その聖女は身分を捨てた【改訂版】
おひさしぶりでございます。
明日、病院行く前に頭の中を少し空にしたくて
書きましたん。
ゆるゆるの世界観で失礼しまする。
「誤解させたというなら謝ろう」と王太子殿下が尊大に言う。
とても美しい人を、その腕の中に囲い込んで。
日課となりつつあった神殿での祈りに向かう最中、人々の行き交う王城の正面出入口でいきなり呼び止められて罵られ始めたので、イリスは何が起こったのか理解するのに時間が掛かってしまった。
お陰で黙って、茶番の様な断罪を大人しく受けることになってしまったようだ。
それもこれも、つい先日会った時には笑顔で自分を褒めてくれていた王太子殿下の変わりようについて行けなかったせいだ。
『イリスは凄いな! これほどの奇跡を起こせる祈りの力なんて初めてだ』
綺麗な顔に輝くばかりの喜色を浮かべて褒めてくれた人が、今はその綺麗に整った顔を不快げに歪めてイリスを見下ろしている。
「聖女としての君はとても有能で、頼りにしていた。いや、今だってしている。しかし…高位貴族であり私の婚約者でもある彼女を害するのは、見過ごすことはできない」
一体、自分が何をしたというのか。
むしろ、何かをされていたのは私の方だとイリスは内心むかむかしていた。
傍で狼狽えた様子でうろうろするだけの若い神官にも苛立つほどだ。
王太子殿下の御婚約者たる彼女と廊下で顔をあわせる度に、彼女の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けさせられた。しかも、廊下の端に寄り、頭を下げている私の頬に彼女の持つ扇や小さな小さなレティキュールが掠めるように弄っていく。時には実際に当たって頬にちいさく擦り傷を作る事すらあったほどだ。
イリスに何かあったら、この国を守る結界が壊れるかもしれないと思わないのだろうか。
むしろ平民出身の聖女に守られているという苛立ちがそれをさせているのかもしれない、傷をつけられようとも自らの力で幾らでも治せるのだからと、誰にもその事について訴えることをしてこなかった結果が、今のこれかと思うとイリスの心に虚しさが募る。
それでも、こんな無実の罪を黙って受け入れることだけはできない。
「私ごとき平民が、尊きお貴族様の御令嬢を害するなど、できる訳がございません」
冷静に、客観的に受け入れて貰えるであろう事実を述べる。
「嘘吐きね! 聖女であることを笠に着て、散々わたくしを『公爵令嬢の癖に役立たず』と貶しめたではありませんか!」
「平民でしかない私が、尊きご令嬢様に対してお声がけするなど、できる筈もありません。そもそも申し訳ございませんがお嬢様のお名前も爵位も今まで知りませんでした」
顔しか知らない。まぁ一応、王太子殿下の婚約者だってことは知ってた。
私に辛く当たる姿をみていた王宮侍女たちがひそひそと噂しているのを小耳に挟んだだけだけど。
今も、物見高く周囲に居合わせた彼女たちが、頭を下げたまま興味津々の様子でこの茶番劇の一部始終を見逃すまいと聞き耳を立てているのが判る。本当に、くだらない人達だ。
「それと、私の事を『下賤な平民ごとき』と呼んでいるのは聞いたことがありますが、それだけです」
私の言葉に、王太子殿下が一瞬目を張り、腕の中の美しいご令嬢の顔を見遣る。
「う、嘘です。酷いわ。そうやっていつも彼女は、わたくしを…王太子殿下の婚約者であるわたくしについての嘘を言って回っているのです。貴方の愛を、掠め取る為に」
わぁっとご令嬢が王太子殿下の胸元へと顔を寄せる。
泣いているようには見えないけれど、でも、美人に身も世もなく縋りつかれるのは男性からしたら自尊心を擽られるものがあるのだろうなと思う。
いつも引き締まった顔をして有能さで知られている王太子殿下も、今はどこか緩んだ様子で、自身へと縋りついている美女を「安心しろ、俺の心はお前にしかない」と宥めている。
それを、見ている内にどんどん頭と心が冷静になっていくのが判った。
ある日突然、この世界各地に無数のダンジョンが出来たのは今から18年前のことだった。
その日から、この世界には魔物が溢れるようになり、人々は武器を揃え戦うことを覚えた。
それでも最初の数年は、スライムやゴブリンといったこれといった武器を持たない一般人でも倒せるような低級魔獣ばかりだったのでそれほど大きな問題だとは思われていなかった。
それが年を追うごとに魔獣の種類は増え続け、段々と武器を持っている程度では倒せない、高位魔獣が現れるようになってきたのだ。
魔獣狩りの為に新たな騎士団が編成され、冒険者ギルドも対魔獣特別部署を作りだしたのもこの頃だ。
しかし、武器を持ち訓練を重ねようとも単なる人の身では無理があり過ぎた。
魔獣は年々その数を増やし、強さも増していったからだ。
小さな山村は捨てられ里山は寂れ廃れた。
住居や仕事を、家族を失い、その身を野盗に堕とす者も増えた。
国と言わず世界全体が荒廃していく中で、人々はその救いを神に求め、祈りを捧げた。一心不乱に。
そうしてある日、この国の大神官が啓示を受けたのだ。
大災害の日と呼ばれたダンジョンが発生したあの運命の日、その新月の夜に生まれた、銀の髪を持つ少女を探せ、と。
国中と言わず世界中から探しだされたその少女は、王都近郊の街でお針子をして暮らす少女だった。
何故、いきなり王宮に連れてこられたのかも判らないまま、王と謁見させられたイリスは両側を兵士たちに囲まれて、生きた心地がしなかった。
仕事中にいきなり連れてこられたので、指にはまだ刺繍用の指ぬきすら握り込んだままだ。
イリスは行商人をしていた両親を魔獣に殺されて途方に暮れていた所を、忙しく働く両親の邪魔をしないよう一人で時間を潰しつつ、売り物を増やせると覚えた刺繍の腕を買われて、10にも満たない歳から一人で街で生きていた。
幼い手ではそれほどの仕事量がこなせる訳はない。
それでもその丁寧で美しい刺繍は店では人気があり、イリスの手に金は入らなくとも高く売れる商品ではあった為、住み込みで雇って貰えたので寝る場所や食べる事には困らずに済んだ。
それでも、ぜいたくな暮らしができる訳でもなく、温かな親の庇護も失い、友人を作る暇すら与えられずに休みなく毎日刺繍を続けるだけの生活に潤いはなく、そこにあるのは悲しみと、母と父が生きていてくれたらという切ない思いばかりだった。
だから、王様だけではなく謁見室にいた大神官様から「魔獣を退けるため祈りを捧げよ」と言われた時、心からその想いを込めて祈ったのだ。
その時、彼女から発せられた純銀色の輝きは、王宮を突き抜け王都全体を包み込み、ついには不思議な結界と呼べるものとなったのだった。
これは今でも王都を包み込んでいる。
この結界内には、魔獣は一切入り込んでくることはできず、更に魔獣から受けた傷も毒をも消し去り、魔獣との戦いに疲れ切った人々の憂いを晴らしたのだ。
この日から国中を廻り、各地に結界を張り巡らせ、戦いに傷ついた人を癒していく日々が続いた。
ダンジョンが消えることは無かったし、魔獣は相変わらず結界の外には溢れていたけれど、結界に戻りさえできれば怪我も治るということもあって、人々は魔獣のいる暮らしを受け入れだした。
国内に結界を張り終えた後、請われるままに近隣諸国をも周り終わり、ようやく再びこの王都へと戻ってきたのがひと月前だ。
5年もの月日が掛かったけれど、聖女として仕事をやり終えたという満足感がイリスの中で強かった。
この国の貴族たちにも、その思いはあったのだろう。
聖女の仕事は終わったのだ、と。
イリスがこの国を離れていた年月も、一度張られた結界は消えなかったし、人々はこの少し不便な生活を受け入れていた。
だから、今、こうして帰国して、聖女として王侯貴族よりもある意味高位の存在として近隣諸国からすら畏怖され尊敬を受けるようになった平民の女が鼻につくようになった、のだと思う。
華やかな凱旋パレードに凱旋を祝う祝賀会も終わり、王宮の一角に与えられた部屋から毎日神殿へと向かい、神へと祈りを捧げる以外にすることのない生活をしていたイリスは、自分が持て余されていることを感じていたこともあり、お針子としての生活に戻るタイミングを探っていたのだが。
どうやら、思い切るのが遅かったらしい。
「この国の王太子である俺の婚姻相手とは、いずれこの国の国母となる女性である。その為の教養も身に着けていない者に、その栄誉を与える事などできないのだ。それ位は判るだろうと思っていたのだが」
やれやれといった風情で、どや顔で首を振る王太子殿下にイリスは虫唾が奔る思いがした。
だから、思わずそのまま口にしてしまったのだ。
だって、淑女ではないのだから。教養のない、平民らしく思ったままを口にした。してしまった。
「大丈夫です。私が王太子殿下をお慕いしているなど、そのご令嬢の勘違いでしかございませんから」
にっこりと笑って伝える。
「な?!」
抱き合ったままの男女は、驚愕といわんばかりの表情で悲鳴のような批難の声を上げた。
それをイリスは無視して、滔々と説明に入る。ちょっと惚気も入っているかもしれない。
「私は、私が世界中に結界を張って回る為の旅の間、私が作った結界の中で笑って暮らしていた王太子殿下ではなく、何度魔獣から手傷を負わされようとも私を守ってくれた御方をお慕いしておりますから」
イリスは、その方の事を思うだけで、頬が、胸が熱くなる気がする。
実際に頬は艶やかに色付き、うっとりとした熱に潤んだ瞳で彼の人について話し出したイリスを、ふたりは呆然と見つめ、不意に自分が蔑ろにされていることに対して怒り出した。
「なんたる侮辱だ! 王太子である俺よりも、王都の守りから外された平民出身の魔獣騎士団ごときが上だと抜かすか!!」
王族付きとして常に傍に控える近衛騎士団である第一騎士団は高位貴族出身者が在籍しているいわば名ばかり名誉職ともいえる騎士団で、王都を守る第二騎士団は爵位関係なく実力と政治力を兼ね揃えた実力者揃いの騎士団、東西南北の国境を守る第三騎士団は実践を考慮した実働部隊とも言える荒くれ者の集団である。とはいえ、その身分は貴族位の二男三男坊がほとんどで、継ぐ爵位もなく騎士爵として身を立てるべく研鑽してきた者の集まりだ。ここまでは正規騎士団とされている。
そうして、第四騎士団とは、あの大厄災の日によって作られた対魔獣専門の遊撃部隊である。死傷者が出る事前提で作られた平民出身ばかりで構成された騎士団だった。
国から武器を与えられ、訓練を受ける事もできた。が、それだけだ。
国中に点在する小さな町や村を守ることを専任され、例え魔獣を倒しても結界内に戻る前に命を落とす者も多い。それでも、国を守りたいと志願してきた平民たちが集う場所である。
国全体を守り切るには小さすぎるその騎士団の団員たちは、結界に傷を癒しきられる前に再び出撃することも多く、その身は醜いケロイドだらけで、『魔獣が魔獣を倒している』とか『魔獣騎士団』と揶揄されることも多いが、本人たちはその言葉を馬耳東風とばかりに聞き流していた。
対魔獣戦について誰よりも詳しいのは自分たちで、民を守っているのは自分達だという自負があるのだ。
まぁそのケロイドや古傷も、私がすべて治したので皆綺麗に戻っているのだけれど。
聖女が諸国を廻って結界を張る旅に出ると決まった時、その護衛にどの騎士団から人員を出すのか議論になった。
戻ってきた暁には、これ以上の名誉あることはないだろう。
しかしいつ戻れるかも判らない旅路だ。それどころか生きて帰れるかも判らない。
なにしろ怪我であればどんな傷も治せる聖女が側にいようとも、死んでしまっては何もできないのだ。
つまりは本当の命がけの旅である。
いつ襲ってくるか判らない、粘着くような臭いを持つ魔獣と相対して戦うことになる。それもあまり大人数で迎え撃つ訳でもないのだ。
となれば、自然、我先にと手を挙げる者はいなかった。
三日三晩、相手の出方を窺い合った結果、その護衛役となるよう王より直接勅命を受けたのが「誰よりも魔獣の戦いを知るであろう」第四騎士団だった。
彼らは誰一人欠けることなく、それどころか旅の途中に聖女の力に心酔した者達が協力を買って出てくれたこともあり人数を増やして聖女イリスと共にこの王都へと帰還を果たしている。すでに国中を守るべく第四騎士団へ戻っていっているが。
「平民とか貴族とか関係なく。命を掛けて私を守って下さった方をお慕いしてどこがおかしいのでしょう」
「ふん。命を掛けてもくそもあるか。何度怪我を負おうとももなにも、聖女がすぐ側で癒しながらの戦いではないか。幾らでも怪我ができるようなそんな戦いに価値を見出すなど」
「幾ら傷を治すことが出来ようとも、その傷を負う度に感じる痛みや、強大な敵と向かい合う恐怖は消えません。何度でもその身に降りかかるのですよ? 王太子殿下には、それがお分かりにならないのですか」
心の底から湧き出る不快さを隠すことなく、イリスは眉を顰めて批難した。
「なにが強大な敵だ。武器を持っただけの平民にとってはそうかもしれんが、俺の様に幼い頃から鍛えた者からしたら大したことは無い相手だろうよ」
王太子は、片眉を上げて馬鹿にしたように言い捨てる。
その自信に溢れた言葉に、王太子の婚約者はうっとりと見上げて「さすがですわ。王太子殿下、どうぞ非力でひ弱なわたくしをお守りくださいましね?」と甘えた声を掛けた。鷹揚に頷くその小芝居に、イリスはすっかり呆れ顔だった。
「では、試してみればいい」
つい本音が口を吐いて出た。
ご令嬢の言葉に気を大きくしていた王太子殿下はイリスの言葉に対して激高して、自分の近衛に向かって声を上げた。
「この不吉な文言を吐いた不敬なる平民イリスを捕らえよ!」
しかし、いくら王太子の言葉であろうと神より遣わされた聖女を捕らえろといわれてすぐに身体が動くものではない。自身ではなくとも、結界によって命を救われ怪我を癒された友人知人のいない者は、近衛であろうと騎士団にはいないのだから。
自身の言葉に従うことに躊躇する近衛たちに向かって、王太子が言葉を重ねた。
「すでに世界中に結界は成された。その結界はこの者がその場にいなくとも消えずに存在している。つまりは作りだすスイッチでしかないこの者を、いつまでも敬う必要はないということだ。むしろ不敬な態度を取る平民には罰が必要である!」
貴族制度を揺るがす大罪だと騒がれて、高位貴族でもある近衛たちの身体が躊躇いながらもゆるゆると動き出す。
「申し訳ありません、聖女様。王太子殿下の御言葉に従わない訳にはいかないのです」
そんな言葉を免罪符代わりに呟きながらイリスに向かって手を伸ばした。
あと少しで男たちの手がイリスに触れる、周囲にいた誰もが固唾を呑んでその時を待った。
その瞬間、黒い影が走り寄り、その大きな背中にイリスを庇った。
「これはどういうことですかね? 幾ら待っても出てこないと思えば。聖女様に無体を行おうとするとは…あぁ、あれですね? 実は、ここにいるのはお貴族様ではなくて、魔獣に心を乗っ取られてるってことですね」
「なんだと?!」
「魔獣は退治しないといけないですねぇ?」
にやりと笑った男が、その太い手に幅広で武骨な剣を握り、構えを取る。
それは華麗な剣技とは無縁の構えだったが、その男が発する殺気によるものなのか、近衛たちが後ずさった。
王太子も、その婚約者も、目の前で構えを取る男の迫力に押されて、その綺麗な顔を蒼褪めさせていた。身体が小刻みに揺れ、震えているのが判る。
「トール、いいのです。剣を収めてください」
その緊張した場を治めるべく、そっと優しい声が掛かる。
「……聖女様」
「ありがとう、トール。でもいいのです。どうせ私は聖女の名前を返上して市井に戻るつもりだったんです。そろそろ戻らないと刺繍の腕が落ちちゃいますからね」と、えへんと告げられた言葉に、その場にいたイリス以外のすべての人間が驚きを隠せなかった。
「聖女様、お針子に戻るつもりなんですか?」
「だって、一生聖女でいられる気がしませんし。すでに自分でもこの地位を持て余してるくらいですもん」
へらりと笑っていうイリスに、トールと呼ばれた男は苦笑交じりにため息を吐いて構えを解いた。
「聖女としての功績を掲げて、一生遊んで暮らしたって誰も反論できないだけのことを聖女様は為されたと思うんですけどねぇ」
ぼりぼりと頭を掻きながら、それでもイリスのやりたいといったことを止めるつもりはなさそうだ。
「んー。判りました。では、行きましょうか? どこまでもお供しますよ」
トールは、軽く腰を落として手を差し出す。
その姿は平民にしては様になっている。
「ありがとう。よろしくね」
差し出された手に、そっと手を重ねたイリスは嬉しそうに笑って、そのまま王宮を後にした。
王都で旅に必要な物を揃えて門を出る。
入るのは難しくとも、出るのは意外と簡単だ。特に、冒険者ギルドで発行して貰った身分証を持っていれば。
「いつの間にそんなもの取ったんですか?」
馬上で、キラキラするそのカードを掲げて嬉しそうに笑うイリスに向けて、トールが訊ねる。
「凱旋した時、名誉SSハンターのギルドカードと一緒に、内緒でお忍び用だといってBランクのカードも貰ったの! イリスを捩ってIリス名義ですって」
ギルド長も粋なことをしてくれるわよね、と笑うイリスはとても嬉しそうだった。
「あー。あのおっさん、さすが元お貴族様なだけはあるな」
なるほどね、と苦笑したトールは馬の脚を止めてすでに小さくなった王都を振り返った。
「トール? 早くしないと、次の街に着くまでに日が暮れちゃうわ」
トールが馬を止めたことを不審に思ったイリスが声を掛ける。
それでもなかなか馬を動かそうとしないトールの下へとイリスは近寄った。
どうしたの、と声を掛けようと思ったところで、トールが呟くように小さな声で話す。
「聖女様は、元の街で単なるお針子に戻れると、本気で思っているのか?」
「もちろんよ。これでも私の刺繍は人気商品だったんだからね!」
自信ありげに答えるも、実際のところその言葉は虚勢を張ったものでしかなかった。
聖女としてあの街を訪れて結界を張った時、勤めていたドレスメーカーの女主人が聖女をこき使っていたとして扱下ろされていたことを覚えていたからだ。
もしかしたら、あの店はもう無いのかもしれない。その不安から王宮を下がる決心が付かなかったのだから。
でももうあの王城にはいられない。そう決めたことに後悔はない。
それでも、やはり店に戻ることが出来るのかどうか、不安はある。
「なぁ、お針子に戻るとしてもよ。俺の、……俺の国に、来ないか?」
「え?」
トールと出会ったのは、この国の隣の隣の隣。西ノ海に面した小さな国との国境でのことだった。
橋の壊された大河をなんとか渡ろうと急ごしらえの筏に乗って行こうとした時、水の中から現れた魔獣に襲われあわやという聖女一行を救ってくれた冒険者、それがトールだった。
後に、地元のハンターだと自己紹介した彼は水棲魔獣との交戦をものともせずに勝利を手中に収めたのだ。
その後、貧弱な筏で渡ろうとしたことを盛大に叱られ、仕方なしに事情を話すとそのまま護衛団に加わり、そのまま旅に付いてきてくれたのだ。第四騎士団が王都を去り、大切な家族の下へと帰っていっても、そのままイリスの側に残ってくれた。
そうして、今もこうして傍にいてくれる。
「このまま、あの王太子たちが市井に戻った聖女様を放っておいてくれる気がしないんだ。絶対になにかちょっかいを掛けてくる」
ありそうだ、とイリスは表情を暗くした。
自分がその迷惑を蒙るだけではない。きっと傍にいる人達にもその迷惑を被せることになりそうな気がする。そんな容易に想像できる暗澹たる未来を思い描いて、イリスは眉を顰めた。
「だからさ、俺の国に来いよ。あいつらは俺の国がどこか知らないし。第四騎士団の奴等は知ってても、とぼけてくれると思うんだ」
一緒に死線を潜り抜けた仲間だ。
聖女であるイリスを守るために命掛けで旅に付いてきてくれた。
それは大切な愛する人の命を救ったイリスへの恩返しだったり、大切な家族の未来を守る決意による物だったり様々だったけれど。でもどれも尊くて、誰もがイリスにとって信頼を寄せるに足りる同志だった。
彼らが聖女の情報を王太子達に売るなどありえないだろう。
「それでさ、俺の国でさ、俺と……俺の嫁さんになってくれないか? 結婚してくれ」
「……!!!」
トールは歴戦の冒険者とは思えないほど自信なさげに顔を俯けたままその首まで赤く染めて、イリスの返事を待った。
しかし、なかなか返ってこない返事に、だんだんと諦めが入る。
(……やっぱり駄目か。あの美形王太子にすら靡かなかったんだもんな)
ふぅ、と諦めと共に大きく息を吐き、呼吸を整える。
そうしてイリスの顔を振り向き、何でもない風を装って、これ以上気まずくならないよう声を掛けようとした。
その、イリスが真っ赤な顔をして泣いているのを見て、焦りまくった。
(泣くほど、嫌だったのかよ…)
ずどんと地の底までトールの気持ちが落ちる。
視界が昏くなり、眩暈で身体が崩れ落ちそうだ。
そこに、どすんと何かが飛びついてきた。
慌てて目を向ければ、トールの首にしがみついて泣いているのは愛しいイリスで。どうやら強引に馬上から飛び移ってきたらしい。
「おい、危ないだろうが!」
「…にして」
「?」
「わたしを、トールの、およめさんにしてください!」
うわーん嬉しいー! と泣きつかれて、トールは目を白黒させた。
想いを確かめ合い、その幸せを噛み締めていたかったのはお互いに山々だったが、それでもここで野宿するのはよくないだろうという常識も持ち合わせていたので馬を進めながら二人でこれからを話し合う。
「……イリスは、貴族が嫌いか? 貴族になりたいと思わなかったのか?」
「んー? 別に貴族だから嫌いとかはないけど、貴族になりたいとは思わなかったなぁ」
面倒臭そうだしーと、イリスはぺろりと小さく舌を出して笑った。
「……面倒臭そう、か。聖女様がねぇ」
「聖女じゃないでしょ?」
「…イリス」
にっこりと笑う恋人に、トールは自分の人生は恋女房に尻に敷かれるものになるのかと苦笑いする。それでもそれが満更でもなく思える。
「あのね、私はトールと一緒にいられるなら、他はどうでもいいのよ」
きっぱりと告げられた言葉に、思わず抱き寄せたくなったけれどお互いに馬上の人だ。
街に付いたらどうしてくれようと、トールは胃の中で暴れる何か熱いものを必死で抑え込んだ。
そんなトールに気付くことなく、イリスはその瞳を悪戯っぽく煌めかせながら言葉を続ける。
「だって、SS級ハンターの私とS級ハンターのトールが組めばできない事なんて何もないと思わない?」
イリスはそう言うと、トールに向かって、ひと際綺麗な笑みを見せた。
(やっぱ敵う気がしねぇ。まぁ尻に敷かれるのもオツな人生だよな)
*******
「聖女が出て行った?」
その報告が国王へ届けられたのは、他国への聖女派遣を承け入れた見返りとして近隣諸国から差し出された謝礼の分配について財務大臣たちと共に話し合いの席に着いている時だった。
「そうか。聖女が自身で出ていかれたのなら我らはその気持ちを受け入れるべきであろう。静かに暮らしたいのだろう」
慈悲深くそう指示を出した国王に、その場で同じ卓を囲んでいた大臣たちが追随した。
「そうですな。聖女と言っても元は平民です。身の程を知るのはいいことです」
「我が国の陛下の、なんと慈悲深いことか」
口々になんと言おうとも、全員の言葉の裏にあるのは『分け前が増える』だ。
そして。聖女が帰還してからずっと平民どもの聖女への傾倒に頭を悩ませていた神殿にも恩を売れるというものだ、と国王は満足げに大臣たちの声を聞いていた。
*******
「ねぇ、同じ部屋で良くない?」
聖女としての旅とは違い最短距離で移動していいとはいえ、前の旅では1年以上掛かって辿り着いた道のりだ。
ハンターとして稼ぐ手段は持っていても、いつ追手が来るとも限らない今は出来るだけ節約しておきたいとイリスは思っていたのに、なぜかトールが頑なに「駄目。絶対に二部屋」と主張を崩さない。
「夫婦になるんだから、いいじゃない」と頬を膨らませるイリスの頭をトールは大きな手でポンと押さえ、その耳元に囁いた。
「だってお前、同じ部屋になったら大変だぞ、お前が。次の日起きれると思うなよ?」
「?!」
真っ赤になって狼狽えるイリスにトールは笑って「急ぐ旅っていうなら猶更だ。何連泊する破目になるか」と追撃を噛ました。
*******
その報告は最初、王宮にいる誰からも信じられることはなかった。
「誤報、誤記ではないのか?」
王都の結界は勿論、王都近郊の都市においても結界が機能しなくなったという報告はされていない。
今も行商などで街を行き来するもの達が魔獣に襲われ怪我を負うことはあっても、ひとたび街を覆う結界の中へと逃げ込むだけで、その怪我は消え去る。
最近は馬車の高速化が進み、戦うより逃げ切ることを心掛けるようになってから魔獣による被害は一気に減っていた。
だから、こんなことはありえないのだ。
国境を守る騎士団員が、栄えある王国第三騎士団が訓練中に魔獣に襲われ、その部隊を全滅させてしまうなど。
「よほど結界から離れた場所で訓練を行っていたのか?」
「いえ、報告書には砦前の平野にてとあります。私も大厄災の日より前に視察に行ったことがあります。のんびりとした平地になっているので大規模訓練に向いているのです」
報告する将軍自身がどこか狐につままれたような気分でいる。が、事実は事実として報告せねばならない。
「砦前に広がる平地で訓練を行っていて、そこを魔獣に襲われたとしても、だ。何故結界に戻らなかったのだ? あの砦にも結界はあっただろう」
「それが…あったと言えばあったのですが……」
どんな敵に対しても恐れることなく勝負を挑んできた歴戦の勇士たる将軍が、オロオロとした様子で答えに窮しているのを見て、国王は不快だとばかりに激高した。
「ハッキリと言え!」
「結界が機能しなく…なったようなのです。貴族、限定で」
その言葉は、喉の奥に詰まるように小さな声で告げられたにも拘わらず、その議場にいたすべての耳に届いた。
恐怖と共に。
*******
大群の魔獣達に襲われて、命からがら逃げ込んだ結界内。
しかし、完全なる安全地帯であった筈のそこに飛び込んだ最初の負傷者の声は、悲痛そのものだった。
「傷が治らない?!」
これまではそこに入ればそれだけで、どんな傷であってもすぐに淡い光が集まり傷を癒し始めてくれる筈だった。
それなのに、幾ら待っても光は集まらず、流れ出した血は止まることもなかった。
誰の傷も癒えず増え続ける負傷者の数。
剣を持って魔獣と戦っていた騎士達にもその異常が伝わると、魔獣との突然の戦闘開始以上のパニックを引き起こした。
どんなに怪我をしても、その時点で結界に逃げ込めばいいだけだ。
怪我も治り再び戦えるし、最悪結界内に閉じ籠れば死ぬことは無い。
そう思っていたからこそ落ち着いて戦闘に向き合えていたのだ。
結界の治癒効果が無くなってしまっては、その前提条件が抜け落ちる。
「総員結界内に避難しろ! 命を落とすな」
まずは浮足立った気持ちを立て直してから仕切り直せばいい、そう考えた指揮官が叫ぶ。
それに従い、一人また一人と結界内へと駆け込んでいく。
しかし。そこで更なる誤算、悲劇が襲う。
「な…なん、で……」
涙を浮かべて見上げる悲壮な顔に、粘着いた臭い唾液が滴る。
見下ろしているのは魔獣。
その魔獣が立っているのは、安全地帯である筈の結界内であった。
「魔獣が、魔獣が砦に! 結界内へ侵にゅ、うぎゃあああぁぁ!!!」
バシュッ
その騎士の、仲間へ危機を伝える言葉は、最後まで言いきることはできなかった。
*******
「その報告は、どこから入った? 全滅したのに、誰がしてきたんだ」
「結界内に侵入してきた魔獣は、なぜか貴族位に在る者のみを襲い、下働きの平民には見向きもしなかった、と」
バン!
国王が卓を叩いて報告を遮る。
「そんな馬鹿なことがあるか! 魔獣には平民と貴族を判別することができるというのか? 何故そんな判別が必要なのだ?!」
しかし、その国王の疑問に対する答えを持っている者はこの場には誰もいなかった。
*******
「うーん、こっちの方が安くて可愛いけれど、素材と縫製はこっちの方がしっかりしてて良いわね」
王都を出る時は慌ただしく最低限の装備を揃えて旅立った為に、イリスは聖女のローブからトールが調達してきた簡素な平民向けの旅装服に着替え、その上からトールから借り受けた旅用のマントを巻き付けただけで過ごしてきたのだが、国境も超えたことだし、そろそろ冒険者らしい装備を揃えることにした。
ついでに、偶にはゆっくりと街歩きでもしようと、ふたりで一緒に街へと出る。
まずは用事を済ませようとやってきたギルド御用達の防具屋で、イリスはその瞳をらんらんと輝かせて女性冒険者用の古着を前に息巻いていた。
すでにかなりの時間をここで過ごしているが、その瞳の輝きはまったく鈍っていない。
「なるほど。こっちの服はポケットが多いのね。それに袖口を絞れるようになってるなんてポイント高いわ」
むぅと頭を捻りながら、よりお得でこれからの旅に向いた服を探し出すことに対するイリスにはなにやら執念めいたものがあり、横で立つ店員も口を挟むことを躊躇するほどだ。
トールは、そんなイリスを興味深げに見つめていた。が、他にも用事はあるし、そろそろ引き際だろうと店員に声を掛けた。
「奥さんが手に持っている服、全部くれ」
「お買い上げありがとうございますー! 太っ腹な旦那さんをお持ちで羨ましいですぅ」
ニコニコ顔の店員に、両手で持っていたホーンシープ革でできたワンピースとベスト付きのシルバーウルフのなめし革ツーピースと、目の前に置いてあった厚手の木綿のワンピースその他をささっと回収していく。
「あぁっ。そんな、まだ吟味中だったのに! というか、他に靴とかいろいろ買う物があるのにぃ」
「他に欲しいものがあればそれも買えばいい。S級ハンターの財力を舐めるなよ」
それ位の贅沢はさせてやれるんだと笑うトールに、イリスはちょっと困った顔をした。
「私、ちょっとしかお金持ってないよ。トールにお返しあげられないのに」
しょげた様子でイリスがそう呟く。その姿に苦笑したトールは、片眉を上げて問いかけた。
「イリスと俺は、所帯を持つんだ。同じ財布で何が悪い」
そのきっぱりとした物言いに、イリスは言葉を詰まらせる。
父と母を喪ってから、聖女になってからも、仲間はいても誰かの特別になったことはない。ある意味ずっと一人で生きてきた。
これからもずっとそうなのだろうと思っていた。しかし。
「……あの」
「イリス。俺はお礼を言われる方が嬉しいんだがな?」
「……ぁりが、とう」
イリスは、お礼を消え入りそうな小さな声でしか伝えられなかったというのに。
御礼を言われたトールが満面の笑みを浮かべて「おぅ!」と応えるのを見て、イリスの胸の奥が熱く騒めく。
(私、トールのこの笑顔を見る為なら、どんな事でもしちゃうんじゃないかしら)
*******
「聖女」
それを口にしたのが誰かは判らない。
しかし、誰かが祈るように口にしたその名前に、その場にいた誰もが縋るように叫び出した。
「そうだ、聖女はどこだ!」
「この緊急事態に聖女は何をしているんだ!」
「聖女をはやく連れてこい!!」
その命令に従って、すぐさま聖女に迎えが出された。
すぐに叶うと思われたその命は、しかし果たされることは無かった。
*******
「えへへ。どうかな?」
照れくさそうな顔をして、イリスが買って貰ったばかりの服に着替えて出てきた。
丈夫なシルバーウルフなめし革で出来たワンピースの留め具には花の紋様を模った型押しがされており、下に着た木綿の編み上げシャツも柔らかなオレンジ色をしている。
聖女らしさのないその姿は、代わりにそこかしこに娘らしい華やかさが添えられ、イリスの銀色の髪にとてもよく映えた。
「可愛いけど、ちょっと物足りないな?」
褒めて貰えるとばかり思っていたイリスの顔が一瞬で曇る。
しかし目線を下げてしまったイリスの前にトールが跪いてその手を取った。
「うん、これで完璧だ」
「!!」
するりとイリスの指へと嵌められたのは、金の指輪だった。
「あー。ちと緩いか。すまん。国に着いたら直そう。そうだな、それまではこうしとくか」
折角はめて貰ったそれが再びイリスの指から勝手に抜かれる。
「っあ……」
与えられた途端、それを奪われ愕然としているイリスの前で、トールはごそごそと作業を終えると満足そうに立ち上がった。
そのままイリスの後ろに回り込み、そっとそれを首に掛けて結んだ。
「無駄に重いしサイズあってない状態だと落としかねないからな。俺の国に着くまでは、そうして身に着けているといい」
革の紐で結ばれたそれを手に取り、イリスは再びその金の指輪を日に翳した。
ズシリと重いそれには、なにやら厳めしい紋章の様なものが印字されており歴史を感じさせる。
「祖母ちゃんから、『いつか好きな女が出来たらやれ』って貰い受けたんだ。古い指輪であれなんだけど貰って欲しい」
「そんな大切な物、私が貰っていいの?」
「お前に持っていて欲しい。っていうかさ、俺の嫁になるイリス以外の、誰にやれっていうんだ」
呆れたような言葉を口にしながらも、トールの瞳はこれまで見たどんな時よりも甘く蕩けていた。
「ありがとう。一生、大切にする」
「一生大切にすんのは、指輪だけか?」
朝から甘く蕩けるような顔をしたトールに問い掛けられて、イリスの目線が泳ぐ。
その姿をトールはたっぷりと堪能した。
そうして、じっと見つめながらその言葉を口にする。
「俺の国に着いたら、式を挙げよう」
ばっとイリスはトールの目を見る。
そこにあったのは真摯な、真剣な瞳。
「俺は、一生イリスの事を大切にするから。覚悟しておくように」
返事は? と訊かれたイリスはただ何度も何度も頷いた。
*******
「え? 聖女様がどこにいるか知らないかって? 何を言ってるんだ。俺たちがお傍で守ろうとしたのを平民は帰れと王都から追い出したのはあんた等、お偉い正規騎士団の騎士様方じゃないですか」
そっちの方が良く知っているだろうと言われた騎士は、視線を彷徨わせた。
「そんな俺たちが知る訳ないでしょう? 平民ですし。あれ、王都で何かあったんですかい?」
ねめつける様な探る視線を向けられて、第二騎士団に所属しているその騎士は声を荒げて「なんでもない! 何も知らないならとっとと帰って魔獣を狩れ!」と逆切れを噛まし、自分で呼び出した第四騎士団の団長を追い返した。
「あー。それなんですけどね。最近、第四騎士団の管轄の辺境じゃ魔獣の姿を見掛けなくなっちゃったんですよねぇ。まぁ警戒はしとかないとですよね。ガンバリマス!」
では! と快活に挨拶をして、第四騎士団の団長は呼び出しを受けた宿から出て行った。
宿の部屋にひとり残った騎士は、途方に暮れて椅子へと頽れて独りごちた。
「……第四騎士団の奴等も知らないなんて。なら、誰が聖女の行方を知っているというのだ」
宿から追い出された第四騎士団の団長は、その宿の部屋を見上げて思う。
(バーカ。例え、聖女様の情報を持っていたとして、誰が聖女様ご自身が隠れているっつーのに王宮にそれを教える奴がいるかよ。この国の国民で、聖女様に感謝を捧げない者なんか、貴族と神殿の奴等だけだっつーの)
──絶対に守る。守る相手を間違えたりしない。
平民を守るために騎士となった平民の騎士団長は、その思いを新たに、足を進めた。
*******
最初の頃はそれでも平民に気づかれないよう内密に、と王宮で手配された者によって探されていたのだが、王都のみならず聖女が見つかったという街でも全くその足取りすら見つけることができなかった。
そうこうしている内に被害は広がり、貴族にのみ被害が出ていることが”質の悪い噂”として王都へも届いてしまっていた。
平民への被害は未だに確認されていない。だからあくまで噂の域を出ないで済んでいる。しかし、それも時間の問題だろう。なにより貴族階級における沈鬱な空気に、誰もが耐えられなくなってきていた。
そこで内密に済ますことを諦め、王宮から正式にお触れをだした。
聖女に直接呼びかけると共に、聖女に繋がる情報を齎した者へ報奨金を出すとした。
そこまでして手を尽くしたが、貴族に於ける希望の光である聖女を見つけることはできなかった。
単に、王宮での暮らしが合わなくて出て行っただけであれば、呼び掛けた時点で本人から連絡が入るものだろう。もしなんらかの原因でお触れに気が付かなかったとしても近隣に住んでいるなど情報を持つ者から何か連絡が入って当然の筈だ。
しかし、幾ら待てども褒賞金の額を引き上げようとも、些細な情報のひとつも王宮へ届けられることは無かった。
*******
「さぁ、いそごう。家族にも紹介する。みんなに祝福されながら正式な式を挙げて、誰に憚ることのない夫婦になりたいんだ」
そう語るトールに向かって、イリスはこくりと頷いた。
その頬は幸せに紅潮しており、艶やかな唇は上向きに弧を描いている。
「式なんかしなくてもいいって思っていたけれど、トールの家族に紹介して貰えるなんて嬉しい。私にも、家族が増えるのね」
「一番の家族は俺だけどな」
ふたりはじゃれるようにはしゃいだ。
向かう先にある、明るい未来しか見えていない。
「子供もいっぱい欲しいわ」
「おう。好きなだけ作ろう。でも、いなくてもいいな。イリスがいればそれだけでいい」
「ふふふ。そうね、私の夫はS級ハンター様だものね。現役で冒険している間は、子供を持つのは無理かしら」
「いいや、違う。愛妻家だからだ。どんなに子供ができても、俺の一番も、お前の一番も子供に譲るつもりはない。それだけだ」
**************
お触れを出して、すでに数か月もの月日が過ぎていた。
虱潰しといっていいほど人員を配し、国中に手配書を配った。
そうしてどれだけ報奨金を吊り上げても、聖女に関する情報はまったく集まらなかった。
入ってくるのは、小悪党の小遣い稼ぎといわんばかりのでたらめばかりで、駆けつけた騎士たちは、聖女がいると言われた家の場所すら見つけられずに帰ってくる始末だ。
ここまできて初めて、王宮では聖女がいなくなったことと、この結界の異常について関係があるのではないかと怪しむ向きが出てきた。
「どうしたことだ? 聖女は、その身の丈に合わぬ王宮暮らしを慎ましく辞退して、市井で暮らしたいと王宮を出ただけだったのではなかったのか」
聖女が王宮から出て行ったという報告を上げた者として記録に残っていた名前。
王太子付近衛であるその男が、ついに議場に呼び出された。
この国の重鎮たちが真実を知るまでもう少し。
*******
誰もが寝静まる深夜。
この街一番の大店と言われる大商店の当主は、ひとり書斎で、王宮からの使いだという男が街中に配りにきた手配書を前に、手に持った安っぽい髪飾りを見つめながら酒を舐めていた。
上等な酒である筈のそれが、今は途轍もなく舌に苦い。
「おとうさん、それ、聖女様の髪飾りよね?」
その声で視線を上げる。
寝間着姿で目をこすりながらドアから顔をのぞかせたのは、今年13になる愛娘のものだった。
「どうした? 寝れないのか」
「うん。喉が渇いて降りてきたの。そしたらお父様の書斎から明かりが洩れていたから」
父の声に自分を拒絶するものが無かった事にホッとした娘が、ゆっくりと父の下へと近付いてくる。
「それ、結界を張りに来て下さった時に聖女様の髪に着けられていた金の髪飾り、でしょう?」
「…まさか。聖女様が身に着けられるものが、こんな粗雑な造りをしている訳がない」
そう口にしている当主の口調はどこまでも苦かった。
混ざりものが多く鈍い輝き。清純を表す百合の花を模った水晶はその石の色ではなくインクルージョンだらけのせいで濁りきり白く見えるほどだ。もはや宝石とすることすら商人である男には不快であった。
「こんな粗雑品が、聖女様に捧げられたものである筈がないよ」
そういうと、当主はグラスに入った酒を一気に煽り、目の前にあった手配書を暖炉に投げ入れた。
(どうぞ、ご無事で)
それだけが、男の、この国の平民たち総ての願いだった。
*******
「どうした?」
昼食を取る為に立ち寄った水辺で、ふとイリスが誰かを探す。
「ううん。なんだろ。誰かに呼ばれたような気がしたんだけど…。気のせいみたい」
「駄目だぞ? 俺の国は安全な国だと言われているけれど、『お菓子あげるからこっちにおいで』とか言われて知らない人についていくなよ?」
「なによそれ! 人を子ども扱いしないでよね」
イリスが手を挙げてトールを叩く真似をする。
「あはは。すまんすまん。でもほら、イリス甘いもの好きじゃないか」
「そりゃ、好きだけど」
ちゅ
イリスの唇を、トールが啄ばむ。
「うん甘い。イリスの影響かな。俺も甘いものが好きになったみたいだ」
*******
「聖女? あぁ、そう呼ばれることにつけあがり我が婚約者を貶しめた挙句、不敬にもこの私に不吉な文言を投げつけたあの平民ですか」
その言葉を聞いただけで、国王はつい先ほどまで自慢の息子だと思っていた目の前に立つ男を殴りつけたくなった。
しかし、それで瞬間的にすっきりしたところで聖女は見つからないだろう。
なんとか気を鎮め、不快な存在と化した自分の息子に続きの説明を促した。
「もっと詳しく話せ。聖女がどこに行ったか、知らぬのか」
「詳しくと言われましても、それ以上の事は何もありませんよ。あの平民は自分で勝手に王宮を去っていっただけです」
ぎりぎりと歯ぎしりをする国王たちの前で、王太子は滔々とどれだけイリスが不敬であるかを話す。
話している内に興が乗ってきたのか話す内容が段々と具体的になり、王太子は鬱屈する胸の内を吐き出すように聖女の悪口を言い重ねる。
「あの平民は、王太子である高貴な私よりも魔獣騎士団が上だと抜かしたのです。聖女に癒されながら戦った程度のことで何の誉れになるというのか。その上、この私に向かって『なら試してみろ』などと暴言を」
王太子がその言葉を、ついに口にした時だった。
がっ!
先ほど呼び出しを受けた近衛ではない王太子付近衛たちが、その場に膝をつき懺悔を始めた。
「申し訳ありません。王太子のお言葉に背けず、私は…聖女を排除すべく、行動を…」
「……私もです。申し訳ありませんでした。聖女様のお陰で助かった命が多数あると、知っていたのにぃぃぃ」
「私も、御止めすることもできず、ただ見ている事しか…。申し訳ありません、聖女様」
「私も、本当は王太子殿下のご婚約者様であられる公爵令嬢様が、聖女様に扇やレティキュールで、な…殴るように怪我を負わせていたのを、し、し、知って…知っていましたのに、黙っていて…聖女様申し訳ございません」
「実は私も」「私も知ってました」「私もです」と追従する涙声の懺悔がそこかしこから上がる。
その言葉の意味を知った国王と大臣たちは、ついに聖女が見つからない理由を理解して、頭を抱えて数少なくなった頭髪を掻き毟り口々にこう叫んだ。
「「「お前…お前たちのせいか! お前が戦ってこい!!」」」
大勢が泣き叫びながら聖女への謝罪を口にする中、「お前のせいでこの国はおしまいだ」「感謝を知らない糞馬鹿共が」と王太子に向けて怒りをぶちまけ叫ぶ国王と大臣たちから掴みかかられ揉みくちゃにされる王太子は「え、なんで? なんで俺が?」と口にするばかりだ。どうやらこの緊急事態においてこの国の現状を把握していなかったようだった。
その異様な風景の中で、唯一人王太子だけが、事態についていけず呆けた顔をしてただ責められていた。
*******
「トール? どうしたの」
西ノ海に面した国に向かう街道の分かれ道。
そこでトールは立ち止まった。
「俺の国は、イリス達と出会った国境の、あの西ノ海に面した国じゃないんだ」
「え、そうなの?」
意外な言葉ではあったが、確かに地元のハンターだとは言われたが国の名前を教えて貰った訳ではなかったな、とイリスは思い返していた。
「あぁ。勿論、今いるこの国でもない。この国から南西に向かった先にある国、結界を張る旅ではこの国に入る前に、結界を張ってきたといっていたあの国がそうだ。
国を超えて結界を張る旅をしていた際、陸路が整備されていて廻り易い経路を選んだ結果、少なからず遠回りになることもあった。しかし、今回はまさしく最短距離第一の経路を選んでいる。
「大きな国よね? 貿易船が行き交う、大きな港がある、食べ物の美味しい国」
そのイリスの記憶に、思わずトールが噴き出す。
「そうだな。それだ。世界中から交易品が行き交う我が国は、旨いものが集まる国でもあるからな。毎日ちがう料理を食べても、ひと月ふた月程度では食べ切らんほどの種類があるぞ。それもどれも旨い」
「それは最高ね!」イリスは嬉しそうに笑った。
「だから、進む道はこっちだ」
イリスが行こうとした方向とは逆に向かって馬を進める。
「はぁ。楽しみね!」
何を食べようかなーと幸せそうな顔をしたイリスを、トールはそれに負けない幸せそうな顔をして横目で見ていた。
そこに、一瞬で緊張が奔る。
「イリス。ちょっとその森の中に入って隠れてろ」
そう指示を出すと、シュリンと鍔を走らせる音を立てて、トールは腰に刷いた剣を馬上で抜いた。
「隠れてないで出てこい」
*******
その時、ドーン、ドドーン、ドドドドーンと大きな音が立て続けにして、王城が激しく何度も揺れた。
誰もが大地震の予兆と怯え動きを止めた時、議場の扉を押し開いて、埃塗れの衛兵が走り込んできた。
「大変です! ワイバーンやコカトリスやキメラ……空から、翼のある魔獣ども多数が王都を襲ってきました! 貴族が、貴族だけが齧られ掴まれて外に投げ捨てられてます!!!」
「「「「「「!!?!!!??!!????!!!」」」」」
「また翼なき魔獣の大群が王都に向かって押し寄せてきている模様です」
王城が大型魔獣たちに蹂躙され瓦礫と化していく音と揺れの中で、この場にいる全ての人の脳が、駆け込んできた衛兵の言葉の意味を、理解することを拒否する。
(この国は、もうおしまいだ。もう駄目だ)
頭上から降ってくる瓦礫と粉塵、そして突如降り注いだ陽の光を背負って議場へと覗き込んでいる魔獣の顔に気が付いた者は皆、その場に力なく崩れ落ちた。
(いや、おしまいなのは、自分の命、か──)
その思考が誰のものだったのか、それを知る者はもう誰もいない。
*******
「ちゃんと連れて行くって手紙に書いただろ!」
トールの国へと続く街道の入り口で待ち伏せを仕掛けていた者。それは、トールの一番上の兄と妹であった。
「だって! お兄様にお任せしていたら、いつになるのか判りませんもの! どうせ私達に会わせる前に市井でお世話になっている方々へ先に会わせるおつもりでしたでしょう?!」
「さすが、我が妹。よく判ったな!」
「キーー!」
なにやら仲良く喧嘩しているらしいが、イリスとしては気が気ではなかった。
何故なら、トールから兄妹だと紹介された人たちに、見覚えがあったからだ。
(王太子殿下と、末姫様に見えるのは、どうしてかしら)
豪奢な衣装を身に着けた王族と、兄妹らしい軽口の言い合いをする自身の婚約者の様子に、イリスは目眩がした。
実際に身体が揺れて、膝から力が抜けそうになる。
そこに、太くて力強い腕がイリスを支えてくれた。
「どうした。大丈夫か、イリス」
疲れたのかと気遣ってくれるトールの腕を、ガシッと掴んだイリスは、
「それより、ちゃんと説明してくれるかしら?」と、多少の圧を込めて婚約者に求めた。
「あー…」
ぽりぽりと頬を掻くトールの後ろから、煌びやかな笑みを浮かべた王太子殿下がずいと出てくる。
「お久しぶりです、聖女イリス様。お陰様で、我が国の被害は最小に抑えられ、人々の生活は守られております」
そっと腰を折り、イリスの手を戴く。
その言葉に、イリスは思い違いではなかったことを確信した。
(──やっぱり)
その思いと共に、再びくらりと目眩がした。
そんなイリスの様子を見た王太子殿下が、目を眇めて面白そうに訊ねた。
「……もしかして、イリス様はトールが我が弟であることを、御存じなかった?」
コクコクと頷けば、なるほどと苦笑する姿すら様になっていて、目に眩しい。
本当に血が繋がっているのか、なにかの間違いではないかと思うけれど、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
「第七王子として生まれたトールは、成人の儀の際に王位継承権を返上して『冒険者になる』と王宮を出たのです。それでも、私の大切な弟の1人であることに変わりはありません」
「トールお兄様は、誰よりも王族らしくないように見えるかもしれませんけれど、ともすれば民の暮らしが見えなくなりがちな私達に実感としてそれを教えて下さる、大切な役目を果たして下さっている。特別な存在ですわ」
誇らしげに語る兄と妹から説明をされればされるほど、イリスは自分が騙されているような気がしてくる。
王位継承権返上をしても、王子様は王子様だ。
なぜ冒険者を選んだのかとか、第七王子で妹姫までいるということは結局何人兄弟なのかとか。そんなに兄弟姉妹大勢いるのか、等々。疑問は尽きない。
何より、何故いままで黙っていたのか。それが一番、イリスの中で蟠りになっていた。
ふと、婚約者である筈の王子様へと視線を移せば、そこにあるのは普段の快活なものとは違う、どこか不安に揺れる瞳だった。
「イリス。ごめん、貴族になりたいと思わないかと訊いた時のイリスの反応に、ビビッて。説明が遅れた」
国に入る前にはするつもりだったんだけど、こんなところで兄達からばらされるとは思わなかったんだと頭を抱えてその場にしゃがみ込んだトールに、つい笑顔が浮かぶ。
可愛い、とすら思う自分は、すでに手遅れなのだろうとイリスは苦笑した。
「他に隠し事は?」
ぷるぷると、頭を抱えたまま首を横に振るトールを見下ろす。
「言い忘れがあっても、あと一つだけは許してあげます。でも、それだけですよ?」
がばりと起き上がったトールの瞳が輝いている。
「許してくれるのか!? しかも、あと1個の猶予つき!」
なんて俺の嫁は心が広いんだと感激するトールに、思わずイリスは呆れたような甘いため息を吐いた。
「我が弟が、奥さんの尻に敷かれるようになるとはね」
聞こえてきた声に、視線を移すことなく、イリスは喜びに破顔するトールを愛し気に見つめている。
「そんなことないです。私は、きっと、トールの笑顔の為ならなんでもしちゃいますから」
「うわっ。未来の義妹からナチュラルに惚気られた!」
言葉を交わせば、確かに王太子殿下はイリスの愛しいトールとの繋がりを感じさせる。
「イリス嬢。あなたが望むなら、聖女としてではなく、ただの我が弟の最愛の妻として義妹として、私達は歓迎します。トールを頼みます」
あれで甘えん坊なところがあるから、よろしくね、と笑って言われる。
その言葉に、イリスも自然と笑顔になった。
「えぇ、知ってます。でも頼りにもなるんです。大切に、幸せに、しますね」
「そうか。あいつを幸せにしてくれるのか。まぁイリス嬢の傍にいるだけで、あいつは勝手に幸せになりそうだけどね」
そういって笑う。
「あぁ~! 兄上、イリスに色目を使うのは止めてください! 義姉上に言いつけますよ!」
「馬鹿が! お前ではあるまいし。私のディアがそんなヤキモチを妬くか」
兄と弟が、平和に言い争いじゃれ合う姿を前に、イリスは目を白黒させていた。
「本当に争っている訳ではないから気にしないでいいわ。あの二人は年が離れている割に考え方が近いのか仲はいいのよ」
斜め下から掛けられた声に、イリスは「本当? 私、ひとりっ子だったから兄弟喧嘩って馴染みがなくて」と素直に驚いた。
「そうなのね。それなら、妹も初めてね? よろしくね、お義姉さま。妹の我が儘に振り回されるのも、オツな物だそうよ。楽しんでくださいませ」
ころころと笑う末姫様に、イリスは先ほどとはまた違う驚きに目を見張る。
いたずらっぽく笑う未来の義妹の顔はやわらかく、その瞳はとても温かい。
イリスは、この国でのこれからの生活が明るいものになることを確信した。
(2020.10.23.加筆)
________
その後、実はトールの国というのが西ノ海に面した小さな国ではなく、そのまた隣の大きな港を持つ大きな国だということとか、実はトールはその大きな国の第七王子だったりするのが判明するとか、イリスが去ったあの国の結界が、なぜか貴族にだけ効果が無くなってしまい大きな混乱を産み、ついには平民が力を合せて治める民主国家に代わってしまったりしたのだが、それはまた別の話。
_______
としていたラストに、「そのざまぁが知りたいんじゃ」とご要望を戴いたので
連載ではなく、短篇のまま加筆してみました。
如何でしょうか。
少しでも楽しかったと思って頂けたら幸いですv
**********
(2023.04.23)
遠様(@haku_wen)より、『トールさんがイリスさんを高い高いしているの図』を描いて戴きました♡
いつもありがとうございますー!!!
イリスさんのちょっと戸惑ったような照れた表情が最高にカワイイですよねー!!!!
素敵素敵♡
遠様、ありがとうございましたー♪
お付き合い、ありがとうございました!