表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

意地と涙と男の仕事

作者: 豊島修二

その1「糸引き飯」


 平成十五年の、六月から十二月頃にかけての話である。

 独立したばかりの私は商社として体一つで社員も無く、ただ毎日ひたすら飛び込み営業をしていた。工務店やゼネコンを訪問し、あるいは建築看板をメモして、設計事務所に営業電話をしたり訪問したりもした。

 それでも、四か月も受注ゼロでさすがに悩んだ。

 どもりじゃ営業はできんのかな、俺がダメなんだろな、いや所詮無名の個人商社、それも有限会社じゃ無理なんかな・・

 日一日と苦しくなる暮らし向き。友人に三万、五万と寸借してしのいだが、それも限界がある。


 出先で雨に降られたがあいにく帰りの交通費しかない。百円ショップの傘すら買えず、ずぶぬれで帰社した。雨宿りの時間すらなかった。その日は珍しく来客がある日だったからだ。取引を開始するかどうかの審査の一環で、業者さんがみえる日だったのだ。

 時間にはどうやら間に合ったが、頭のてっぺんから下着までびしょ濡れである。言い訳も思いつかず「いやあ、よく降りますね」と言って、ケタケタ笑った。

 しばらくして私の仕事を請けてくれる旨の連絡があったが、残念ながら発注する仕事は依然として無かった。


 バイトしようと思った。

 昼は杭の営業をして、夜はラブホテルの掃除をしようか、と。求人広告を切り抜いて財布にしまい、時間を見て電話しようと思った。だが、何か、何か違う、と思えてならなかった。

 ある日、ふと思った。俺は杭の仕事をしようと思って、独立したんだ。ラブホの掃除がしたいんじゃない。

 確かに金は無い。傘も買えない。飯も食えない。どうせ腹がふくれないならと、飯の代わりにコーラを飲んで炭酸で腹を膨らませてごまかした日もあった。

 夏の日、うっかり職人の車に入れっぱなしだった白飯だけの弁当が、昼には腐って露骨に糸を引いていたこともある。だがこれ以外に食うものはなく、当然代わりのメシを買う金もない。

 ネチャネチャの糸引く弁当を、吐き気をこらえて涙を流しながら完食した。

 それでもラブホの掃除は違う、と思った。どうせ体を使うなら、杭の仕事で使おう、と思い直した。私は財布から切り抜きを出し、丸めて捨てた。


 翌日、杭のメーカーに頭を下げに行った。現場管理の監督を派遣するので、使ってほしい、と。若い頃から毎日やった仕事だ。既成杭の施工管理なら、何でもできる。一日二万円、交通費込みでとりあえず一名、出してほしいと注文を受けた。社員は、いない。自分で自分を派遣するのだ。私は杭メーカーのヘルメットをかぶり、借りた作業服を着て現場に立った。

 

 月に四十万円の売上げが、生まれた。

 しかし商社活動も諦められなかった。携帯電話を離さず、今まで訪問した先に電話での営業を続けた。

 独立して半年後、ようやく現場を受注した。鋼管杭だった。着工日が派遣の監督の仕事と重なり、朝一の立ち合いが出来なかった。中野区の自分の元請には昼から行きますと言い、下請けさんにはくどく言い含めた。文京区の派遣先の元請には、夕方戻ります!と無理を言って現場を抜けた。

 朝一の打ち合わせに参加できなかった事でトラブルが発生し、現場は揉めていた。昼過ぎに到着した私は必死で方法を考え、職人と何度も打ち合わせして現場は収めたが、肝心の元請は怒って帰ってしまった後だった。

 私は杉並区の元請本社を訪問した。派遣先の作業服のままだったが、どうにもならない。所長を見つけてお詫びし説明し、ようやく外へ出ると既に暗くなっていた。私は慌てて派遣の現場に戻った。ゲートは閉まり、現場は真っ暗で人影もない。私はマンションの一部屋だった現場事務所を訪ねた。

 元請は幸いまだ残っていた。平謝りに謝って、自分が報告するべき今日の出来高を、逆に元請から聞いた。明日の打ち合わせをして外へ出ると、派遣元に報告の電話をした。

 「ずいぶん遅かったね」「いやあ、すみません」抜け出して自分の現場に行った、とは言えなかった。


 しかしこの一件を皮切りに、なぜか他のお客さんからも仕事が入るようになり、初回の初日にミソをつけた中野区の現場の元請には、

 「どうかこれに懲りずに、また使って下さい、もう一度チャンスを下さい」と営業を続けた。

 次の現場は貰えなかったが、その次の現場で発注を貰い、それからは私の会社が無くなるまで、いや無くなった後も仕事を下さっている。


 現場管理の派遣と商社営業の二本立てを一人で続けて、ようやく腐った米を食うことはなくなった。社員も一時は監督ばかり、十三人まで増えた。

 あの時、ラブホの掃除に行っていたら自分はどうなっていたのだろう。行かないばかりに、その後もしばらく、家族にひもじい思いをさせた。常識的には、バイトをしてでも家族を食わせるべきなのだろうと思う。

 その頃、三十九歳。当時の私の選択は、やっぱり失敗なのに違いない。ただ家族には申し訳ない事なのであるが、それはやはり今でも後悔はしていないのである。




その2「階段を登れ」


 前回触れた初めての自力受注のお客様。

 最初の現場でミソをつけてしまい、次の現場は頂けなかった。しかし二度目の受注がきっかけで、以来そのお客様とは長いお付き合いとなった。

 その二度目の現場は、地盤以前に立地条件、施工条件が問題だった。まず6メートルの道路から二メートル半ほどの側道に入る。

 それは、いい。

 その側道を三十メートルくらい進むと、突き当たりになっていて、そこからは階段だ。二十段ほど登ると踊り場があって、更に十五段ほど登らねばならない。登りきってまっすぐ六メートル進んだ右側が、現場である。


 取り急ぎ地質調査を依頼された。スウェーデン式サウンディング試験と言う、いまいち信頼性に欠ける調査方法であるが安価である為、木造住宅建築の際には頻繁に用いられているやり方だ。これなら階段があっても容易に持ってあがる事ができる。調査結果は、だが芳しくなかった。二十坪ほどの敷地で五ヶ所調査したが、二ヶ所で軟弱な地盤と言える数値が出た。一ヶ所でも緩い地盤であれば、残り四ヶ所がどんなに堅牢でもダメである。弱い方を取るのが、いわゆる安全側だし良心的な常識的な判断である。私も弱い方を基準に検討し、地質と支持地盤の深さから鋼管杭が適当との結論を出した。


 出したはいいが、さて、どうする?


 杭打機や機材を、何より一ヶ所当たり六メートルが必要な杭をどうやって階段の上に上げればいいのだろう。

 「森澤さん、鋼管杭の判定はわかりましたが、実際施工できますか?地盤改良ではどうですか?」

 お客様はそう言った。もっともな懸念である。しかし地盤改良工法に変更ができた所で、施工ができない事に変わりはない。階段を計三十五段も登って行ける改良機など無いのだ。私はもうこのお客様からの受注を半ば諦めながら、施工はまず無理です、と言った。

 一週間ほどして、私は地質調査の報告書を届けに、そのお客様を訪ねた。

 「この現場、どうされるんですか?」と聞いてみた。

 「それがですね…」と担当所長は困り顔で話しだした。

 私が難色を示した後、いろいろな杭打業者、改良業者、合計9社に見積りを依頼した。そして既に八社に断られたと言う。無理もない、と思った。

 「最後の一社に賭けているんですよ。あの物件は、うちで土地を仕入れたもので、既にお客さんもついています。今更建てられないなんて言えないんです。森澤さんの方でも、もう一度方法が無いか検討できませんか?」

 「……わかりました。もう一度考えましょう」その時の所長の顔を見て、私ははねつける事などできなかった。


 私は日替わりであちこちの職人を連れて、現地に日参した。

 杭材は、何とかなる。六メートルでは無理だが、幸い鋼管だ。短く切って、人力で持って上がればいい。

 問題は機材と杭打機である。発電機や溶接の機材は、階段の両端に行き渡るように丸太を並べ、ゴロゴロと上げる事にした。階段の上からロープを引っ張る者が二人、下から押し上げる者が一人、丸太の世話をする者が二人、そして全体を見る者が一人、計六人いれば上がる、と思った。

 しかし、杭打機でプランが止まるのだ。

 

 また所長から電話が入った。最後の一社が、断って来たと言う。




その3「意地の仕事」


 「担当者は何とか方法を考えてみますと言って帰ったんですが、会社に持ち帰ったら社長が“そんな現場、断れ”と言ったそうです……」

 私は、腹を決めた。

 「所長、工期と予算は通常より多少面倒みて下さい。職人と交渉します」。

 「方法があるんですか?」

 「全てをバラして運び込みます。機械から材料から、なんもかんも」そして場内で組み立てる事にした。 嫌がる職人、必死で説得して、杭打機をバラバラにして二トン車で運び、階段は発電機同様丸太作戦である。杭は一メートルにぶつ切りにして、皆で手で運んだ。場内で機械を組み上げ、ようやく施工を始めても、一メートル打っては溶接、また一メートル打って溶接、“はか”が行かない事おびただしい。

 普通なら三日程度の本数を、一週間以上かけて打ち込み、また機械を解体しバラバラにして丸太で階段を下ろした。上げるより下げる方が難しい事を、その時知った。

 

 あんな現場は以来、無い。

 だが何でもやればやれるもんだと、自信もついた忘れ難い現場になった。心からやって良かったと思えたのは、しかし次の現場の受注の時だった。


 新宿区の道路も敷地も狭い現場だった。前回の最後の一社と私の一騎打ちで受注を争った。値段は相手が百二十万位、私が二百万近い見積り金額である。しかし私は、引かなかった。杭と地盤と計画建物の全ての条件を考えたら、相手の提案する工法は馬鹿げていると思ったからだ。二日間に分けて、私は言いたい事の全てを聞いて貰った。この二日の間に相手は値段を百万に下げていた。もはや私の見積りは、倍額である。

 

 私はそれを聞いて泣きそうになった。悔しかったのだ。

 「所長、私は言いたい事は全部言いました。もう言う事はありません。金額だけで安いやり方を求めるなら、もういいですから、あちらを採用して下さい。私だってあちらとおんなじ工法なら、おんなじ位の金額でやれますよ。でも自分が関わった建物が傾いたりするのを見たくありません。だから私はこの工法で、あちらの倍額の見積りを変えません。ダメなら私を断って下さい」


 一日だけ考えさせて欲しいと言った所長は、翌日の晩、電話してきた。倍の金額の、私に発注すると言う。

 「階段の現場でも世話になった森澤さんがあんだけ言うんだから、きっと値段の問題でなく、森澤さんの工法が適切なんだと思います。私だって自分が建てた建物、傾けたくないですからね」

 電話の向こうで、所長は笑っていた。会社を必死に説得してくれたのに、違いない。私は電話を受けながら泣いていた。階段の現場も、この見積りも、やって良かったと心から思った。


 錦糸町の間借りの事務所で、一人こっそり祝杯をあげた。


 当時私は四十歳、会社は設立一年目だった。何もかも無くした今、もうすぐ48歳になる。

 あの時も一人、今も一人。難問山積の毎日、相も変わらず金は無い。更にこんな私を、未だ陥れよう騙そうと言う者すらいる。しかし、何が無くてもあの時の意地と真剣さを取り戻したなら、今からでも頑張る事ができるだろうか。心を仕切り直して仕事をすれば、また仕事人のプライドを持てるだろうか。


 まだまだ。

 こんな自分も、まだまだ終わらないで行けるかも、知れない。過去を振り返りながら、そんな事を思った。




その4「荒川区木造二階建基礎工事」


 基礎工事の会社を経営した八年。最初の二年は錦糸町で間借り、次の二年は購入した新築マンション、最後はオフィスビルのワンフロアを借りた。


 これはまだ錦糸町にいた頃の話である。人の紹介で個人の、いかにもブローカー然とした人の見積りをする事になった。六十代のその人が言うには、荒川区の木造二階建ての土工事をやる事になった、地質調査の結果は、杭無し改良無し、ベタ基礎だけで建築可能だと言う。だが施主の要望で何か杭を打ちたい、本来要らないものだから安価に済ませる方法を検討して欲しい、と言うものだった。何も要らないなら、何もやらないのがベストである。しかし荒川区と言う土地柄が気になって、資料を貰う事にした。

 

 荒川区は一般に非常に軟弱な地盤で、支持層になる岩盤も三十から四十メートルと深く、更に悪い事に中間層もあまり見られない。地面の固さを示すものに「N値」と言うものがある。標準貫入試験、通称・ボーリング試験によって求められる値だ。

 数式などによってではなく、その地層に貫入させる際に何回叩いたか?で決まる数値であるが、現在はこれが一番信頼性のある地質調査である。民間の一般工法ならサウンディング試験でも検討可能だが、国土交通省の認定工法などはこの標準貫入試験データが無ければ、検討も施工も認められない。

 その標準貫入試験で求められるN値で五十以上の数値が五メートル以上連続で確認されれば、そこが支持層と認められる。場所により支持層より浅い部分に、N値三十前後の地層が三から五メートル連続して確認される場合も多い。これが中間層だ。計画建物が比較的軽い場合は、この中間層を支持層に替えて杭を施工し建物を支持させるケースもある。


 施主の意向では鋼管杭が良いとの事だが、鋼管杭は支持地盤があって初めて有効ないわゆる支持杭であり、木造二階建ての為に数十メートルの鋼管杭を打つなど、ナンセンスだった。それに住宅用の小口径鋼管杭は、施工深さの限度が三十メートル程度(工法により異なる)であり、そもそも荒川区の支持層に到達できない可能性もあった。木造二階を新築する建築費に匹敵する費用が想定される事もあり、とても勧められるものではない。


 「だってなるべく安いほうがいいのに、建物より高い金額の杭の見積りなんか出しても仕方ないじゃないですか」と私は言った。

 「いやぁ森澤さん、何かを安心の為に打ちたいんですよ。改良工事じゃ目に見えないからダメなんだそうです。形のあるものを施工したいんです。百万以下で」ブローカー氏も譲らない。

 「鋼管をね、全然効かなくてもいいから、形だけ数本打って見せるだけでもいいですから」。

 「そんな無価値の意味の無い仕事、できませんよ。却って無駄に地盤を傷めるだけ。やらない方がむしろ安心です。ふざけちゃいけません」今度は私が譲らない。

 「……森澤さん、プロとして何かいい方法を考えて下さいよ」

 「摩擦杭なら目に見える既成の杭だし、いいと思いますがね」あまり気乗りしない口調で私が言うと

 「良くはわかりませんが、その杭で検討してみて下さい。頼みます」とブローカー氏は押し切る。遂に私は検討する事を約束して電話を切った。




その5「異形摩擦杭」


 摩擦杭と言うのは、コンクリート杭の一種で支持層を必要としない杭である。周辺地盤と杭体の摩擦力で建物を支える。一本当たりの支持力が小さいので、大きな建築物には向かない。五階建て以下の鉄骨造あたりが限界、鉄筋コンクリート造ならせいぜい三階建てまでである。

 

しかし不同沈下の抑止に優れており、それはあの新潟地震や阪神大震災などでも証明されている。支持杭が一般に「太く長く少ない本数」であるのに対し、摩擦杭は節があり軸部は細く、杭長は短く、杭本数の全てが共同で全体を支えるので本数は多い。もっとも今は摩擦杭と支持杭のハイブリッドなども登場し、また摩擦杭単体でも溶接またはジョイントで長くできる。摩擦杭を使った支持杭、なんてのも設計可能だし、境目が無くなってきている。


 しかし昔ながらの摩擦杭は、三角杭と言われる特殊な形状のものだ。地盤や計算式によっても変わってくるが、以前はメーター一トンで摩擦力を概算した。

 東京都の指針では、六メートルの三角杭で七十KN(キロニュートン)の支持力が取れる。トンに換算すると約七トンである。支持杭が一本で百トン二百トン取れる事を思えば、非常に少ない支持力だ。

 だから本数が必要になる。大量の摩擦杭の上にベタ基礎のコンクリートを打った様は、さしずめ逆さにした剣山である。


 まあ、今回は木造、それも二階なので大した本数はいるまいと思い、念の為に現地の下見に行った。当時私は北区に住んでいたので、荒川区は隣、現地は自転車で20分ほどの距離である。明治通りを日暮里方向に走り、目印のファミレスを探す。その裏手の住宅街が現地である。

 

 現地は既に更地になっていて、仮設水道もあり、電線の高さも障害にはならない。

 しかし一見して三角杭の施工は無理だと判断した。狭いのである。三角杭の施工にはクレーン車タイプの杭打機を使う。ベースマシンの名称から「ラフター」、あるいは杭打用アタッチメントのメーカー名から「アボロン」などと呼ばれる。十トンから五十トンまでのクレーン車を使うが、性能的な安全面から今は十トンの杭打ラフターは少ない。全く無いかも知れない。現実的に一番小さなラフターは、十六トンクラスである。


 その杭打機を搬入して、転倒防止のアウトリガを張り出したら、もう杭も置けない。施工には袋セメントにベントナイトと言う薬品を水で混ぜて、セメントミルクと呼ばれる液体を作るが、それを練る為のプラントも置けない。そのプラントなどを動かす為の発電機も、置けない。鉄板や機材、杭材も三トン車で少しずつ運ぶしかない。プラント・発電機をトラックに積んだまま、道路に置いて施工し、杭もまとめて下ろさず、打つ度に一本ずつ下ろせば、まあ施工はできる。

 しかし道路は完全に封鎖になるし、そんな道路使用許可など下りるまい。また全てを三t車で小運搬したら、運賃だけでも大変な額になる。更に一本ずつ降ろし打ちをしたら、施工日数もかさむ。その上、残土の処理もやっかいだ。施工を中断してダンプに積まねばならない。積むユンボかタイガーの費用もかかる。施工と費用が、現実的ではない。百万じゃ、とても無理だ。


 摩擦杭なら、などと迂濶に言わねば良かった。断るしかないだろうか?私は錦糸町の事務所に行き、頭を抱えた。




その6「カラ意地」


 二十二歳から杭の業界にいる。中間五年間ほど金融業に勤めたが、あとは杭や土工事の仕事である。私は、頭の中のいろんなメーカーのいろんな杭材カタログをめくった。思い当たるものがあり、早速販売店に電話を入れた。


 地盤改良杭の一種で、考え方は摩擦杭である。コンクリート製で三メートルと言う短い製品もある。テーパータイプで、例えれば箸の様に先に行くほどに細くなっている。節は、ほんの形だけであり、表面積も小さい。

 摩擦力は杭体の表面積の合計から求める。その表面積が小さいのだから、自然、合計摩擦力も小さい。安価で搬入も容易であり、鋼管杭を施工するクローラータイプ(キャタピラ式)の杭打機で圧入できる。硬い地盤では不可能だが、荒川区の軟弱層ならうってつけである。


 問題は管理である。間違って深く入れたらもう戻し様がない。高止まりでもしたら、最悪だ。鋼管と違って切る訳にもいかない。はつるしかないが、三メートルしかない杭をはつって短くしたら、摩擦力が足りなくなり設計が崩壊する。

 メーカーは販売だけで、施工も管理もしないと言う。


 よし、施工の段取りも管理も自分でやろう、と思った。

 建物重量から杭本数を割り出し、ベタ基礎の下に均等に配置した。見積りを作って提出、百万以下である。

 見積りを見たブローカー氏は、すぐさま電話してきた。

 

 「見積りありがとうございます。しかしこんなにたくさん打たなくても、本当に端々に何本かでいいですよ。元々杭なんか要らないんですから。予算は百万貰ってるから、私の取り分を三十万下さいよ。残り七十万は全て森澤さんに払いますから、本数が少なければ少ないほど森澤さんが儲かりますよ。五本か六本、形だけ打って、原価を二十五万位で抑えれば、一日仕事で森澤さんが四十五万儲かりますよ」

 「何度も言いますが、何も打たなくていいなら、その方が地盤にもいいんです。一本でも杭を打てば、それは元来の地盤を傷める事になるんです。打つ以上は完全に建物を支えられるものを打たなくちゃいけません。そうでなければ、せっかく打った杭もただの地中障害物なんです。だからきちんと家を支えられる杭本数を、きちんと施工します。儲けは適正でいいんです。原価で六十五万、私の儲けと設計費管理費で十五万、合計八十万でいいです。御社も丸投げで二十万ならいいでしょう」。


 こういう場面で抜けるだけ抜く会社は、伸びる。大手は宣伝文句が何であれ、常識的にやっている。社内では一現場三十パーセント以下の粗利は社長の許可が必要、と言う大手も私は知っている。現場によっては五十から六十パーセントの粗利を稼いでいるから、あんなに大きくなれるのだ。


 だからブローカー氏の言い分は杭業界、いや建設業界では当然の考え方である。そこで儲けない私が、馬鹿なのだ。しかし馬鹿は馬鹿なりの意地があり、私は自分の設計を押し通した。


 着工日が決まり、地鎮祭の日を迎えたが、予定より十万円ほど儲け損ねたブローカー氏は現場にも来なかった。私は工務店さんと一緒に地鎮祭の支度をして、神主さんとオーナーさんを待った。


 やがてやってきたオーナーさんを見て、私はちょっと驚いた。

 年齢などわからないし失礼な言い方だが、ヨボヨボの御老人が、車椅子に乗って現場入りしたのだ。




その7「地鎮祭」


 オーナーさんは若い男性に車椅子を押して貰って、皺だらけの痩せこけた顔を現場に向けた。工務店さんとの会話から、若い男性は息子さんだと分かった。息子さん夫婦が笑顔で工務店さんと話している間、オーナーさんはただただ現場を眺めていた。


 笑顔は、無い。悲しみ、いや違う。

 何か、現場を通して遠くを見るような、危うく無表情とも取られかねない顔つきである。


 ふとオーナーさんと目が合い、私は黙って一礼した。工務店さんが気付き、私を杭屋だと紹介した。オーナーさんは薄く力無く、微笑した。


 するとそこへ、近隣の住民さん達が、わらわらと集まって来た。

 工事反対で住民が集まって来る場面は、何度も何度もいやと言うほど経験したが、そうではないようだ。

 一様に、笑顔である。


 「佐藤(仮名)さん!いよいよですね!」

 「お父さん、良かったですね!」

 「これでもう、安心ですね!」

 口々に声をかける。息子さん夫婦が、弾けそうな笑顔で応対する中、オーナーさんはやはり黙っている。何か、病気なのかも知れない。それにしても、地元で人望があるんだなぁ、と眺めていた。

 と、突然オーナーさんが小刻みに震えだし、遂に泣き始めた。口を開けて目をきつくつぶって、両目から涙が溢れ出した。嗚咽・号泣と言っていいはずだが、声は出ていない。無音の、号泣である。


 息子さんが、お父さんの肩に手を添えた。お父さんの涙は、止まらない。住民さん達も貰い泣きの涙を、手で拭っている。

 「ありがとうございます。父も、父も、」息子さんも、とうとう泣き出した。「喜んでいます。いろいろありましたが、本当に皆さんのおかげです」。住民から拍手が起こった。私も訳が分からないまま、拍手に参加した。


 このオーナー一族に何があったのか、そんな事はどうでも良かった。事情もわからず貰い泣きして、バチバチ手を拍った。


 神主さんが到着し、地鎮祭が始まった。車椅子のお父さんは、施主の位置で頭を垂れ続けている。下請業者の私は敷地から外れて、道路から気持ちだけ参加させて頂いた。

 地鎮祭が終わり、工務店に促されて、私は地盤改良杭の説明をした。身振り手振りで、こうしてああしてこういうものを、こう打ちます、と必死に話した。息子さん夫婦は、そんな私が可笑しかったのか、顔を見合わせて笑い合っていた。


 お父さんは、車椅子から私を真っ直ぐに見つめている。

 何があったか分からないが、この人にとっては文字どおり一生一度、そして恐らくは最後のマイホーム建築に違いない。これから建てるこの家を、息子夫婦に残したい、その一念で頑張って来たのだろう。

 ようやく辿り着いた地鎮祭、これだけの人達が祝福に出てくるなんて、余程の山、余程の谷があったんだろうと思った。

 形だけ数本打って、金だけ儲ける?冗談じゃないよ。このオーナー、このお父さんの涙を見て、どうしてそんな事ができるんだ。決まった予算、希望の工法、現場状況、そうした条件の中で最適な工法を見つけたつもりだった。

 新居は必ず、私が打つ杭がきっちり支える。間違いない工事を、きちんと施工するんだ。あの涙を悲しみの涙には、絶対にしない。


 身振り手振りの一人漫才の様な説明を終えて、私はお父さんを見た。

 お父さんは無言で、だけど優しい微笑になっている。


 慈愛の仏像に、似ていた。


(終わり)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ