Chapter 1 -Part 7-
それは、夏休みも終わりにさしかかったある夜だった。その日の僕は、珍しく図書館に行かずに家で文章を書いていた。そこに電話のベルが聞こえ、五回目のコールで受話器を取ると、その向こうからは幾分沈みがちな雅也の声が聞こえた。
「なあ孝平、話したいことがあるんだけどこれから会えないか?」
「ああ、いいけど、何かあったのか?」
「まあ、後でな。公園で待ってるから」
電話は居心地悪く切れた。僕は切り際の雅也の声に只ならぬ予感を感じて、スウェット姿のままで取りあえず待ち合わせ場所に急いだ。
夜の公園には当然のように子供たちの姿はなく、小さな住宅街の真ん中にひっそりと佇んでいた。僕らの他には人影もなく、そのことが僕の気持ちを幾分重くさせた。
「夜になっても本当に暑いな」
「なあ雅也、話したいことって何だよ?」
「孝平、瑞紀とはうまくいってるのか?」
「話をそらすなよ。言いたいことがあるなら早く言えよ」
「そうだな、男らしくないよな。実は俺、理絵と別れたんだ」
「えっ」
雅也の意外な告白に、僕はそれ以上の言葉を発することができなかった。いや正確に言うと、うっすらと予想してはいたのだが、それでも現実に雅也の口から出された一言は、僕を驚かせるのに十分なものだった。
「まあ、そういうことだから」
「どうしてだよ? だって、あんなに仲がよかったじゃないか」
「確かに、最初の頃はうまくいってたんだけどな。ある時から、ボタンの掛け違いみたいに少しずつお互いの気持ちがずれちゃって、気がついたらもうどうしようもなくなってたんだ」
「それじゃ答えになってないだろ。お前たちはそんな簡単な関係だったのか?」
「簡単じゃないさ。これでも俺、随分悩んだんだぜ。このまま別れてもいいのかって。本当に後悔しないのかって。でも正直言うと、途中からは結構辛かったんだ。理絵も同じだったと思う。だからこれでよかったんだよ。後悔もしないさ。いや、するかもな。でも少なくとも、付き合わなかったらわからなかったこともたくさんあったし、これはこれで決して無駄にならないさ」
雅也にそこまで言われると、僕もそれ以上責めることはできなかった。もちろん、その資格もなかった。どこからか、子供の泣き声が聞こえてきた。
「そうか。まあ二人で決めたことだから、俺がどうこう言っても仕方ないけど、でも残念だな。二人は結構似合ってたんだけどな」
「本当にそう思ってるのか?」
「えっ?」
「本当はお前、心の底では喜んでるんじゃないか? 次は俺の出番だって」
雅也の一言は、僕の核心を見事に突いていた。全面的ではないにしても、僕の心の中には明らかに理絵への想いが残っていると同時に、雅也に対する羨望と嫉妬の念があったからだ。でも、仮にわかりきっていてもそれを口にすることはできなかった。少なくともそれが、僕の雅也に対する礼儀だと思っていたからだ。
「そんなわけないだろ? 大体雅也と別れたからって、あの子が俺を好きになるはずがないだろ? 最初から可能性なんかなかったんだよ」
「そんなこと、聞いてみなきゃわからないだろ?」
「雑誌に載った俺の小説を読んだ時のあの子の表情、お前も見ただろ? とんでもないっていう顔。あれが答えだよ」
「でも、俺は可能性のないことなんかないと思うけどな」
明らかに不満そうな雅也は、僕の言葉を否定するように足元に転がっていた小石を軽く蹴った。雅也に言われるまでもなく、僕にはわかっていた。少なくとも、頭の中ではそう思っていた。でも僕には、その可能性を信じて行動に移す力も勇気もなかった。何故なら僕は、自分でも嫌になるほどに内気で臆病な人間だったからだ。
二人が別れた事実が、僕と瑞紀の間に微妙な影を落とすことを恐れた僕は、瑞紀に話すことを意図的に避けた。僕は、瑞紀に理絵のことなど考えてほしくなかったのだ。僕の文章だけを、僕のことだけを考えていてほしかったのだ。でも一方で僕は、二人が別れたことから理絵への想いを改めて感じることになり、叶わぬ夢と現実との狭間で頭を悩ませ続けた。そして僕の意図とは無関係に、周囲の状況は夏の終わりとともに急激な変化を見せることになった。