Chapter 1 -Part 6-
「ねえ、どうして私が理絵を好きなのかわかる?」
瑞紀が、自分のことでそこまで踏み込んできたのはそれが初めてだった。彼女はいつも僕の文章については話すが、それ以外のことを決して口に出さなかったからだ。建物の外には明らかな夕立の気配があり、低く垂れ込めた灰色の雲が今にも外界に雨粒を落とそうとしていた。それは、八月半ばには典型的な天気だった。
「私にないものを持っているからよ。明るくて社交的で、何事にも積極的で。理絵が夏の光り輝く太陽なら、私は冬の夜空に寂しく浮かぶ月ね」
「俺もそうだよ。理絵は、俺にないものをたくさん持ってるんだ。理絵だけじゃない、雅也もそうだ。俺なんか月にもなれない。名もない星のひとつに過ぎないんだ」
「河西くんは違うわよ。少なくともあなたには文才があるわ。それだけでもすごいことじゃない」
それが僕に対する励ましかどうかはわからなかったが、瑞紀はそう言った後で三つに編んだ黒髪を軽くいじった。彼女の着ていた青いポロシャツが、僕の目の奥に確実に染みこんできていた。
「前から一度聞こうと思ってたんだけど」
「何?」
「どうして女が好きなんだ?」
「やっぱり変かな?」
「現実的に見るとね」
「でも、小説ならありえるわよね」
「ここはまぎれもない、ノンフィクションの世界だよ」
「私にとってはフィクションなのよ」
瑞紀の呟きが、微妙な重みを持って僕の心に響いてきた。彼女にそう言うだけの裏付けが存在していることを察した僕は、続きを聞こうかどうか迷ったが、自分の中にある飽くなき好奇心が次の疑問を言わせた。
「昔に何かあったのか?」
その問いかけに瑞紀が答えるまでに、かなりの時間的空白があった。僕は、軽い後悔と真実を知りたい欲求を併せ持ちながら、彼女からの答えを我慢強く待った。その間にかすかな喉の渇きを感じたが、それも程なく好奇心の波に呑み込まれていった。
「そんなに昔のことじゃないの。二年前のことなんだけど……あっその前に、私に二つ上の兄さんがいること話したっけ?」
「いや、聞いてないけど」
「まあいいわ。とにかく私には、二つ上の兄さんがいるんだけど、あれは私が中学二年の夏だったわ。時期的には今と同じ頃だったけど、夏休みの真只中で暑い一日だった。その日は一日中母親もいなくて、昼過ぎに本屋に行って気に入った本を何冊か買って、家で読もうと思って帰ってくると、玄関に兄さんのスニーカーがあったの。兄さん、高校で野球部だったから、夏休みの練習で今日も帰りが遅いと思ってたから、ちょっと不思議だったんだけど、あまり気にしないで二階にある自分の部屋に向かったの。そしたら隣にある兄さんの部屋の戸が少し開いていて、中から変な声が聞こえたの。兄さんの声には間違いなかったんだけど、何か変だなと思って戸の隙間から中を覗いたの」
そこまでを言うと、瑞紀は軽くため息をついた。僕はいくつかの可能性を予期しながらも、彼女から放たれる次の言葉を待った。
「兄さん、下半身に私の下着を巻きつけて……」
「わかったよ。もう言わなくていいから」
「私、兄さんが大好きだったの。強くて優しくて、小さい時には随分助けてもらった。でも、そんな兄さんがあんなことをしてるなんて」
僕の静止を振り切って続けた瑞紀は、でもそこで完全に言葉に詰まってしまった。雨は既に降り始めていて、雨粒が建物を叩く音がかすかに聞こえてきていた。
「何て言っていいかわからないけど、それって男だったら誰でも経験してることだよ。もちろん、大好きでいつも身近にいる兄さんがそんなことをしてたのはショックだったろうけど」
「わかってるの。頭ではわかってるんだけど、現実に血の繋がった兄さんのそんな姿を見ちゃうと、男の子がみんなあんなことをしてると思うと嫌なのよ。耐えられないの」
「わかるよ」
「わかるわけないわ。男のあなたに。一人っ子のあなたに」
「わかるさ。俺にもし姉さんがいてそんなことをしてたら、女を嫌いになってたかもしれない」
「もしもの話じゃないの。私は現実に見てしまったのよ」
「同じ立場で同じ経験をしなければ人の気持ちはわからないのか? だったら誰の気持ちもわからないさ。瑞紀の気持ちも永遠にわからないよ」
僕のその訴えには、さすがの瑞紀も返す言葉を失っているようだった。でも僕は次の瞬間、言い過ぎてしまったことを早くも後悔し始めていた。一般論を並べたてても、何の解決にもならないことに気づいたからだ。
「ごめん、言い過ぎた。確かに同じ立場に立たないとなかなかわかり辛いよな。でも、少なくとも俺は、瑞紀の気持ちをわかろうと、これでも努力してるんだぜ」
「わかってる。ごめんね。こんなことを話した私がいけなかったわね」
「でも瑞紀の話が聞けてよかったよ。いつも瑞紀の意見が聞けて、それはそれで感謝してたんだけど、瑞紀自身の話はほとんどしてくれなかったから」
「別に話したくないわけじゃなかったの。本当を言うととても話したかったの。でも、私の話は多分つまらないし、河西くんも毎日一生懸命書いてるからなかなか言い辛くて」
「これからは、今日みたいにもっといろいろな話をしようよ。どんなに些細でつまらないことでも、お互いに話をするから分かり合えると思うんだ」
「そうね、今度からそうするわ」
「今からにしようよ」
僕の提案に、瑞紀もその顔全体で笑顔を見せて頷いた。今の彼女の表情は、誰が見ても明らかな笑顔だった。そして僕は、瑞紀との心の距離が一気に縮まったような気がして嬉しかった。瑞紀の存在を意識したという意味では、この時が最初だったのかもしれなかった。
それからの僕らは、以前にも増して親密になっていった。二人の間の会話は次第に多くなり、不思議なことに、それに比例して僕の文章を書くペースも上がっていった。瑞紀が笑うことも多くなり、その表情は豊かさと深みを増していった。二人の関係はそうして新たな段階に入り、お互いの感情に相乗効果をもたらしながら広がっていった。僕の中での瑞紀の存在は日増しに大きくなり、図書館に行く目的が文章を書くためなのか、それとも彼女に会うためなのかが自分でもよくわからなくなっていった。