眼の宝石
久しぶりにあの日の夢を見た気がする。記憶にだけ残った、淡い淡い美しい光景。目が覚めた私に昨日閉め忘れたカーテンの横を通った光が刺さる。ガラス窓を光と共に通り抜けてくる蝉の鳴き声は仕事の疲れがいまだに残る体には少々辛いものがあった。疲れを溜め息で吐き出し、布団から這い出して昨日から冷やしてある麦茶をグラスへと注いだ。蒸し暑い部屋が冷蔵庫からよく冷えた麦茶を出しただけで温度が下がっていく気がした。なみなみとグラスに注いだ歯茎が痛くなりそうな麦茶を一息に流し込む。口から胃までの道が一気に冷やされていくのを感じる。まるで冷やされたところだけ浮き出すような感じがした。一息ついた私はシャッと勢いよくカーテンを閉めた。今度は太陽の光が入らないように。部屋はまるで夜のように暗くなったが、蝉の声はそんなこと知ったことではないというように部屋の中へと鳴り響く。私があの日の夢を見たのはきっとこの蝉の声のせいだ。幼いころに経験した、小さな小さな思い出。あのころの出来事など、ほとんど記憶の片隅に追いやられてしまっているのに。私はあの日の夢を見る。今となっては別に大した出来事でも無かったろうに。あの日の出来事だけは色や匂い、音や感触まではっきりと頭に残っている。きっとこれからもあの出来事は私の奥底にあり、ずっと残ってこちらを見ていることだろう。幸い今日は出かける用事も煩わしい仕事もありはしない。一人暮らしなので気の趣くまま、好きに出来る。私はヨレヨレの布団に再び潜り、夢を見始めた。
カーテンを通り抜けて私の顔を照らす光の束は、夢に浸る私の意識を覚醒へと導いた。太陽はまだ低く、建物の隙間から覗いているだけで姿を見ることは叶わなかった。いつもはもっと遅くまで寝ているのだが、日の光に当てられた意識は、勝手に目覚めの状態へと整えられていった。起きて三十秒もすれば覚醒と微睡の合間で漂っていた意識はすっかりと目が覚めた。窓の方を見ている状態だった体を室内の方へと向けると、既にともに床に就いていた祖父母の姿はなく、整えられた布団が二組あり、寝室の戸の向こうにある居間では、祖母が料理をして、祖父がテレビを見ているのだろうか、生活の音が聞こえてきていた。私はお気に入りのキャラクターの絵柄の入った布団を整えると、寝室を出た。居間に行けばやはりそこには祖父母の姿があり、その姿は祖父はテレビの前に陣取り、座布団の上に胡坐をかき、ニュースを眺めていて、祖母が朝ご飯のお味噌汁と、焼き魚を作る後ろ姿だ。
「おはよう、ばあちゃん、じいちゃん」
私がこんな時間に起きるとは思っていなかったのであろう、こちらに気が付かない二人に私は少し大きな声で挨拶した。祖父はこちらの期待した通り、少し肩を揺らして振り返った。しかし、祖母は祖父よりも反応が薄く、笑顔を浮かべてゆっくりとこちらを振り返った。
「おはよう佳代ちゃん」
「なんだ佳代、今日は早起きだな」
祖母は振り向いた笑顔のままにこちらに挨拶を返し、祖父は私がこんな時間に起きていたことに驚きを漏らした。いつもなら、朝ご飯が出来てから、祖母が起こしてくれて、寝惚け眼を擦りながら、朝食を取るのだが、祖母の様子を見るに朝ご飯の用意はまだ少し時間がかかりそうであった。私は挨拶を返した後、またテレビを見始めた祖父の隣に愛用の座布団を敷きそこで一緒にテレビを眺めることにした。テレビには見知らぬ男が日本のどこか遠くで起こった物騒な出来事があったことを機械のように淡々と喋っていて、いつも見ているアニメと比べてちっとも面白くなかった。私はテレビのリモコンを手に取り横で自身の太ももを軽くさすりながらテレビを眺める祖父に聞いた。
「じいちゃん、テレビ、かちかちしてもいい?」
「あ、佳代ちゃん今日のお天気だけ見せて頂戴」
祖父に話しかけたのだが、その返答は背後にいる祖母から返ってきた。お天気なんて外を見ればわかるじゃあないか。もうしばらくテレビの機械人間を興味もないのに眺めていないといけないことに、そんな風に思い、その思いを口を尖らせ、祖父の胡坐をかいた足に寝転ぶという無言の抗議に出た。祖父の体からは使い古した布団の香りがして、大好きだ。祖父は荒っぽく手のひらで背中をガシガシと擦り、笑いながら話しかけてきた。
「今日は佳代どこに行くんだ? 上にあるお寺か、それとも爺ちゃん達と工場か」
「きょうはね、おてらのあずみさんとあそぶの」
「そうか、あんまり悪戯しちゃいかんぞ。婆ちゃん、今日佳代は安住さんとこに行くらしい。お小遣い渡しといてくれ」
祖父は祖母にそう大きな声で呼びかけると、祖母ははいはいと、こちらを見ずに返事をした。私はお小遣いをくれるという話を聞いて、少しだけ機嫌が直った。祖母はいつもお賽銭に少しおまけしてお小遣いをくれるからだ。そのお小遣いを握りしめて、顔見知りの住職とジュースを買いに行くのはお寺に行くときの楽しみの一つだった。テレビでは今週の一週間の天気を伝え始めた。今日の快晴の天気の通り、これから一週間は太陽のマークが並んでおり、傘のマークは一つもなかった。私はこの一週間をどのようにして過ごそうかと、思いを巡らせた。毎日お寺や工場では面白くない。しかし、友人と遊ぼうにも、今週は、周辺の数少ない友人たちは皆、車でどこか遠くへ旅行しに行くのだという。彼らと違って、私はここが実家であり、帰省先がここであり、どこかに行く用事もない。強いて言えば、お寺にお墓参りに行く事しかなかった。三日四日すれば友人たちは帰ってくるが、私にとって三日四日はとても長いものに感じた。三日もあれば近所の川でザリガニが三十匹は捕まえられるし、工場で二十回は祖父母の友達から飴玉を貰えるだろうし、三回は野良猫と遊ぶことが出来るだろう。それぐらい長い時間なのだ。うんうんと、唸りながら考えても、素晴らしい暇つぶしの手段は思い浮かばない。結局朝の時間にいい考えは浮かぶことなく、朝食をお腹いっぱいに食べた後、手早くお寺へと行く準備を始めた。祖父が買ってくれたキャラクターの描かれていないお姉さんっぽい肩掛けポーチに祖母がくれた特製がまぐちを一番奥に入れて、お守りのついた防犯ベルと小さな手鏡とを入れて、祖父のお下がりのラインの入った麦わら帽を頭にすっぽり被り、私は親しいお寺へと肩掛けポーチをもって走っていくこととなった。出かけるときに祖父と祖母に言ってきますと言うと、二人は、気を付けてと、迷惑かけないようにと、言ってくる。迷惑をかけるなんて私の事を思っているなんて、二人は私の成長を目にしていないのだろうか。私はもうすぐ小学生になるお姉さんだというのに。
太陽は人のいない田舎道を照らし、熱は上から下から私を沸騰させようとしてくる。汗は自分の意思とは関係なく止め処なく溢れて、服がじんわりと肌に纏わりついてきて少し気持ちが悪かった。お寺は遠くはないが近くはない、そんな距離だった。走れば三十分もかからないだろう。でも二十分はかかってしまう、そんな距離だ。行き道、田んぼに囲まれたあぜ道側に、大きな桜が一本ポツンと立っている場所がある。夏にはピンクではなく、青々とした葉を茂らせて、威風堂々とした姿だ。その下を通った時、見上げると、茶色の幹に紛れるように一匹の蝉がいた。思わず立ち止まって観察していたのだが、蝉は動かない。私がわぁ、と大きな声で威嚇してみても蝉は関係なしというように、必死に鳴き声を上げ続けている。こっちが構ってやっているのに、うんともすんとも反応しないその姿に、すこしだけ悪戯心が湧いた。足元の土くれをヒョイと拾い上げると、勢いよくそれを蝉に向かって投げつけた。空中で幾つかに分かれた礫は、見事蝉の周囲へと命中した。さぞや驚いたことだろう蝉は今まで人形のように動かなかったのが嘘のようにジジッと鳴いてあわてて飛んで行った。それを見て晴れ晴れとした気分になった私は、鼻歌混じりにあぜ道の続きを歩いて行った。暫くすると見えてきたのはこの町唯一の喫茶店だった。このお店には最近私がいつもこのお店の前を通るときにしていることがある。お店の前に立つと私は大きな声で名前を呼んだ。
「タマ。タマおいで」
春までならば私の呼ぶ声に店の裏手から飛び出してくる柴犬は、その勢いのまますっ飛んでくるのだ。手を広げて彼を待つ私にぶつかる寸前に急に勢いを落とし、彼は私の腕の中にすっぽりと収まるのだ。でも、今日の彼は、歩いてやってきた、この暑さでちょっと疲れてしまったのかもしれない。たったっとこちらに歩いてくる彼に焦れて私はこちらから近づいて、彼の頭を撫でた。彼は出しっぱなしの舌を動かして、私の手を幾回舐めて、体を私にこすり付けた。最近私のしていることとは行く道にあるお茶屋さんで飼われている犬のタマと遊ぶことだ。本当の名前は玉三郎らしい。犬小屋には生意気にも木でできた立派な玉三郎の表札がかけてある。私の家の表札は石で、私の名前が書いていないのに。飼い主の北野さんには私がタマと呼ぶたびに玉三郎だとやんわり訂正が入る。が、私はいつもタマと呼んでいた。その方が可愛らしいし、短くて言いやすいからだ。腕の中のタマはこの暑さのせいか舌をデロンと出しっぱなしにして、いつも荒い息をさらに荒くしていて、なんだか見ているこちらも苦しくなってしまいそうな感じがした。私はギュッと彼に抱きつくと、彼の体は生温かかった。ずっと外に立っていたからかもしれない、彼の短く整えられた毛からは少しの獣臭さと、ちょっとの汗のにおいと、ふかふかとした生き物の香りがした。鼻の奥をくすぐるその匂いを暫く堪能することに決めた。思う存分毛の中に顔を埋めて、毛並みを堪能した。仕方がない子とでも言うように、私の肩に首を置いたタマは荒い息はそのまま、ジッと動きもせず、唯々私にされるがままになっていた。散々に堪能した後、私は彼を引き連れて北野さんのお店へと入った。店の外に「準備中」の言葉を向けている札のかかったドアの上の仕掛けについたベルが私と彼の来店を告げた。未だ開店前のお店はクーラーを効いていて、袖のない服の私にはちょっと寒いくらいだった。彼は店に入ると余程疲れていたのか、抱えていた荷物を投げ出すように、自分の体を冷たい床へと投げ出した。お店には開店前にも関わらず、この壁に染みついたコーヒーの香りが鼻をくすぐった。コーヒーは匂いだけだったらこんなにもおいしそうなのに、祖父のコーヒーを分けてもらった時は、驚いた。まるで飲めたものではなかった。こんなものがおいしいと思えるだなんて、大人はきっと舌が変だと思った。ベルの音に釣られてやってきた北野さんは、開店前だというのに、いらっしゃいと、少し間延びした声で迎えてくれた。まだ開店前なのに、スーツを着た北野さんは、すこし体が大きくて、あんまり外で遊んだ思い出が無い。外に出ると、すぐにふうふうとタマのような息遣いになってしまうからだ。彼は私の姿と床に寝そべったタマの姿を見て、あらおはようと言った後、お見通しであると言わんばかりに、ざく切りのレタスを煮たものを持ってきた。待ってましたとそれを受け取ると、タマの口元に持って行った。
「タマ、タマ、ごはんだよ」
「玉三郎だよ佳代ちゃん」
タマは体をのっそりあげて、私の手に持ったレタスを食べ始めた。手に持ったレタスを全部食べ終えると、彼はまた体を床に沈めて、涼みだした。なくなったレタスの水滴を服でぱっと払い、カウンターに座った。カウンターの椅子は高くて、足が床につかないのだけれど、それに座っているだけで少し大人になれた気がしてうれしい気持ちでいっぱいになった。
「あれでおなかいっぱいになったのかな」
「うん、もう朝に手作りのごはんもあげたし、きっとお腹いっぱいだよ」
北野さんはそう言って私に冷たいオレンジジュースを持ってきてくれた。祖父母はあんまりこういった最近の甘いものを飲ませてくれないので、とてもうれしい。思わず地に突かない足を前後に軽く揺らしてしまう。口に含むと少し甘くて、ちょっと酸っぱくて、思わず口を窄めてしまう。彼はそんな私の顔を見て笑っていた。ちょっと恥ずかしくて、北野さんの笑いに作り笑いで応えると、彼はやっぱり笑って、彼の頬の肉がメガネを押し上げて、笑うたびにメガネが揺れて電球の光を反射してちかちかと光っていた。仕返しにそれを教えてなんてやらなかった。
「タマかぜひいているのかな」
「あら、玉三郎、どこか具合が悪そうだったかい」
「まえまでわたしがよんだら、はしってきたのに、もうはしってこないから」
「こんなに暑いと辛いんだろうね。それに玉三郎も、もう歳だからね」
ジュースを飲み終えて、私が才気ほどあった出来事から湧いてきた疑問を口にすると、彼は何でもないように口にした。私はタマの年齢など気にしたことがなかった。
「タマはおじいちゃんなの」
「うん、玉三郎はもうお爺ちゃんだ。佳代ちゃんよりも年上だからね」
「おじいちゃんになったらげんきじゃなくなるの」
「うん、もう体が昔みたいに動かなくなっちゃう。ましてや犬は寿命が短いからね」
「じいちゃんは、おじいちゃんだけど、げんきだよ」
「あの人は君が立派になるまでは死んでも死ねないって言ってたしね。まだ若いから平気さ。でも玉三郎は違う。この子はもう人間だったら君のお爺ちゃんよりも私よりもお爺ちゃんだ」
その話をしている間、北野さんは穏やかな顔をしていた。少なくとも、悲しみの色は見えなかった。でもなんだか嫌な話を聞いてしまった気がした。祖父母の機嫌が悪い日に晩御飯で食卓を囲んだ時のような気分だ。表情に出ていたのだろうか、北野さんは入れたばかりで湯気の出るコーヒーを持ってきて、私の隣に座って穏やかな表情で言った。
「あの子も喜ぶから気が向いたら遊んであげておくれ。玉三郎も君のことが大好きだから」
私は頷いて、もう何も言わずに手元のジュースを飲み干した。彼も何も言わずコーヒーの口に運んだ。タマはこちらを寝そべったままじっと見ていた。誰も話さないが、ジュースは美味しかった。
二杯目のジュースを飲み干して、一息ついていると北野さんがドアの外へと出て行った。それについていく形で、いつの間にか立ち上がっていたタマも外へと出て行ってしまった。何をしているのだろうとと見ていると、さっきまでこちらに向いていた「営業中」という文字がくるりとまわって、こちらに「準備中」の文字が向いた。あの字を読むことは出来ないが、あの札が回転することの意味は知っている。このお店にこれからお客さんが来るのだ。もうそんな時間なのか。時間を気にした時、ようやく私はお寺に行く約束を思い出した。しまった、と思った。約束の時間は何時だっただろうか。そして今は何時だっただろうか。このお店が開く時間は何時だっただろうか。中に帰ってきた北野さんにこれからお寺に行くことを告げると、ジュースはただでいいからお使いを頼まれてくれないかと言われた。コップを流し台に持って行きながら、なにと聞くと、これを住職さんに渡しておいてほしいとも言って、さっとその場で書いた手紙を手渡してきた。その文章を読めない私は内容を推し量ることは出来なかったが少なくともそれが大事な用事なのだということは分かったので、頷いた。私はその手紙を鞄の一番奥に、がま口の下に入れておいた。お店のドアを開けると、熱気と湿気がぶわっと体を包み込んだ。クーラーに冷やされたからだが、その暑さに悲鳴を上げる。太陽の輝きはジュースを飲んでいる間に鋭さをまして、帽子をかぶっていないと頭が沸騰してしまいそうだった。もう歩いているだけで、止まっていた汗が再び噴出してくる。体から水分がなくなって、カラカラになっていく感じというのがこんな感じなのだと思ってしまうほどだ。先ほど飲んだオレンジジュースなんて、とっくに汗になって飛んで行ってしまったことだろう。お寺で飲める冷たい麦茶が待ち遠しかった。蝉が上げる鳴き声はあちこちから聞こえ、音という音を覆い隠してしまっていた。山の上の方へと続く長い石段を一段飛ばしで駆け上がり門を通ればそこには、ポツンと一軒だけ立っているお寺が見えてくる。お寺は山の麓にある家から少し登ったところにある。本堂と、山門、庫裏そして墓地だけを備えた所謂檀那寺であり、決して大きいとは言えない、お寺であった。有名であるはずもなく、地元の人がお盆に立ち寄るだけのような寺だった。お寺には人の殆どおらず、今もいるのはこの寺の管理をしている親しい住職である安住さんが箒を片手に本堂に続く道を掃除しているのみであった。毛のない頭に、作務衣を着た安住さんは、服に汗の染みを作りながら、帽子も被らずに竹箒で石畳を払っていた。彼はやってきた私に気が付くと、箒を動かす手を止めて汗だくの私を迎えてくれた。日光に照らされた頭が汗の水滴も相まって輝いていた。
「おはよう、佳代ちゃん。走ってきたのかい」
「うん、はしってきた。はやくきたかったから」
階段を一段飛ばしで走ってきたせいで切れた息を整えながらそう言うと、彼はたいそう嬉しそうに顔を綻ばせた。きっと私が会いに来る前に犬と熱烈な抱擁を終えた後だとか、走ってきたのは階段だけだとかそんなことは夢にも思うまい。随分と汗をかいている姿を見て庫裏へとお茶をとりに行った彼を待つことになった私は、祖父の言うとおりに本堂に参っておいた。この行為にはどんな意味があるのかはよくわかっていなかった。ただ祖父母に言われたから、そして今までもやっていたからであった。肩掛けポーチから取り出した自慢の祖母特製のがま口にはジャラジャラとまでは言わないが、音が鳴る程度には小銭が入っている。私はその中からいつも五円玉を取り出して納めていた。今日も五円玉をと思いがま口を覗いたところ、なんと一枚も五円玉が無かった。しまった、と思った。どうやら以前駄菓子屋に行ったときに使ってしまったので最後だったようだ。今がま口に入っているのは祖母がくれた百円玉が五枚と、二枚の一円玉のみだった。百円玉という大金を入れる気にはなれない。百円玉なんて一か月に十枚しか手に入らないのに。振り向き、安住さんがまだ戻ってきていないことを確認すると、私は一円玉を二枚引っ掴み、奉納箱へと落とした。いつもより若干軽い、木と硬貨がぶつかる音が二度鳴ったのを確認し、遅い安住さんを迎えに庫裏へと向かった。彼が用意してくれた麦茶と西瓜を寺の敷地にポツンと置かれているベンチで二人並んで食べた。お寺は今まで歩いてやってきた道と比べると、木が寺を囲むように残されており、寺内にも木が育てられているからか、随分と涼しかった。麦茶は氷のように冷たく、歯茎が痛くなるほどだった。西瓜は瑞々しく、甘く、赤い汁で口と手をベタベタにしながら齧り付いた。私と安住さんと野良猫以外に座る者のほとんどないベンチは決まって私が右に座って、彼が左に座る。別に決まりがある訳でもなかったが、ずっとそうやっていた。夏の風物詩となっている蝉の鳴き声を聞きながら食べる西瓜は、まるでピクニックに来たようで楽しかった。
「佳代ちゃん、今日は何をする予定なのかな」
そう尋ねられて私は西瓜に齧り付いたまま考えてみるが、考えても考えてもよい考えは浮かんでこない。唸る私を見て安住さんはまたニコニコと微笑ましげにこちらを見ている。
「じゃあ、とりあえず虫取りでもしようか。こう見えても僕は虫取り上手いんだから」
返答を待たずに提案をした彼は、自慢げに頭を手で撫でながらそう言ってのけた。いつもなら一緒にいた友人達が一緒なら彼らも一緒にかくれんぼや鬼ごっこも出来ただろうに、
二人ではできる遊びも限られていた。私は永遠と安住さんと将棋を指したり、坊主捲りに勤しむほど渋い子供ではなかった。私は彼の提案に頷くほかなかった。前日に仕掛けを木に施したわけでも、虫取り用の蜜を用意したわけでもなかったので、私と安住さんは寺内の彼方此方に生えている木へと虫を二人で探しに行き始めた。
寺の木はどれも立派な体を持っていて、私はおろか住職さえ見上げなければその全貌を見ることは出来ないほどに大きかった。その茶色く染まった幹は昆虫たちのよいとまり場となっていた。しかし私は残念ながら、なかなか彼ら昆虫を見つけられないでいた。木と同化せんばかりに擬態した彼らを見つけるには、私の低い身長は不利である。私の身長は足元の蟻や、ドングリや松ぼっくりを見つけ出すには大きな武器となったが、私の頭より高い位置に陣取る昆虫たちを見つけるには少々不得手なのだ。こんなときには私の後ろをついてくる安住さんの出番なのだ。音を頼りに蝉の止まっていそうな木を探り、安住さんに頼んで上を見てもらう。私では見つけられないその高さを彼ほどの大人になれば見ることが出来るようになる。
「いた。いたよ佳代ちゃん、あそこだ」
蝉が逃げないように小声でこっちにそういうと木の随分と上の方を指差した。そこにはたしかに蝉がいた。しかし、場所が高すぎる。私はもちろん届かないのだが、安住さんも届かないだろう高さだ。木を登るかと考えたが、残念ながら私は木登りが得意ではない。蝉はこちらを嘲笑うその鳴き声を止めようともしない。なんとか一泡吹かせないといけない。そこで私は安住さんにしゃがむようにお願いした。安住さんは表情に疑問を浮かべていたが、何も言わずに私に従って地面に丸く小さくなってくれた。この大きさならば行けるだろう。私は彼の背中に回ると首を挟む形で足を回し、肩にちょこんと乗った。肩車である。安住さんは乗った瞬間こそ、おおう、と言葉にならない驚きを声に出していたが、すぐにこちらの作戦を察してくれたのか、そのままぐいと立ち上がった。自身の二倍近い高さから見る地面はいつも歩いている地面とちょっと違って見えた。まるでズルして変に大人になってしまった気分だ。変な高揚感と共に前を見れば、さっきまで小さかった蝉が目と鼻の先にいる。いざ捕まえようと私は頭にかぶっていた麦わら帽子を取る。蝉は呑気なことにまだ鳴いていて、逃げようともしない。そんな蝉相手に勢いよく振り下ろした麦わら帽子は、すっぽりと蝉を覆い隠した。さっきまで悠々と鳴いていた蝉は今や、私の帽子の中でジジジと絶え間ない叫び声をあげながら帽子にぶつかってきている。安住さんにわきの下から持ち上げてもらい、ゆっくりと下ろしてもらう。麦わら帽子を木に沿わしてずりずりと下げていく。蝉はなすすべなく下へと追いやられ、ついには地面へと追いやられた。私は未だに暴れる蝉の入った麦わら帽子の端をちらと持ち上げて、中に手を突っ込んだ。そのとたん、蝉は暴れる勢いのままバチバチと体当たりしてきた。痛みに手を引っ込めてしまった。手は赤くなってはいなかったが、もう一度手を突っ込むのをためらうには十分な痛みだった。さっきまであった気分は消え去り、あったのは暗闇に手を突っ込むことの恐怖だった。先ほどまで暴れていた蝉は落ち着いたのかもう音がしない。しかし、また手を突っ込めばこの蝉が手に体当たりてくるんじゃないかという怖さが拭えないのだ。地面に落ちた麦わら帽子を前に手を近づけたり遠ざけたりしている私を見かねてか、安住さんは麦わら帽子の前にしゃがみ込み、あっという間もなく、帽子を持ち上げ中に手を突っ込んだ。驚いた蝉は一際大きな音で鳴いたのも束の間、安住さんに捕まえられて動けなくなってしまったのだろう、すぐに静かになった。帽子から抜き出した手にはたしかに蝉がいた。
「はい佳代ちゃん。ゆっくりと持ってあげて」
ゆっくりと差し出された蝉を私は少しばかりの恐怖と、大きな好奇心を持って、右手で壊れものを扱うようにそっとつまんだ。茶色の蝉は木にいるときよりも大きく見える。その体はてらてらとしていて、日の光を反射していた。時折ジジっと鳴くたびに手から微かな震えを感じた。不思議ともう恐怖はなかった。胸の内は静けさに満ちていて、あるのは好奇心だけになって、研究者のようなよく分からない義務感に導かれて蝉を眺めた。薄茶色で透けていると思っていた羽は、意外と透けておらず、茶色のマス目が無数に広がっていた。裏返して見ればそこには爪楊枝のような鋭い口吻がにゅっと伸びていて、それを見て私は刺されたら痛そうだと、変なことを思った。蝉の腹は背中とは違い白く彩られていて、引っかかれたら痛そうな足が六本わちゃわちゃともがいている。左右についた大きな目は自分のと違って黒豆をちょんと乗せたみたいだった。黒豆はぎょろッと動くわけでもなく、私と見つめあったままだ。目を観察していて、ふと気が付いた。左右の黒豆の間に小さな小さな三つの赤い輝きがあった。初めはそれが蝉の模様じゃないかと持ったのだがよく見ると違うのがわかった。小さなでも美しい小粒のルビーがちょんちょんちょんと、左右の大きな目の間にあった。
「あずみさん、みてみてこれ。きれい。これはなに」
安住さんに聞くと、彼はこれは目だと説明してくれた。なんと蝉は五つも目があったのかと、驚く私を見て、安住さんは汗を拭いながら笑った。蝉に驚かされたの初めてだった。この掌大の蝉がこんなきれいなものを持っていたとは知らなかった。しかし、面白かったのだが蝉にはもう飽きてきた。ルビーの瞳を満足するまで観察した私はどうしようかと考えた。蝉を連れて帰ってもどうせ喜ばれないだろうし、別に欲しくもなかった。虫が好きな友達は今実家へと帰ってしまっていていないし、どうしたものかという感じだ。蝉を捕まえておく籠もない。私は手の中の蝉を放り投げようと振りかぶった。その時腕を安住さんにはしっと掴まれた。あれと思って、動きが止まった瞬間、安住さんはひょいと私の手から蝉を取ると、私の手の届かない高さの木の幹へと蝉を引っかけた。蝉はすぐにあんまり綺麗ではない羽を広げて何処かへと飛んで行った。勿体ないと思った。私の横に立ったまま安住さんは変なことを言い出した。
「蝉の一生を知っているかい」
「しらない。だってわたしセミじゃないもの」
「おや、じゃあ知っておくといい。きっと役に立つ」
「よくわからない」
私はなんだか怒られている気分になって、嫌な感じだった。だから良く考えもせずに分からないと言った。体を揺らしながら、視線を下に向ける。安住さんはしゃがんで下から私の顔を覗き込んできた。その顔はちょっと困った様な妙な表情だった。
「佳代ちゃん、これは私が坊主だからじゃあない。大人として言わなきゃならない」
その声は怒った口調ではなかったけれど、私に言い聞かせるように、私が理解するように、その強い意志が感じ取れて、怒られたわけでもないのに、胸がきゅうと苦しくなって、胸を手で押さえた。
「命を乱暴に扱っちゃあいけない。悪戯に命を奪うことはいけないことだ。閻魔様に地獄に落とされてしまうよ」
閻魔様に地獄に落とされるよりも、安住さんが笑わずに前に立って、こんな声でいることが今は一番怖かった。私は声も出せなかった。ただ、首を動かして何も言わずに頷いた。頷くと安住さんはすぐに表情が変わって、頭を撫でながら立ち上がった。
「ジュースでも買いに行こうか。今日は私が佳代ちゃんの成長したご褒美に一本買ってあげよう」
その台詞は頭を撫でられるよりもうれしかった。先ほどまでの悲しみなんて何処かへとすぐさま飛んで行った。
この町唯一の駄菓子屋で買ったジュースはいつも炭酸が薄い。昼食の間に冷蔵庫で冷やしておいた、少なくとも自動販売機では見たことが無いジュースをベンチに座り飲みながら私は鞄を漁った。底の方に入れた手紙を入れていたのを思い出したからだ。がま口の下から手紙を引きずり出すと、私はくしゃくしゃになったそれを、横で駄菓子屋で買ったラムネを飲む安住さんに、んっ、と突き出した。それを受け取るとクシャクシャだなぁと笑いながら広げて読み始めた。内容が気になって、横から覗き込んでみると、漢字ばかりでよく分からなかった。少なくともタマについて何か書いてあることだけは読み取れた。気になった私は素直に安住さんに尋ねることにした。
「なにがかいてあったの」
「うん、北野さんがね、もうすぐ用が出来るかもしれないから、よろしくお願いしたいってかいてあるんだ」
「いったいなにをたのまれたの」
「お葬式だよ」
その言葉を聞くと私はついつい顔を歪めてしまった。安住さんは好きだが、安住さんのお葬式は嫌いだ。ずっと座って、奇妙な言葉を長々と聞き続けるのは私には拷問のように辛い時間だ。あんな時間をよろしくお願いしますだなんて、北野さんはタマが元気がないせいでちょっと変になったんじゃないかと思った。
「佳代ちゃんはお葬式嫌いかい」
「きらいよ。くさいし、くらいし、みんなないているんだもん。たのしくないわ」
そういうと、私の仕事も嫌われたものだなあと安住さんは笑ってラムネを傾けた。太陽がもう傾いている。斜めから指す日光がラムネで反射して眩しいから、私は彼に向けていた顔を前に向けた。私は瓶をさかさまにして一息に残ったジュースを飲み干して、一息にベンチから飛び降りた。
「むずかしいはなしと、おそうしきのはなしはきらい。もっとたのしいことをしよう。かくれんぼしましょう、あずみさんがおにね」
「うん、そうだね。小難しいことは大人の仕事だ。子供は遊ぶのが仕事だ」
「はやくたって、めをつむって、かくれちゃうから」
私は手で目を隠した彼を確認した後、蝉のいた木の後ろへと走った。
もう太陽は茜色に染まっていて、山は赤々と照らされていた。随分と長い間遊んでいた。あの後、見つけられては鬼になり、見つけては逃げを繰り返し続けた。安住さんがタマのように息を切らして、休ませてと大人の癖に情けないことを言い出したので、お堂の中でお茶でもすすりながら休むことになった。木でできたお堂は風通りがよくて、外より格段に涼しかった。口に含んだお茶を下でかき混ぜてやれば、口から冷たさが伝って、真っ赤だったほっぺがひんやりして気持ちがよかった。冷えた床に寝っ転がって目をつむると、体を重い疲れが覆いかぶさってきた。私はそれに抵抗する気力もなく、眠りについた。目が覚めると、外は夕焼け色に染まっていた。いつの間にか体に掛けてあった薄い布のようなものを蹴っ飛ばし安住さんを探す。彼は事務所で何か作業していた。もう帰るというと、送っていこうと言われたが、もうお姉さんなのだからそんなのいらないと言ってやった。そうかそうか、と笑う安住さんにムッとしながらも、日が暮れる前に帰らないとそう祖父母が心配するだろう。背に掛かる気を付けてという言葉を、両手を振ること答えて、私は家へと歩き出したのだ。
夕刻ともなれば、もうお昼ほどの暑さはなく、汗は一滴も出なかった。夕焼けを背に帰っていくので、影が今日一番に伸びていた。蝉の鳴き声も小さくなり、私以外に誰もいない道で、私は手を上げたり、飛んだり跳ねたりして、夕焼けで伸びたせいで、私っぽくない影が同じポーズをするのを見ながら帰っていった。帰り道に北野さんのお店を除くと、もう閉店の時間を迎えていた。タマを呼ぶと、タマは来なかった。裏に見に行くと彼はいなかった。もう朝になれば暑いから家の中で寝るのかもしれない。孤独感を最近テレビで見た都会ではやりの歌で塗りつぶして、家路を急いだ。
ようやく私が田んぼのあぜ道の一本桜に辿り着いたときには、夕焼けはもう端が地面に触れていた。ここまで帰ってくればもう少しで家だった。ほんちょっぴり感じていた寂しさと切なさが、一気に消えて、安心感がぽっとうかんだ。下がりがちだった視界が少し前に向いた。と、そこで地面に枯葉を見つけた。近づいてみるとそれは蝉だった。蝉は空に腹を見せて、地面にばたりと倒れていた。ああ、死んでしまったのだと、私はただそう思った。蝉はピクリとも動かず、木に止まっている頃にはあった生命の輝きも、赤い三つの瞳も、私の影に隠されて見えなかった。さっきまであった、楽しげな気持ちが沈んで、何とも言えない苦い気分になった。お腹の奥からじわっと染みだしてきた何か恐ろしいものが体の内から胸を掻いてきて、私は肩掛け鞄の紐をぎゅっと握りしめた。生きている頃にはあんなに普通に触れたのに、今の蝉を触ろうなどとはかけらも思えなかった。私は倒れている蝉の横を通り抜けようとなるべき端に寄って先を進もうとした。その瞬間蝉は弾かれた様に地面を飛び回りだした。突然の動きに私はわあと声を上げた。その声に引き寄せられたのか蝉は私の足元へ飛んできて、しっちゃかめっちゃかに暴れ回り始めた。足元で死んだと思っていた蝉が暴れまわっている恐怖と、蝉の体当たりの痛みに、私は頭の中が真っ青になった。私は飛んでくる蝉をなるべき避けられるように細かく足踏みしながら蝉からなるべく離れようとした。くしゃ、と足元から聞こえたきた音は、落ち葉を踏みつけた音とよく似ていた。その音は私の足を伝い、耳まで入ってきて、私の頭の中を数瞬真っ白にさせた。瞬きのような時間を私はただ突っ立っていた。枯葉を踏んだ訳が無い。意識を取り戻した私はすぐに思った。今は夏で、葉は木に青々と繁っていて、ここはいつもの遊びの帰り道で、勝手知ったるこの道はいつもきれいな道だと知っていた。目を下に向けるとそこには舗装された道路と落ちた青葉が幾枚と、己の足しか見えなかった。足を上げたくなかったのは生まれて初めてだった。私は足の下の真実は許され難い行為の証拠であると、誰に教えられたわけでもなく直感した。人生で一番慎重に足を上げると、そこには地面にまるでちぎられた枯葉のように体を飛散させ、茶色の何かへとなった蝉がいた。上げた私の靴の底から、カサッと軽い音を立てて、蝉の何かが剥がれて落ちた。声は出なかった。喉の奥で出かかった言葉の玉が詰まって苦しかった。恐ろしいことをしてしまった。私はふと視線を感じた。誰かに見られたかもしれない。田んぼばかりで、隠れ場所なんてどこにもない。夕方で視界が悪くなっても、それはわかった。道を歩いている人は誰もいない。しかし、木の影から、田んぼの影から、向こうの山肌から、どこかからわからないがいたるところから視線を感じてしまった。顔を下に向けると、原形をとどめていない蝉の顔にテカりが見えた。よく見ると、蝉の黒豆のような大きな瞳は元の丸みを失って潰れていた。奇妙な液体に塗れていた。その時点でもう私は目を背けたくなってしまったが、その隣にまだ無事な目がこちらを映した。赤いルビーのような眼が三つ、私と目があった。その目は私から視線を外そうともしない。じっと、感情の見えない瞳のままだ。私にはその目が自分を責めているように思えた。私はもうその場にいられなくなった。私はなるべく蝉から離れて道を反対側へ渡ると、家までの道を駆け出した。殺してしまった蝉の事など振り返っている余裕はなかった。太陽はもう姿を隠していて、夜が近づいてきていた。
家の窓からは光が見えていた。私はドアの前に佇んでいた。扉を開ける勇気が出なかった。あのことを伝えたら、きっと祖父母は怒るだろう。自分から怒られに行く勇気がどうしても湧かなくて、扉の前で足踏みをしてしまった。足の裏にまだ何か引っ付いている気がする。何度も靴底を地面にこすり付けて、もう何も取れはしないのだけれど、どうしても蝉の何かが落ちなかった。もう太陽は完全に落ちている。こうやってここに立っているわけにはいかない。両手でぎゅっと服を掴んで、歯を食いしばった。えい、えい、っと自分を勇気づけて足を踏み出そうとした。だけれども、足は重くて、口からただいまという言葉は出なかった。窓から中を覗いて見ると、祖母が料理を作っていて、テレビを見ている祖父の背中が見えた。いつもの姿だった。それが辛かった。今朝までは当たり前のような光景だった。温かくて、安心できる場所だった。だからこそ、足の裏に蝉の何かがこびり付いた私が、この中に入っていくことは許されないことのように感じた。たった一枚の窓に隔てられているだけなのに、中と外で不思議な距離感が合った。その距離が悲しくて目の前がぼやけた。きっとこのことを話せば怒られることだろう。いつも優しい祖母も怒るかもしれない。怒られている自分の姿を考えると、お腹の下の部分がぎゅうと痛くなり、胸が苦しくて、目の前がかすんだ。そんなことを考えている自分を考えるとまるで自分が小さくなったように感じて、怒っている祖父母の姿が妙に大きく頭の中に現れた。扉の前に立って、震える手で服を掴んで、涙ぐみながら、なかなか出ない勇気を振りしぼった。ただいま、という言葉は涙に邪魔されて擦れて消えた。帰りの時間が遅くなって心配したのだろう、遅くなった理由を問いながら玄関に出てきた祖母は、私の顔を見て、あらあらまあまあと言いながら駆け寄ってきた。一体どうしたのかという問いを受けて、祖母が抱きしめてくれた時、私の中で何かが切れた。目から今まで我慢してきた分の涙があふれ出て、喉の奥につかえていた叫びが堰を切ったように飛び出した。祖父が慌ててやってきて、祖母が何があったかを聞いてくるが、そんなこと自分でもよく分からなくなっていた。悲しさと、寂しさと、安心と喜びと、色々な感情が胸の中で混ざり合っていた。ただ、今は泣いて泣いて、胸のつっかえを取っ払いたかった。
泣きはらした目で食卓に座ったのは帰ってきてから十五分もしたころだった。十五分間も泣き続けると、疲れてくるし、胸のもやもやしたなにかは流れて出て行ってしまった。一体何があったのか聞いてくる祖父母に私は今日会ったことを一つ一つ話していった。タマが老いたこと。安住さんに言われたこと。蝉を殺してしまったこと。殺してしまった蝉をそのまま捨て置いたこと。ひとつひとつ全部話した。私は一つ一つ話すにつれて、また心にもやもやとした感情が募り、声は小さくなり、顔は前を向いていられなくなって、俯いて床を眺めてしまいがちになった。ところが不思議なことに、初めは不安そうな表情をしていた祖父母は私の話を一つ一つ聞くたびに、表情に安心の感情がありありと浮かび、私が蝉を殺してしまった話になるころには笑みすら浮かんでいた。私にはこっちがこんな真剣に話しているのに、笑っている二人が理解しているのか怪しいと思ってしまった。祖父は私の頭をガシガシと撫でながら笑っていった。
「佳代、蝉を殺したことはちゃんと反省してるか」
「うん、はんせいしてる」
踏まれた蝉はどれだけ痛かったのだろう。想像もできないほど痛かったのだろうか。家に帰るよりも怖かったのだろうか。
「そうか反省してるか。じゃあ、何をしたらいいか分かるか」
「わからない」
「明日は工場が休みだから、祖父ちゃんと蝉のお墓を作ってあげるんだ。そこで謝らないといけない」
「せみのおはかをつくるの」
「ああ、なんにせよ佳代が殺してしまったんだ。佳代が蝉が天国に行けるように祈ってあげなければいかん」
わかったというと、祖父は心配させて、といって頭をぺしっと叩いた。その痛みは私がいつもの日常にようやく戻れたように感じて、心地よい痛みだった。祖母は今日は疲れたでしょうと言って、ご飯を持ってきてくれた、カレーは甘口で、ほんのちょっぴりのスパイスがピリリと辛い。
その日の晩、私は変なものを見た。夜にふと目が覚めてしまった私は、窓のカーテンが閉まっていないでいることに気が付いた。窓の外には、なんだか一際大きな月と星が見えた。変に起きてしまったせいで眠気の飛んでしまった私は次の眠気が来るまで、暇つぶしに眺めることにした。月の明かりは意外と明るくて、真っ暗な寝室に射し込んで、陰影を作った。月の光が私の全身を作った時だった。私の足裏から、なにか影のようなものがすいと抜けていった。それは私の目線の高さに浮かぶとそのまま浮かんだままこちらを見ている。私は何も言わずそれに頭を下げた。三十秒ほどそれは頭を下げている私をじっと眺めていて、私はただ頭を下げ続けた。私の姿に、それは何処か満足したような雰囲気を纏わせると、先ほどまで纏わせていた悲しみの雰囲気は霧散していって、それは壁をすり抜けて何処かへと消えていった。壁をすり抜けて消えていく姿を見送った私は、またやってきた睡魔に乗り、また夢の世界へと旅立っていった。