ありえる世界への旅立ち
放課後、僕は一通の手紙に導かれて夕暮れの教室に戻る。
ついさっき、僕が下駄箱の蓋を開けたとき、靴の上に乗っていた一枚の手紙。
『似鳥史人様
伝えたいことがあります。
放課後、誰もいない教室で待っています』
そこには短い文章だけで、差出人の名前はなかった。
――いたずら? いや、でも……。
こんないたずらをする友人の顔が数人頭に浮んだが、こんな女子らしい文字を書くことはできないはずだ。
たとえいたずらであっても、確かめなければならないだろう。
いたずらならいたずらとして笑えばいいし、そうでなければ僕は手紙で伝えられない思いを受け取らなければならない。
僕はその考えだけで、教室に戻った。
夕方の薄暗いの差し込む校舎には生徒はほとんど残っていなかった。
教室の扉を開くと、そこは夕日の光が差し込み、教室全体が幻想的なオレンジ色に染まっていた。
そこにはたった一つの人影があった。
それは、着替えの途中にあるようで、僕に気付くとボタンを留める動きを止めた。
僕はそれが女子かと思い一瞬面食らったが、誰かと分かると「やっぱりか……」と呟いて、普段の自分と同様に気を落ち着けることができた。
「美矢だったか」
僕はあきれた口調でそう言った。
「や、史人」
その人物は僕に微笑んで見せる。
「お前の仕業か」
僕は自分がからかわれていたことを理解した。
手紙の字は女性の書いたような弱い筆跡だった。だが、目の前にいるのは男子。
背が低く、華奢な体つきをしているが、こんな字を書くような奴ではないことは知っている。
もしかして本当に女子に呼び出され、告白されるんじゃないかという淡い期待もあったが、やはりただのいたずらだったようだ。
「よく来てくれたね」
美矢は無邪気な笑顔を僕に向ける。
ふんわりとしたブラウンのショートヘアー、可愛らしい笑顔、女子の制服でも着たら女の子と見誤ってしまう。そんな男の子だ。
「くだらないことをして……」
僕はため息交じりで、折りたたまれた手紙を取り出して見せた。
僕はそれほど腹を立ててはいない。美矢の子供っぽい性格は理解していたし、こんなくだらない冗談を笑って許せるほどの親友でもあったからだ。
「くだらなかったかな……?」
美矢の声色がいつもと違うことに気付く。
いつもなら、まんまと騙されてやって来た僕をからかっている場面のはずだった。
「こんな使い古された冗談はもっと時期を選んでやれよな! バレンタインとかクリスマスとか……」
僕は美矢の近くに近付いていく。
「ちょ、ちょっと待って! まだ着替えてるからっ!」
なぜか美矢は焦り出し、急いで袖を通したシャツの前ボタンを留めようとする。
僕はニヤリとする。いたずらで手紙を書いたこいつに反撃してやろうと思ったからだ。
「男同士で着替えを見られたくないなんて感心しないな。なにか隠してるんじゃないのか?」
僕は美矢に詰め寄り、その片腕を取った。
「きゃっ!」
美矢の口から高い悲鳴が漏れた。
「女みたいな反応だな! いよいよ胸でも膨らんできたか? ん? んん? んんんんん?」
僕が冗談で伸ばした手は美矢の胸にある柔らかい何かを掴んでいた。片手では余るほどのボリュームのある何か?
僕は一瞬でその何かを推測したがそれは決して男の胸にあるものではない。
僕は、美矢と顔を見合わせた。
美矢は赤面で泣き出しそうな顔をしている。
僕は視線を美矢の胸元に落す。そして奇妙な存在を知ってしまった。
ブラジャー?
男がブラ? そんなもの付ける意味がない。
いや、美矢には付ける意味がある。膨らんでいる。膨らんでいたのだ。
胸が。しかも大きく。巨大に。
ブラがそのボリュームを押さえきれないほどに。
僕はその視線を外すことができなかった。というより、金縛り状態だった。
「男同士……じゃないんだよ……」
美矢の言葉に僕の顔は大きく歪んだ。
「女の子だったんだよ、ぼくは……」
彼、いや彼女は上目遣いに僕を見つめた。
美矢の瞳は少し潤み、顔が真っ赤に染まっていたのは夕日のせいだけではなかった。
僕は明かされた驚愕の事実に言葉を失い、思考まで奪われていた。
「こんな形で史人にばれるなんて……でも良かった、史人で」
美矢は、再びシャツのボタンを留め始める。
僕は美矢が全てのボタンを留め終えるまで何も言わなかったし、言えなかった。
頭の中は激しく混乱している。
制服を着終えた美矢の姿は、完全に女の子だった。
女子用の細身のブレザー。ひざまでの短いスカート。
目の前にいるのはまぎれもなく女の子の美矢だった。
「史人、あの手紙は嘘じゃないんだよ!」
美矢は再び口を開いた。その表情には強い意志が見える。
僕はゴクリとつばを飲み込んだ。
「こうなったからには言うね。フミト、ぼくは……ぼくはね、女の子なんだ。そして、ぼくはずっと前から史人のこと……好きだったんだ!!」
美矢はそう打ち明けると見つめてる僕から視線を外し、顔を一層に紅潮させた。
「そ、そんな……」
僕の口から吐き出されたのは間の抜けた声だけだった。
「こうなったらぼくはもう、女であることを隠さない! 胸まで触られたし、ぼく達、付き合うしかないよぉ!」
美矢は全身から全ての勇気を振り絞ったように強く、大迫力でそう告白した。
僕はその言葉に脳が、全身がしびれた。
「嘘だ……」
友人の一人が女の子だったなんて、そしてさらに、僕のことを好きだったなんて……。
「嘘だあああああ!」
そして、僕は逃げ出していた。
決して見てはいけない地獄の蓋を開けて見てしまい、命からがら逃げるように僕は走った!
無我夢中で逃げた。
自分の足がこれほど速く走れるものかと言うほどに速く、身体能力以上のスピードが出ていたと思う。
しばらく走ったところで僕の体はようやく本来のそれに戻ったようで、力の限界を脳に伝えた。
呼吸は荒く、心臓の音が耳のとなりで鳴っているほどに早く打っていた。
僕は自分が逃げてきた場所を確認する。
走って、たどり着いたのは講堂だった。
「いったい……なんだってんだ……」
息を荒げながら僕はそう呟いた。
顔に流れる汗は、激しく運動したからだけではない。
見てはいけないものを見てしまったという恐怖の汗が混じっている。
僕はキョロキョロと周りを見渡して、座って休める場所を探した。
講堂の入り口に腰が下ろせそうな段差をみつける。
とりあえず腰を下ろすか……。
疲れで、もつれる足を地面にするようにして歩き、僕は講堂の入り口にたどり着いた。
入り口の前に立つと、講堂の中の様子が分かる。常ならば、剣道部が活動しているはずだ。
しかし中は薄暗く、静かだった。僕はそこに何者かが一人だけでいるのに気付いた。
「あれは碧?」
見知った顔の人間だった。
篠山碧。仲のいい友人の一人だ。
少し離れたところでも碧だとわかったのは、彼の珍しい銀髪のせいだ。
銀色の長い髪を後ろに束ねている。ハーフだとかクオーターだとか言う碧の瞳は青く、日本人離れした美しい顔をしている。それに銀縁メガネをかけているのが知的な感じだ。
長身で女子にもてるのも当然の結果だろう。
良く見てみると、帰り支度をしているようで、ちょうど胴着を脱いでいる途中らしい。
が、その時僕は再び異様なモノに気付いてしまう。
――あれは……何だ?
紺色の胴着がはだけた彼の胸元には白いサラシが巻かれていた。
なぜサラシなんかを巻いているんだ?
サラシって胸のふくらみを隠すためにあるんじゃなかったか?
なぜ男の碧が胸のふくらみを隠す必要がある?
「ふうっ、きつい……」
碧が、サラシに手をかけ、ゆっくりとその締め付けを解いたとき、僕はつい「あっ」と声を漏らしてしまった。
「誰っ!?」
高く、強い声が講堂にこだました。
僕はすぐに逃げ出そうとしたが、足は固まったように動かなかった。
碧の鋭い視線は、すぐ様入り口に立つ僕の姿を捕らえた。
「史人……?」
碧は自分の今の格好が見られているのに気付くと、焦ってサラシを床に落してしまう。
胸元が露になった途端「うぁっ!」っと高い声を上げて両手で胸を包み隠した。
胴着のはだけた碧の体はしなやかで、胸元を隠していてもその胸の膨らみや女性らしい体のラインをしっかりと見ることができた。
「あの、碧……だよね?」
僕はそれ以上声が出なかった。
「どうして史人がここにいるのですか? 今何を見ました?」
両腕で胸のふくらみを隠したまま、碧はゆっくり僕に近付いてくる。
「何を……って何も……」
何を言っても言い訳にならない状況だった。
「知ってしまったのですか、私の秘密をっ!?」
碧は美しい顔を恥辱に歪ませる。
「いや、知らない。知ってない! 何も見て無いし、見えない!」
僕は目をそらしたが、碧は僕の襟首を掴み、自分の方に顔を向けさせた。
「私の秘密を知ってしまったのですね!」
「知ってないし、黙ってる! 誰にも言わない!」
僕は大声で今見たことを否定した。
碧は僕を解放した後、緊張が解けたように脱力し、その場に座りこんだ。
「…それだけじゃすまないのです」
碧は力なくそう言った。
「なにが?」
「私は戦国の世から剣術で名を得た歴史ある家柄に生まれました。代々私の家系は女が生まれることが多く、家督の相続が度々問題になるのです。そして現在も、家を継ぐ嫡男が生まれておらず、やむなく私が女として生まれながら、男として育てられることとなってしまったのです……」
「へ、へぇ……」
初めて聞かされた碧の出生だが、それを今語る必要はあるのだろうか?
「これまでも私のように女ながらに家を守ってきたものが数多くいました。その為、女を捨て、男として生きるには絶対に守らなければならない戦国の世から続くしきたりがあるのです」
「戦国の世から? な、なんだそれは?」
「女であることがばれた以上、その者を殺すか……愛するしかないのです!」
「な、なんだってええええ!」
「私は貴方を殺したくない! 私を愛してくれるますか、史人?」
顔を赤らめて、碧は座ったまま僕に上目遣いでそう言った。
「そんなことって……ううわあああああああ」
僕は叫び、再び走り出していた。
ついさっき全力以上の走りをしたにも関わらず、僕の足は再び高速に回転してくれた。
逃げろ! 逃げるしかない! こんな状況、受け入れられるはずがない!
走りついた先は親友の家だった。
滝野涼。彼とは幼い頃からの付き合いで、家も近く、お互いの家を何の遠慮もなく行き来できるほどの仲だ。
僕は涼の母親に迎え入れられ、涼自身は今風呂に入っていることを知る。
「すぐあがってくるから、部屋で待っててね」
涼の母親はそう言った。
僕は勝手の知った涼の家に上がり、彼の部屋で待つことにした。
部屋のベッドの上に腰を下ろすと、僕の頭の中ではここまでの異常な状況がものすごいスピードで繰り返された。
友達の美矢と碧は、実は女だった。
そんな決して知ってはいけないことを知ってしまったのだ。
これを涼に話してしまっていいのかはわからない。
だが、今の僕は誰かと話をしたかった。
そして心のおける存在である涼と話をすることが一番いいと考えた。
涼は物静かで、僕の話をよく聞いてくれる。
きっと僕の心を整理し、落ち着けるのに一番いい話相手なのだ。
僕は、恐ろしいものを見てしまった後のように下を向き、震えながら涼が戻るのを待った。
「史人、来てたのか」
しばらくして部屋の扉が開き、涼がやってきた。
「ああ、邪魔してる」
僕は俯いた姿勢のまま言った。
「どうした? 怖い顔をして?」
僕は涼の声だけを聞いた。
「いや、話したいことがあって……」
「ん、なんだ?」
涼は僕に近付いてくる。俯いた僕の視界には床と彼の足だけが見えた。
「いや、でも言っていいのか悪いのか、わからないんだ」
「ふうん、実はさ、俺もお前に話があるんだよな」
「え?」
僕は嫌な予感と共に顔を上げた。
そこにはバスタオル一枚で体を覆った涼の姿があった。
と、その瞬間僕は凍りついた。
涼の体は、まるで女の子のそれのように、丸みを帯び、出るところがきっちりと出ていた。
特に胸のふくらみは素晴らしいボリュームで、バスタオルで隠せないほどの凶悪極まりない谷間を作り上げていた。
「な、ななななな……」
「実は俺さ。女だったんだよな」
魅惑的な瞳でそう言うと、彼いや彼女は僕にゆっくりと近付いてくる。
「そんな……こんなことって」
僕は一体どんな顔をしているんだろうか?
ありえない異常な状況に恐怖でメチャクチャに顔を歪ませているか、目の前に現れたバスタオル一枚のナイスボディの美少女に鼻の下をのばしているか、あるいはその両方か?
「あ……」
涼の纏っていたバスタオルが床にストンと落ちた。
「うわあああああああああああああああああ!」
そして僕は、暗闇に落ちていくような感覚に襲われたのだった。