敬虔なキリスト教徒(ごっこ)
老害共は、仕事の上下関係は絶対だとなぜか勝手に思っているけど、そんなもの、絶対でも何でもない。会社に献身していれば生涯に渡って報われたのは昔の話で、現代で低い立場で真面目に働いたって、結局、搾取しかされない。私は金にしがみつく種類の人間ではないと、何度繰り返し説明しても理解されない。金銭でプレッシャーを与え、尊厳は侮辱していいと彼らは勝手に思っている。すべての駆け引きを、金銭という権威を前提にして試みてくる。
これまで数え切れないほどの人間に会ったけれど、皆そうだった。金銭という権威に限らないものの、どんな対話をするときにも、必ず権威を前提にしてた。まるで同じ価値観を共有しているかのように話しかけるものだから、私とコミュニケーションが成立したことが一度もない。いい暮らしがしたいとか、美しく若い異性と親しくなりたいとか、怪我や病気が怖いとか、死にたくないとか、暗に勝手な前提を含ませつつ話しかけてくる。自分とは異なる価値観を持つ他者が存在するという現実を認知することが、人間には難しいんだね。
死にたくないって言ったって、いつか死ぬし。病気や怪我だって、理不尽に降りかかってくることは避けられない。いい暮らしがしたいだなんて、それが手に入らない者にとっては、言うだけ惨め。価値観なんて捨てるべきでしょう。権威を前にして卑屈になるだなんて、やめてしまうべきでしょう。お金で人間が人間を使い、立場の低い者が恐れ入って卑屈にならなければ許されない社会なんて、ディストピアの完成以外の何なのか? 権威なんていうものは、ハンマーでガッってするべきです。
その点、キリスト教徒とかはある意味すごい気がする。存在不明の「神」にしか権威を認めない。敬虔なキリスト教徒ほどきっと、世俗的な権威、地位や金銭にかしこまることをしないだろう。カルト的な新興宗教に至っては、洗脳や麻薬などを駆使して、死の恐怖すら超越させる。それがいいとは言わないけれど、世俗的な悩みをすべて捨てられるなら、少し憧れる。立場は劣悪でも自殺するほどの勇気はない者にとっては、個人としての心を捨てて、価値観を何かに預けてしまうのって、最後の最後の生存戦術なんじゃないかな。
だから私は、敬虔なキリスト教徒になったフリをしていた。キリスト教なんて、どちらかというと好きじゃないし、教えの内容も信じてないのに、「ごっこ遊び」みたいに、「敬虔なキリスト教徒」を自覚するようになっていった。神は存在しないと思っているし、聖書の文章が事実だとも思ってない。それでも、お金とか地位とか長生きだとか、世俗的な権威に価値を見ることは、やめてしまったんだ。ハンマーでガッってするみたいに。
なのに人間達は、何か世俗的な価値観を共有しているかのように、しばしばその権威に則ってプレッシャーすらかけるかのように、私に対話を試みるし、駆け引きを試みる。だから当然、コミュニケーションは何一つ成立しない。だって私は、「敬虔なキリスト教徒」だよ? お金に興味があるわけないし、死ぬのが怖いわけないでしょう。言わば「無敵の人」だけど、失う物のない「無敵の人」を最下位の尊厳に配置したのは、世俗的財産を信奉する世俗的な大衆であって、「無敵の人」を上位の尊厳に配置しなおすことは、宗教の力を使えば、かくも簡単。
そして、金銭への執着が希薄で、命すら惜しまない者に、隣人への隔てない慈悲や、正直や誠実を重んじるモラルがあったら、モラルなんて投げ捨ててしまった今の既得権益層が、どうやって優越する尊厳を証明できるっていうのか? 証明なんて初めからできるわけがない。人間達の社会が築いてきた世俗的な権威なんて、砂場に築いた幻にすぎないのだから。労働者を洗脳して酷使するための、カルト宗教にすぎないのだから。運良くお金を多く手にした人が、そうでない人を酷使したり侮辱したりする権利なんて、競争という詭弁のもとに捏造された嘘だ。
そんな腐りきった社会、ハンマーでガッってしたくて、まず自分の中で、世俗的な権威をガッってした。だから私は、神の存在を信じず、聖書を開きもしないのに、キリスト教徒を自覚する、「敬虔なキリスト教徒ごっこ」に耽っている。私は、「敬虔」だから、お金とか世俗的な権威を振り返らない。これって実は、「敬虔」なつもりでいる一般的なキリスト教徒より、ずっとキリスト教の教えに沿っているんじゃないかな。だから現代において宗教は、迷信を信じない「ごっこ遊び」であるべきで、そうであってこそ、新しく幸せな人類の時代が開闢するのさ。