聖女』と呼んだ。




 都を追われた黒い肌の娘は、自らの故郷へとその足を向けた。しかし故郷で彼女を迎えたのは、労りではなく罵声であった。


「何という役立たず! お前が聖女になれば、我らの暮らしも少しは楽になったろうに!」

「お前を都に送るためにどれだけ我らが苦労したことか! この恩知らずが!」


 もはや故郷に留まること叶わず、黒い肌の娘は小さなため息を一つ吐くと、誰も立ち入ることのない、光射さぬ深い森の奥へと姿を隠した。昏き森に独り住まう黒い肌の娘の噂は不吉を伴って人々に広がり、人々はやがて彼女を『黒き魔女』と呼んだ。




 白き聖女は大聖堂で祈りを捧げる。大聖堂には聖女の他、数人の神官が控え、あるいは監視している。聖女の祈りは遍く世界に満ち、光となって降り注いでいた。光を受けた大地は豊穣を約束し、海は穏やかに揺らめく。しかし聖女の力をもってしても、世から貧困はなくならず、飢えに苦しむ民は数多地に伏し、命を落としていた。余りある財を囲い奢侈に耽る者がいる一方で、今日、食うに事欠く者が天を見上げている。一日の祈りを終え、白き聖女は側に控える神官に問うた。


「麦は世の全ての人々に分け与えても充分に足るほどの収穫を得られておりましょう。飢えに苦しむ人々に配るわけには参りませんか?」


 神官は無表情に首を振る。


「飢えに苦しむ者たちは、ただ己の怠惰の報いを受けているに過ぎませぬ。そのような者たちに施しを与えれば、勤勉な者は不満を抱き、怠惰な者はますます堕落いたしましょう。それは悪平等というもの。かえって世を乱しまする」


 白き聖女はわずかに視線を落とした。神官の声音には、現実を知らぬ娘の世迷言との侮りの色がある。神官は白々しく頭を垂れた。


「聖女は世の安寧を祈るがお役目。俗世の(まつりごと)は我らに任せ、心穏やかに過ごされますよう」


 白き聖女が口を引き結ぶ。神官が大聖堂の入り口を指し示した。厳しい表情を浮かべ、白き聖女は無言で大聖堂を後にした。




 黒き魔女は昼なお暗き森の中を駆けていた。背後からは複数の足音が迫る。


「回り込め! 挟み撃ちにするぞ!」


 まだ若いであろう男の声が森に響く。固まっていた足音が分かれた。大木のむき出しの根を飛び越え、黒き魔女は目当てもなく走り続ける。足を止めれば命はない。

 黒き魔女が森に潜んでしばらくの時が過ぎ、彼女が得たささやかな平穏は、しかしある日を境に破られることとなった。黒き魔女の噂はありもせぬ多大な尾ひれを付けて広まり、今や彼女は赤子を喰らい千年を生きる化け物である。その噂は世の大多数の人々を彼女から遠ざけ、一部の者たちを彼女に引き寄せた。『勇者』を自称する愚か者たちを。栄達を夢見、功名に焦るそれらの者たちは、大半が実力の伴わぬ痴れ者に過ぎなかったが、ごく稀に、真に力を持った者たちが『魔女』を討伐せんと現れることがあった。彼らは真に世を想い、悪を憎む。黒き魔女は彼らとの戦いを望まず、ただ逃げることを選んだ。


「世を呪う悪しき魔女め! 消え失せよ!」


 背後で強い魔力が膨れ上がる気配を感じ、黒き魔女はとっさに地面を蹴って大木の影へと隠れる。すさまじい轟音が響き、まばゆい光が奔流となって森を引き裂いた。黒き魔女が身を隠した大木は半ば以上を抉られ、彼女を守ったことに満足するように、ゆっくりとその身を横たえた。黒き魔女は痛ましげにへし折れた大木に手を伸ばし、固く目を瞑った。

 折れた大木に沿う黒き魔女を、三人の若者が取り囲む。勇者を自称する、真実を見抜く目を持たぬ者たち。抜き身の剣を黒き魔女に突き付け、青年は言った。


「世の安寧を蝕む邪悪の徒よ。己が悪行の報いを受けるがいい」


 黒き魔女は青年を見上げた。その瞳にある妄信を見て取り、黒き魔女は無言で目を閉じる。青年が高く剣を掲げ――


――バリバリバリバリッッ!!!


 突如天から降り注いだ稲妻が若者たちに降り注ぎ、かつて命であったそれらは一瞬で黒炭の塊となって崩れ落ちた。奇妙なことに稲妻は周囲の木々にも、地面にすらその痕跡を残さずに消えた。黒き魔女は呆然と地面に積もる黒炭を見つめ、そして天を仰いだ。


 白き聖女は私室で質素な木製の椅子に座り、姿見を覗き込んでいた。鏡には自らの姿ではなく、日の射さぬ暗い森が映る。白き聖女は憤りに顔をゆがめ、吐き捨てるようにつぶやいた。


「……痴れ者めが!」




 白き聖女は大聖堂で祈りを捧げる。大聖堂には聖女の他、数人の神官が控え、あるいは監視している。聖女の祈りは世界に広がり、同時に世界に満ちる人々の祈りが聖女の許へと届いた。とりわけ白き聖女の心を痛めたのは、黒い肌の人々の悲鳴にも似た数多の祈りだった。彼らの多くが自由を奪われ、わずかな対価で過酷な労働を強いられている。聖女の祈りはほんのわずかも彼らに届いていないようだった。一日の祈りを終え、白き聖女は側に控える神官に問うた。


「どうして黒い肌の人々ばかりが、過酷な労働に従事しているのでしょう。皆で労働を分かち合い、負担を平等にすることはできないのですか?」


 神官は無表情に首を振る。


「人にはそれぞれ役割というものがございます。不可能なことをせよとは言えますまい。あの者たちにはあの者たちの能力にふさわしい仕事を割り当てているに過ぎませぬ。己の無能を棚に上げ不平を言い募るは筋違いというもの」


 白き聖女はうつむき、唇を噛む。神官の声音には、理想に遊ぶ娘の絵空事との侮りの色がある。神官は白々しく頭を垂れた。


「聖女は世の安寧を祈るがお役目。俗世の(まつりごと)は我らに任せ、心穏やかに過ごされますよう」


 白き聖女が強く奥歯を噛む。神官が大聖堂の入り口を指し示した。わずかに肩を震わせ、白き聖女は無言で大聖堂を後にした。




 昏き森の黒き魔女の庵には、今日も望まぬ来訪者が姿を現す。黒き魔女は困惑の表情を浮かべ、机を挟んで向かい側に座る尊大な態度の男を見つめた。明らかな蔑みを瞳に宿し、男は魔女に告げる。


「このような暗い森に隠れ住む卑しきお前の力が、この私の役に立つのだ。この上ない栄誉と傅き、涙を流して喜ぶがいい」


 男は隣に控える従者とおぼしき男に手で合図を送る。従者は一抱えもある大きな袋を机に置いた。中に入っているであろう金貨がガチャリと音を立てる。


「お前には望むべくもない大金だ。無論、受けてくれような?」


 従者が腰の剣に手を掛ける。男の顔が醜く笑みの形に歪んだ。権力、財力、暴力。その三者の力に抗うことのできるものなど無いという確信に満ちた笑みだ。黒き魔女は小さくため息を吐いた。

 男は都に住む貴族の次男で、その依頼の内容は『父と兄を呪い殺せ』というものだった。放蕩者のこの男は、自らの浪費を父になじられ、もっと自由に金を使うための方法を考え抜いた挙句、自らが当主になればよいと思い至ったのである。現当主である父と次期当主である兄が死ねば、当主の座は向こうから転がり込んでくる。当主になれば家の金はすべて自分の思いのまま。そういう理屈。

 こういう手合いが庵を訪れるのは、これが初めてのことではない。この男は白い肌の民だが、人種性別年齢を問わず、黒き魔女に呪いを望む者はなぜか定期的に姿を現した。住む場所を変えても、より森の深きに身を隠しても、この手合いはいったい何の執念か、必ず黒き魔女の居場所を突き止めた。そして必ず言うのだ。「卑しいお前の力を役に立ててやるのだ、感謝せよ」と。魔女を見下しながらその力を求める姿は滑稽で、一様に哀れだった。


「お断りいたします」


 無表情に黒き魔女はそう答えた。従者が剣を抜き、魔女の喉元に突き付ける。男は醜悪な笑顔のままで言った。


「よく聞こえなかった。もう一度申してみよ」

「お断りいたします」


 黒き魔女はいささかの躊躇もなく即答する。男の顔が笑みから怒りの色に変わった。従者が剣の先端をわずかに押し込む。魔女の首からじわりと血の玉が盛り上がり、流れた。


「図に乗るな! 下賤の輩が私の命に背くなど、許されると思うてか!」


 男の激しい怒声は、しかし黒き魔女にわずかな動揺すら与えることができない。黒き魔女の輪郭が空気に溶けるようにぼやけ、揺らぎ始めた。


「誰かを呪う力を私が持っているのなら、その力を貴方に向けることはないとなぜ、貴方は信じていらっしゃるのでしょう?」


 黒き魔女が小さく微笑む。男の顔から血の気が引き、その手が細かく震え始めた。従者は金縛りを受けたように動かない。


「不相応な望みは身を亡ぼすと申します。その言葉の意味、よくよくお考えなされませ」


 空間から滲み出るように、闇が黒き魔女を覆う。彼女に突き付けていた従者の剣がボロボロと朽ち崩れた。闇はその姿を隠し、闇が晴れた時、黒き魔女の姿はどこにもなくなっていた。取り残された男とその従者は、魔女がいた場所をただ呆然と見つめていた。




 白き聖女は大聖堂で祈りを捧げる。大聖堂には聖女の他、数人の神官が控え、あるいは監視している。聖女の祈りは災害を鎮め、病を癒す。それでも人々は争い、殺し、奪い合う。そして奪われるのは常に弱者であった。一日の祈りを終え、白き聖女は側に控える神官に問うた。


「どうして」

「いい加減になさい!」


 問いの終わりを待たず、神官は白き聖女を叱責する。


「聖女の役目は祈ることのみ。俗世の在り様に口を出すは領分を越える行いでありましょう。貴女はただ祈ればよい。些事に構わず己が役目を果たされませ」


 白き聖女は呆然と神官を見つめる。そしてはたと気が付いたように息を飲んだ。

 そうか。この者たちは世界をよりよくすることに興味が無いのだ。いや、この者たちにとって、今の世界こそが最善なのだ。自由も、平等も、公正も、この者たちにとって『善い』世界の条件たり得ぬのだ。ただ己が心地よい世界であればよい。そして聖女は、この者たちにとって『善い』世界を維持するための、便利な道具に過ぎぬのだ。

 白き聖女はおかしそうに、本当におかしそうに笑い始めた。声を上げ、涙を浮かべて。神官が訝しげに彼女を見つめる。苦しそうに笑いながら、白き聖女は言った。


「ようやく分かった! 彼女が聖女たり得ぬ理由、私が聖女となった理由、哀しい祈りが途絶えぬ理由、世界が幸福に満たされぬ理由! 私が浅はかであったのだ! 実り少なきが飢えの因ではない! 病が、天災が人を不幸にするのではない! すべて人の営みであったのだ! 己以外に無関心な、人の営みであったのだ!」

「な、何を言っている?」


 神官は理解できぬ戸惑いを口にする。白き聖女は陶酔したように叫んだ。


「聖女とは、世界を固定化する装置に過ぎぬのだ!」

「お、落ち着かれよ! いったいどうなされたのだ!?」


 控えていたすべての神官が白き聖女を取り囲む。白き聖女は笑いを収め、鋭く神官をにらんだ。


「今、この時を以て、私は祈りを捧げることを止めよう」


 神官たちに動揺が広がる。震える声で神官の一人が言った。


「聖女を辞めると申されるか!?」


 白き聖女は首を横に振る。


「もはや世界に聖女は不要。私は歴史の最後の聖女となろう」

「気でも触れたか!? 聖女がおらねば世は乱れ、大勢が命を失うことになろうぞ!」


 顔を蒼白にして神官が詰め寄る。白き聖女は冷笑でそれに応えた。


「聖女などおらずとも、せいぜいお前たちが権力の座から転げ落ちるだけよ」


 白き聖女を取り囲む神官が一斉に短刀を抜いた。刃が聖堂の灯りを反射する。おそらくは歴代の聖女も、言うことに従わぬ際にはこうやって威迫されたのだろう。神官の一人が冷酷な声音で言った。


「役目を果たされよ。聖女に祈らぬ自由などない」


 しかし白き聖女は見下すような瞳を神官に向けただけだった。神官たちは互いにうなずきあい、聖女を拘束すべく一歩を踏み出した。すると、白き聖女の身体からまばゆいばかりの光が溢れ、大聖堂を満たした。


「な、なんだ? 何が起こった!?」


 白に塗りつぶされた大聖堂に神官の声が響く。光が晴れた時、大聖堂の中にいたのは白き聖女と、そして彼女の正面にいた一人の神官のみであった。他の神官はすべて、影さえも残さず、光に飲まれ、消え去っていた。神官の顔が恐怖に歪み、大聖堂の床にへたりと尻もちをつく。


「こ、このような、決して許されぬぞ!」


 虚勢を張るように、裏返った声で神官が叫んだ。


「許されぬ?」


 冷たく乾いたエメラルドの瞳で、白き聖女は酷薄な笑みを浮かべた。


「世界を支え、世界を守護するこの私が、なぜお前たち如きに許され(・・・)ねばならぬ」


 カタカタと震える神官に近付き、白き聖女は殊更に優しい声で言った。


「帰って王に伝えよ。もはやこの世に聖女はおらぬと。どうかその素晴らしき才覚を以て世を安んじられよとな」


 座り込んだまま、後ろ向きに這うように下がりながら、神官はなおも叫ぶ。


「こ、後悔するぞ! 王国の精兵が、お前などすぐに切り刻んでくれよう!」

「この国に私を殺せるものなどおらぬわ! 唯一、私に比肩しうる者は、お前たち自らが追放したのだ! 己が浅慮を悔いるがいい! 遠からず訪れる終わりの時まで、ゆっくりとな!」


 神官は立ち上がり、大聖堂の入り口へと駆ける。その背を追うように、白き聖女の哄笑が大聖堂に響き渡った。




 幾度場所を変えたとも分からぬ黒き魔女の庵に、その日も訪問者は姿を現した。ただ、常ならぬのは訪れた者が白い肌の民と黒い肌の民の両方であったことだ。庵を訪れるのは人種を問わぬが、異なる人種が連れ立って現れるのは初めてのことだった。


「お前に今一度機会を与えよう。新たな聖女となる機会を。このまま森深く埋もれ朽ち果てる運命を変えてやろうというのだ。このような幸運、二度とあるまいぞ」


 王の使者を名乗る白い肌の民は尊大な口調で告げる。訝る黒き魔女に、使者は白き聖女の乱心と祈りを失った世界の窮状を説いた。凶作は飢餓を招き、疫病で倒れた人々が治療もされず道端に転がる。山は煙を噴き上げ、川は逆流し、地は揺れ、大風はあらゆるものを吹き散らせた。今まで抑圧された歪みが一気にあふれ出すように、世界は人に牙を剥いている。黒い肌の民の長は黒き魔女を厳かに諭した。


「都へと赴き、あの悪魔めを討ち果たすのだ。そしてお前が聖女となり、世の乱れを鎮めよ。これは、力持つ者の責務ぞ」


 黒き魔女は虚しい光を湛えた目で二人を見る。聖女の地位も、責務とやらも、黒き魔女の心を動かすことはなかった。ただ、目を閉じれば人々の嘆きが、救いを求める悲痛な祈りが聞こえる。世界の在り様に責めを負わぬ、ただ弱い者たちの声が。彼女にはその声を無視することができなかった。白き聖女にもこの声は届いているはず。何より信じがたいのは、誰よりも正しかった彼女がこの声を無視しているということだった。


「……分かりました」


 黒き魔女は使者たちに了承の意思を伝え、聖別された銀の短剣ひとつを持ち、都へと向かった。




 かつて入ることさえ許されなかった大聖堂の扉をくぐり、黒き魔女は中に足を踏み入れた。陽光がステンドグラスに透けて降り注ぎ、大聖堂を鮮やかに彩る。金の髪が光を反射し、まるで絵画のように幻想的な姿で、白き聖女は佇んでいた。


「なぜ、こんなことを?」


 黒き魔女は問う。白き聖女は微かに笑みを浮かべた。


「祈りで世界は救えぬと、気付いたから」


 白き聖女は天を仰ぎ、目を閉じる。


「世界から嘆きの声が聞こえる。でもこれは、世界が祈りを失ったからではないわ。私が祈りを捧げても、同じように世界は悲しみに満ちていた。なぜだか分かる?」


 白き聖女は静かに黒き魔女を見つめた。魔女は小さく首を横に振る。聖女は言葉を続けた。


「悲しみを生むのは、ただ人の営みだからよ。世界中の人々に配ってなお余るほどの実りを得ても、富は偏在し、飢える者の隣でパンが捨てられている。ある種の属性を持つ者を不当に貶め、自分たちは違うと根拠のない優越に浸り、過酷な環境を強いて嗤う。貴女がされたようにね」

「だからといって、こんな手段はおかしいでしょう? 富の偏在が、強者の弱者への抑圧が問題だとして、貴女のやり方は真っ先に弱者を犠牲にする」

「いいえ、違うわ」


 聖女は魔女の言葉をはっきりと否定する。その瞳は確信に満ち、少しも揺らぐことはない。


「聖女は強者に都合の良い仕組みを維持する装置よ。祈りの喪失を怖れ、弱者は強者に立てる牙を折られる。彼らに必要なのは安寧ではない。己が尊厳への自覚なのだわ」

「それは、命よりも大切なことなの!?」


 魔女が苦しげに叫んだ。聖女は表情を変えずにうなずく。


「ただ生きているというだけでは、『正しい』世界は永遠に訪れない」


 魔女はうつむき、固く目を閉じて首を横に振った。聖女は魔女の姿をじっと見つめている。魔女は顔を上げると、決意を込めた瞳で聖女を見つめ返した。


「考えを変えるつもりはないのね」


 魔女の声が悲しみを伴って大聖堂に広がる。


「ええ」


 聖女の声が冷酷に重なった。魔女が懐から銀の短剣を取り出す。聖女はふと、懐かしさを感じているかのように表情を緩ませた。


「あの日できなかった勝負を、今ここですることになるとはね。ようやくはっきりとさせることができる。私と貴女、どちらが優れているのか」


 魔女は唇を噛み、無言のまま聖女に向かって駆けた。聖女が軽く右手を振ると、輝く光が刃となって魔女を襲った。魔女は短剣を横に払う。光の刃が短剣に触れると、ガラスが砕けるような澄んだ音を立てて細かな破片へと変わり、空気に溶けて消えた。魔女が聖女の目の前に迫る。聖女が両腕を広げた。魔女の持つ銀の短剣が、吸い込まれるように聖女の胸を、貫いた。魔女の目が驚きに見開かれる。


「なぜ?」


 黒き魔女は震える声で問うた。短剣の刃がその身体に届く前に、聖女は魔女を消滅させることができたはずだった。聖女の純白の衣がみるみるうちに赤く染まっていく。聖女が広げていた手を魔女の背に回した。魔女の目から一粒の涙がこぼれる。


「……なぜ?」


 聖女は不思議そうに首を傾げる。そしてふと、何かに思い当たったように、笑った。


「……貴女を、泣かせたかったのかもね」


 白き聖女は遠くを見つめる。魔女は呆然と短剣を引き抜いた。傷口からおびただしい赤が床に広がる。ぎこちなく手は開かれ、からん、と乾いた音を立て、銀の短剣が床に落ちた。血に塗れたその手は小さく震えている。聖女の瞳が光を失い、魔女にその身体を預けた。魔女は聖女を抱きしめ、支えきれずに床に膝をついた。


「――――――!!」


 声にならぬ悲鳴を上げ、魔女は天を仰いだ。その両目からはとめどなく涙があふれる。彼女は今、気付いたのだ。己の過ちに。本当に大切なものを、自ら失ってしまったことに。光満ちる大聖堂に静寂が降り、黒き魔女はただ、声もなく泣き続けた。




「見事、役目を果たされましたな!」


 わざとらしい称賛の声が大聖堂の静寂を破り、黒き魔女は声の主に顔を向けた。王の使者を名乗った男。聖女に仕える神官だという男。満面の笑みでゆっくりと歩みを進めるその男は、後ろ手に短剣を隠している。


「貴女様なら必ずや成し遂げると信じておりました! さあ、その愚かな女の首を広場に晒し、新たな聖女の誕生を人々に知らしめましょうぞ!」


 黒き魔女の虚ろな金の瞳が男を見つめる。彼女の前までたどり着いたとき、男は短剣で魔女の喉を裂くのだろう。御しえぬ道具など必要ない。代わりの聖女などいくらでも用意できる。彼らにとって必要なのは、何も考えずひたすらに祈り続ける従順な『聖女』だ。


「……お前たちに、祝福を与えよう」


 黒き魔女はぽつりと言葉を放った。男の足が止まる。


「……祝福?」


 訝るように眉をひそめた男に、魔女は小さく頷いた。


「この世界を解き放とう。『聖女』という呪いから。奇跡も魔法も、すべて私が連れて逝こう。これより世界はただ、己の力のみが意味を持つのだ。もはや祈りを失うことを怖れて沈黙する必要はない」

「な、何を言っている! そのようなこと、できるはずが――」


 男の狼狽を意に介さず、黒き魔女はうわごとのように言葉を続ける。魔女の足元から光を通さぬ真の闇が溢れ、広がる。


「これは福音だ。望むものあらば己で叶えよ。理不尽のあらば己が踏み抜け。奇跡も魔法も失せた世界で、人よ、お前を阻む者もまた、ただ人に過ぎぬのだ」


 溢れだす闇はその勢いを増し、男の悲鳴を飲み込んで大聖堂の外へと広がっていく。城を飲み込み、町を飲み込み、国を飲み込み、ついには世界の一切が闇に沈んだ。この世から光が消える。


 貴女を失った世界など――


 そして唐突に、闇は消えた。白き聖女と、黒き魔女と、奇跡と魔法の力を道連れにして。




 聖女の祈りに依存した世界は、聖女を失ってあっけなく崩壊した。実りを約束できぬ王は玉座を追われ、在位中の傲慢の報いを受けた。飢えで多くが死に、病で多くが死に、災害によって多くが死んだ。それでも人は、数多の犠牲の上に、奇跡にも魔法にも頼ることなく生きる術を見つけ、探しながら今日を生きる。


 最後の聖女の最後の望みも、

 最後の魔女の最後の想いも、

 誰にも顧みられることなく――

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当に本当に、感動しました。 こんなに真剣に物語を読めたのは、久しぶりです。 聖女と魔女の物語、忘れられません。 本当に、ありがとうございました。 [一言] ファンです。
[良い点] こんばんは。 素晴らしい物語でした。 読ませていただき、本当にありがとうございました。
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