Chapter 1 -Part 3-
それは、梅雨に入ったばかりの六月半ばだった。天空からしとしとと雨が降る中、学校が終わった僕は一直線に家に帰ると、近くのコンビニで買った雑誌を取り出して机の上に置いた。その中に自分の書いた短編小説があることは確実だったが、僕はどうしてもそれを見る勇気がなかった。活字になった瞬間に物語が一人歩きして、自分の手の届かない場所に行ってしまうのではないかという漠然とした不安に駆られたからだった。でも、永久にこの状態のままでいるわけにもいかないと悟った僕は、勇気を振り絞ってページを開いた。そして恐る恐る読み始めた瞬間、目の前が真っ暗になるほどの衝撃が頭を打った。文章自体に問題はなかった。文体も決して悪くなかった。高校生の主人公「僕」が、密かに想いを寄せる女の子に自分の気持ちを打ち明けるまでの過程を描いた切ない物語で、今の自分を重ね合わせた内容に少し古臭いイメージはあるものの、全体的に見てよくまとまっていた。でも、そこに登場してくる人物が問題だった。そう、僕は自分の高ぶる想いのままに、杉下理絵の名を実名で出してしまっていたのだ。僕は、あまりに初歩的な過ちが恥ずかしくなってとっさに雑誌を閉じ、この事態を一体どうしたらいいものかと、懸命に頭を働かせて考えた。理絵はともかく雅也がこれを読むことは確実で、それが彼女にも伝わることは誰が考えても明らかだった。仮に雅也が読まなかったとしても、大々的にクラスで言ってしまったことで他の誰かが読む確率は高く、いずれにしても理絵の耳に入る可能性は大きいのだ。僕は、今さらながらに自分のしてしまった過ちの大きさに愕然とし、結局その夜は一睡もできなかった。でも、当然のことながら時間の流れを巻き戻すことはできなかった。仮に泣き叫んで助けを求めたとしても、神様はきっと僕に救いの手を差し伸べてはくれないだろう。誰がどう見ても、全ては自業自得だったからだ。
次の朝、足取りも重くホームへの階段を上ると、僕の定位置の片隅に理絵と雅也の姿があった。嫌な予感がしながらも二人のもとに近づいていくと、雅也よりも先に理絵がこちらに雑誌を突き出しながら静かな、でも強い口調で言った。
「河西くん、これどういうこと?」
「どうって言われても」
「雅也から、河西くんの書いた小説が雑誌に載るって聞いたから、早速今朝そこの売店で買ってみたんだけど、どうしてここに私の名前があるの? 説明してよ」
「理絵、まあいいじゃないか。孝平だって悪気があって書いたわけじゃないんだから」
「それはそうだけど、でも許せないわ。せめて名前を変えるくらいの気配りがあってもいいんじゃない? これじゃ、河西くんと私を主人公にした恋愛小説じゃない。学校のみんながこれを読んだらどう思うかぐらいのこと、あなただってわかるでしょ? 本当にどうしてくれるのよ?」
必死になだめる雅也の言葉を聞こうともせずに、理絵は僕に対しての怒りや不満を正面からぶつけると、こちらの反応を見ることもせずに、ちょうど到着した電車に乗りこんでいった。雅也は僕に向かって何か言いたそうな素振りを見せたが、結局はその後を追うように走り去っていった。そうして一人取り残された僕は、理絵から突きつけられた雑誌を胸に、ただ自分のしてしまった不躾で愚かな行為を悔いるしかなかった。でも、全ては既に終わってしまっていた。僕の真剣な想いは思わぬ形となって理絵の、そして雅也の心に不用意に届けられてしまったのだ。
でも、予期していたことではあったが、事態はそれだけでは終わらなかった。学校に着くと僕のささやかな物語の内容は、クラスどころか学年中に広がっていた。それは、単に自分の書いた小説が公表されたことだけではなく、自分の想いが誰に向けられているのかを周囲に伝える結果になってしまったのだ。僕は、奈落の底に突き落とされたような絶望感に加えて、恥ずかしさと周囲からの嘲笑を含んだ好奇の視線に耐えられなくなり、始業のチャイムも守らずに席を立って教室を飛び出すと、階段を駆け上って屋上に向かった。誰かが後ろから来るような気配がしたが、僕はただその状況から逃げたい一心で気にも留めなかった。
「お前、案外足が速いんだな」
その声に振り返ると、そこには前かがみになって息を切らせながら佇む雅也の姿があった。午前八時半の屋上には、当然のことながら僕らの他に誰もいなかった。
「全く可笑しいよな。せっかく雑誌に自分の小説が載って、これでやっと俺も認められたと思ったら、次の瞬間には単なる笑い者だもんな」
「そんなこと言うなよ。少なくとも俺は、お前の小説が世に出て嬉しいし、まだじっくり読んでないけど、きっといい話だと思うぜ。たまたまちょっと登場人物を間違えただけじゃないか」
「間違えてなんかいないさ。全部本当のことだよ。俺は前から理絵のことが好きだったんだ」
僕の悲痛な叫びに、雅也はただ黙ってこちらを見つめるだけだった。空は相変わらずどんよりとした雲に覆われていて、今にも雨が降り出してきそうな陰鬱な光景と、僕らの置かれた状況は見事にマッチしていた。
「雅也にはわからないだろうな。勉強もスポーツもできて、女に不自由したこともないお前には」
「何だよ、その言い方は。俺だっていろいろと苦労してるんだぜ。お前ならわかってくれてると思ってたのに」
「わかってるよ。俺だってお前にこんなことを言いたくはないさ。でも、もうどうしようもないんだ。俺の理絵への想いは永久に叶わないんだから」
それ以上、僕が雅也に告げるべきことは何もなかった。雅也はしばらくの間こちらを呆然とした表情で見ていたが、やがて力の抜けた弱々しい声で呟いた。
「孝平、ごめんな。でも、俺にはどうすることもできないな」
雅也は、肩を落としてその場から立ち去っていった。僕は雅也に言い過ぎたことを後悔すると同時に、自分のことを本気で心配してくれていることがわかってすまないとも思ったが、一方で自分の想いをはっきりと伝えられたことで、胸のつかえが取れたような奇妙な爽快感に覆われていた。それは、自分の気持ちと行動が一体化した画期的な瞬間でもあった。だからもう、僕がなすべきことは何もなかった。後は周囲が考えればいいことだと思った。
でも、僕にとって針のむしろのような時間は終わらなかった。公然とあざ笑う者こそいなかったが、周囲のひそひそ話にさえ妙に敏感になってしまい、神経がささくれ立つような状況が続いた。僕はこのまま一直線に家に帰りたい衝動に駆られたが、やがて笑いたい奴には笑わせておけばいいと強引に割り切ることにして、何とか午前中の授業を切り抜けた。僕は単純に負けたくなかったのだ。ここで引き下がってしまっては、自分が書いた小説自体すら否定されるような気がしたからだ。それだけはどうしても耐えられなかった。