兄のことづて
向こう岸が見えないほど広い川が、私の目の前に横たわっている。灰色の水は雲に覆われた空の色と一緒だ。擦り切れたサンダルの下で小石がジャリと鳴った。
上流の方に向いて川岸を歩いていくと、渡し舟をしている所を見つけた。
今どき珍しいことに、木製の手漕ぎ舟である。客は既に数人、老人や中年の男が乗っているが、皆虚ろな顔つきで向こう岸の方角を眺めていた。
私はそこまで走って行くと、船頭であろう男に声をかけた。フードを深く被っていたので、口元がなんとか見えるくらいだった。
「私も乗せていただけますか。向こう岸に渡りたいのです」
「……駄賃はあるかい?銭がなきゃこの船には乗れねえよ」
そうかと私は思った。服のポケットを探してみたが、生憎一円も見当たらない。
「すみません。持ってません」
「なら仕方ねえな。また今度来な」
突き放すような口調だったので、少しムッとした。背を向けて帰りかけた私だったが、男に呼び止められる。
「ちょいと待ちな、嬢ちゃん」
「……何ですか?」
男はどこからか、一枚の紙切れを取り出した。雰囲気に合わないオレンジ色だ。
「お前の兄から言伝を預かってる」
“兄”と聞いて。私の脳裏にふっと、兄さんの柔らかい笑顔が浮かぶ。
何だろうか?
そっと手を差し出して男からそれを受け取った。直後、いきなり視界の全てが輝き始める。眩しくて耐えられない。加えて、何だか体が浮き上がるような気がして――――
「よい人生を」
記憶が途切れる寸前、耳元で男の声が聞こえた。
※
次に目を覚ました時、目に入って来たのは天井だった。ということは、私は今横になっているらしい。
ぼんやりした頭が次第に定まってくる。辺りは暗く、月明かりだけが唯一の光だ。どこからか微かに漂ってくる薬品の匂い。ここは―――――病院?
思考がそこへ行きついた瞬間、私は全てを思い出した。
「……っ」
轟音と衝撃が頭の中に呼び戻ってくる。そうだ。私は交通事故に巻き込まれたのだ。とび出した子供を助けようとして、そしてトラックに……それから何やかんやあって、命だけは助かったみたいだ。
私は何気なしに、窓の方を見た。カーテンは開いていた。窓際のスペースに小さな笹が置かれていて、いくつかの短冊がかかっている。ならば今日は七夕なのか。自分は二日近くも眠っていたのだと気づいた。
窓は開いていなかった筈だが。何の拍子か笹の葉が小さく揺れる。そこにある短冊の一つが、不意に私の眼を惹いた。
丁度そこに月明かりが差し込む。とは言っても所詮月明かりだから。その短冊の色、ましてや書いてあることなんて、普通なら読めないのに。何故だかその時私には、それが優しいオレンジ色で、そこに書いてある文章まではっきりと見て取れた。
『妹が助かりますように』と、兄さんの字で。カックカクねと笑っていた、癖の強い字で。
私の頬を温かい液体が伝っていって、枕に消えないシミを作る。
その日は雲一つない夜空で、月と並んで天の川が綺麗に見えた。きっと今頃天空の世界では、織姫と彦星が天の川を渡って愛を育んでいるのだろう。
対して。私が三途の川を渡らずに済んだのは、もしかすると、兄さんの願いが天に届いたからなのかもしれなかった。