Chapter 1 -Part 1-
僕はその朝、一人の女の子を左斜め前に見ながら駅のホームの片隅に立っていた。周囲は会社や学校へと急ぐ人々で溢れかえっていたが、僕がその子を見失うことは決してなかった。制服から同じ高校であることは疑いようがなかったが、同じクラスではないこともあって、僕には彼女が同じ学年なのかどうかさえわからなかった。僕が彼女を初めて見かけたのは、高校に入ったばかりの四月上旬だった。彼女は、茶色がかった長い髪をポニーテールにまとめ上げ、しばらくするとその手にラクロスのラケットを持つようになった。彼女を正面から見ることはほとんどなかったが、それでも僕は半月をかけて次第に、そして決定的に好きになっていった。でも同時に、僕にははっきりとわかっていた。彼女と僕とでは住む世界が全く違うことを、決して越えることのできない高い壁が存在していることを。
「おいっ、何ぼおっとしてんだよ?」
その突然の声に横を向くと、目の前には浅黒い顔に白い歯を見せながらいたずらっぽく笑う雅也が立っていた。
「何だ雅也か。脅かすなよ」
「孝平こそ、早くしないと学校に遅れるぞ」
そう言いながら、でも次の瞬間、雅也の姿は来たばかりの電車の中に消えていた。僕はそんないつもと同じ光景にある種の微笑ましさを感じながら、その後を追って電車に飛び乗った。雅也とは小学生の時からの親友で、もう十年近くになる付き合いだった。中学の時からサッカーを始め、高校生になった今では、一年生ながら早くもレギュラー候補になるほどの腕前になっていた。背が高くがっしりとした体格と浅黒く日焼けした顔が、何よりそのことを証明していた。一方の僕はと言えば取り立てて部活動をするわけでもなく、暇さえあれば学校の図書室でひたすらに文章を書き続けていた。幼い頃から作家になることが夢だったが、おそらくなれないであろうことも十分にわかっていた。今まで公募雑誌や文芸誌に何度か投稿してみたが、どれひとつとして採用されることがなかったからだ。
「おい孝平、あの向こうに立ってる女の子のことどう思う? 杉下理絵って言って、隣のクラスの子なんだけど、俺ああいうのタイプなんだよな」
電車の中で放たれた雅也の声に促されるように目をやると、そこにはラクロスのラケットを抱えて佇む女の子の姿があった。そう、僕は一瞬にしてその名前から学年までを知ることになったのだ。
「ああ、確かにいいかもな」
「何だよ、その素っ気ない言い方は。やっぱりお前は、物静かな文学少女のほうがいいのか?」
雅也の問いかけに言い返そうとした僕は、でも電車の急ブレーキによろけてしまい、うまく言葉を発することができなかった。雅也に自分の気持ちを悟られたくなかったこともあって、あえて気のない振りを装ったが、それとは裏腹に僕の心は、理絵に対する切ない想いで覆い尽くされていた。スポーツ選手か文学少女かどうかなど関係なかった。自分が降りるべき駅が目の前に迫っていることにも気づかずに、僕は数メートル先にある理絵の姿に目を奪われて続けていた。
学校は、僕らの住む町から電車で三つめの駅近くにある、東京郊外の平凡な公立高校だった。取り立てて特徴的なものもなく、その意味ではまさしく、僕を映す鏡のような学校で居心地は悪くなかった。僕と雅也は同じクラスで、十年近くにわたる腐れ縁はここでもその威力を存分に発揮していた。教室は校舎の四階の片隅にあり、窓際で一番後ろの席だった僕は、いつも窓の外の景色をあてもなく眺めていた。どこまでも殺風景なビルや住宅が続くばかりで、海が見えるような爽快な環境にはなかったが、少なくとも退屈な授業を聞いているよりは遥かに有意義だった。僕はどちらかというと友達を作るのが苦手なほうだったが、明るく社交的な雅也と友達でいることで、結果的に僕にもそれなりの仲間ができた。でも僕は、彼らと積極的に関わるのを避けるように、休み時間になると一人で図書室に向かい、その勢いのままに文章を書き続けた。それが、僕にとっての唯一の存在理由だと頑なに信じていたからだ。
やがて退屈な授業も終わり、部活に向かう雅也と別れの挨拶を交わすと、僕は脇目も振らずに駅まで歩き、気だるい昼下がりを象徴するように閑散とした電車に乗って一直線に家に帰った。今月末が締め切りの、ある雑誌の短編小説のコンテストに応募する物語を何とか今日中に仕上げてしまいたかったからだ。それは、ある高校生の男女を中心に織り成される切ないラブストーリーで、僕は現実的に叶うことのない、自分と理絵との関係をイメージしながら、夢を見るような気持ちでその物語を書いていた。仮にそれが、寂しい自慰行為だったとしても構わなかった。少なくともそうすることで、辛うじて僕の心のバランスが保たれていたのだから。