Chapter 2 -Part 1-
「よしっ、これで完成だ」
「お疲れさま。よく頑張ったわね」
「これも瑞紀のおかげだよ」
二学期を目前に控えたその日の夕方、僕と瑞紀は市立図書館で小説の完成を喜び合っていた。
「私は何もしてないわ」
「でも、瑞紀がいてくれたからこの小説が書けたんだ。本当に感謝してるよ」
「そう? じゃあ、そのお礼に何かしてもらおうかな?」
「ああ、何でも言ってくれよ」
「明日海を見に行かない? 私、海が大好きなの。ほら、明日で夏休みも終わりでしょ? 小説も書き終わったことだし、最後の日くらい気晴らしに行きましょうよ」
「そうだな、それもいいかもな」
「あっ、でも言っておくけど、海を見るだけだからね。私、泳げないから」
「俺だってそうだよ。それに、この時期じゃクラゲが一杯で泳げないよ」
僕らはそうして錘が取れたような開放感に浸りながらお互いに笑い合うと、夏休み最後の日にいい思い出が作られることを祈った。建物の外は茜色の世界に覆われていたが、僕の心の中は青く透き通るような爽快感に満ちていた。
翌朝は青空こそなかったが、広がっていた雲は薄く、所々から太陽の光が差し込んでいた。僕と瑞紀は、午前十時に駅で待ち合わせると、買い物客で混雑する電車に乗り込んで海に向かった。僕の住む町から海までは、何本かの電車を乗り継いで二時間以上かかったが、季節外れの海に急ぐ理由もなく、人影もまばらな砂浜に着いた時には、図書館で小説を書いていたことが遠い昔の出来事のように感じられた。
「あんまり天気がよくないな」
「いいじゃない。別に泳ぐわけじゃないんだし」
僕らはその時、波打ち際から少し離れた砂浜に座り、目の前から彼方に広がる海を見ていた。そこに青さは感じられなかったが、規則的に優しく耳を打つ波の音や、時折流れ来る風の声はまぎれもなく海のものだった。確かに天気はよくなかったが、その突き抜けるような爽快感と開放感は、僕らが非日常的な世界に身を置いていることの端的な証明になっていた。
「瑞紀が今日着ている服、とてもよく似合ってるよ」
「そう? 普段着ている服とあまり変わらないと思うけど」
「それにその髪。三つ編みよりそのほうが断然いいと思うけどな」
僕の言葉を気に入ってくれたのかどうかはわからなかったが、瑞紀はうつむき加減にはにかんだ笑顔を見せた。薄いブルーのタイトなTシャツに、少し色褪せたデニム地のショートスカート姿の彼女は、僕が言うまでもなく明らかに普段とは違っていた。そして、シャツで強調された小ぶりな胸が、僕を否応なく切なくもやるせない世界へ誘った。
「でも、たまにはこうやっていつもとは違う場所に身を置くのもいいかもな。何かこう、別世界に来たみたいな感じでさ」
「やっぱり、来てよかったでしょ? ねえ、せっかくだから、ちょっと海に入っていかない?」
瑞紀はそう僕を誘うと、籐で編まれたサンダルを脱いで裸足のまま駆け出していった。僕はそんな彼女の後ろ姿を見ながら、改めて今日ここにいる幸せを感じ、そして瑞紀への意識が揺れる想いに変わる瞬間を感じ始めていた。
僕らはそうして、ひとしきり波打ち際で海と戯れた後、近くの高台に緩やかなうねりとともに広がる公園の舗道をゆっくりと歩いて過ごした。瑞紀は以前にもこの場所に来たことがあるらしく、僕の隣で思い出交じりに周囲の景色をいろいろと説明してくれた。風に泳いだ彼女の髪が僕の頬を優しく撫で、そこからほのかに発せられたライムの香りが鼻をくすぐった。三つ編みを解いてストレートに落とした長い黒髪が普段とは明らかに違っていて、それが僕を別の女の子と一緒にいるような奇妙な錯覚に陥らせた。