3
僕は落ちていた。
暗闇の中を真っ逆さまに落ちていた。
なぜこんなに深く落ちていくのか?
一体どこまで落ちて行くのか?
僕は先の見えない恐怖の時間に何も出来ず、声も出せなかった。
――一体いつまで続くんだ!
そしてそれは突然に終わる。
僕は自分自身が真っ暗な場所に立っていることに気付いた。
「あれ?」
僕は初めて声を出した。
さっきまでひたすらに頭から落下し続けていたはずだった。
しかし今、着地の衝撃もないまま、僕は立っていた。
なんだったんだろう、さっきまでの感覚は、そして――
「……ここは何処だろう」
周りを見渡しながら、僕は小さく言った。
見渡したが、目に見えるものは何もない。
ただただ、暗闇だった。
ここは唯乃の部屋?
唯乃がPCを付ける前の部屋の空気に似ていると感じたが、周りには人の気配はなかった。
不意に妙な感覚に気付いた。
「音のない世界だ……」
耳が痛くなるほどの無音。
風の音、鳥の声、そんなものどころか空気の動きすらないように何も音が聞こえない。
僕は耳がおかしくなってしまったんじゃないかと思い、自分で声を発し、耳に異常がないことを確かめた。
僕はまるで視力と聴力を奪われたような感覚に恐怖を感じた。
「光は、光はないのか」
僕は手を前方にかざした。
その瞬間。耳に轟音が響いた。
それは工場で巨大な機械が動き出したときのようなこの場所全体を揺らすような起動音だった。
直後、いくつもの大小様々な光が、僕を四方八方から取り囲む星空のように点灯して行く。
それは唯乃の部屋で見たモニターの光に似ていたが、その数はそれよりも多く、すでに何百何千もの光が灯ったようだった。
その数はさらに増え続けていく。
光はさらに何万何十万という数に膨れ上がりそうだ。光は空中のいたるところに灯って、この空間に無限とも思える広さがあることを表した。
僕は茫然とその様子を眺め続けることしかできなかった。
突然、目が眩むほどの光が目の前に灯った。
巨大なモニターに灯ったような四角い光。
先ほど唯乃の部屋で見たそれの数倍はある大きさだった。
それが一つずつ点灯していていくと、六枚のモニター画面がタイルを作ったかのように規則正しく並び、光の壁を作り上げたのだった。
その六枚の四角い画面には様々な映像が映っていた。
それはニュースのなりそうな大事故の現場であったり、SF映画の一場面のような宇宙の映像だったり、火山の火口の中の燃える地獄のような世界の映像であったり、それとは真逆で生物も住まない極寒の地の様子であったり、まるで色んな世界のテレビを見ているように様々だった。
最初に光が灯ったモニターの前に、光に照らされる一つの影がシルエットのように浮かんでいるのに気付いた。
それは人の形をしていた。華奢ながらも丸みのある体型はそれが若い女性であると理解させた。
しかし光は逆光となって影を濃くしたため、彼女が何者であるかをすぐには明らかにしなかった。
「兄クンっ!」
突然そう呼ばれた。
その声は目の前の影から発せられたものに違いなかった。
影は僕に数歩近付いて、その姿を徐々にはっきりさせる。
僕と同じくらいの年頃だろうか?
僕より少し背が低く、華奢な体つきが十代の未熟さを表している。
しかしなんてカッコしてるんだろう。
全身を覆う青と白のメタリックな光を放つボディスーツに、白く肘まである手袋、太ももあたりまである長い白ブーツ。
その素材はエナメルのようにツヤがあり、しわのよらないもので彼女の体のラインをくっきりと浮かび上がらせていた。
詰襟に赤いネクタイが撒かれ、結び目の下は短く、胸の上に乗っかっている。
スーツの胸とお腹の前面部分は白く、その部分だけが肌が露出しているように見えてセクシーだった。
僕はしばらく彼女にみとれてしまっていた。
「兄クン?」
彼女の言葉に僕は我に帰った。
空のようなブルーの長く美しい髪が視界に入ると僕は彼女が何者であるかを認識した。
彼女の真っ直ぐに僕を見つめる瞳を見つめ返した。
「……もしかして唯乃?」
僕はその少女が近しい存在であることに今更ながら気付いた。
「違うよ、私はユノン」
「え?」
なんということだ。妹はまた新たな人格に目覚めてしまったようだ!
彼女は口の端に軽く笑みを見せた後、僕に近付いてくる。
「ようこそ、私だけの時空へ。ずっと、ずっと会いたかったよ!」
喜びと悲しみが入り混じった、今にも泣き出しそうな瞳が僕を映した。
「え、それってどういうこと?」
僕には妹の言っている意味が全く理解できなかった。
さっきまで僕達は一緒にいた。
唯乃の部屋で、意味不明の奇妙な実験を行っていた。
でもここはどこだ?
唯乃はなんでこんな格好をしている?
「本当に……会いたかった」
唯乃は少し俯いた。
その瞬間、彼女は足音も立てずに一瞬で僕との距離を詰めた。
まるでテレポーテーションでもしたかのように、ふわりと僕の前まで跳んだのだ。
唯乃の顔は僕の目の前にあるまでに近くなってしまったいた。
「唯乃……ちょっと……」
僕は驚きの声をあげる。
近すぎる。息が掛かるほどに唯乃の顔は近くに来ていた。
兄妹であろうとここまで顔を近付けることなんてない。
僕と唯乃の間は顔を寄せ合って話をするほどに親密な兄と妹ではないのだ。
血の繋がりがあると言っても、この距離は異常だ。
恋人の距離だ。
僕は、顔を背けたかったが、彼女から向けられるまなざしは僕の体を硬直させるほど強いものだった。
「ねえ、兄クン。私とゲームをしようよ」
「ゲーム……だって?」
「私が勝ったら兄クンはずっと私のもの。もし兄クンが勝ったら、兄クンの望む世界をプレゼントしよう」
僕は彼女の瞳の中まで覗くことができた。
唯乃の金色の瞳の奥はガラス玉のようで、暗闇の猫の目のように不気味にギラリと光ったのだった。
唯乃の言っている言葉の意味が分からなかった。
僕が唯乃のもの? 僕の望む世界?
僕は固く黒い石のような地面をゆっくり一歩下がり、彼女から遠ざかった。
いつもの唯乃とどこかしら感じが変わっている気がする。
それは怖いと感じるほどのものだ。
「ゲームのルールは簡単だよ。兄クンが負けと思ったら兄クンの負け。私が負けと思ったら私の負け。それまでは終わりはない」
彼女はコツリと音を立てて一歩進み、再び僕に顔を寄せた。
「それじゃあ、いつ終わるか分からないじゃないか。一生続くかもしれない」
「一生か、それもいいね」
彼女の口元が少しだけ笑った。
「で、そのゲームはどんなゲームなんだ?」
僕は二歩下がって言った。
「それは秘密だよ」
彼女はまた二歩詰めた。
「秘密って……」
僕はまた下がった。
「難しく考える必要はないんだよ。それはもう始まっているのかもしれないし……」
彼女はまた追いついてくる。
「訳がわからないよ。ゲームの内容も分からずにスタートできるのか? ……あっ!」
もう一歩足を引くと、僕は急にバランスを崩し、後ろに倒れそうになる。すぐに唯乃が手を伸ばし、僕の腕を掴んでくれた。
おかげで僕は倒れずにすんだ。
「ありがとう、唯乃」
軽く礼を言った僕は自分の後ろを見て、恐怖した。
そこには地面がなかった。真っ黒な地面は突然途切れ、人の手によって作られたような直角に切り立った崖になっている。
崖の下は闇よりも深い黒。
まるでブラックホールだ。
唯乃が掴んだままの僕の手を強く引いた。
その拍子に、彼女の顔が再び僕の目と鼻の先に来た。
「それじゃあスタートだよ、兄クン。これで私はここから出ることができる。じゃあまた、向こう側の時空で会おう。そのときは……」
唯乃は不意に目を閉じた。
パーーン!
と爆発音がした……ような気がした。
やられた、完全に……しかし撃たれたわけではなかった。
僕は……僕の唇は、妹によって強引に奪われていたのだった!
唇を伝う柔らかい感触と理解不能な唯乃の行動が僕の脳をしびれさせる。体は固まり、ピクリとも動けない。
――何を、しているんだ、僕は?
何が何だかわからない。ただ、目の前に目を瞑った妹の顔があるのが見えているだけだった。
唯乃はただの妹だ。こんなことをしても僕には何の感情も湧かない……はずだったが、なぜか僕の胸は激しく鼓動していた。
すると唯乃の姿が突然に光を放ち始めた。
僕は彼女の顔が、いや体全体が光るのを見た。
――光に……なってる?
唯乃の体は太陽の光のように輝いていた。
彼女自身が光になっているようで、さらにその光は小さな粒となってユラユラと空に舞い上がっていく。
――まさか唯乃は光となって消えてしまうんじゃ?
僕はそんな恐怖に捕らわれた。
だが僕には何もすることができなかった。
動くことすらままならない。
ヘビに毒を注入されたかのように、僕は唯乃のキスで動けなくなっていたのだ。
数秒で光はおさまった。
目の前には変わらず唯乃がいた。
そして彼女はゆっくりと僕の唇から唇を離したのだった。
「フミト……クン?」
唯乃の表情は先ほどまでと全く違ったものだった。
驚きと戸惑い、羞恥に顔を歪めている。しかし、すぐに嫌悪へと表情を一変させ、僕の顔を睨んだ。
「唯乃、なんで?」
「なんで? って、それはこっちのセリフだぁ!!!」
唯乃の振り上げた拳は、僕の鼻っ柱に叩き付けられた!
「ぎゃふぅ!」
そんなセリフと共に僕は後ろに倒れた。いや、倒れなかった。僕は先ほど見た真っ黒な奈落へまっ逆さまに落ちたのだ。
何がなんだかさっぱりわからない。
なぜ唯乃は僕にキスをした?
なぜ僕を殴った?
「一体どう言うことだよ? 唯乃ぉ!」
僕は叫んでいた。
だが声は黒い闇に吸収されるように消え、僕は再び深い深い闇の中を落ちて行ったのだった。