そこにあるもの
「えー、飯田橋ー。飯田橋ー。ホームと電車の間が大きく離れていますので、お気をつけてお降りください」
プシューと空気の抜けるような音とともにドアが開く。電車とホームの間は大きく離れていて、意識して広めの一歩を踏み出した。
こうしてこの駅に降り立つのは、これで一体何度目だろう。路線の大きなカーブも、車体のくすんだ黄色も、ホームから見える外の景色も、どれも目に馴染んだ光景だ。駅の改札くらいなら、目を閉じていたってくぐり抜けられる。この場所の音も、においも、感覚も、4年間ですべて身体に染みついた。
だが、毎日のようにこの駅を訪れる生活も、今日でついに終わりを迎える。普段は何気なく歩く改札までの道のりさえ、今日はやけに意識をしてしまう。次にこの駅に訪れるのは、いったい何年、何か月先なのだろう。今まではろくに目もくれていなかった壁に貼られたポスターも、今日は眺めてみる気分になった。
やがて改札を抜けると、そこは多くの人であふれていた。普段から多くの待ち合わせの人たちでにぎわっているが、今日はそれよりもさらに多い。
いつもより賑わいのある駅前は、浮ついたような不思議な空気が漂っている。彼らのほとんどが袴やスーツ、ドレスなどに身を包み、この駅前の不思議な空気を作り上げている。そして、そんな彼らの中に立つ僕自身もまた、例外ではない。特別な衣装に身を包んだ誰もが、この後行われる卒業式に向けて浮足立っていた。
駅の改札を出てすぐのところにある柱にもたれかかり、腕時計を覗きこむ。就活以来の出番となったそれは、まだまだ銀色がきれいに光っている。時計の針が示す時刻は11時30分。仲間と集まる約束をしている時間までは、まだ一時間ほどの余裕があった。
約束の時間には余裕を持って着くようにする性格だが、それにしたって今日はあまりにも早い。どうせ家にいたって落ち着かないのだから、適当に外で時間をつぶしている方がましだと考えてのことだった。
スーツの右ポケットに収まったスマホを取り出して、起動のためのボタンを押す。特に通知が来ていないことの確認だけをして、またすぐにポケットの中へ戻す。
仲間との集合時間まではまだずいぶんと余裕がある。どうで今日でこの駅ともお別れになるのなら、この近辺をゆっくりと歩いてみるのも悪くない。そう思って、大学とは反対方向、神楽坂の方面へ向かって歩きだした。
大学の最寄り駅にあるにもかかわらず、神楽坂をのんびりと歩いたことは今までなかったかもしれない。少し記憶を掘り返して見ても、それらしい記憶は見当たらない。
駅を出て少ししたところにある信号を渡ると、坂の下までたどり着く。いつもは目的の決まった店を目指して歩くばかりで、あまりゆっくりと景色を見て歩くこともなかった。
いつも決まった居酒屋に行き、いつも決まった道を通り、いつも決まった景色を眺めていた。いつもより歩幅を少しだけ狭めて、ゆっくりと左右を見渡しながら歩く。こうしてみると、入ったことのない店ばかりで、それどころか存在すら知らなかったお店も多くあることに気づく。
坂を上り始めて少し経ったところで、ふと辺りを漂う香りが鼻をくすぐった。見れば、すぐ隣にはラーメン店。看板に掲げられた名前には聞き覚えがある。大学の仲間から美味しいと、よく噂に聞いていた店。ずっと行ってみたいとは思っていたが、大学からは少し離れていることもあって、結局行かずじまいだった。
お店の中から漂うダシと塩のあまい香りが、鼻を通って口の中で広がっていく。気づいていなかった空腹が顔をのぞかせた。そういえば、特にお昼の予定を決めていなかった。
「入ってみるか……」
お昼にするには若干だけ早いが、自然と足が店の方へと向かっていた。店の前に置かれた券売機の前で立ち止まる。ラーメン屋のメニューはどこも、名前を見ただけではわからない料理が多すぎる。初めてみるメニューに困惑しつつも、とりあえず一番左上にある店の基本メニューのようなものを選んでみる。初めてのお店に行く時は、いつも決まってお店のメインのメニューを注文してしまう。そして、それが美味しいと、それからもずっと同じメニューしか注文しないなんていうこともよくあることだ。
機械から出てきた食券を片手に、店の中に入る。客の存在を認めて駆けつけてきた店員に案内されて、奥にあるカウンター席に腰をかける。カウンターテーブルの上にはいくつも調味料。初めて入るお店だと、つい内装をキョロキョロと見回してしまう。若干の落ちかなさを感じながらもそのまま2.3分待っていると、店員の威勢のいい声とともに料理が届いた。
箸とレンゲを手に取ったところでふと気づく。ラーメンなんて、スーツを着込んだ日に食べる料理ではなかった。若干の後悔をしつつも、あまりにも今更だ。できるだけ汁を飛ばさないように細心の注意を払いつつ、ひと束の麺をすすった。
自分の食べた料理が美味しいか美味しくないかを判断するため時間なんて、ほんの一瞬でもあれば十分だ。今まで食べたこともない味。文句なしで美味かった。
別に焦る必要なんてないはずなのに、2口目以降は何かに急かされるように、次から次へと口の中へとかき込まれた。時々テーブルに置かれた調味料を足してみたりして、味に変化をつけてみる。そのおかげもあってか、最後まで味に飽きることはなく、あっという間に完食をしてしまった。
カウンターテーブルの上には、スープを残すだけとなったどんぶり。胸のあたりにはスープが持っていた熱と、若干の名残惜しさが残っている。
食べ終わったのなら、いつまでも居座る理由もない。席を立ち、「ごちそうさまでした」とだけ残して店を出る。
自動ドアを抜けて店の外に出たところで立ち止まる。体感では15分程度しか店の中にいなかったように思う。右のポケットに潜むスマホに向けて手を伸ばしかけたところで、左腕につけた腕時計の存在を思い出す。銀色の金属に囲まれた二本の針を確認すると、それはおよそ予想通りの時刻を示していた。このまままっすぐに向かうには早すぎて、かと言ってどこか店の中に入るには微妙に時間が足りないような、そんな半端な時間が余っていた。
いつまでもこんな場所に立ち止まっているわけにもいかず、次の目的地を決められないままに、ひとまずは大学を目指して歩き出す。その一歩を踏み出した時のことだった。たった今出てきたラーメン屋とは反対側の通りの店の看板に目を引かれる。お店から漂うのは、甘さと香ばしさの混ざったような、優しい香り。以前からこの通りを通るたびに興味を惹かれていた、たい焼き屋が目の前にあった。4年生になってから神楽坂に来る機会もめっきりと減って忘れていたが、ここもまた、いつか行ってみたいと思っていた店の1つだった。
お店の前で立ち止まり、しばらくの間逡巡する。おやつの時間にするには、お昼を食べてからの間の時間があまりにも短すぎる。しかし、胃袋と協議を重ねた結果、結局のところ足はお店の中に向けて進められていた。
扉を開けて中に入ると、小さなお店の中は、たい焼きの匂いで満ちていた。カウンターの上部に掲げられたメニューを見つけ、そこでまた悩む。やがて選んだのは、またしてもオーソドックスなあんこ味。店員から熱々のそれを受け取ると、店を出た。店の中にはいくつかの飲食スペースもあったが、一人店の中でたい焼きを食べられるほどの精神力は、持ち合わせてはいなかった。
どのみち、それほど時間が残されているわけでもなく、あんこのたっぷりと入ったたい焼きを片手に大学までの道のりを急いだ。
茶色の紙袋の中から顔を出すそれに、頭からかじりつく。食感と中の味までが口の中に広がった。
外がカラッとして中がとろとろに甘いそれは、本当に美味しかった。たい焼きなんて、たまに屋台で買う程度で、こんな風に専門店で買うのは初めてだった。別にグルメリポーターでもないし、味の違いを表すための上手い言葉なんて浮かばないが、確かにその辺の屋台のものと違うことは分かる。
だが、味の問題とお腹の容量の問題は別物だ。一口、また一口とたい焼きを飲み込むたび、胃袋はますます逼迫されていく。次第に一口の量は少なくなっていき、どうにか全てを食べ終えた頃には、胃袋は限界の寸前まで来ていた。
包み込むもののなくなった紙袋をポケットの中に押し込んで、膨れ上がったお腹をさする。食べ終わった途端、なんとも言えない虚しさがこみ上げた。
こんな大事な日に、いったい何をしているんだろう。ため息と一緒に胃にたまった空気も吐き出した。午後からは卒業式が始まるというのに、こんなに胃を苦しくしてまで、何をバカなことをしているのだろうと思う。まるで何かに焦っているみたいだ。
今まで4年間の間に、あのラーメン屋かたい焼き屋、そのどちらかにでも行っていれば、こんなに苦しい思いをしてまで、この2つを無理に食べることもなかっただろう。今さら後悔したところで何が変わる訳でもないが、そう思わずにはいられなかった。
しばらく歩くと、やがて大学の入り口にたどり着いた。正門の前はすでに多くの学生で賑わっていて、たくさんの声が聞こえて来る。袴やスーツに身を包んだ彼らの声は強い感情を含み、そこにはある種の異常な空気が作り上げられていた。
入り口の壁に掲げられた大学の名前の前には、記念撮影をするために多くの人の列ができている。周りの服装の所為もあってか、いつもの見慣れた大学の景色とは大きくかけ離れていて、通い慣れた大学のはずなのに居心地の悪さを覚える。
たくさんの袴とスーツの中から見知った顔を探してみるが、約束の時間にはまだ早い。見知った顔の1つもなくて、別れを惜しむような哀愁の声や嗚咽の混じった泣き声が、一人で立っている僕の疎外感を強調させる。
約束の時間までは後少し。もう少しの間、約束の時刻までどこかで時間を潰したい。そう思い、辺りを見回した時、1つの古い校舎が目に付いた。そういえば、あそこの校舎の屋上には行ったことがなかった。どうせなら、最後に行ってみるのもいいだろう。それに、きっとそこなら静かなはずだ。
人の波をかき分けて、敷地の奥の方にある古びた校舎に向かう。大学の敷地自体は狭いが、たった少しの距離を進むでも、人の多い道を進むのは骨が折れる。
ようやく目指した校舎の中にたどり着くと、そこは外の喧騒とは隔離されていた。エレベーターを呼んで一気に最上階まで登っていく。
ここの校舎はよく授業で使われていて、もう何度足を運んだかわからない。だが、こんな最上階にまで来た回数となると、数えるほどしかないはずだ。ましてや、さらにその先にある屋上は行ったこともない。
いつでも入れることは知っていたし、4年間もあれば一度くらい立ち入る機会があっても良かったかもしれない。けれど、結局4年間、ここに足を運ぶことはなかった。
エレベーターを降りて、屋上へと続く階段を登る。階段の先には錆びついた鉄のドアがつけられている。そのドアの前に立つ。
今にも取っ手がもげてしまいそうなドアノブを回して、ドアを奥に押し出した。同時に、冷たい風が開いたドアの隙間から飛び込んできた。吹き込んだ風の冷たさに、思わず目を閉じる。
そして、ゆっくりと目を開くと、目に飛び込んだのは東京の空とビルの群れ。その景色に息を飲む。初めて入った人の家に上り込むように、ゆっくりとドアを閉めてから遠慮がちに進んで行く。
少し進んでから右の方を向くと、柵に手をかけた体勢で景色を眺める、一人の女性が目に入った。彼女は袴を着ていることから、僕と同じ卒業生であることがすぐに分かった。
そして、控えめな花柄の入った薄いピンクの袴を身にまとった彼女のことを、たぶん僕は知っている。後ろ姿ではあったけれど、その背中をずっと見てきた僕にとって、後ろ姿だけで彼女を認識することは、そう難しいことではなかった。
その背中に向けてゆっくりと歩いていくと、やがて気配に気づいた彼女がこちらを振り向いた。
「——さん、久しぶり」
彼女の名前を呼ぶ。
「久しぶり。こんなところで会うなんて奇遇だね」
彼女は同じサークルの同期で、大学に入学してからの4年間、ずっと一緒にやってきた仲間だ。彼女とはこの4年間に様々な活動で行動を共にした。その活動の1つ1つを僕は今でも覚えている。
彼女は、僕が大学に入ってからすぐに好きになった人だった。
彼女は美人で人当たりも良い。ずっと彼女の隣にはいたけれど、結局何の進展もないままで、学年が上がるにつれて大学へ行く機会も減っていき、気付けば疎遠になっていた。彼女と最後に会ったのは、半年前に開かれたサークルの同期飲み以来だろうか。
「まさかこんなところに知り合いがいるとは思わなかったら、びっくりしたよ」
「うん、私も。ねえ、きみはここには結構くるの?」
「ううん、実はここへは初めて来たんだ。今日はどこも居心地が悪くて、ここなら落ち着いてるかなと思ってさ。そう言うそっちは、ここにはよく来るんだ?」
「うん。気に入ってるの、ここ。たまにダンスサークルが練習で使ってたりすることもあるけど、基本的にはいつも静かだから。私が今日ここに来たのは、お世話になった場所への最後の挨拶ってところかな」
そういう彼女の表情はどこか寂しげで、この屋上の風景と自然に溶け込んでいた。彼女がここを好きになった理由が、何となく分かった気がした。
「へえ。ここに来たのは初めてだけど、すごくいいところだと思うよ。ここからだと、いろいろなものが見えるんだね」
「うん、いい場所でしょ?私はここから大学の敷地を見渡すのが好き。きみももっと早くここに来ればよかったのに。今日で卒業だっていう日に初めて来るなんて、変なの」
そう言って彼女は小さく笑う。彼女のこういう控えめな笑い方も好きだったことを、久しぶりに思い出す。それだけでやけに懐かしい気分になった。
「今日で卒業だと思ったら、急にいろんなことが惜しく思えちゃってさ。ずっと行きたいと思ってたのに行けてなかったところを巡ってみてるんだ。だから、ここに来たのもその一環ってわけ」
「ふふ、楽しそう」
「楽しかったよ。今まで身近にあったはずなのに触れてこなかったものに気づけた。ここに来るまでにラーメンとたい焼きを食べてきたときは、さすがに腹がはちきれるかもと思ったけどね」
そこで彼女はまた笑う。けれど、今度のその笑顔が若干だけ悲し気に見えるのは、気のせいだろうか。
「ここに来るまでにどっちも食べて来たってこと?」
「そうそう。どっちもずっと行ってみたいと思ってたお店だったからさ。今日で最後だと思ったら、ついね」
苦笑しながら、おどけた声で僕は言う。けれど、それを聞いた彼女の表情が緩むことはなかった。
「そういうところは1年の時から変わってないね。きみはいつもそんな風だった」
彼女はそう、やけに曖昧な言葉を口にした。それが意図してのものだと言うことは、彼女の口ぶりからすぐに分かった。「そんな風って?」出かかった言葉を胸に押し留める。軽い気持ちでそれを口にしてはいけないことは、直感が告げていた。
“そんな風”という、たった4文字の言葉に、彼女はきっと多くの意味を込めた。それに気づいて、僕は知らないふりをした。
次に続く言葉も出てこなくて、一瞬の静寂が二人の間に漂う。
彼女は柵に手をかけて少し前のめりになる。そして、感情の読めない声で、小さく問いかけた。
「もっと早くに気づけていたら何か変わっていたかな?」
「さあね、どうだろう」
ラーメン屋を一つ知っていたところで、ご飯の選択肢が増えるだけ。あのたい焼き屋も、知っていたところで寄り道の選択肢が増えるだけだ。そして、この屋上も……
きっとそれら一つ一つに、日常を変える力なんてなかっただろう。けれどきっと、大事なことはそんなことじゃない。
その時、ひときわ強い風が吹いた。遮るもののない屋上の風は強く、春の初めの冷たい空気を吹き付ける。
「やっぱり、まだ風が吹くと寒いね」
風でなびく長い髪を抑えながら彼女は言う。
「うん。そうだね」
彼女は柵から身体を離して、一歩こちらに向かって歩く。3月の風に吹かれた彼女は、肌寒そうに目を細めている。
「下に親を待たせちゃってるから、そろそろ行くね」
「うん」
ドアの方に向かって彼女は歩き出す。彼女はきっと、この後は両親と合流して、記念撮影でも撮りながら卒業式の会場へと向かうのだろう。そして、卒業式が終われば仲の良い友人と集まって、最後の時を過ごすに違いない。
彼女とは同じサークルだが、普段一緒につるんでいるメンバーは違う。今日の卒業式が終わってしまえば、彼女とは顔を合わせる機会はないだろう。
そんな別れを、僕らはもう何度も経験している。昔のように幼くない僕らは、この別れが意味するところもちゃんと分かっている。
去り際に彼女はこちらを振り向いて、小さく手を上げた。
「じゃあね、またいつか会おうね」
「うん、それじゃあ。また」
その“またいつか”が来ることを信じながら、僕は手を振り返し、去って行く彼女の背中を見送った。
この大学の4年間で何度見たか分からない彼女の背中が、ドアの向こうに消えていく。静けさを取り戻した屋上に、最後の時を惜しむ学生の声が地上から微かに届いた。
時計を見てみると、待ち合わせの時間まではあと5分を切っていた。今から待ち合わせの場所に向かえばちょうどいい時間に着くだろう。けれどそういう気分にもなれず、さっきまでの彼女を真似て、屋上の柵に手をかけてみた。
ここからは本当にいろいろなものが見える。眼下には大学の中央広間があり、向かいにはメイン校舎、そしてそこから少し視線を上げれば、東京の様々なビルが目に入る。こんな景色すら、僕は4年間ずっと知らずに過ごして来たのだ。今日はそんなことに気づいてばかりだ。
今日でこの大学を卒業するのに。
今日でこの場所に来るのも最後だというのに……
そんなことを考えていると、ふとさっきの彼女の言葉を思い出す。
『そういうところは1年の時から変わってないね。きみはいつもそんな風だった』
その言葉が意味するところなんて、本当は分かっていた。分かっていて、僕は何も返せなかった。
「分かってるんだよ、僕だって」
そんな言い訳じみた言葉が、僕の他に誰もいない屋上に虚しく響く。
いつだって僕は失ってしまうその時まで、動き出せないままだった。そんな意気地のない僕とも、大学と一緒に今日で卒業できればいいのにな。頭の中で呟いて、息を吐く。
振り向いて、僕は歩き始めた。