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Chapter 1 -Part 4-

 それは昼休みのことだった。僕は居心地が悪かった教室からようやく開放されると、いつものように図書室で文章を書くことに専念した。もっとも、まともに書けるような精神状況ではなかったが、それでも僕は、禅の修業のように必死に心を落ち着かせようとしていたのだ。すると、僕のすぐ横に人の気配がしたかと思うと、程なく目の前に雑誌が差し出された。僕は、うんざりしながらも努めて冷静な口調で言い放った。

「そんなに人をからかって、一体何が面白いんだよ?」

 そうして振り向きざまに見上げると、それは同じクラスの西村瑞紀だった。彼女はクラスの中でもひときわ大人しく目立たない存在で、休み時間も他の女の子と騒ぐことなく、いつも自分の席で文庫本を広げて読んでいた。

「これ、いい話だったわ」

「実話だからな。そりゃあ、さぞかし面白いだろうよ」

 この雑誌のことで、僕が話したいことは何もなかった。笑いたい奴らには笑わせておけばいいのだ。でも、瑞紀にまで笑われていることに愕然とした僕は、そのやり場のない怒りにただ憮然とするしかなかった。

「私は、いい話だって言ったのよ。面白いなんて思ってないわ。それに、これは小説なんでしょ? 偶然の一致で名前が重なったとしても、それは仕方がないんじゃない?」

 瑞紀は僕の隣に座ると、持っていた文庫本を広げて読み始めた。顔の半分が覆われそうな黒いふちの眼鏡や流行遅れの三つ編みが、彼女の地味さをことさらに強調していた。どこをどう見ても、お世辞にも可愛いとは言い難かった。

「いつもここで小説を書いてるのね」

「ああ、まあね」

「そして毎朝、駅のホームで杉下理絵を見ている」

「どうしてそのことを……一体何が言いたいんだよ?」

「私も毎朝見てるから、彼女のことを」

「えっ」

「私も好きなのよ、彼女のことが」

 瑞紀のその一言を、僕はうまく理解することができなかった。彼女のあまりにさりげない言動が原因なのかもしれなかったが、それを差し引いても、女が女を好きになるということが何を意味するのか、そこに友情以外の何が存在するのかを考えると、僕の頭の中は確実に混乱していた。その意味で、僕は見事なまでに常識に支配されていたのかもしれなかった。

「女が女を好きなのって、やっぱり変なのかな?」

「どうかな? そういうのって考えたこともないから」

「じゃあ考えてみてよ。小説を書いてるのなら、それくらいの想像力は必要よ」

 瑞紀はそう言った後で、口元を緩めてかすかに微笑んだ。それは笑顔というにはあまりに小さなものだったが、少なくとも僕には彼女が笑ったように感じられたのだ。

「まあ、男が男を好きになることもあるし、深い友情だと考えれば変でもないよな」

「そういうんじゃないのよ。もっと親密で、どうしよもなく惹き込まれていくような感覚なの」

「それって、恋愛感情そのもののような気がするけど」

「だから最初からそう言ってるじゃない」

 もはや、僕の混乱はとめどないものになっていた。同性に対して恋愛感情を抱くという現実は、僕の理解を遥かに越えるものだったからだ。僕は、自分が雅也に恋愛感情を抱く不自然さを根拠に、瑞紀に説明しようとしたが、彼女に一蹴されることを感じて黙っていた。

「とにかくそういうことだから。これからはお互いにライバルよ」

 それを最後に瑞紀は席を立つと、文庫本を片手にゆっくりと図書室を出ていった。僕は彼女の後にライムの香りを感じながらも、不条理な人間関係の出現を否定しようとしていた。ベクトルの方向が明らかに間違っているのだ。でも一方で、それは確かに存在しているのだ。僕は思いもかけないライバルの出現に実感がわかず、部屋の天井を見上げてため息をつくしかなかった。

 それが二人の何気ない始まりだった。僕が昼休みに図書室で小説を書いていると、その隣には必ずと言っていいほどに瑞紀の姿があった。僕らは、言葉こそあまり交わさなかったが、次第にお互いを受け入れ、認め合うようになっていった。瑞紀が僕の書いた文章を批評することも度々あったが、自分の文章について誰かから意見を言われることなどなかった僕にとっては、それは少なからず新鮮で貴重な体験だった。でも一方で、僕らの関係がある一線を越えることは決してなかった。同一人物を好きになってしまった奇妙な偶然はあったにしても、僕らの心のベクトルは、その種類の違いもさることながら、お互いに全く別の方向を向いていたからだ。その意味で僕らは、性差のない対等な関係の上に成り立っていた。

 一時はぎこちなかった雅也との関係も程なく元通りになった。十年近い二人の関係が、この程度の些細なことで簡単に崩れないことをお互いによく知っていたからだ。雅也のとりなしによって、僕がクラスの仲間から孤立することも避けられた。雑誌に載った小説についても、本格的な夏の到来に掻き消されるように、話題にすら上らないようになっていった。ただ、理絵は相変わらず僕に冷たかった。雅也が懸命にフォローしてくれてはいたが、それでもお互いにフランクな付き合いにはなれなかった。でも僕は、そのことを悲観してはいなかった。むしろ、理絵との距離を保つことで自分の想いを抑えることができたからだ。そう、僕はまだ理絵のことがどうしようもなく好きだった。それだけは動かしようのない事実だった。

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